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れんだいこ:ホロコースト生き残り者証言疑惑考 [「れんだいこ」から]

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/taigaishinryaku_horocoosto_syogenco.htm

ホロコースト生き残り者証言疑惑考


 (最新見直し2007.2.12日)

【木村愛二氏の貴重な指摘】
 「ホロコースト生き残り者証言疑惑」について、木村愛二氏は、2006.2.8日付投稿「ホロコースト「生き残り証言」は大嘘の創作と判明した」で次のように述べている。これを転載する。
 ホロコースト「生き残り証言」は大嘘の創作と判明した。ベストセラー体験記の筆者は、ラトヴィア生まれでアウシュヴィッツを経験と称していた、スイス生まれのスイス育ちだった。その英文記事・Holocaust Survivor Memoir Exposed as Fraudを紹介する前に拙著『アウシュヴィッツの争点』の関連部分を示す。
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 http://www.jca.apc.org/~altmedka/aus-26.html
 『アウシュヴィッツの争点』第二章:「動機」「凶器」「現場」の説明は矛盾だらけ
 イスラエルの公式機関でさえ「信用できない」証言が半分以上

 「マルコ報道」では「生き証人」へのインタヴューの必要性を力説している例がおおかった。それはそれで結構なのである。そういう努力は今後も続ける必要があるだろう。

 ただし、「ガス室」の存在を肯定する「生き証人」の証言、または被告の「自白」ないし「告白」の類いは、すでに出尽くしている。むしろ必要なのは、その内容の再検討なのではないだろうか。「生き証人」の受け止め方についても、一部の文章に見られる論理的な混乱を指摘しないわけにはいかない。一部の文章では、収容所体験の事実と、「ガス室」の存在の肯定とが混同されている。実際には、収容所体験が事実であっても、「ガス室」についての「証言」部分は伝聞の場合がおおいのだ。

 さらに、くれぐれも注意してほしいのは、「ガス室」を見なかったとか「ガス室」はなかったと証言しているユダヤ人の「生き証人」が、意外におおいという事実である。また、「ガス室」の存在を否定する発言をした「生き証人」は、ユダヤ人だけではない。「ホロコースト」見直し論の父といわれるフランス人のポール・ラッシニエも、ナチス・ドイツ収容所の「生き残り」なのである。ドイツ人の「証言」例についてはのちにくわしく紹介するが、この場合には逆に、大変な社会的圧迫を覚悟してのうえでの発言である。その覚悟の重みも考えてほしい。

 しかも、問題の「生き証人」の証言については、イスラエル政府の公式機関としてホロコーストに関する世界で最高権威の扱いをうけ、最大の資料収集をしている「ヤド・ヴァシェム」でさえ、つぎのような判断を下しているのである。

 すでに紹介ずみのウィーバーの論文「ニュルンベルグ裁判とホロコースト」には、何人かのユダヤ人の歴史家が、「ホロコースト」目撃証人の「嘘」の理由やその「病的傾向」を分析している事例をあげている。なかでも決定的に重要な部分を訳出すると、つぎのようである。
 「イスラエル政府のホロコースト・センター、ヤド・ヴァシェムの公文書館長、サミュエル・クラコウスキは一九八六年に、保管している二万件のユダヤ人“生存者”の“証言”のうち、一万件以上は“信用できない”ことを確言した。クラコウスキの言によれば、おおくの生存者が“歴史の一部”となることを願っており、想像力をほしいままに走らせている。“おおくの人は、かれらが残虐行為を目撃したと称する場所にいたことがなく、または、友人や通りすがりの見知らぬ他人から聞いた二次的な情報にたよっている”。クラコウスキの確言によると、ヤド・ヴァシェムが保管している多くの証言記録は、場所や日時についての専門的な歴史家の鑑定を通過することができず、不正確であることが証明された」。
 では、のこりの「一万件」以下の“証言”は、はたして「信用できる」のだろうか。それらは「場所や時間」についての」鑑定を通過したのかもしれない。だが、その“証言”の内容のすべてまでは保証できないだろう。そこで「ガス室」を見たという部分があったとしても、その物的証拠を示しているわけではないのである。

 「ホロコースト見直し論の父」とよばれるフランスの歴史家、故ポール・ラッシニエには『ユリシーズの嘘』という著書がある。ユリシーズは古代ギリシャの伝説の英雄で、ギリシャ語ではオデュッセウスである。木馬のエピソードで有名なトロイヤ戦争からの帰国のさい、オデュッセウスがのった船が嵐で漂流し、以後、一〇年の放浪の旅をする。ホメーロスの長編序事詩『オデュッセイア』は、その苦難の帰国物語である。ジョイスの長編小説『ユリシーズ』は『オデュッセイア』を下敷きにしている。ラッシニエの『ユリシーズの嘘』では、『オデュッセイア』に見られる苦難の経験の誇張をナチス・ドイツの収容所の経験者の誇大な「告発」にあてはめて、「ユリシーズ・コンプレックス」とよんだ(シュテーグリッヒ判事の著書の英語版では「オデュッセウス・コンプレックス」になっている)。ラッシニエ自身、レジスタンス活動でゲシュタポに逮捕され、二年間のナチ収容所での生活を経験しているが、戦後の地道な追跡調査によって、「ガス室」物語がすべて伝聞にすぎないことを確かめたのである。

 やはりフランス人でラッシニエの業績をひきつぐフォーリソンは、『著名な偽りの目撃証人/エリー・ウィーゼル』で、一九八六年のノーベル平和賞受賞者を「偽りの目撃証人」として告発する。なぜならば、「ホロコースト」を目撃したと自称するユダヤ人のエリー・ウィーゼルが「自分のアウシュヴィッツとブッヘンヴァルドでの経験をえがいた[初期の]自伝的な著作ではガス室にまったくふれていない」、つまり目撃していないからだというのである。

 被告側のドイツ人にたいする「拷問」の事実については、すでに簡略に紹介したとおりである。
 拷問によらない「らしい」積極的な「告白」と称されるものもある。「クルト・ゲルシュタインの告白」と通称されているものがそれである。ゲルシュタインは、なんと、「ナチ党の野蛮な行為を世界に知らせるために」親衛隊員になり、「世界にそれをつたえるために」フランス軍に投降したと「告白」していた。フランスで「戦争犯罪人」として拘留されている間に、独房で首をつって死んでいるのを発見されたが、それまでの拘留期間中に六種類の「告白」をのこした。

 たとえば数ある「ホロコースト」物語の中でも、もっとも著名なベストセラーであり、いまもなおロングセラーの『夜と霧/ドイツ強制収容所の体験記録』(以下『夜と霧』)の日本語版では、写真版用の厚紙製の特別な一ページに、この「告白」の一部を収録している。

 ゲルシュタインは、「ガス室」処刑に実際にたずさわったと称し、その一部始終を「死体からの金歯の抜き取り」にいたるまで微に入り細をうがって「告白」している。だが、もっとも重要なことは、このゲルシュタインの「告白」が、すでにその欠陥ぶりをくわしく紹介した「[ニュルンベルグ]国際軍事裁判の証拠としてさえ採用されなかった」(『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』)という事実なのである。明白な誤りや数多い矛盾、本人の経歴の不確かさなどが、審判担当者をためらわせた理由であろう。ところが、この「告白」が一九六一年にイスラエルでおこわれたアイヒマン裁判で採用されたため、以後、おおくの著作で本物であるかのように引用されることとなった。「ホロコースト」物語には、テキスト・クリティークが不十分なものがおおいが、「クルト・ゲルシュタインの告白」などは、さしずめその最右翼であろう。

 一九九四末、ロサンゼルスの「歴史見直し研究所」から持ち帰った資料の中には、その名もズバリ、『クルト・ゲルシュタインの告白』というA5判で三一八ページの単行本がある。フランスの研究者、アンリ・ロックの同名の著作の英語訳である。タイプ文字と手書き文字の手稿の写真版で、それぞれの「告白」の相違を比較検討できるようになっている。六種類の「告白」の一つにはことなる版があるので、これを三つにわけると、合計八種類になる。この八種類の「告白」の矛盾を細部で比較検討するための横長の表が、一一ページ分もおりこまれている。かなりの労作だが著者紹介記事によると、農業技術者だったロックは、フォーリソンの仕事に刺激をうけて研究をはじめ、この著作のもとになった論文でナント大学から博士号をうけた。ところがロックは、なんと[ダジャレをとばす場合ではないが]、「フランスの大学の約八世紀にわたる歴史の中で、政府によって博士号を“とりあげられた”最初の男になった」のである。博士号授与が一九八六年、一九八九年現在で六九歳としるされているから、『クルト・ゲルシュタインの告白』は、六六歳という高齢で完成した地道そのものの実証的研究である。

 さきにも「ニセ証人」の「笑い話」を紹介したが、ゲルシュタインは決して、「特殊な例外」ではない。シュテーグリッヒはいかにも判事らしく、同様の矛盾をたくさんふくむ「告白」「報告」「体験記録」の数々の細部を比較検討している。ゲルシュタインは、とりわけ傑出していただけなのではないだろうか。

 わたしは、『マルコ』廃刊事件の際の記者会見で、アメリカ映画『一二人の怒れる男』の例を引いた。あの映画では、目撃証人の証言だけで判断すれば、プエルト・リコ系の浅黒い少年が父親殺しで有罪になるところだった。しかし、一二人の陪審員のなかでたったひとり、ヘンリー・フォンダ扮する白人の陪審員が有罪の決定に賛成しなかった。以後、一昼夜の激論のすえ、目撃証言の矛盾があきらかになり、少年は無罪となる。日本でもおおくの冤罪事件で、目撃証人の証言があやまりだったことが、のちの上訴や再審で証明されている。それほどに、目撃証人の証言というものは、誤りがおおいものなのである。

 しかも、「ホロコースト」物語の場合にはとくに、いわゆる「生き証人」としてマスメディアで扱われてきた人々のほとんどすべてが、イスラエル建国支持者である。いわばヴォランティアの広報係りのようなところがある。かれらの「証言」の背後には、いわゆる国家忠誠心に類する感情による「合理化」がひそんでいるのではなだろうか。パレスチナ分割決議をめぐる中東戦争はあくまでも停戦状態なのであって、まだ継続中なのだから、その意味では、戦時宣伝の時代は終了していないのだ。すくなくとも、そういう状況への論理的な疑いをいだいて、内容をds再検討する必要があるのではないだろうか。

 日本の国会でも、おおくの汚職事件の関係者が企業忠誠心をわずかなよりどころにして、あれだけいけしゃあしゃあと、だれの目にも明らかな嘘をつき通している。それにくらべれば、たしかに歴史的な犠牲者でもあるユダヤ人たちが、国家、民族、または宗派への忠誠心から、自分の実際の記憶に他人からの伝聞などをまじえて誇大に物語ってしまうことは、むしろ自然の気持ちの発露なのかもしれないのだ。

 さて、このように、疑いをいだきはじめてみれば、これまでのすべての説明が矛盾だらけであることが、つぎつぎにわかってくる。以上の第1部では、殺人事件ではもっとも基本的な捜査の条件であるはずの「死体そのもの」、「死体の数」、「死体の身元」、「殺人の動機」、「凶器」、「殺害現場」などが、まるで不明確だという材料を列挙してみた。材料はおどろくほどおおい。つぎの第2部では最大の争点である「チクロンB」と「ガス室」の関係にせまる前提条件として、以上のあらすじの背景と細部を、さらにくわしく調べなおし、論じなおしてみたい。

 だが、そのほかの疑問をもふくめて、その真相の究明よりも以前に「発言の禁止」がでてくるところに、「ホロコースト」物語に特有の奇妙さがある。物語の背景には、いまなおつづく国際政治上の重大問題がひそんでいるからだ。

 http://www.ihr.org/jhr/v17/v17n5p15_Weber.html
 Institute for Historical Review

 Holocaust Survivor Memoir Exposed as Fraud by Mark Weber

 A Holocaust survivor memoir that has received prestigious literary awards and lavish praise has been exposed as a hoax.

 In Fragments: Memories of a Wartime Childhood, Binjamin Wilkomirski describes his ordeal as an infant in the Jewish ghetto of Riga (Latvia), where his earliest memory is of seeing his father being killed. Wilkomirski also tells how he survived the terrible rigors of wartime internment, at the age of three or four, in the German-run concentration camps of Majdanek and Auschwitz.

 First published in German in 1995, Fragments has been translated into twelve languages. In Switzerland, the country where Wilkomirski lives, the book has been a major best-seller. Two documentary films and numerous personal appearances by the author in schools throughout the country have helped promote the memoir.

 The American edition was published by Schocken, an imprint of Random House, which heavily promoted the book with teachers' study guides and other supplementary materials.

 Jewish groups and major American newspapers have warmly praised Fragments. The New York Times called it "stunning," and the Los Angeles Times lauded it as a "classic first-hand account of the Holocaust." It received the 1996 National Jewish Book Award for Autobiography and Memoir, while in Britain it was awarded the Jewish Quarterly Literary Prize, and in France the Prix Memoire de la Shoah.

 The US Holocaust Memorial Museum in Washington, DC -- a federal government agency -- was so impressed that it sent Wilkomirski on a six-city United States fund-raising tour last fall.

 This past summer, though, compelling evidence came to light exposing Wilkomirski's memoir as an literary hoax.

 Although he claims to have been born in Latvia in 1939, and to have arrived in Switzerland in 1947 or 1948, Swiss legal records show that he was actually born in Switzerland in February 1941, the son of an unwed woman, Yvette Grosjean. The infant was then adopted and raised by the Doessekkers, a middle-class Zurich couple. Jewish author Daniel Ganzfried, writing in the Swiss weekly Weltwoche, also reports that he has found a 1946 photo of the young Bruno Doessekker (Wilkomirski) in the garden of his adoptive parents.

 Comparisons have been drawn between Wilkomirski's Fragments and The Painted Bird, the supposedly autobiographical "Holocaust memoir" by prominent literary figure Jerzy Kosinksi that turned out to be fraudulent.

 Reaction by Jewish Holocaust scholars to the new revelations has been instructive, because they seem more concerned about propagandistic impact than about historical truth. Their primary regret seems merely to be that the fraud has been detected, not that it was perpetrated.

 In an essay published in a major Canadian newspaper (Ottawa Citizen, Nov. 18, 1998), Jewish writer Judith Shulevitz arrogantly argued that it doesn't really matter much if Fragments is authentic. Her main misgiving, apparently, is that the deceit was not more adroit: "I can't help wishing Wilkomirksi-Doesseker [sic] had been more subtle in his efforts at deception, and produced the magnificent fraud world literature deserves."

 Deborah Dwork, director of the Center for Holocaust Studies at Clark University (Worcester, Mass.), and co-author of Auschwitz: 1270 to the Present (Yale Univ. Press, 1996), agrees that Fragments now appears to be fraudulent. At the same time, though, she expressed sympathy for Wilkomirski, saying that when she met him he appeared "to be a deeply scarred man." Amazingly, Dwork does not blame him for the imposture, "because she believes in his identity." Instead, she takes the publishers to task for having "exploited" Wilkomirski. (New York Times, Nov. 3, 1998).

 Deborah Lipstadt, author of the anti-revisionist polemic Denying the Holocaust, has assigned Fragments in her Emory University class on Holocaust memoirs. When confronted with evidence that it is a fraud, she commented that the new revelations "might complicate matters somewhat, but [the work] is still powerful."

 Daniel Ganzfried reports that Jews have complained to him that even if Fragments is a fraud, his expose is dangerously aiding "those who deny the Holocaust."

 American Jewish writer Howard Weiss makes a similar point in an essay published in the Chicago Jewish Star (Oct. 9-29, 1998):

 Presenting a fictional account of the Holocaust as factual only provides ammunition to those who already deny that the horrors of Nazism and the death camps ever even happened. If one account is untrue, the deniers' reasoning goes, how can we be sure any survivors accounts are true ... Perhaps no one was ready to question the authenticity of the [Wilkomirski] account because just about anything concerning the Holocaust becomes sacrosanct.

 Wilkomirski himself has responded to the new revelations by going into hiding, although he did issue a defiant statement describing the climate of discussion about his memoir as a "poisonous" atmosphere of "totalitarian judgment and criticism."

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 From The Journal of Historical Review, Sept.-Oct. 1998 (Vol. 17, No. 5), pages 15-16.
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シオニストは、何故「ヒトラー」と「ナチス」を生み出したのか? 木村愛二氏取材のイラン放送局が問い合わせて来た。 救国の草莽の志士 2006/2/09 12:12:41 (2)
本当のホロコーストは、広島・長崎にユダヤが投下した「原爆ホロコースト」と「9・11事件WTC解体のゴイム儀式殺人」 真相ハンター 2006/2/09 12:30:21 (1)
本当のホロコーストは、広島・長崎にユダヤが投下した「原爆ホロコースト」 真相ハンター 2006/2/09 14:00:45 (0)
【救国の草莽の志士氏の貴重な指摘】
 救国の草莽の志士氏の2004.8.15日付「『ナチスとヒトラー』とホロコーストの真相」を転載する。
 ロスチャイルドを中心とする、シオニスト達が1897年にスイスのバーゼルで開いた第1回世界ユダヤ人会議での決議事項の50年後には、民族の悲願だったユダヤ人国家を誕生させるとの誓いに基づいて、「イスラエル建国の為の国家の誕生には必須の国家の3要素(領土・国民・政府)の内の最も困難な「国民」を創出させる為には、無理やりヨーロッパ全土から「ユダヤ教徒(主にトルコ系白人種のカザール(ハザール)人の末裔のアシュケナジー・ユダヤ)を強制的に追い立てて、掻き集めてくる必要に迫られ、ヨーロッパ全土を征服し「集中キャンプ(Concentration Camp)という「強制収容所」などと訳された施設に収容して、戦争でナチス・ヒトラーが負けなければ。「強制移住」は貨車でやっていたであろう。だから、米英連合軍もパレスチナ行きの鉄道線路は最期まで爆撃しなかったという。

 だから、ヒトラーに資金を提供したのは、ブッシュ大統領の祖父のプレスコット・ブッシュやジョージ・ウオーカーなどのシオニスト米国ユダヤ金融財閥で、その背後にはヨーロッパ・ユダヤの総帥ロスチャイルド家がその張本人だと見るべきである。すなわち、ナチスとヒットラーの本質は、イスラエル国家建設の為には不可欠だった、「イスラエル国民」を生み出すロスチャイルドの密命により、全ヨーロッパの隅々からいわば「羊達=アシュケナジーユダヤ人達」を強制的に狩り立てる目的で、「ドイツ民族を牧羊犬シェパード」に仕立て上げて、パレスチナの国土と狙いをつけた土地に追い立て誘導するる「牧羊犬」に育て上げる「調教師ヒトラーとその親衛隊ナチス」を作ったものであった。だから、「ユダヤ人の絶滅」などという「事実の歪曲と捏造」とは、シオニスト・ユダヤの同胞(異民族でもユダヤ教徒を同胞というのなら)をなした極悪犯罪の事実を覆い隠す為、偽装工作としてまた同情を買うために創作して、全責任をヒトラーの罪にして自らの罪を糊塗しようとした典型的な「歴史の偽装と歪曲と捏造」だったのであった。事実ヒトラーの言った「ユダヤ問題の最終的解決」とは、「ユダヤ人の絶滅」どころか「(イスラエル国家建設予定地パレスチナへの)強制移住」であったのである。「イスラエル国民」となる筈のユダヤ人を殺していては、ヒトラーはロスチャイルドの密命を果たせないではないか。だから、アウシュビッツの強制収容所で殺された、「イスラエル国家建設に役に立たないか貧乏で金のなかったユダヤ人やシオニズムに反対のユダヤ人」は選別して殺したのである。

 だから、「ユダヤ国家建設の為に」、「ユダヤ人強制収容」と「強制移住」させる為に、第2次世界大戦が引き起こされ、全ヨーロッパからユダヤ人を狩り立てる必要があったので、最もアシュケナジー・ユダヤが多くいたソ連にまで全征服地の600万人の軍を動員してまでソ連侵攻をしたのである。だから、ナチズムとヒトラーは共産主義と同様にシオニズムの目的達成の為の小道具であったという訳だ。

 結論としては、シオニスト・ユダヤは、その自らの極悪の悪事を覆い隠す為に、「ホロコースト神話」をでっち上げて、シオニスト・ユダヤの使用人ヒットラーに全責任をなすりつけて、本当の加害者であった己れの「同胞殺しの汚名から免れる為、アウシュビッツでの600万人の虐殺なそという嘘を定説化させた」のであった。世界は、まんまと騙されて、真相は、世界ユダヤ人人口統計の推移が証明している。

  第2次世界大戦前 1938年版世界年鑑   16,588,259人
  
  第2次世界大戦後 1948年2月22日号
        ニューヨーク・タイムズ推定   18,000,000人 ~
                            15,000,000人 

 さらに、1939年チェンバーズ百科辞典  ナチ・ヨーロッパ下でのユダヤ人口
                             6,500,000人

  真相は、ヒトラーと連合軍に殺された民族別被害人口

                    ドイツ人   3,500,000人 

  アウシュイビッツで殺された民族別人口

                 最大 ポーランド人    160万人
                    ユダヤ人 僅かに  3万数千人

 こういう統計の下で、600万人のユダヤ人が殺されたなどということがあり得る筈  がない。せいぜい、このシオニスト・ユダヤの仕掛けで、全ヨーロッパから脱出し   て、目的どおりに主に米国等の北米や南米とパレスチナに脱出したユダヤ人は数百万  人いて、その大半は米国に逃げたのあった。ロスチャイルドを初め富裕なユダヤ人達  は全財産を持ってにげられた・・・・・。 

 フォローアップ:
Re: 「ナチス と ヒトラー」 と 「ホロコーストの真相」 考察者K 2004/8/15 08:42:51 (20)
Re: 「ナチス と ヒトラー」 と 「ホロコーストの感想」 小林あきら 2004/8/16 08:32:48 (1)
Re: 「ナチス と ヒトラー」 と 「ホロコーストの感想」 考察者K 2004/8/16 21:21:34 (0)
全世界のユダヤ人の人口は?1930年当時、ドイツ国内のユダヤ人口は? ジャック・どんどん 2004/8/15 21:20:26 (17)
質問の意図が良く分かりませんが・・・ 考察者K 2004/8/15 22:46:41 (16)
PC-VAN上での「ガス室論争」の顛末 バルタン星人 2004/8/15 23:01:33 (15)
Re: PC-VAN上での「ガス室論争」の顛末 Kotetu 2004/8/16 22:53:48 (3)
Re: PC-VAN上での「ガス室論争」の顛末 考察者K 2004/8/17 23:39:41 (2)
Re: PC-VAN上での「ガス室論争」の顛末 Kotetu 2004/8/18 11:57:00 (1)
ご意見感謝です。Kの意見は修正しました。 考察者K 2004/8/18 21:20:52 (0)
Re: PC-VAN上での「ガス室論争」の顛末 考察者K 2004/8/16 21:05:32 (0)
こんな風に問わなきゃいけないんでしょうか? 小林あきら 2004/8/16 08:34:34 (9)
『フランクル回想録 20世紀を生きて』 V.E.フランクル バルタン星人 2004/8/16 12:13:43 (0)
Re: 虐殺された人数を過大してイスラエルの建設、賠償請求が問題なのでは。。 Ama 2004/8/16 10:21:23 (7)
Re: 虐殺された人数を過大してイスラエルの建設、賠償請求が問題なのでは。。 考察者K 2004/8/16 21:58:22 (6)
昨日の問題は、ドイツで反ファシズム教育のためのアンケート資料として利用 ジャック・どんどん 2004/8/17 06:06:43 (5)
600万人であろうが、600人であろうが、数字なんかは関係ない。虐殺があったかどうかが問題だ! ジャック・どんどん 2004/8/17 07:07:29 (4)
やばいな~、段々とホロコーストが虚構に思えてきました(汗 笑) 考察者K 2004/8/17 22:52:29 (3)
単なる直感でしかないんだけれど・・・背中を押す 現在無色 2004/8/18 07:31:48 (2)
問題は、ユダヤ人の死者数ではなく、ヒトラーは誰が何の為に作り、第二次世界大戦はなぜ起こされたかです。 救国の草莽の志士 2004/8/18 19:30:44 (1)
ご意見ありがとうございます。Kの意見は修正しました。 考察者K 2004/8/18 21:23:19 (0)

れんだいこ: 「ヴァンゼー会議メモよ、お前もか」 [「れんだいこ」から]

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/horocoastco/wanseikaigimemoco.htm


「ヴァンゼー会議メモよ、お前もか」


 (最新見直し2005.12.26日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「ホロコースト研究」に乗り出して以来、「ホロコーストの嘘」を確認する作業に忙しくなってしまった。他意無く始めた作業だったので、「アンネの日記のウソ」、「ゲッペルス日記のウソ」、「映画シンドラーのリストのウソ」と続くと、「ホロコースト神話」と位置づけた方がよさそうになる。ここで問う「『ヴァンゼー会議メモ』お前もか」もこれを裏付けることになるだろう。

 一体、日本のホロコースト研究家は、日本神話に対しては神話故に拒否するのに、「ホロコースト神話」となると何故これを後生大事にしようとするのだろう。解せないことではある。思うに、史学には、ネィティブ系とシオニズム系のものがあり、シオニズム系の観点に立って論述すれば認められ博士号など取得し易いのだろう。故に、そういう学者は、今になって「ホロコースト神話」を否定するとなると、己の学問的立身過程が否定されることになり、そういう意味からヒステリックな反応をするようになるのではなかろうか。

 しかし、それを防ぐ手立ては無かろう。研究者としての第一歩の立脚点をそのように御用化させたことにある訳だから、苦しい自己否定作業を経由せずんば救済されないだろう。現実はそのように向う者は皆無で、何とかして自己弁護に励み居直る者ばかりだから、首尾一貫してはいる。しかしこうなると、学問というものが如何に政治性を帯びているのかということに気づかされることになる。「学問」の学問性が端から否定されていることに卒倒させられるのはれんだいこだけだろうか。

 2005.3.22日 れんだいこ拝

【「ヴァンゼー会議及びハイドリヒ・メモ」考】
 「ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)問題」を論ずる際に、それを指示したとされる「ヴァンゼー会議及びハイドリヒ・メモ問題」がある。これを吟味する。

 「ヴァンゼー会議」とは、1942.1.20日、ナチス親衛隊高官で保安警察長官(親衛隊保安本部長)であったラインハルト・ハイドリヒ(彼は同年5月にプラハで暗殺される)が、ベルリンの南西部にあるヴァンゼー街のある屋敷にナチスの高官たちを集合させ、ユダヤ人の組織的虐殺を謀議した会議のことを云う。この会議が実在したのか、はたまたデッチアゲか、仮に存在したとして云われるようなユダヤ絶滅政策が発布されたのか等々を廻って論議が起きている。

 その時の「ハイドリヒ・メモ」が残されており、それによると、「ユダヤ人問題の『最終的解決』の権限を親衛隊が全面掌握することを決定した」ことを記している。これにより後、このメモによってユダヤ人虐殺が指針されたとする重要文書となっている。その意味で「ハイドリヒ・メモ」の持つ意味は深い。

 なお、「ハイドリヒ・メモ」は、「最終的解決」の対象となるヨーロッパ・ユダヤ人の数を1100万人と見積もっており、この数字の根拠、適切さを廻っても議論を招いている。
 山崎氏は、「ヴァンゼー会議のメモ」、「ヴァンゼー会議の数字」、「ヴァンゼー会議の重要性」、「1100万人のユダヤ人」で、「ヴァンゼー会議におけるハイドリヒ・メモ問題」を考察している。

 山崎氏は、批判する前の作業として、木村見解を次のように整理している。
①  会議が開かれた建物が相当な「宮殿」であったとの通説は間違いである。
②  ヒトラーも参加した上での会議であったかの通説は間違いである。
③  「ハイドリヒ・メモ」は偽造捏造文書である。以下のように論証している。
A  「シュテークリヒのメモ偽造説」を踏まえつつ、当時のヨーロッパ・ユダヤ人の数を1100万人とする見積り自体が過大であり、偽造捏造の証拠であるとしている。
B  シュテークリヒの論拠「連続番号がないかわりに、一ページ目に”D・III・29・Rs”という記号が記入されているが、ドイツの官僚機構は通常、こういう形式で記録の分類はしない」(p.261.)との指摘を受け入れて、ヴァンゼー会議の内容を記したとされている「ハイドリヒ・メモ」は偽造捏造文書であるとしている。
④  会議が存在したこと自体が疑わしい。その理由として、エッセイ集「ホロコーストの全景」の「その理由の第一は、『ヒトラーの国家では、このような重要な問題の決定を官僚の会議でおこなうことなどありえない』からであり、第二は、『虐殺は一九四一年からはじまっていた』からである」を引用し、ヴァンゼー会議の存在、ヴァンゼー・メモをユダヤ人虐殺計画の決定文書だとする見解に疑問を発している。
 山崎氏は、次のように批判している。①・②には異議を唱えない。が、③Aの人口問題につき、当時のヨーロッパ・ユダヤ人の数1100万人説を肯定する。当時そのように言説されていた資料が確認できるとして、①・ハイドリヒが別の場所で1100万人という数を挙げていること(シュテークリヒ「アウシュヴィッツ神話」(Wilhelm Staeglich, Der Auschwitz Mythos)(オンライン版で確認できる)。②・ゲッベルスの1942.3.7日の日記の当該部分「ユダヤ人問題はいまや、全ヨーロッパ規模で解決されなければならない。ヨーロッパにはいまだに、1100万人以上ものユダヤ人がいるのだ(Es gibt in Europa noch ueber 11 Millionen Juden)」、を例証として、1100万人説が存在していたことを指摘し、1100万人の中には、ナチス・ドイツが支配していない地域(イギリス、スペイン、スイス、スウェーデン等)のユダヤ人が含まれており、決してデッチアゲ数字ではないと反論している。

 ③Bの「ハイドリヒ・メモは偽造捏造文書である」説につき、「ハイドリヒ・メモ本物文書説」を述べ次のように補足している。「ヴァンゼー会議のメモのような重要な文書について、それを虚偽だとしている情報を自分でふりまくためには、当該の文書にあたってみるのが当然だ」として、ヴァンゼー会議の議事についてのメモのドイツ語でオンライン化されたもの、その写真版を紹介している。

 ④のヴァンゼー会議の存在否定説につき、木村氏の見解は、ドイツの現代史研究家・イェケルの「ヒトラーの支配」の記述「この国家では、重要な決定が『官僚たちの』会合で下されたことなどなかった。最高の次元において、ヒトラーが単独で決定し、それを言い渡したのである」(Eberhard Jaeckel, Hitlers Herrschaft, Deutsche Verlags-Anstalt, 1986, p.105.)に基づいていると思われるとして、その解釈に次のように疑義を唱えている。 
 「ホロコーストに関する論争では、イェケルはひとつの立場を取っています。彼はヒトラーの決定権を最大限にみつもる立場におり、そこからヴァンゼー会議の重要性を相対的に低く見ているだけです。イェケルと異なる立場のホロコースト史家たちも多くおり、彼らはヴァンゼーを重んじています。アリーはそのひとりです。こうしたことを無視して、すべてのホロコースト史家たちが『認めなくなっている』かのような発言をするのは、ためにする議論でしかありません」。
(私論.私見) 「重要な文書の偽書云々を云うのなら当該の文書にあたってみるべし論」考

 これもその通り。これによれば、「重要な文書について、それを虚偽だとしている情報を自分でふりまくためには、当該の文書にあたってみるのが当然だ」とする同じ論理で、「シオンの議定書」にも「当該の文書にあたってみるべし」であろう。これに対して山崎氏の見解を聞いてみたいところである。その上で、偽書かどうか精査されねばならないであろう。ところで、「シオンの議定書」偽書派は、如何なる論法でこれを偽書としているのだろう。ここでは立場が代わっているのでその論法に興味が持たれる。

 2005.2.19日 れんだいこ拝
(私論.私見) 「ヴァンゼー会議不存在説」考

 木村氏が「すべてのホロコースト史家たちが『認めなくなっている』かのような発言」をしているのかどうか分からないが、ヴァンゼー会議の存在否定説を覆すのに、ホロコースト史実派にして「ヴァンゼー会議議事録をユダヤ人絶滅計画の証拠文書の様に見なす事は間違いである」と弱弱しく疑問を投げかけているような立場のイェケル(Jaeckel)批判しただけでは何も解決しない。プレサック(Press-ac)も同じ系譜とのこと。

 ちなみに、西岡昌紀氏は、「阿修羅ホロコースト1」の2005.3.21日付投稿「仮に本物だとしても、 「ヴァンゼー会議議事録」に「ユダヤ人絶滅が決定された」と言う文言は有りません」で次のように述べている。
 仮に本物だとしても、「ヴァンゼー会議議事録」には、「ユダヤ人絶滅」が決定されたと言ふ文言は有りません。ですから、仮に本物だったとしても、この文書は、「ユダヤ人絶滅計画」の証拠などには成り得ません。

 実際、そう言う事を考えての事と思ひますが、「ユダヤ人絶滅」有った派の歴史家たちの中にも、例えば、イェッケル(Jaeckel)やプレサック(Press-ac)がそうですが、この文書を「ユダヤ人絶滅計画」の証拠文書の様に見なす事は間違いである、と言った立場の人々が複数表れて居ます。


 2005.2.19日 れんだいこ拝
【木村愛二氏の「ヴァンゼー会議録は国際検察局のケンプナーが作成の偽造文書論」考】
 木村愛二氏は、著書「アウシュヴィッツの争点」の「(その58)ヴァンゼー会談主催者をヒトラーにしてしまうおそまつ」で次のように述べている。中々の名文であるゆえ全文転載する。但し、読みやすくするため、れんだいこが任意に句読点、段落替えした。

 カットインで画面はかわって、翼をのばした鳥がふんわりと風にのって舞う湖のほとり。森のなかの白い石造りの邸宅にフォーカスイン(接近)し、おもむろに解説のセリフがはいる。「ベルリン、ヴァンゼーの宮殿。いまから五〇年あまり前、アドルフ・ヒトラーは、この建物に政府高官たちを集め、ユダヤ人問題の最終的解決を討議した」。

 この解説には、ニュルンベルグ裁判の誤りにみちた「事実認定」すら無視したあたらしい歪曲がある。せいぜい「豪邸」といえるほどの屋敷を「宮殿」とよぶだけの歪曲なら、ご愛嬌ですむ。だが、「アドルフ・ヒトラー」を主語にしたのは、完全なまちがいであり、もしかすると厚かましいまでの大衆欺瞞の情報操作のたくらみである。

 絶滅説の「事実認定」では、ヒトラーも親衛隊長のヒムラーも「ヴァンゼー会談」には参加していない。「ヴァンゼー会談」の主催者は、ゲシュタポ長官兼保安警察長官のラインハルト・ハイドリッヒだということになっている。なお、ハイドリッヒは戦争中に暗殺されているので、ニュルンベルグ裁判の当時すでに「死人に口なし」の状態であった。

 話を作品にもどすと、さきの明瞭なまちがいをふくむセリフと同時に、ヴァンゼーの邸宅の内部を移動する画面のうえに、タイプ文字の書類の文章と数表が白抜きでスーパーされる。この邸宅で「最終的解決」の「討議」がおこなわれた「事実」を、記録という「物的証拠」の存在によって強調しているわけだ。典型的なドキュメンタリー手法の画面構成である。

 その画面にあわせてセリフはつづく。「そのさいにつくられた報告文書には、ヨーロッパ各地のユダヤ人の数が、ことこまかに記載されている。その数は、あわせて一千一〇〇万人であった」。文書の中の表の最後、「11、000、000」の数字がアップで強調される。

 シオニストがもっとも強く実現をのぞんでいた構想は、旧約聖書のシオンの丘があると称するエルサレムを中心としたパレスチナでの建国だった。その目的地が一時はマダガスカルにかわり、この「会談」があったとされる時期にはロシアの占領地にかわっていた。だが、この作品では、「最終的解決」という用語の解釈をめぐって現在も継続中の論争どころか、そのような移住政策の事実経過さえ完全に抹殺されている。つまり、この作品は、みずからがテーマとして選んでいる「ユダヤ人虐殺を否定する人々」の核心的な主張どころか、絶滅論者による事実経過説明すら紹介しようとしていないのだ。

 画面の「11、000、000」という数字を印象づけるために、すこし間をおいてから、おもおもしい調子のセリフがつづく。「ナチスによるユダヤ人虐殺への道は、ここを起点としている。こののち、数百万人のユダヤ人が抹殺された。だがいま、歴史は風化の危機にさらされている」。「ユダヤ人問題の最終的解決」という表現にはここで、議論の余地なしに、「ユダヤ人虐殺」と同一のイメージがあたえられる。

 だがまず、一九四二年一月二〇日に「ヴァンゼー会議」がおこなわれた証拠とされているのは、会議の決定を記録した公式文書ではなくて、一片の会議録、厳密にいえば筆者すら不明の個人的なメモにすぎないのである。しかもそのメモが本物だとしても、そこには「最終的解決」イコール「ユダヤ人の民族的絶滅」などという方針は明記されてはいない。

 さらに決定的なのは、絶滅的に立つホロコースト史家たちでさえ、もはや、ヴァンゼー・メモをユダヤ人虐殺計画の決定文書だとは認めなくなっているという、矛盾に満ちた事態である。ペイシーほかの編集による「ラウル・ヒルバーグに敬意を表して」という副題のエッセイ集『ホロコーストの全景』によれば、その理由の第一は、「ヒトラーの国家では、このような重要な問題の決定を官僚の会議でおこなうことなどはありえない」からであり、第二は、「虐殺は一九四一年からはじまっていた」からである。

 ヴァンゼー会議がおこなわれたとざれているのは、メモの日付によれば、一九四二年一月二○日である。絶滅説の物語はこのように、つぎつぎと矛盾があきらかになり、書きなおしをせまられているのである。
 木村氏は引き続き、「『会議録』は国際検察局のケンプナーが作成の『偽造文書』という説」という章を設け、で次のように述べている。
 シュテーグリッヒ判事は、このヴァンゼーの会議録を、ニュルンベルグ裁判の国際検察局のボスだったケンプナーが作成した「偽造文書」だと主張する。その理由を簡単に紹介すると、つぎのようである。

 当時のナチス・ドイツでは公式文書を作成するさい、担当官庁名いりの用箋を用い、とじこみ用の連続番号を記入し、末尾に作成担当者、または会議の参加者が肉筆でサインすることになっていた。ところがこの「ヴァンゼー文書」なるものは、官庁名がはいっていない普通の用紙にタイプされており、連続番号もサインもまったくない。そのくせ、「最高機密」というゴム印がおされているから、かえって奇妙である。連続番号がないかわりに、一ページ目に“D・・・29・Rs”という記号が記入されているが、ドイツの官僚機構は通常、こういう形式で記録の分類はしない。

 内容的に最も奇妙なのは、「東方移送」するユダヤ人のうちで「労働が可能な者」に「道路建設」をさせるという、実際にはおこなわれていない作業命令の部分である。当時のナチス・ドイツでは、アウシュヴィッツなどの軍需工場群への労働力供給が最優先課題だった。「東方移送」は鉄道を利用しており、「道路建設」の必要はなかった。

 シュテーグリッヒ判事は別の箇所で、つぎの点に注意をむけている。「いわゆるヴァンゼー文書は、アメリカのケンプナー検事が[ニュルンベルグの国際軍事裁判の]のちにおこなわれた“ヴィルヘルム通り”裁判ではじめて提出したものである」。ケンプナーは、ニュルンベルグ裁判ではアメリカのジャクソン主席検事の「準備チーム」に属していた。つまり、法廷では裏方だったのだが、その後、高級官僚を被告にした“ヴィルヘルム通り”裁判では主席検事になった。そこではじめてケンプナーが「いわゆるヴァンゼー文書」を提出したというのは、非常に興味深いことである。すでに国際軍事裁判で「ホロコースト」物語は認定されている。しかし、自分が主役の裁判となると、ケンプナーには不安がある。すでに一部から疑問がだされていたからだ。そこで、ゆらぐ屋台骨をささえるために「ニセ文書」をつくったと考えれば、納得がいく。

 わたしの考えでは、まず、「一千一〇〇万人」という数字をことさらに強調した点があやしい。すでに第一部で紹介したように、当時の統計によれば、ナチス・ドイツの支配下に入ったヨーロッパのユダヤ人の人口は、約六五〇万人だった。生きのこりと移住をさしひくと、「六〇〇万人のジェノサイド」説は成り立たない。そこで「偽造文書作成者」、ケンプナーは、征服が完了していないロシアなどのユダヤ人の人口をもくわえて、「一千一〇〇万人」のヨーロッパのユダヤ人という基礎数字のイメージをつくりだす必要があると考えたのではないだろうか。もう一つの「道路建設」作業についても、「軍需工場群への労働力供給」と「絶滅」政策の論理的矛盾をすこしでもぼかしたいと願ったものという可能性がある。

 たとえば『裁かれざるナチス』の著者、ペーター・プシビルスキは、元東ドイツの検事で最高検察庁の広報局長という立場にあった。彼の見解は、元東ドイツの公式見解だったと考えていいだろう。この本ではヨーロッパのユダヤ人を「六〇〇万人」としており、「最終的解決」「ガス室」「ニュルンベルグ」の裁判が、つぎのように簡潔に、または短絡的にむすびつけられている。

 「ヨーロッパ全域にわたる六〇〇万のユダヤ人が、この『最終的解決』の過程で駆りたてられ、ガス室に送られ、『注射によって殺され』、あるいは死にいたるまで酷使されたのである。だがニュルンベルグではそのような事実は関知しない、自分に責任はない、と主張する者ばかりだった」。

 つまり、ニュルンベルグ裁判で「最終的解決」の陰謀にくわわったと認定された被告たちは、すべて罪状を否認していたのである。だが、このデンマーク製の映像作品には、そのような疑問点はいささかも映しだされない。「ナチス」、「虐殺」、いたましい歴史的イメージの余韻をひびかせつつ、カメラはふるめかしい邸宅の内部を移動しながらゆっくりとうつしだす。

【山崎氏の「木村愛二氏のヴァンゼー会議録偽造説」批判】
 上記木村氏の「ヴァンゼー会議録偽造文書論」に対して、山崎氏が著作人と思われる「『アウシュヴィッツの争点』が振りまく虚偽」の「ヴァンゼー会議のメモ」で次のような批判が為されている。
 1942年1月20日、ベルリンの南西部にあるヴァンゼー街のある屋敷に、ナチスの高官たちが集合しました。会議を招集したのは、親衛隊高官で保安警察長官であったラインハルト・ハイドリヒです。このヴァンゼー会議は、ユダヤ人の組織的虐殺の過程でひとつの重要な結節点をなすもので、ホロコーストにかかわるどんな記述にも登場します。ペツォルトとシュヴァルツによるヴァンゼー会議についての特別な研究もあります(同書は目下注文中です)。

 木村さんはNHKが放映した『ユダヤ人虐殺を否定する人々』という番組を取り上げ、そこでの事実誤認を攻撃します。確かにヴァンゼー会議が開かれた建物は「宮殿」ではないし(大澤武男『ユダヤ人とナチス』講談社現代新書、1991年、p.208.には建物の概観を写した写真があります)、会議にヒトラーが参加したこともありません。そのことを指摘するだけなら、どうということもないのですが、木村さんは会議が存在したこと自体が疑わしいとまでいいたてるのです。

 この点については、別に詳しく触れることにしますが、まずは小さいけれど重要な点を指摘しておきます。木村さんはヴァンゼー会議の内容を記したメモが「偽造文書」だというシュテークリヒという否定派の本を使って、こう述べています。 「連続番号がないかわりに、一ページ目に”D・III・29・Rs”という記号が記入されているが、ドイツの官僚機構は通常、こういう形式で記録の分類はしない。」(p.261.)
 シュテークリヒの本はオンライン化がすすんでいるので、いずれ読んでみます。ここで私がいいたいのは、ヴァンゼー会議のメモのような重要な文書について、それを虚偽だとしている情報を自分でふりまくためには、当該の文書にあたってみるのが当然だ、ということです。ヴァンゼー会議の議事についてのメモは、さまざまな資料集に収録されています。ドイツ語でオンライン化されたものもあります。また、幸い現在では、その写真版がWWWに貼られてもいます。これらでチェックされれば、「D・III・29・Rs」が正確ではないことが判ります。以下にメモの表紙に押されたスタンプの部分(木村さんがいう「記号」)の写真を示しておきます。

 お判りのように、「D. g. Rs.」という記述を含んだスタンプが押されたあと、III 29・という数字が手書きで空白のところに挿入されているのです。29のつぎにある点については、それがスタンプのものなのか、手書きの一部なのかは、写真ではよく判りませんが、いずれにしても「D・III・29・Rs」ではありません。

 木村さんの本には、欧米の否定派の出版物からの安易な孫引きがたくさんあります。ジャーナリズムでいう「裏を取る」作業を放棄して、否定派の文献にばかり頼っているので、こうしたミスを犯すのです。なんどでもいいますが、何百万もの数の人々の命にかかわっていた問題です。いいかげんな資料操作はやめましょう。

 追記(3月16日)
 ようやくシュテークリヒの『アウシュヴィッツ神話』(オンライン版)の全文をコピーでき、その内容の検討に入ったところですが、「D・III・29・Rs」という誤りは、木村さんがシュテークリヒから受け継いだものであったことが、確認できました。それにしても、シュテークリヒはどうしてこんなに初歩的な読解ミスをしたのでしょうか。「g. Rs.」という略号はgeheime Reichssache、つまり、「国家最高機密」を意味します。法律家であるシュテークリヒなら、当然知っているべき記号です。


 続いて、「ヴァンゼー会議の数字」で次のように述べている。
 ヴァンゼー会議のメモには、「ヨーロッパ・ユダヤ人問題の最終解決(Endloesung)には、ほぼ1100万人のユダヤ人が関与する。これらユダヤ人は以下のように、個々の国に分布している」とあり、そのあとに長い国別のユダヤ人人口が示されています。

 さて、木村さんはこういいます。 「わたしの考えでは、まず、『一千一○○万人』という数字をことさらに強調した点があやしい。」(『争点』、p.262.)
 これはシュテークリヒがヴァンゼー・メモをニュールンベルク裁判での「ケンプナー検事」のでっちあげだといったことを受けて書かれています。さらに文章は、こうつづきます。

 「・・・当時の統計によれば、ナチス・ドイツの支配下に入ったヨーロッパのユダヤ人の人口は、約六五○万人だった。生きのこりと移住をさしひくと、『六○○万』人のジェノサイド」説は成り立たない。そこで『偽造文書作成者』、ケンプナーは、征服が完了していないロシアなどのユダヤ人の人口をもくわえて、『一千一○○万人』のヨーロッパのユダヤ人という基礎数字のイメージをつくりだす必要があると考えたのではないだろうか。」(同ページ)

 おかしなことに、ここではもう木村さんは、なんの自前の証明もせずに、シュテークリヒのメモ偽造説に賛成してしまっているのです。否定派のいうことのまったくの丸飲みです。ほかの数字についての操作については、別にやるとして、1100万人という数字だけをここで取り上げます。

 それはケンプナーの「偽造」などではありません。まったく別の資料で、ヴァンゼーの主催者であったハイドリヒが、この数字を口にしているからです。ヴァンゼー会議の直後、1942年2月4日の秘密演説で、彼は「北氷洋」(「北海」)が「1100万のヨーロッパ・ユダヤ人にとって未来の理想的な故郷に」なるだろうと述べています。この演説はチェコ語で出されたハイドリヒ研究(なぜチェコなのかはハイドリヒの職権とかかわります)にあり、幸いゲッツ・アリーが引用しています(『最終解決』法政大学出版局、p.216.)。

 「1100万人」がハイドリヒたちの認識していたヨーロッパ・ユダヤ人の数であったことには、疑問の余地がまるでありません。木村さんはちゃんと自分で調べないで、いいかげんな文書に寄り掛かり、そのうえさらに「私の考えでは」とまったくの憶測を繰り広げているだけです。もしケンプナーが生きていたら、この点だけでも木村さんを名誉毀損で訴えることができますし、確実に勝訴するでしょう。


 続いて、「ヴァンゼー会議の重要性」で次のように述べている。
 木村さんはヴァンゼー会議について、こう書いています。
 「ペイシーほかの編集による『ラウル・ヒルバーグに敬意を表して』という副題のエッセイ集『ホロコーストの全景』によれば、その理由の第一は、『ヒトラーの国家では、このような重要な問題の決定を官僚の会議でおこなうことなどありえない』からであり、第二は、『虐殺は一九四一年からはじまっていた』からである。」(『争点』、p.260.)

 私はこの部分を読んで「あれっ」と思いました。というのは「ヒトラーの国家では云々」という引用箇所をどこかで読んでいた記憶があったからです。「ペイシーほかの編集による」本は Pacy, James S./Wertheiner, Alan P. ed.: Perspective on the Holocaust, Westview Press, 1995.だそうです。調べてみるとPacy, James S./Alan P. Wertheimer (eds.), Perspectives on the Holocaust: Essays in Honor of Raul Hilberg, Westview Press, 1995. のようです。残念なことに同書は絶版(out of print)でした。目下、探してもらっています。しかし、幸いなことに、私がよく使うAmazon.comというオンライン書店は、この本の書評をいくつか掲載しています。それを読んでどこで読んだかを思い出しました。書評のひとつには、つぎのようにあります。

  "The book contains all seven of the presentations delivered at the conference by Yehuda Bauere, Christopher Browning, Claude Lanzmann, Alvin Rosenfeld, Richard Rubenstein, George Steiner, and Herman Wouk, and four other essays by Peter Hayes, Eberhard Jackel, John Roth, and Robert Wolfe. "

 実物がまだないので、まちがっていたらおわびして訂正しますが、この本に収録されたエベルハルト・イェケル(Eberhard Jaeckel)が先の引用箇所の著者だと思います。

 イェケルはドイツの現代史研究家で、『ヒトラーのヨーロッパにおけるフランス』とか『ヒトラーの支配』といった著書を持っています。さらに、『第二次世界大戦におけるユダヤ人殺害』という本の編者のひとりでもあります。そして重要なのは、ホロコーストに関する論争の当事者のひとりでもあることです。この論争は1941年冬に開始されたユダヤ人たちの組織的絶滅政策が、ナチス(ヒトラー)の一貫した反ユダヤ人意図の実現であったか、それとも状況に規定された非意図的な決定であったかをめぐって争われているものです。『第二次世界大戦におけるユダヤ人殺害』は、この論争を集めたものです。

 さて、イェケルは『ヒトラーの支配』において、こう書いています。

 「この国家では、重要な決定が[官僚たちの]会合で下されたことなどなかった。最高の次元において、ヒトラーが単独で決定し、それを言い渡したのである。」(Eberhard Jaeckel, Hitlers Herrschaft, Deutsche Verlags-Anstalt, 1986, p.105.)

 これは論争のなかでもよく引き合いに出される箇所です。ゲッツ・アリーの幸い翻訳された名著『最終解決』(法政大学出版局、1998年、p.303.)でも引用されています。これが木村さんの引用であることは確かだと思います。

 しかし、イェケルの見解を、木村さんのように

 「さらに決定的なのは、絶滅的[この的は説の誤植でしょう]に立つホロコースト史家たちでさえ、もはや、ヴァンゼー・メモをユダヤ人虐殺計画の決定文書だとは認めなくなっている」(p.260.)

 というように使うわけには絶対にいきません。ホロコーストに関する論争では、イェケルはひとつの立場を取っています。彼はヒトラーの決定権を最大限にみつもる立場におり、そこからヴァンゼー会議の重要性を相対的に低く見ているだけです。イェケルと異なる立場の「ホロコースト史家たち」も多くおり、彼らはヴァンゼーを重んじています。アリーはそのひとりです。こうしたことを無視して、すべての「ホロコースト史家たち」が「認めなくなっている」かのような発言をするのは、ためにする議論でしかありません。

(私論.私見) 【れんだいこの「山崎氏による木村愛二氏のヴァンゼー会議録偽造説批判」の批判】

 山崎氏の木村見解批判を検証する。果して、山崎氏は、論争として正面から議論に挑んでいるだろうか。「ヴァンゼー会議のメモ」の一文は、「木村愛二氏のヴァンゼー会議録偽造説」の揚げ足取り的批判でしかないように思われる。

 木村氏は、「ヴァンゼー会議録としてのハイドリヒ・メモ」が当時のナチス・ドイツの公式文書の体裁を採っていない故に偽造ないし捏造の可能性を指摘している。もし、これを誤りとして批判するのなら、「ハイドリヒ・メモ」の公式文書ぶりを強調するのでなければならない。ならば、1・担当官庁名いりの用箋を用いる。2・とじこみ用の連続番号を記入する。3・末尾に作成担当者、または会議の参加者が肉筆でサインするという三要件を踏まえない公式文書の存在を論うべきだろう。

 山崎氏は、木村氏の所説の中の「連続番号がないかわりに、一ページ目に“D・・・29・Rs”という記号が記入されている」を槍玉に上げ、「D・III・29・Rs」と記されていると看做すのは正確ではないと云う。正確には、「『D. g. Rs.』という記述を含んだスタンプが押されたあと、『III 29・』という数字が手書きで空白のところに挿入されているのであって、『D・III・29・Rs』と記されているのではない」という。

 何のことは無い、本筋から離れたところの重箱の隅を突くような話ではないか。問われているのは、「ハイドリヒ・メモの公式文書能力」である。それを否定する者の見解を否定するのなら、「ハイドリヒ・メモの公式文書能力」を証するべきではないのか。その上で、「D・III・29・Rs問題」を云うのなら分かるが、何とも肩透かしなことである。

 「ヴァンゼー会議の数字」の一文も似たり寄ったりである。木村氏は、「西欧における当時のユダヤ人実数100万人説を否定し、約650万にだったと考えられる」と述べている。山崎氏は、僅かにハイドリヒの「ヴァンゼー会議の直後、1942年2月4日の秘密演説」での発言をダシしながら「1100万人がハイドリヒたちの認識していたヨーロッパ・ユダヤ人の数であったことには、疑問の余地がまるでありません」と言い返しているだけである。

 これについては、「ホロコーストは戦後のユダヤ特権を享受するための捏造神話」、「アドルフ・ヒットラーはイスラエル建国の父」その他は次のように記している。
 戦前1900万人いた世界のユダヤ人が、戦中、欧州で600万人虐殺されたのに、戦後5年ったら1850万人に回復している? ユダヤ人は戦後、気が狂ったように子作りに励んだのでしょうか? ユダヤ人はハツカネズミだとでもいうのでしょうか? 人口増加率の高いインドでもせいぜい1.5%だから、ユダヤ人も戦後同じペースでせっせと励んだとしても、600万人虐殺が本当なら、1950年でせいぜい1400万人にしかならない筈です。(逆に戦後、ユダヤ人口は増えているとするデータすらあります。-参考EF。実際に収容所で死んだユダヤ人は、15万から30万だったろうと結論付けています。)

 「600万人」が嘘だということです。こんな初歩的な嘘にも気づかず、必死に否定論に対抗している「肯定論者」の方の素性に大いに興味が持たれます。なにか、ユダヤ勢力と特別の利害関係でもあるのでしょうか?


 つまり、概要「戦後のユダヤ人人口数からして、もし600万人が虐殺されていたなら辻褄が合わない」なる見解が出されているところである。もう少し、反論するならそれに耐え得るものを対置せねばなるまい。よって、「もしケンプナーが生きていたら、この点だけでも木村さんを名誉毀損で訴えることができますし、確実に勝訴するでしょう」などは余計な話であろう。
 「ヴァンゼー会議の重要性」の一文もさっぱり要領を得ない。「ホロコースト論争」を廻ってのドイツの現代史研究家イェケルの言説に対して、木村氏が、概要「ホロコースト史実派の史家たちでさえ、ヴァンゼー・メモをユダヤ人虐殺計画の決定文書だとは認めなくなっている」と紹介しているのに対して、これを否定し、「彼はヒトラーの決定権を最大限にみつもる立場におり、そこからヴァンゼー会議の重要性を相対的に低く見ているだけです」との解釈を示している。

 と言いながら、「イェケルと異なる立場の『ホロコースト史家たち』も多くおり、彼らはヴァンゼーを重んじています。アリーはそのひとりです。こうしたことを無視して、すべての『ホロコースト史家たち』が『認めなくなっている』かのような発言をするのは、ためにする議論でしかありません」とも書き付けている。

 ところで、概要「木村氏が、すべての『ホロコースト史家たち』が『認めなくなっている』かのような発言をしている」とあるが、ここに掲載した一文の該当箇所は、「絶滅説に立つホロコースト史家たちでさえ、もはや、ヴァンゼー・メモをユダヤ人虐殺計画の決定文書だとは認めなくなっている」の件である。

 この文章を「すべての『ホロコースト史家たち』が『認めなくなっている』かのような発言」と解釈するのは「趣旨不改変の原則」に反するのではなかろうか。それとも別章から取り寄せたのだろうか。それにしても、「すべての」なる語句を意図的に挿入しているのは、批判し易いように改竄する性悪論法のような気がしてならない。

 知識的には、「ホロコースト論争」を廻ってのドイツの現代史研究家イェケルの位置を概要次のように述べているところが参考になった。イェケルは、1・ホロコースト史実派であり、2・1941年冬に開始されたユダヤ人たちの組織的絶滅政策が、ナチス(ヒトラー)の一貫した反ユダヤ人意図の実現であったか、それとも状況に規定された非意図的な決定であったかをめぐって、後者側に立つことを明らかにしている云々。

 しかし、れんだいこは知識は貰うが、判断まで共有しようとは思わない。

 2005.3.22日 れんだいこ拝

【「ソフィア先生の逆転裁判2」】
 「ヴァンゼー会議問題」に対して、「ソフィア先生の逆転裁判2」が、「ユダヤの嘘を暴いてドイツの無罪を勝ち取れ」の副題を付けて上記の木村氏見解と「『アウシュヴィッツの争点』が振りまく虚偽」氏の見解を俎上に乗せて多角的に研究している。これは膨大なので、れんだいこが意訳要約紹介する。

 「Subject:23、ラインハルト作戦を決定したヴァンゼー会議」と題して、これを裁判形式で再現解明せんとしている。重複しているところを割愛し、参考になるところを取り入れる。
 「ヴァンゼー会議」というのは1942年1月20日、ドイツ・ベルリン郊外ヴァンゼー・高級住宅街(Am Grosen Wannsee56-58) にあるヴァンゼー会議館で行われた会議のことだ。ヴァンゼーの位置はベルリン中央のツォー駅からSバーン(近距離都市鉄道)で30分ほど。ポツダム駅からベルリン市中心方向へSバーンで一駅がヴァンゼー。駅から記念館までは巡回バス114で、「ヴァンゼー会議記念館(Haus der Wanseekonferenz, Gedenkstatte Wanseekonferenz)」停留所にて下車。
 この記念館は、ユダヤ人富豪の別荘だった時期もあり、周辺一帯はいまでも保養地・閑静な高級住宅街として、著名な地域でもある。記念館のすぐ近くはヨット・ハーバーになっていて、ヨットなどで楽しむ人々が多い。ヴァンゼー会議の行われた部屋は観光名所になっていて、自由に見学することができる。

 1942年当時、総統として絶対的な権力を握っていたヒトラーは「ユダヤ人問題」の速やかな解決を願っていた。そこでヘルマン・ゲーリング国家元帥の指示を受けたラインハルト・ハイドリヒ国家保安部長官はこの日、国家のおもだった代表者15人をヴァンゼーに召集した。SSゲシュタポ長官ハインリヒ・ミュラー 、党代表クロプファー、内閣官房クリツィンガー、人種と移住担当ホフマンSS中将、東欧占領区担当ライブラント、マイヤー博士、内務省ウィルヘルム・ストゥッカート、外務担当ルター、4年計画局長エリッヒ・ノイマン、ラトヴィアSS副指揮官ルドルフ・ランゲ少佐、ポーランド総督府次官ジョセフ・ビュラー、総督府付SSションガース大佐、司法省ローランド・フライスラー 、SSユダヤ人問題担当カール・アドルフ・アイヒマン中佐、そして主催者である保安警察長官ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ長官だ。

 ハイドリヒに召集された参加者15人のうち8人は博士号を取得した超エリートだった。この会議には、ドイツ第三帝国の主要国家官庁の次官クラスが参加した。したがって、「次官会議」とも称される。一時間半の会議で当時全ヨーロッパ、ロシア地域に居住していた1100万のユダヤ人の「最終解決」が公式に決議された。そしてこのヴァンゼー会議によって「ラインハルト作戦」が決定された。
 「ラインハルト作戦」とは、ナチスの掌握する領土全体にわたって存在するユダヤ人を絶滅に追い込む計画のことで、この計画を遂行するために三大絶滅収容所(トレブリンカ、ソビブル、ベウジェツ)が設置された。このヴァンゼー会議は ユダヤ人の組織的虐殺の過程でひとつの重要な結節点をなすもので、ホロコーストにかかわるどんな記述にも登場する。つい最近は映画にもなったほど有名な会議だ」。

 「ヴァンゼー文書」は調べれば調べるほど怪しい文書だ。先ほどの形式が違うという点以外にも、その内容自体に問題がある。「ヴァンゼー文書」には「ユダヤ人の労働可能なものに「道路建設」をさせる」という作業命令があるが、このような命令は実際には実行されていない。ドイツ軍の主な輸送手段は鉄道だから、そもそも道路建設なんてものは必要ない。ただでさえ労働力不足なのに意味のない道路なんぞ作る余裕はないぜ」。
 「1941年6月、ドイツ軍はソ連に侵攻して大きく占領地を広げたが、そのために鉄道車両不足に悩まされていた。そのため、ヴァンゼー会議が行われたとされる1942年から1943年の間の鉄道車両の生産量は急増している。ヴァンゼー会議の結果、鉄道レール・鉄道車両の増産が決定されたならば話はわかるが、「道路建設」の命令は実際のドイツ軍の動きと矛盾している」。 「この「ヴァンゼー文書」は作者、作成年代、作成場所が判明しない。。つまり歴史学からの基本からすれば、「ヴァンゼー文書」は第四次史料に当たる。よって検察の提出した証拠には証拠能力がない」。
 ヴァンゼー会議の存在を裏付けている資料は検察側の出した第四次史料だけです。反論として、「ユダヤ人絶滅計画のように、表に出たら困ってしまうようなものを示した書類を残すほどナチはバカではないということだ。そこでナチスは重要書類を燃やしたからである」。しかし、この理屈は正当だろうか。
 「ヴァンゼー会議でラインハルト作戦が決定された」という説を否定する人間がもう少しいてもいいような気がしますが」。 「いますよ。1992年、イスラエルの「ホロコースト」専門家イェフダ・バウアーは、古くからあるこの神話を「馬鹿話」と書いてます。イェフダ・バウアーはイスラエル・ヘブライ大学教授であり、エルサレムのヤッド・ヴァシェム(Yad Vashem )記念館の主任歴史学者でもあります。ヤッド・ヴァシェム記念館はイスラエルの国立ホロコースト博物館で、そこの主任歴史学者が検察の主張を「馬鹿話」と書いているんです。これはイスラエルの見解と受け取っていいのではないでしょうか?」。 「政府が公式に発表したのでないのでは、そういうわけにもいかないでしょう。しかし、イスラエル国立ホロコースト博物館の主任歴史学者が言ってるなら、それに近い見解と考えてもいいかもしれませんね」。

 参考資料として、ロベール・フォーリソン氏の「ガス室問題に関するプレサックへの回答」(Robert Faurisson, Answer to Jean-Claude Pressac on the Problem of the Gas chambers、Two further comments on my answer to Jean-Claude Pressac、アドレス:ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/faurisson_05.htm)が紹介されている。それには次のような記述が為されている。
 何十年ものあいだ、いわゆるユダヤ人の「ホロコースト」についての歴史家たちは、1942年1月20日、ベルリンのヴァンゼー会議で、ドイツ人はヨーロッパ・ユダヤ人の物理的絶滅を決定したと繰り返し論じてきた。1984年になってはじめて、絶滅論者がシュトゥットガルトでの大会に集まって、この説を静かに放棄した(Eberhard Jackel and Jurgen Rohwer, Der Mord an den Juden im Zweiten Weltkrieg, DVA, 1985, p. 67)。

 1992年になってはじめて、イェルサレム大学教授で、イスラエルの「ホロコースト専門家」の中心人物であるイェフダ・バウアーが、この説は「馬鹿げて」いるとおおやけに声明した (The Canadian Jewish News, 30 January 1992; cf. as well, "Wannsee: 'Une histoire inepte'", R.H.R. no. 6, May 1992, pp. 157-158)。プレサックは、新しい定説にしたがって、次のように記している。

 「1月20日、『ヴァンゼー会議』と呼ばれる会議がベルリンで開かれた。ユダヤ人を東部地区に移送するという作戦が計画され、そこでは、労働によって幾分かのユダヤ人が『自然に』清算される可能性が含まれていたとしても、工業的な大量清算について語った者は誰もいなかった。この会議に続く日々、週、アウシュヴィッツ建設局は、工業的な大量清算という目的のための施設を計画することを要請する呼び出し、電報、書簡をまったく受け取っていない。」(35頁)
※ 原文を読むと「イェルサレム大学教授」の部分は「the University of Jerusalem」となっているが、イェルサレム大学は「al-Quds University」なので、「イェルサレムの大学教授」と訳すべきと思われる。ヘブライ大学(The Hebrew University of Jerusalem)はイェルサレムにあるからである。(原文アドレス:ttp://vho.org/GB/Books/anf/Faurisson1.html)

 It was not until 1992 that Yehuda Bauer, Professor at the University of Jerusalem and a leading Israeli "Holocaust specialist", declared publicly that this thesis was "silly" (The Canadian Jewish News, 30 January 1992; cf. as well, "Wannsee: 'Une histoire inepte'", R.H.R. no. 6, May 1992, pp. 157-158). In conformance with the new official version, Pressac writes:


 参考資料として、木村愛二著「偽イスラエル政治神話(その16)」(アドレス:ttp://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-16.html)を紹介している。次のように書かれている。
 一九四二年一月二〇日に開かれたヴァンゼー会議は、三分の一世紀にもわたって、そこでヨーロッパのユダヤ人の“絶滅”が決定されたと称されてきたのだが、一九八四年以後には、“見直し論者”の最も残忍な敵の文章の中ですら、その姿を消してしまった。この点に関しては、彼ら自身も同じく、彼らの歴史の“見直し”をせざるを得なくなっている。なぜならば、一九八四年五月に開かれたストゥットガルト会議で、この“解釈”が、明確に放棄されたからである(『第二次世界大戦の期間に置けるユダヤ人の殺害』)。

 一九九二年には、イェフーダ・バウアーが、『カナディアン・ジューイッシュ・ニューズ』の一月三〇日号で、従来のようなヴァンゼー会議の解釈は“馬鹿気ている”(silly)と書いた。最後には、反見直し論者の正統派歴史家の一番最近のスポークスマン、薬剤師のジャン=クロード・プレサックが、この正統派の新しい見直しを追認した。彼は、一九九三年に出版した著書、『アウシュヴィッツの火葬場』の中で、つぎのように記している。
 《ヴァンゼーの名で知られる会議は一月二〇日にベルリンで開かれた。もしも、ユダヤ人の東部への“追放”という行為が、労働による“自然”の消去を呼び寄せる計画だったとしても、誰一人として、そこでは工業的な消去については語っていない。その後の数日または数週間にわたって、アウシュヴィッツの所長は、会議の終りに採用が決まった装置の研究を要請するような電話も、電報も、手紙も、何一つ受けとっていない》
 参考資料として「MYRTOS Home Page - 月刊ミルトス2000年4月号」が紹介されている。英国の歴史学者デヴィット・アーヴィングがなかなかうまいことを言っている。1991年のカナダのカルガリーでの講演で、「にせホロコースト生存者その他うそつき協会(Association of Spurious Survivors of the Holocaust and Other Liars)」、略して『ASSHOLS(クソったれ)』を設立した」と述べ、反シオニズム派の聴衆を喜ばせた。彼はこの言葉を「うまい表現だ」と称賛した。あまりよい趣味ではないと私が反論すると、彼は言い返した。「あまりよい趣味ではないユダヤ人はたくさんいるし、彼らはあまりよい趣味ではない手段を使う。金はそこに流れ、彼らはそれを繰り返す。それが欲張りなユダヤ人という認識を生んでいるのだ」。

 注目すべきは、ユダヤ人の絶滅決定がなされたのは、1942年1月20日のベルリンのヴァンゼー会議であったという古くからのおとぎ話を支持しているける研究者は誰もいないということである。1992年、イスラエルの「ホロコースト」専門家バウアーは、古くからあるこの神話を「馬鹿話」とあざけった。

 デビット・アーヴィングは、アメリカのジョージア州アトランタのエモリー大学で現代ユダヤ教およびホロコースト研究の教授をつとめるデボラ・リップスタット(ユダヤ人女性)を相手どり、一九九四年の著書「ホロコースト否定論――激化する真実と記憶に対する攻撃(Denying the Holocaust: the Growing Assault on Truth and Memory)」のなかで、ホロコースト否定者の烙印を押されたことに対する訴訟を起こした。

 これに対して、 「もしもアーヴィングが勝訴したら、すべてのホロコースト否定者にとっての認可証になるだろう」。サウサンプトン大学のユダヤ史教授であり、ホロコーストの記録保管では最も古く、評価の高い公文書館の一つであるロンドンのウィーナー図書館館長をつとめるデヴィッド・カサラニは言う。「フランスのル・ペンやオーストリアのハイダーなど、ナチの残虐行為はできるだけ小さなものとして、ヒトラーの名誉を回復したいと思っている人たちにとっては、助けとも励みともなろう」。エルサレムのヤッド・ヴァシェム・ホロコースト記念館の主任歴史学者イェフダ・バウアーは、「アラブ世界は、アーヴィングが勝てば、ユダヤ人を打ち負かしたと大いに喜び、満足するだろう。すでに反ユダヤ人の題材が数多く、エジプト、シリア、ヨルダンの出版物に現れている。この三つの国は私たちにとってきわめて重要であり、なかには平和条約を結んでいる国もある。非常に恐ろしいことだ」。

 2000.4.11日、英国高等法院で判決が言い渡されアーヴィングは敗訴した。アーヴィングは判決文の中で、彼は「イデオロギー上の理由から、永続的かつ故意に、歴史的証拠をねじまげ、操作している」と指摘された、とのことである。

【「歴史資料の史料考」】
 小林よしのり著「戦争論2」のP314を参照する。
 歴史学の基本は「史料批判」にあり、歴史資料の信憑性を検証することにある。事件発生当時、発生場所で当事者が作成したもの、これを「一次史料」という。事件から時間が経過した後に、当時者が作成した回想などが、「第二次史料」。そして「第一次史料」、「第二次史料」を基に作成したものが、「第三次史料」ろ。史料価値があるのは、ここまで。作者、作成年代、作成場所が判明しないものは「第四次史料」。何のために作られたのかわからないものを「第五次史料」といわれ、史料価値は、ゼロと見なされる。
【逆証「ドイツ人ホロコーストを煽る諸論」考】
 1942年、これこそ本物の意味での“ジェノサイド”を煽る本、アメリカのユダヤ人、テオドール・カウフマン著「ドイツ人は消滅すべきだ」が発表された。その主要な主張はこうだ。
 「ドイツ人は、反ナチであろうと共産主義者であろうと、たとえユダヤ人が好きであろうとも、生きる価値がない》。カウフマンの結論はこうだ。《戦後に二万人の医者を動員して、一日に一人で二五人づつのドイツ人の男女に不毛化手術を行えば、三か月で子供を作れるドイツ人が一人もいなくなり、以後、六〇年でドイツ人種は完全に絶滅する」。
 ヒトラーは、すべてのラディオ放送局で、この本の抜粋を読み上げさせている。テオドール・カウフマン著「ドイツ人は消滅すべきだ」は逆に、反ユダヤ主義を養う上で格好の拾い物となった。

 もう一つの同じ扱いを受けた本がある。1944年、ソ連の作家、イリア・エレンブルグの著書「赤軍への訴え」が刊行されている。次のように記している。
  「殺せ! 殺せ! ドイツ人の中には、生きている者の中にも、これから生まれてくる者の中にも、無実の者はいない! 同志スターリンの命令を実行し、穴に隠れた野獣のファシストを、撃滅し続けろ! ドイツ女の高慢さを、暴力で打ち砕け! 彼らを正当な戦利品として取り扱え! 奪え! 殺せ! 殺せ! 勇敢な赤軍の兵士たちよ、君達の止むに止まれぬ攻撃によって」。
 これって何なんだろう。

れんだいこ: 映画「シンドラーのリスト」考 [「れんだいこ」から]

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/taigaishinryaku_horocoosto_listco.htm

映画「シンドラーのリスト」考


 (最新見直し2005.12.26日)

【映画「シンドラーのリスト」のあらすじ】
 トーマス・キニーリーの「シンドラーズ・リスト─1200人のユダヤ人を救ったドイツ人」が、「E・T・」、「ジョーズ」、「未知との遭遇」、「インディ・ジョーンズ」、「カラーパープル」、「ジュラシック・パーク」の名作で知られるスティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg )氏監督兼製作で映画化され、1993年度の第66回アカデミー賞で最優秀作品賞・監督賞ほか7部門を受賞した。スピルバーグは46歳のユダヤ人で、これを十年前から企画していたと云う。

 リーアム ・ニーソンが主人公シンドラーを、映画「ガンジー」でガンジーを演じきったベン・キングズレーがシンドラーの片腕として活躍するユダヤ人イツァーク・シュテルン役を演じ、「第二次大戦下、ナチス党員でもあったドイツの一介の実業家が時代のこの渦に巻き込まれ、次第にナチズムの反ユダヤ主義ホロコーストに怒りを持ち始め、大戦末期の頃遂に1千名を超えるユダヤ人を救出する。この一連の経過をドキュメンタリー風に描いている大作」と評されている反ナチズム反ファシズム作品(アメリカ作品モノクロ3時間15分)。

 時代は、第二次世界大戦突入時。1939.9月、ドイツ軍がポーランド南部の都市クラクフに侵攻し、2ヶ月でポーランドを制圧する。1941.3.20日、ドイツは、全ユダヤ人を壁に囲まれたゲットー内に押し込める政策を採用した。次に、1943.2月、ゲットーが解体され、ユダヤ人たちはドイツ・ポーランド各地の強制収容所(ナチスは“集中収容所”と呼んでいた)に送られることになる。そのうち1万人以上のユダヤ人がクラクフに運ばれ、ウィスク川の南岸、壁に囲まれた0.24平方キロの狭い地域へ押し込まれた。強制収容所は、ユダヤ人の絶滅を究極の目的とする“絶滅収容所”と、彼らの労働力を無償で利用しようとする“強制労働収容所”の二種類あった。アウシュヴィッツは、「その両方の機能を兼ね備えた巨大複合収容所」であった。

 物語は、ナチス党員でもあるドイツ人実業家オスカー・シンドラーが一旗揚げようとして、ドイツ支配下のポーランド南西部の古都クラクフにやって来るところから始まる。彼は、軍に取り入り、ユダヤ人所有の工場を安く手に入れ、ゲットーに隔離されているユダヤ人たちを格安の労働力として使い、軍用ホーロー容器の大量生産を始め、全てが順調に推移し莫大な財産を手に入れる。

 しかし、有頂天のシンドラーが目にしたのはナチズムの反ユダヤ主義の嵐であり、シンドラーは憂鬱であった。ユダヤ人がゲットーから追い立てられ、収容所送りにされる経緯は悲惨であった。ユダヤ人は家畜のように追い立てられ、抵抗する者、隠れようとする者、病人など、罪もない人々が次々と虫けらのように虐殺されていた。病院では医師が患者に劇薬を飲ませ安楽死させていた。シンドラーはこの現場を目撃し胸を痛める。映画では、「ナチスのユダヤ人迫害の模様が鬼気迫る筆致でリアルに描かれている」。シンドラーの目に赤いコートを着た少女の放心が映し出される。

  シンドラーは次第にナチズムに嫌悪を覚えていく。やがて、ナチスにうわべは従順をよそおいながらも敢然と挑戦し始める。1944年、ソ連軍の反撃が始まる。ある日、シンドラーは空から灰が降り注ぐのを見る。それは、プワシュフ収容所ですでに殺され埋められていたユダヤ人の死体が掘り起こされ、焼却される灰だった。運ばれる遺体の中にはあの赤い服の女の子の姿もあった。ポーランドのプワシュフ収容所は、内部にさまざまな工場をもつ強制労働収容所であったが、虐殺は日常茶飯事のように行われていた。

 ナチスは、ソ連軍の進撃にともない、証拠隠滅のため収容所の閉鎖を決定する。残るは絶滅収容所アウシュヴィッツのみだった。シンドラーは最後の賭けに出る。ゲートに掛け合い、多額のカネにものをいわせて、彼らを自分の生まれ故郷であるチェコスロヴァキアのブリンリッツへ連れていくことを承知させる。シュテルンとともに彼は1千名を超えるユダヤ人のリストを作る。このリストが映画の題名となり「シンドラーのリスト」として象徴されている。

 こうして、リストに載ったユダヤ人たちは、貨車に乗せられてブリンリッツに向かう。ところが、女性の乗った貨車だけは、手違いからなんとアウシュヴィッツに着いてしまう。ここでもシンドラーは収容所長にワイロを送ることによって彼女らを連れ戻す。シンドラーはこうして、数百万マルクのカネを使ってユダヤ人約1200名を救いだした。

 1945年、ドイツが無条件降伏。ユダヤ人は解放された。自由の身になったユダヤ人たちは、金歯を加工して作った指輪を立ち去るシンドラーに贈る。アーモン ・ゲートは処刑される。ユダヤ人たちの感謝の念と涙に見送られながら、″戦犯″であるシンドラーは彼らに別れを告げる。その後のシンドラーは結婚にも事業にも失敗するが、1958年イスラエルで“正義の人”に選ばれ、イェルサレムのホロコースト記念館の前の“正義の大通り”に植樹する。

 ほぼ以上のようなストーリーとなっている、とのことである。
【映画「シンドラーのリスト」の原作者トーマス・キニーリ氏の南京大虐殺事件発言】
 「南京大虐殺は事実 「シンドラーのリスト」原作者」。
 反ファシズム作品として知られる映画「シンドラーのリスト」の原作者トーマス・キニーリ氏が 8 日、北京大学で「オーストラリア文学と世界」と題し、講演を行った。 講演終了後、キニーリ氏は報道陣に囲まれ、記者の質問に答えた。
問   第 2 次大戦時の中国の歴史を学んだことがあるか。
答  学んだだけでなく、中国を侵略した日本軍による南京大虐殺について資料を作成した事がある。
問  現在、日本の一部政治団体が南京大虐殺を否認しているが。
答  南京大虐殺は争えない事実だ。 日本人の一部は犠牲者数にこだわっているが、何の意義もないことだ。
問  日本政府は今も過去を反省していないが。
答  理解できない。ドイツの大統領は、ナチスの迫害を受けたユダヤ人に跪いて謝罪した。 英国のブレア首相はアイルランド人に謝罪した。なぜ日本人にはできないのか。日本政府は中国人民に対し、過去の罪行を心から謝罪するべきだ。

れんだいこ: 「ゲッペルス日記」検証 [「れんだいこ」から]

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/gepperusuco/top.htm

「ゲッペルス日記」検証


 「アンネの日記」の捏造説が囁かれているが、「ゲッペルス日記」にも疑惑が及んでいる。「アウシュヴィッツガス室論争」に於いてガス室不存在説に傾くと、いわゆる「ナチスのユダヤ人大量虐殺説」は総崩れとなる。「ナチスのユダヤ人大量虐殺説」は単に、勝者側のユダヤが敗者側のドイツに押し付けた「勝てば官軍式プロパガンダとしての反戦平和イデオロギー」として上手に駆使されているに過ぎないのではないか、という虚構論理が透けて見えてくることになる。

 それはさておき、「ゲッペルス日記」とは何か、これを検証する。

 2004.3.4日 れんだいこ拝

【「ゲッペルス日記」発見の経緯】
 「阿修羅ホロコースト1」の2005.3.4日付け「たけ(tk) 」氏の「『ゲッペルス日記』は?」、その他の遣り取りを参照する。

 ロシナーの翻訳による「ゲッペルス日記」(1948年、 pp.86,147-148)に拠れば、「ゲッペルス日記」は、その発見からして僥倖であった。次のように記されている。
 「 ゲッペルスの日記のみは、まったくの幸運でかろうじて、7000ページもの反故紙として売られてしまうところから救い出されたのだが、しかし、四散した手書き原稿に埋もれた記述のいくつかは、全体像を語っている」。
 その、「ゲッペルス日記」は、「ヒトラーのユダヤ人皆殺し政策指令」を次のように裏付けている。
 1942.2.14日:総統は、ヨーロッパのユダヤ人を情け容赦なく一掃する彼の決定を、今一度表明した。それに関して、神経質なセンチメンタリズムなどあってはならない。ユダヤ人は破滅に値するのであり、今こそその運命が彼らを襲ったのだ。彼らの絶滅は我々の敵の絶滅と同一歩調をとってなされるだろう。我々は、冷たい無慈悲さでもって、この過程を促進せねばならない。

 1942.3.27日:手続きはきわめて野蛮なものであり、ここにより正確に描写すべきではない。ユダヤ人のうち残るのは、けして多くはないだろう。概して、彼らの約60%が消され、しかるに40%のみが強制労働に使用可能だ。

(私論.私見) 「ゲッペルス日記」の胡散臭さ考

 1・僥倖によって入手され、2・「ヒトラーのユダヤ人皆殺し政策指令」が現実に存在したことが裏付けられた、という論法の構図は、どこかで聞いたことがある。れんだいこなら分かる。「ロッキード事件」で、ロッキード社の海外不正支払い明細書を記した帳簿を梱包した小包が、出所も差出人も不明のまま米上院チャーチ委員会に間違って配達された。それが決め手となって、やがて日本政府高官逮捕に繋がった、という構図と酷似している。ある種「歴史的ユダヤ主義」の常套手法のような気がする。

 付言すれば、誤配達では無かった、然るべき手順で書類が届けられたと訂正しても無駄であろう。ならば、誰がどういう意図で届けたのかの詮索に向うことになり、そうすれば背後の仕掛け勢力がよりはっきりしよう。それは却って具合が悪いから、誤配達にしているのではないのか。誤配達でないとするなら、背後の人脈を浮き上がらせて見たまえ。とくと眺めてしんぜよう。

 もとへ。となると、「ゲッペルス日記」の胡散臭さが解明されねばならないことになろう。れんだいこが気づくということは、他にも気づく人が居る蓋然性が高く、「たけ(tk) 」氏も「これの信憑性はどうなんでしょ?」と問うている。

 2005.3.4日 れんだいこ拝

【「ゲッペルス日記」の「カチンの森事件」記述考その1、「逢坂見解」】
 作家の逢坂剛氏が、1992.11月号の総合雑誌「中央公論」で、新たに「ゲッペルス日記」の「カチンの森事件」に関する記述を紹介した。「1943.9.29日付ゲッペルス日記」で、日記には次のように書かれていた。
 「遺憾ながらわれわれは、カチンの森の一件から手を引かなければならない。ボリシェビキは遅かれ早かれ、われわれが一万二千人のポーランド将校を射殺した事実をかぎつけるだろう。この一件は行くゆく、われわれにたいへんな問題を引き起こすに違いない」。
 つまり、「1943.9.29日付ゲッペルス日記」には、1・「カチンの森事件」はナチスの犯行である。2・それを隠蔽せねばならない。3・この問題は後々重大な問題になるだろうとの危惧、が書き付けており、逢坂氏がこれを紹介したことになる。「カチンの森事件犯ナチス説」を補強していることになる。この記述に関する逢坂氏の見解が肯定的なのか否定的なのか判然としないが、これを仮に「逢坂見解」とする。
【「ゲッペルス日記」の「カチンの森事件」記述考その2、「日本人民戦線見解」】
 「カチンの森事件」につき、「日本人民戦線」が、1995.1.1日論文「正統マルクス主義万歳!」で取り上げ、「逢坂見解」を支持しつつ次のように解説した。これを仮に「日本人民戦線見解」とする。
 権力が歴史をねじ曲げる実例としての「カチンの森」事件をみよ!「カチンの森」事件というものがある。一九四三年四月、ナチス・ドイツの宣伝相ゲッペルスは、ロシア共和国の主要都市スモレンスクの近郊カチンの森で約四千四百人のポーランド軍将校の虐殺死体が発見されたと発表。ロンドンにあったポーランド亡命政府は直ちに国際赤十字に調査を要求、国際問題となった。

 ドイツ政府とゲッペルスはスターリンとソ連の犯罪であると声明。ソ連政府とソビエト共産党はナチスの犯罪だと声明。国際赤十字の調査は公式には結論を出せず、第二次世界大戦史のなかでもなぞとされてきた。第二次大戦後の東西対立と冷戦、米ソ対立の時代には西側の東側非難の材料とされ、スターリン非難の材料とされつづけてきた。

 そこにフルシチョフが出現した。フルシチョフによるスターリン批判が一九五六年二月のソビエト共産党第二十回大会で飛び出し、そのなかでスターリンの独裁が糾弾され、その罪状なるものがつぎつぎにもち出されるなか、この「カチンの森」事件もまたスターリンの犯罪として定着してしまった。フルシチョフの弟子たるゴルバチョフも西側に迎合し、西側に同調してスターリンの犯罪と認めた。こうしてこの問題はフルシチョフと西側の合作によって一見落着したかのようにみえた。

 ところが歴史はまわり、時代がかわり、ソ連が崩壊し、ソビエト時代のあらゆる秘密文書が外に流れ出した一九九二年七月のはじめに、モスクワのロシア国立公文書館で、ナチス・ドイツの宣伝相であったあのゲッペルスの自筆日記が発見された。ヨゼフ・ゲッペルスこそ「カチンの森」事件を最初に世界へ向かってスターリンの犯罪だと呼びかけた張本人だった。その本人の日記に驚くべきことが記されていた。

 そのいきさつについては一九九二年十一月号の『中央公論』に作家の逢坂剛氏が書いているが、ゲッペルス日記の一九四三年九月二十九日付にはつぎのように書いてあった。
 「遺憾ながらわれわれは、カチンの森の一件から手を引かなければならない。ボリシェビキは遅かれ早かれ、われわれが一万二千人のポーランド将校を射殺した事実をかぎつけるだろう。この一件は行くゆく、われわれにたいへんな問題を引き起こすに違いない」。
 ゲッペルスは一九四三年四月段階では対外的にソビエト政府とスターリンの犯罪だと声明しつつ、同年の九月の日記には「われわれが殺した事実」を認めつつ、このことがナチスとヒトラーへはねかえってくることを心配しているのである。
 当時の戦況についてみると、ポーランド政府はロンドンに亡命しており、この政府は反ナチス、反ソビエトであり、ナチスとソビエトが共倒れになることを願っていた。しかし反ソ・反共が強かった。ポーランド内に残っていた軍と将校も反ソビエト、反共主義で、独ソ戦に関してはナチス寄りであった。

 ポーランド将校の死体が見つかったスモレンスクはヒトラーのモスクワ侵攻作戦の前哨戦として、スターリングラード、レニングラードと並ぶ三大激戦地であり、そのスモレンスク戦線は一九四一年十月にはナチスの敗戦に終わり、モスクワ攻略は失敗した。そして一九四三年一月三十一日には歴史に名高いスターリングラード攻防戦はドイツの敗北に終わり、これを機に東部戦線はナチスの総崩れとなる。つまり「カチンの森」事件は、独ソ戦の天王山という時機に発生し、ゲッペルスの日記はドイツのソビエトに対する敗北という時機に書かれているのである。そういう歴史的背景をしっかり認識してみると、この一連の事件の本質が明確になる。

 結論は明らかである。ゲッペルスが自らの日記に告白しているとおり「カチンの森」事件の犯人はまさにナチスの犯罪であった。歴史が真実を明らかにしたのである。

 この事件でもわかるとおり、歴史というものは二つの側面(ここでも哲学的弁証法が作用する)がある。第一は、歴史というものの評価は常にその時代の政治と権力が下すものであり、歴史は常にそのときの政治と権力がつくりあげるのである。日本の天皇と天皇制も政治と権力によって常に変化してきたではないか。第二は、歴史の真実というものは、四十年、七十年という、ある一定の段階を通過してこそ明らかになるのであり、問題によってはもっと先になって、人民の手によってのみ明らかになる、ということである。そして「カチンの森」事件は、まさにこの二つの側面の生きた実例であった。

 そして何より大切なことは、ナチスとゲッペルス、それと同盟した西側ブルジョア政府が、そしてこれに連合したフルシチョフ、ゴルバチョフ、エリツィンや、これらと同盟した背教と裏切り、敗北と転向の反マルクス主義者、反共と反社会主義のブルジョア転落者たちが叫ぶ「スターリンの虐殺」というあのスローガンの欺まん性がみごとに暴かれたことにある。

 そしてもう一つの決定的なことは、一事が万事であり、フルシチョフが言い出したスターリン批判のあれこれもまた同じように、とうの昔から西側ブルジョアジーが言っていたことを、さも一大発見のごとく、一九五六年の二月に、改めて内外に発表した一大キャンペーン、しかもフルシチョフにとっては西側ブルジョアジーに屈服する証としてもち出した手形だったということ、ここにスターリン批判のもっている歴史性と階級的性格があった、ということである。

(私論.私見) 「日本人民戦線見解」考

 これによると、「正統マルクス主義万歳!」は、「1943.9.29日付ゲッペルス日記」の記述を本物と認め、この記述に従って、「カチンの森事件」をドイツナチスの犯行としていることになる。それは、世のスターリニズム批判に対するスターリン評価側からの反論を企図している。

 同サイトは、「権力が歴史をねじ曲げる実例としての『カチンの森』事件をみよ!」として、ドイツナチスの犯行説を主張している訳であるが、もしこの見解が間違っていたなら、同党の面目丸潰れの構図となる。

【「ゲッペルス日記」の「カチンの森事件」記述考その2、「ソフィア先生の逆転裁判2見解」】

 「ソフィア先生の逆転裁判2~ユダヤの嘘を暴いてドイツの無罪を勝ち取れ~」は、「カチンの森事件」はドイツナチスの犯行ではない、スターリンの指導するソ連軍の仕業である、とする立場から種々考察している。これを仮に「ソフィア先生の逆転裁判2見解」とする。次のような記述を紹介している。
 参考資料:SANSPO_COM 2004/7/14
 第2次世界大戦中の1943年4月、ソ連西部(現ロシア)スモレンスク郊外のカチンの森で、ソ連に抑留されていたポーランド人将校ら約4000人の虐殺体が見つかった同事件は、長くナチス・ドイツの犯行とされてきたが、90年、当時のソ連のゴルバチョフ政権がソ連秘密警察の犯行だったことを認めた。

 1989年、ソビエト連邦の学者たちはヨセフ・スターリンが虐殺を命令したことを明らかにした。そして1990年、ミハイル・ゴルバチョフはカチンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)を含めてソ連の内務人民委員部(NKVD)がポーランド人を処刑したことを認めた。

 1992年、ソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最高機密文書の第一号から公開した。その中には西ウクライナ、ベラルーシの本当の囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリンの署名入りの計画書やソ連の政治局が出した1940年3月5日の射殺命令や21,857人のポーランド人の処刑が実行され、彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたニキータ・フルシチョフあての文書も含まれている。


 つまり、1990年、当時のソ連のゴルバチョフ政権が、「カチンの森事件」につき、ナチス・ドイツの犯行ではなくソ連秘密警察の犯行だったことを認めた。こうなると、「ゲッペルス日記」、「逢坂見解」、「日本人民戦線見解」がいずれも否定されることになる。こうなると、「正統マルクス主義万歳!」が「権力が歴史をねじ曲げる実例としての『カチンの森』事件をみよ!」と前置きして縷々述べた見解が滑稽なことになる。「ソフィア先生の逆転裁判2」は、同じ言葉でもって見解を逆転させている。
(私論.私見) 「ソフィア先生の逆転裁判2見解」考

「日本人民戦線見解」と「ソフィア先生の逆転裁判2見解」のどちらが正しいのだろうか。問題は、れんだいこから見て、ソフィア先生の逆転裁判2見解」の言説に軍配が上がりそうなことにある。ということは、「日本人民戦線見解」がとんだ恥を晒したことになる。同党は先だって、立花隆の言説を持ち上げ(採録したいがどこへ秘蔵されているのだろう、検索できない)、れんだいこを仰天させたが、あちこちで観点の歪みを晒していることになる。

 同党の宮顕批判、その対極としての徳球擁護の観点を高く評価しているれんだいことしては拍子抜けさせられる。それは、日本左派運動の低水準を証左しているのではなかろうか。左派戦線のこうした理論的混乱を解き解さねば一歩も前進し得ない、れんだいこはそう思う。

 2005.3.5日 れんだいこ拝

れんだいこ:「アンネの日記」検証 [「れんだいこ」から]

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/taigaishinryaku_horocoosto_annnenonikki.htm

「アンネの日記」検証


 (最新見直し2007.8.9日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 アンネ・フランク(Anne Frank)のホロコースト悲劇譚「アンネの日記」は、「ユダヤ人大虐殺ホロコーストを裏付けるユダヤ人少女の日記」として、戦後反戦平和運動の必読教本的地位を獲得してきた。その「アンネの日記」の真贋論争が始まっている。今や、ホロコースト悲劇譚の全てに疑惑が発生していることになる。「阿修羅ホロコースト1」の「アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった」が点火している。しかしながら、日本左派運動は相変わらず見ない振りをしているように見える。そういう作法がいつまでも続くとは思わないが、サヨ運動にはお似合いなのであろう。

 以下、分かりやすくする為、「アンネの日記」を史実書として扱う側を定説盲信派、これに疑惑する派を疑惑検証派と云うことにする。ここで、何が問われているのか、れんだいこが分かる範囲で整理してみる。思えば、「アンネの日記真贋論争」は、ホロコースト神話崩壊の「頂門の一針」、「蟻の穴より堤の崩れ」になる可能性がある。そこで、急遽サイト化する。 
 
 2004.2.24日、2006.3.4日書き直し れんだいこ拝

【「アンネの日記通説」考】
 まず、「アンネの日記通説」を概括する。 定説盲信派の元アメリカ大統領夫人エレノア・ローズヴェルトは、「アンネの日記」について次のように述べている。
 「アンネの経験が私たちすべてにとって、決してひとごとでないこと、アンネの死と全世界のことに、私たちが大きな関係をもっていることを、私はしみじみ感ずる」。
 「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の『アンネの日記』」は、次のように記している。
 「アンネの日記(あんねのにっき) ユダヤ人少女アンネ・フランクによる日記。戦時ドキュメント」。
 「第二次大戦の最中、ナチス・ドイツ占領下のオランダ・アムステルダム。ナチの追及をかわし、隠れ家に潜んだ8人のユダヤ人達の生活を活写したもの。執筆はドイツ秘密警察に捕まるまでのおよそ二年間に及んだ。彼女の死後、父オットー・フランクの尽力によって出版され、世界的ベストセラーになった」。
 「アンネの日記は、一少女の内的葛藤と成長を描き出した作品である。第三者に宛てた手紙を模した独特な表現スタイルは、内面の吐露をより印象深いものにする。特に際立つのが、早熟さ、そして鋭い観察力と批判精神である。それは時に、他者に対して辛辣過ぎる程ですらある。作中に、何か決定的なドラマがあるわけではない。むしろ逮捕以後の悲惨さとは対照的に、幾つかのエピソードを除いて、たわいのない日常が記録されているに過ぎない。戦争、そしてナチスの影に怯えながらも、作品全体を貫く印象は明るく、時に絶望することがあってもそれに押し潰されることはない。隠れ家という閉塞された空間の中でも、将来への希望を失うことはないのである。しかし、その将来が、無残に断ち切られることによって悲劇性が加速する。作品は、若年者が戦争、人種差別、ホロコーストなどについて考える一助となっている」。
【「アンネの日記の出版経緯」考】
 アンネの日記の出版経緯が次のように語られている。以下、「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の『アンネの日記』」、2006.9.18日付毎日新聞「アンネの日記焼却事件」その他を参照する。

 ドイツのフランクフルト生まれのオランダ系ユダヤ人、アンネリーゼ・マリー・フランクは、ヒトラーが政権を掌握した翌年の1934年、身の危険を感じて一家でオランダに移住した。1942年、姉マルゴーが収容所送りのリストに載せられたため、父の仕事場に設けられた隠れ家に移り住んだ。同年6.12日、アンネは、父のオットー・フランクから贈られた手帳に日記を書き始めた。こうして、架空の友人に宛てた手紙形式で、夢や恋愛、友人、家族との関係などをみずみずしい感性で書き綴った「アンネの日記」が残されることになった。日記は、逮捕される3日前で終わっている。他にも雑用紙にも記されている。

 1944.8.4日、隠れ家に潜んでいたアンネ・フランク一家他のユダヤ人8人は、密告により、ドイツ・アムステルダム駐留軍保安警察(SD)によって摘発された。逮捕収監されるまでの僅かな間に、「アンネの日記」を隠匿した。こうして戦火を免れることになった。アンネはドイツ北部のベルゲン・ベルゼン強制収容所に送られた。他の7名は各地の強制収容所に送られ、1945.3月、アンネは腸チフスで死亡し、他の者も死亡した。戦後を迎えるのはアンネの父親オットー・フランクのみとなった。

 戦後、「アンネの日記」がアムステルダムに戻ったオットーに渡された。彼はこの文書を編集してまとめ、アンネやフランク一家をよく知る人のために私家版として配った。やがてこの文書の存在が広く社会に知られるようになり、周囲の声に推され、本格的な出版に踏み切ることになる。1947年、オランダのコンタクト社から初版が発売された。

 「アンネの日記」は大評判となり、世界中でベストセラーになった。翻訳された言語は55ヶ国語、出版部数は2500万部を超えるといわれ、今もなお読み継がれている。日本でも1952年に文藝春秋社から皆藤幸蔵の訳で「アンネの日記 光ほのかに」のタイトルで出版された。2004年現在、同じく文藝春秋社からは深町眞理子訳出のものがラインナップされている。

 「アンネの日記」は、オリジナル原稿(手帳と雑用紙からなる。仮にA版とする)と清書原稿(仮にB版とする)の二種類が存在する。どちらも完全な形では残っていない。オットー・フランクは、オリジナル原稿と改訂稿を相互補完する形で縮約編集した云わば私家版(仮にC版とする)を出版した。C版は、母親への中傷や性的な描写など3割程度を削除していた。

 「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の『アンネの日記』」は次のように記している。
 出版に当たっては、編集の過程で第三者によるさらなる本文の削除や訂正などがあった。削除箇所の多くは母親への辛辣な批判である。その他に第三者に関する批判(ファン・ペルス夫妻など)、若干の退屈なエピソード、性の目覚め、存命中の者のプライバシーを守るための配慮などがあった。上記のような編集が加えられたことにより、書店に並んだ日記はアンネ・フランクが書いたものと一字一句同一とはいえないが、内容は概ねアンネ・フランク自身のものと一致しており、1960年及び1981年の文書鑑定では、「これらの編集作業は日記のオリジナリティーを損なうものではない」と結論付けられた。

 作品は、戦時記録文、ノン・フィクションという枠を超えた日記文学として評価できる。なお、削除箇所については後の版で増補されており、2004年現在、原テキストに近い形で刊行されている。

【アンネの日記を廻る真贋論争その1、作者別人説考】
 アンネの日記には根強い捏造偽書説がある。「ウィキペディアの『アンネの日記』」、「アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった」その他を参照する。

 アンネ・フランクは、1945.3月頃、ナチのユダヤ人収容所で、発疹チフスに罹患して命を落としたと推測されている。そのアンネが書いたといわれる「アンネの日記」は戦後反戦平和運動の象徴的日記文学となって今日まで広く読み続けられている。これまでにも13歳の頃から書き始められた日記の筆力があまりに大人びていることや文章がたくみであること、筆致のすばらしさに疑問を感じる人たちがいた。アンネの日記には、フランク家で唯一生き残ったアンネの父親、オットー・フランクが「手を加えている」とか、オットーがアメリカのユダヤ人作家メイヤー・レビンに依頼して書かせたとか、偽作説がある。

 デービッド・アービング氏のサイトでは、注意深くアンネの日記の真贋を論じ、次のように言い添えている。
 「アンネの日記が偽作であることを世に知らしめたフランスのロベール・フォーリソン教授は、不当にもホロコーストの嘘を追及する行為を禁じられ、罰金まで科せられたそうです」。
 「真贋論争その1」は、真の作者をめぐる疑惑である。これを仮に「作者別人説」とする。次のような遣り取りになっている。
 概要「アンネの日記には偽書説、捏造説があり、『アンネ・フランクの日記は、父オットーと米国の作家であるメイヤー・レヴィンが共謀してでっちあげた。その対価としてレヴィンに5万ドルが支払われた』という説がある」。
 レヴィンは、オットーとアンネの日記の関わりについて次のように記述している。
 概要「レヴィンは、アンネの日記の熱心な支持者であり、1952年、アンネの日記を原作とした戯曲の脚本を手がけたが、脚本の出来と上演権を巡って齟齬があり、これがトラブルとなって裁判に発展した」。
 これについては、次のように結論付けられた。
 「アンネ・フランクの手書きのテキストについては、1981年にオランダ国立法科学研究所において、紙質、インク、糊などに関する文書調査と筆跡鑑定が行われた。筆跡鑑定は、フランク家、知人、同級生などから提供されたサンプルを日記と比較して、視覚的特性はもちろん、加齢に伴う字体の変化、筆圧の傾向など様々な側面からアプローチが行われた。調査の全容は270頁の鑑定レポートに纏められ、結果、日記本文は1942年から1944年の間に、アンネその人によって書かれたものと結論付けられた」。
 「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の『アンネの日記』」は次のように述べている。
 「偽作説をとる者のほとんどが、この舞台脚色における裁判の一部を恣意的に捻じ曲げて『アンネの日記はレヴィンの創作小説である』としているに過ぎず、これはもとより信用するに値しない」。
 裁判の行方について次のように説明している。
 「1958年、ニューヨーク州最高裁で、陪審はレヴィンに対して5万ドルの損害賠償が支払われるべきとの判断を下したが、これは棄却され、翌年1万5千ドルの和解案で双方合意した。これらはあくまでも戯曲などの二次創作の権利に絡んでのものである。なお、メイヤー・レヴィンの半生については、ローレンス・グレイヴァー著『「アンネの日記」もう一つの真実』(平凡社)に詳らかである」。
【アンネの日記を廻る真贋論争その2、「ボールペン論争」考】
 「日記本文は1942年から1944年の間に、アンネその人によって書かれたものと結論付けられた」ものの、「ボールペン論争」が起っている。「真贋論争その2」は、「アンネ・フランクの手書きのテキスト」をめぐる疑惑である。

 「ボールペン論争」とは次のようなものである。
 概要「日記はボールペンで書かれており、かかる筆記具が発明されたのは(もっと慎重な者は、一般的に使われるようになったのは、と書く)1951年以降である。よって1945年に死亡したアンネ日記がボールペンで書けるわけがなく、ボールペン発明以降に第三者によって執筆されたものである」。
 1980年、ドイツでひとつの裁判が行われた。西ドイツの雑誌「デア・シュピーゲル」の伝えるところに拠ると、「アンネの日記は偽書である」と主張するエルンスト・ロエマーをアンネの父オットーが訴えた裁判であった(「アンネの父、オットーによるエルンスト・ロエマー告訴裁判」)。ドイツの捜査当局、独逸連邦犯罪調査事務局(BKA、FBIに相当)は訴えを受けて、アンネの日記の科学的分析を行った。その結果、次のことが判明した。

 「アンネの日記」(Anne Frank・原著、 深町真理子・翻訳、 文春文庫)は、次のように解説しているとのことである。
 「アンネの日記の原本は、長期に亙って全巻が発表されていなかった。しかし裁判の結果遂に第4冊目(第4章)が調査される事になった。その4冊目はボールペンで書かれていることが判明した。ところで、ボールペンが世に出て一般に使われている様になったのは1951年以降である。アンネはそれよりも遥か以前に死んでいた。つまり、アンネの生きている間には存在しなかった。第4冊目に書かれているボールペンの筆跡は第1冊目、第2冊目、第3冊目に書かれている筆跡と全く同じ物である。と云う事は、この日記はアンネ自身の手によって書かれた物ではないのではないか、との推測を成り立たせることになる」。
 これについて、定説派は次のように説明している。「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の『アンネの日記』」は、「ボールペン問題」について次のように記している。
 概要「問題のボールペン・インクによる記述は、最初の文書鑑定(1960年)の折りに紛れ込んだ小さな二枚の紙片に見られるに過ぎず、日記の内容に影響を与えるものでもなければ、当然アンネ・フランクが書いたものでも、ましてやメイヤー・レヴィンが書いたものでもない。この紙片の筆跡は、ドロテア・オッケルマンのものであったことが明らかになっている。鑑定レポートは、第三者の書き込みについても分析を行ない、これらをアンネが書いたものと区別して論述している。かくて、有名な伝説も否定された(そもそも『日記』の最初の出版は1947年である)」。
 2006.9.18日付毎日新聞「アンネの日記焼却事件」は、次のように説明している。

 「76年、ドイツ北部ハンブルクで日記をニセモノとするビラを配った男性がひぼう中傷罪で罰金刑を受けた。この控訴審でハンブルク地裁は、ドイツ連邦庁に日記の鑑定を依頼した。係官はスイスで存命だった父オットー・フランクを訪ね、紙とインクを鑑定。80年、紙は当時のものと断定したものの、『後に入れられた訂正箇所の文字の一部は、戦後51年以降に販売された黒、緑、青のインクで書かれた』との見解をまとめた。これを極右が利用、『すべてウソ』との宣伝を行ってきた」。
 これにつき、「アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった」は、「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の『アンネの日記』」の「アンネ・フランクのボールペン書き論争」に関する記述を次のように批判している。
 意訳概要「ドイツの裁判では、そんな小さな紙切れ二枚の鑑定などしていない。第四章全部が、ボールペンで書かれていると鑑定している。『小さな紙切れ二枚の鑑定』はすり替えである」。
 概要「そもそもウィキペディアの記述は出典が明らかでない。ネット上で類似の情報を探しても何も引っ掛かってこない。『81年にオランダ国立法科学研究所において、紙質、インク、糊などに関する文書調査と筆跡鑑定が行われ、結果、42年から44年の間に、本人が書いたものと結論付けられた』というのも、出典不明である。つまり、便所の落書きと同じで根拠がない」。
(私論.私見) 「アンネの日記を廻る真贋論争」における「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)」記述の公正さについて

 同じ問題に対して、「アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった」と「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」の記述は明らかに真反対である。れんだいこは、「アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった」の方が正しく記していると思っている。こうなると、「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」の真価、政治主義が問われることになる。あまりにも親シオニズム論調で学術界を席巻しつつあるのではなかろうか。これも手の込んだ洗脳刷り込みかもしれない。

 2004.2.24日 れんだいこ拝
【アンネの日記を廻る真贋論争その3、「筆跡論争」考】
 「アンネ・フランク直筆の手紙」が発見された。次のような筆跡論争が起り衝撃が走った。

 「1988年、アンネがアメリカの友人に送った手紙が新たに発見された。その筆跡が明らかに日記の大人びたそれと異なっていたことから、真贋論争が再燃している」。
 この問題に対して、「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の『アンネの日記』」執筆者は、「アンネの新手紙発見に伴うアンネの日記真贋論争」についての次のように記している。

 「筆跡の調査は、1960年と1981年の鑑定と同様に所定の手続きに基づき、政治的に中立な専門家によってなされるべき性質のものである。縮小写真を見比べて直感的に判断するのは鑑定とはいえない」。
(私論.私見) 「アンネの日記を廻る真贋論争」における「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の『アンネの日記』」執筆者の論法について

 末尾の「政治的に中立な専門家によってなされるべき性質のものである。縮小写真を見比べて直感的に判断するのは鑑定とはいえない」は、臭い書き方だ。その論法に拠れば、どのような証拠が出されても、専門家の手に委ねなければならないことになる。仮に、その説法に従ったとしても、専門家が専門家としての見識を発揮すればともかく、丸め込まれていたらどうするのだ。よくある話ではないか。

 つまり、「フリー百科事典 ウィキペディア(Wikipedia)の『アンネの日記』」執筆者は、権力的御用理論を振りまいていることになる。シオニズム御用系は、いつでもどこでもこういう無茶苦茶な論法、詭弁を常套する。それに丸め込まれる者も居るには居るが。れんだいこは、学問的な粉飾の裏側に透けて見える粗雑な論法に、到底納得できない。

 2005.2.24日 れんだいこ拝
 「アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった」は、次のように批判している。
 概要「(そういう)態度は問題である。筆跡が違うなら書いた人物が違うということです。単純なことです。なぜ、このように苦し紛れの偽作説否定をするのか、ユダヤとの関係を疑ってしまいます」。
(私論.私見) 「アンネの新手紙発見に伴うアンネの日記真贋論争」について

 「アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった」氏の「筆跡が違うなら書いた人物が違うということです。単純なことです」の観点が真っ当だろう。

 いずれにせよ、「アンネの父、オットーによるエルンスト・ロエマー告訴裁判の衝撃」同様に、「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」の真価、政治主義が問われることになる。こうなると、戦後の反戦平和運動総体の再検証から始めねばならないことになるのではなかろうか。

 直ちに為すべきことは、2005年現在進行中の米英ユ同盟による狂信的自由拡大強権戦争政策に対して、断固たる反戦平和闘争で対抗することである。ユダヤ人の歴史的悲劇に耽溺し、米英ユ同盟の蛮行を許容し、イスラム急進派のテロ糾弾の列に唱和するという構図から一刻も早く抜け出さねばならないのではなかろうか。

 2005.2.25日 れんだいこ拝
 「アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった」は、アンネ・フランクの発見された直筆の手紙と「アンネの日記」を写真で比較し、れんだいこ風に要約すると、概要次のように述べている。
 アンネ・フランクは実在した。このことに異論は無い。問題は、「アンネの日記」は、本当にアンネ・フランクが書いたものなのか、そこが問題である。1988年、アンネがアメリカの友人に送った1942.10.10日付の手紙が発見され、その筆跡と公刊されている「アンネの日記」の筆跡とが違うことが露見した。次の通りである。
 【アンネの自筆の手紙の拡大写真】  【アンネの日記の筆跡】

 つまり、「新手紙の発見」によって、「アンネの日記」はアンネ・フランクが書いたものではない。第三者の書き手によって創作的に捏造された可能性が高まったことになる。結論的に云えば、アンネの日記は、シオニズム側の政治的意図によりプロパガンダされている可能性がある。
(私論.私見) 「アンネの新手紙発見に伴うアンネの日記真贋論争」について

 この問いかけの構図が正しいとするなら、これは由々しきことではなかろうか。
【「デヴィッド・アーヴィング氏の法廷証言」】
 木村愛二氏の「阿修羅ホロコースト2」での2006.2.11日付投稿「『アンネ・フランクの日記』偽作説関連情報」は次のように記している。
 http://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-19.html
 『偽イスラエル政治神話』(その19)2章:20世紀の諸神話(その7)2節:ニュルンベルグの正義の神話(その4)

 [芸術作品による歴史的事実の歪曲]
 [中略]
 これらの荒唐無稽な文学神殿の中心に祭り上げられているのは、世界的なベストセラーになっている『アンネ・フランクの日記』である。この非常に感動的な物語は、現実に取って替わり、ついには、神話を歴史に変装させる。

 イギリスの歴史家、デヴィッド・アーヴィングは、一九八八年四月二五日と二六日のトロント裁判に出廷し、アンネ・フランクの“日記”に関して、つぎのように証言した。
 「アンネ・フランクの父親は、私との何度かの手紙のやりとりを経て、ついに、“日記”の手稿を専門的な研究所の鑑定に委ねることに同意した。私は、偽造の疑いが掛けれている文書については、いつも、こういう要求をしている」(トロント裁判記録)。
 彼が鑑定のために“日記”の手稿を引き渡した研究所は、ドイツのヴィスバーデンにある警察の刑事犯に関する研究所である。鑑定の結論によると、アンネ・フランクの“日記”の一部はボールペンで書かれていたが、アンネ・フランクが死んだのは一九四五年だったのに、ボールペンが市販されるようになったのは一九五一年以後なのである[訳注の追加]。

 訳注の追加:私自身が1998年1月にパリでガロディ裁判の際に会い、かなりの会話の時間をも得たフランスの文書鑑定家、元ソルボンヌ大学教授、ホロコースト見直し論の中心人物、ロベール・フォーリソンは、アンネ・フランクがアメリカのペンフレンドに出した葉書(LIFE誌の表紙)の文字と、“日記”の文字とが、まったく異なる点に注目している。実物の比較の映像は、私が発行している『歴史見直しジャーナル』23号(1998.11.25)にも収録した。興味のある方にはE-mail申込で実費頒布する。

 デヴィッド・アーヴィングは、さらに続ける。
 「私の個人的な結論によると、アンネ・フランクの“日記”の大部分は、確実に一二歳のユダヤ人の少女によって書かれたものである。原文は、少女が集中収容所でチフスに罹って悲劇的な死を迎えたのちに、父親のオットー・フランクの手に入った。父親か、もしくは私が知らない別の人物が、その“日記”に添削をしたりして売り物になるような形式を与え、それが父親とアンネ・フランク財団に富をもたらした。しかし、原文に変更が加えられた以上、この本には、歴史的な記録としての価値は、まったくない」。
 フォーリソンは、アーヴィングを軽率と批判するが、「“日記”の大部分は、確実に一二歳のユダヤ人の少女によって書かれたものである」という主張に反対なのであろう。「アンネ・フランクがアメリカのペンフレンドに出した葉書(LIFE誌の表紙)の文字と、“日記”の文字とが、まったく異なる」ことは一目瞭然である。子供っぽい丸文字と、書き慣れた斜めの筆記体である。

 ただし、アンネ・フランク財団は、同一人物でも字体が変わると称して、「専門家」の鑑定報告を発表している。

【「アンネの日記は逆にホロコーストを否定している」考】
 木村愛二氏の「阿修羅ホロコースト1」での2005.2.24日付投稿「アンネ・フランクがもっとも有名な発疹チフス患者で断じて虐殺ではない!」は、「アンネの日記は逆にホロコーストを否定している」と主張し、次のように記している。

 (http://www.jca.apc.org/~altmedka/aus-42.html、『アウシュヴィッツの争点』第5章:未解明だった「チクロンB」と「ガス室」の関係がもっとも有名な「発疹チフス」患者)
 以下は、ホロコースト狂信者が好きな似非紳士、朝日新聞社発行の雑誌、『アエラ』の記事の紹介である。

 裁判では、この種の証拠を、「敵性証拠」と言う。相手方は、自分が出した資料なのだから、反論する余地が無くなるのである。
 「『アウシュヴィッツの争点』(その42)アンネ・フランクがもっとも有名な「発疹チフス」患者」

 当時大流行した「チフス」、正確には「発疹チフス」によるユダヤ人の死者として世界中でもっとも有名なのは、アンネ・フランクである。彼女はソ連軍の侵攻直前にアウシュヴィッツからベルゲン・ベルゼンに移送された。つぎに紹介する『アエラ』の描写を借りれば、「チフスにかかって、そこで死んだ」のである。

 アンネの最後については、おりよく『アエラ』(94・8・29)が組んだ戦後五〇年特集「アンネ・フランクは償われたか」に最新情報がのっていた。この特集は残念ながら、「ホロコースト」物語そのものを信ずる立場で書かれているが、あえてその部分もふくめて紹介しよう。

 「……アンネに墓はない。…………ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所に逆送され、チフスにかかって、そこで死んだ。収容所が英軍に解放される約二ヵ月前、一九四五年三月だった。……入り口の資料センターの歴史家トーマス・ニーエさん(三七)は、『アンネがどの棟にいたか、正確にはわかっていない。アンネが死んだ三月、チフス感染で一万八千人が死んだ。死者は合計五万人、解放時の生存者は六万人だった』 映写室で、解放直後に英軍が撮影した8ミリを見た。目を覆う惨状だった。死体が地上いたるところに散乱し、囚人棟の間に山積みされている。このドイツ内陸の収容所は、アウシュヴィッツのような『絶滅』用ではなかった。焼却炉は一つしかなかった。死体を処理しきれなかったのだ。英軍のブルドーザーが死体を数十体ずつ押して、大きな穴に落としてゆく。アンネもその一つだったのだろう。……」。
 この「英軍が撮影した8ミリ」の話はぜひ覚えておいてほしい。「英軍のブルドーザーが死体を数十体ずつ押して、大きな穴に落としてゆく」のだ。「『絶滅』用」の収容所ではなかったのだから、死者の死因は「ガス室処刑」ではない。だが、このあまりにも有名なフィルムのシーンは、突如、「ホロコースト」物語の動かしがたい物的証拠であるかのように、無言でインサートされることがおおい。その歴史的状況どころか、死者の死因、撮影者やブルドーザーの運転者の国籍など、なんらの説明もないのだ。さきに紹介したハリウッド映画『ニュルンベルグ裁判』でも、検事が法廷で上映する記録フィルムのなかに、このシーンがあった。リチャード・ウィドマーク扮する検事は、イギリス軍の作業であるとはいったが、「チフス」にはふれなかった。

 さて、アンネとオットーのことにもどるが、この有名なフランク家の父親と末娘の運命は、当時のドイツ支配下にあったユダヤ人一家のひとつの典型なのである。一家の四人がアウシュヴィッツに強制収容された。アンネの母親はアウシュヴィッツで死んだ。しかし、ほかの三人はまだ生きのこっていた。アンネと姉のマルゴーはアウシュヴィッツからドイツの西側のベルゲン・ベルゼンに移送され、そこで「発疹チフス」におかされて死んだ。オーットーはアウシュヴィッツで「発疹チフス」にかかって入院し、回復し、一九八〇年にスイスのバーゼルで死ぬまで、九一歳の寿命をまっとうしたのである。

 もう一度いう。フランク家の四人がアウシュヴィッツに強制収容された。そのことはたしかに悲惨な経験ではあるが、ともかく三人はアウシュヴィッツでは死なずに生きのこっていたのである。フランク家の姉妹がソ連軍の侵攻前にドイツ国内に移送された事実も、注目に値する。『アウシュヴィッツ収容所/所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』の解説によれば、これらの国内移送は、ベルゲン・ベルゼンが「疾病抑留者の受入収容所に指定」されたためである。その結果、それまでは一万五千人のところに五万人をつめこむという超過密状態となり、この状態がチフスの流行に拍車をかけたとされている。

 アンネ・フランクも、もしかするとすでにアウシュヴィッツでチフスにかかっていて、「疾病抑留者」として移送されたのかもしれない。だがなぜ、「絶滅」する予定の「疾病」ユダヤ人を手間ひまかけて「ドイツ国内に移送」したのだろうか。ここにも「絶滅説」の巨大な矛盾がある。

【定説盲信派・大越哲仁氏の「回想のアンネ・フランク・ハウス」考】
 定説盲信派の大越哲仁氏の「回想のアンネ・フランク・ハウス 異質な人々に対する寛容の大切さについて~」という小論考がサイトアップされている。大越氏は、この小論考の中で、定説盲信派の立場から宇野正美氏の諸言説を批判的に取り上げている。れんだいこは、宇野正美氏の諸言説の方に注目している。以下、「れんだいこのアンネの日記検証」サイト内容に関連する下りを抜き出し検証する。
 アンネのこの「日記文学」の意義について的確に指摘したのは、夫の逝去後に熱心に平和運動を展開したエレノア・ローズヴェルト、元アメリカ大統領夫人である。 彼女は、アンネの日記のアメリカ版の序文で、それを次のように綴っている。

 「アンネの日記のうちで、最も人の心を打つ特筆すべきものは、彼女自身の描写である。アンネは、その情熱、機知、英知および豊かな情操によって、感受性が非常に強く、利口な思春期の子供なら書くだろうと思われる両親との関係、自意識の発達、成人の問題を書き、かつ考えた。

 これは異常な状況の下に暮らした少女の思想であり、意見である。したがって、彼女の日記は、私たち自身や、私たちの子供について、私たちに多くの事を教えてくれる。またそれゆえに、アンネの経験が私たちすべてにとって、決してひとごとでないこと、アンネの死と全世界のことに、私たちが大きな関係をもっていることを、私はしみじみ感ずるのである。

 アンネの日記は、彼女のりっぱな精神と、これまで平和のために努力し、また現在努力している人々の精神をたたえるにふさわしい記念碑である。本書は私たちに豊かな、そして有益な経験を与えてくれる」(皆藤幸蔵訳、文春文庫『アンネの日記』、1972年版より。なお、現在の文春文庫版では、このエレノアの序文は収録されていない。)

(私論.私見) 大越哲仁氏の「元アメリカ大統領夫人・エレノア・ローズヴェルトのアンネの日記評の取り上げ方」について

 大越哲仁氏は、元アメリカ大統領夫人・エレノア・ローズヴェルトを「夫の逝去後に熱心に平和運動を展開した」人として紹介し、彼女のアンネの日記評を好意的に取り上げている。臭い話ではある。

 2006.3.4日 れんだいこ拝

 ナチスはいったい、どのくらいのユダヤ人を虐殺したのであろうか。ニュルンベルグ国際軍事裁判所では、その数をおよそ600万人とし、うち400万人は殲滅施設で殺されたと判断している(藤田九一『戦争犯罪とは何か』岩波新書)。
 しかし、反ユダヤ主義的な本では、その数を否定して、場合によっては一桁少ない数を指摘するのである。宇野正美氏の『ユダヤと闘って世界が見えた』という著書があるが、この本では、氏は600万人虐殺説を否定して、次のように述べる。すなわち、

 「第二次世界大戦中にヨーロッパ全体で六百万人のユダヤ人が殺されたといいますけど、私(宇野氏)はアウシュヴィツ収容所に二回も行って火葬場も調べましたけど、ここで数年間で四百万人殺されたのなら、あの火葬場では一日五千人から六千人殺さないとダメだけど、物理的にそれは不可能なの。本当はせいぜい四十万人という説もありますよ」。
 同書の別な箇所では、「アウシュヴィツに連行されたユダヤ人らの数を少なくとも百三十万人と推定することができる。うち二十二万三千人が生き延びたか、他の収容所へ移送されたため、犠牲者は最低百十万人、多くても百五十万人と結論づけられる」というポーランドの新聞記事を紹介する。

 しかし、宇野氏の議論は論理が成り立たない。すなわち、彼は、ヨーロッパでの600万人虐殺説に対して、アウシュビッツ収容所だけの知見でそれを否定しているからである。

 実際のナチスは、アウシュビッツ以外に、トレブリンカ、ヘウムノ、ソビボル、マイダネク、ベウゼッツの5カ所の絶滅収容所をつくり、全部で6カ所でユダヤ人の物理的抹殺を行ったのである(アウシュビッツでさえ、本来の収容所に加えて、ビルケナウ、モノビッツという2カ所の収容所があり、つごう3カ所の収容所で構成されていた)。アウシュビッツが有名になったのは、ほかのほとんどすべてがナチスによって完全に破壊、証拠隠滅されたのに対して、そこだけが撤収時に破壊されなかったことによる。第一、ニュルンベルグ裁判所が犠牲者数を600万人と判断したのは、ヒトラーからのこの計画を指示されていた当事者アドルフ・アイヒマンの証言によるのである。

(私論.私見) 大越哲仁氏の「ホロコースト600万人説支持」について

 大越哲仁氏は、「ホロコースト600万人説支持」の立場から宇野正美氏の疑問を否定している。ここでは、逆に、宇野正美氏の「ホロコースト600万人説疑問」を知ることが為になる。

 2006.3.4日 れんだいこ拝
 宇野氏はまた同書で、アウシュヴィツでは毒ガスでユダヤ人が殺されたのではなく、飢えや病気で死んだとして、次のように述べる。

 「(アウシュヴィツでユダヤ人が死んだ原因は)飢えと病気、特にチフスです。写真で紹介されている死体も餓死しているか、腸チフスで死んだ人の写真です。だから痩せているわけね。ガスで殺された人の写真をドイツが出したためしはないんです。実際にはないから出せない」。

 しかし、本当は、ナチスは徹底的に証拠を隠したから写真がほとんど無いのである。

 ユダヤ系フランス人ジャーナリストのクロード・ランズマンは、1985年にナチスによるユダヤ人大虐殺を扱った映画『ショア(ヘブライ語でのホロコーストの意)』を制作したが、その映画では、過去の記録映像を使わず、収容所から生還したユダヤ人や、収容所の元ナチス親衛隊員、ユダヤ人がガス室に送られる前に髪を切った元理髪師など探しだし、説得し、彼らの言葉や、さらにはその長い沈黙を記録した。彼らの「記憶が回帰する瞬間の微妙な表情を撮影したフィルム」は150時間に上り、それを9時間半に編集して映画は完成したという。

 当時、この映画のNHKでの放映を実現するために努力した柏倉康夫氏は、パリにランズマンを訪ね、また来日したランズマンと対談した。氏がランズマンに、なぜこの映画では過去の記録映像を使わなかったのか尋ねると、氏は次のように答えたという。

 「皆が知っている強制収容所と違って、ヨーロッパ中から連れてこられたユダヤ人がガス室で殺された絶滅収容所の様子を移した写真は、ナチスが撮った、たった一枚の写真以外には存在しないこと、そしてそれ以上に、この映画の狙いが、私たちの記憶の底に意識的に眠り込まされている体験的事実を意識の上に浮かび上がらせて、それを証言として積み重ねることにあった」。
 「ユダヤ人絶滅政策は、その肉体を抹殺するだけでなく、そうした事実の痕跡すらも抹消してしまうという、その徹底性にこそ本質があった。殺戮の証拠がないことは、事実がなかったことを意味しない。証拠をすべて隠滅すること、それが絶滅計画の核心だった」。

 柏倉氏は、この返答を聞いて、ランズマンの映画の制作手法は、映像イコール過去の記録という単純な考え方への強力な反証であると述べる(柏倉康夫『情報化社会研究』)。写真がないから虐殺がないなどという論法は成り立たないのである。

(私論.私見) 大越哲仁氏の「ホロコースト写真が無いのはナチスが徹底的に証拠を隠滅したから説」について

 大越哲仁氏は、「ホロコースト写真が無いのはナチスが徹底的に証拠を隠滅したから説」の立場から宇野正美氏の疑問を否定している。ここでは、逆に、宇野正美氏が「ホロコーストが実際には発生していないから写真もない」説を主張していることを知ることが為になる。

 2006.3.4日 れんだいこ拝
 宇野氏はさらにまた、前掲書で、「有名な『アンネの日記』。あれだって本当にあの少女が書いたのかどうかも疑わしい。調べてみると矛盾点がいっぱいでてきてるんですよ」と『アンネの日記』を偽造物と指摘している。

 実は、『アンネの日記』を偽物とする主張は、1950年代から、ナチスを擁護する団体などによってしばしば為されてきた。しかし、1958年に始まったローラー・スティーロの裁判でアンネの筆跡鑑定が行われて日記が本物だと認定されている。しかし、この裁判が調停の形で集結したこともあって、アンネの日記に対する非難者はその後も、お互いの主張をうまく引用しながら攻撃を続けた。

 1980年にオットーが亡くなり、遺言によってアンネの日記とほかの遺稿がすべてオランダ政府に寄贈されたたため、アンネの日記の完全版を出版する企画がなされ、それを機に、アンネの筆跡・紙・インク・糊等がすべて厳密な筆跡鑑定と科学的調査を受けた。そのすべての結果において、日記は本物であることが証明されたのである。

 したがって、宇野氏が上記の著作を著したときには、既にアンネの日記は本物であると証明されていたのであって、氏の発言はそれを知らないで為されたものであれば極めて迂闊であり、知っていても故意にそれを隠していたのであれば相当な悪意があると非難されてもしかたがない。

(私論.私見) 大越哲仁氏の「アンネの日記本物説」について

 大越哲仁氏は、「アンネの日記本物説」の立場から宇野正美氏の疑問を否定している。ここでは、逆に、宇野正美氏が「アンネの日記偽書説」を主張していることを知ることが為になる。しかしそれにしても、「シオンの議定書」の場合は様々な理由をつけて偽書と云い、アンネの日記の場合は様々な理由をつけて本物と云う。ロジックに一貫性があるのならまだしもご都合主義に流れているとしたらこれも臭い話だ。

 2006.3.4日 れんだいこ拝
【アンネの父親オットー氏の手紙公開される】
 2007.1.25日付の「アンネの父親の手紙発見―米=家族救う必死の思いにじむ (AFP=時事)」を転載しておく。
 「アンネ」の父親の手紙発見―米=家族救う必死の思いにじむ (AFP=時事)

 【ワシントン25日】ナチス・ドイツのユダヤ人迫害から逃れるための隠れ家生活をつづった「アンネの日記」で知られるアンネ・フランクの父親、オットー・フランク氏(1980年死去)が41年に書いた手紙が米国で見つかり、2月14日に公開されることになった。米誌タイムが25日報じた。≪写真は12歳当時のアンネ・フランク≫

 手紙は80通ほどあり、ナチス・ドイツによって占領されたオランダ・アムステルダムからアンネら家族を脱出させるため、スペインへの脱出ルートを探ったり、出国ビザや、米国ないしキューバに渡るための助力を得ようとするなど、オットー氏の必死の思いが伝わってくる。しかし、こうした努力はすべて無駄に終わり、一家はアムステルダムの隠れ家での潜伏生活に入ったという。

 一家は2年間の潜伏後、事情を知る者の裏切りでドイツ当局に見つかり、強制収容所に送られた。アンネや姉のマルゴー、2人の母親エーディットは収容所で死亡。生き延びたオットー氏は解放されてアムステルダムに戻り、手元に戻ってきた娘の日記を「アンネの日記」として出版。同書は世界中でベストセラーとなり、59年には映画化もされた。

 タイム誌によると、オットー氏の手紙は2年前に発見されたが、著作権や法的問題への懸念から、存在が伏せられていたという。

(私論.私見) 大越哲仁氏の「アンネの日記本物説」について

 アンネの父親のオットー氏の手紙が公開された。1980年に死去した同氏は真実を墓場へ持っていった。その手紙が公開されたのは遅まきながらも了とすべきだろう。れんだいこは、そのことよりも、「タイム誌によると、オットー氏の手紙は2年前に発見されたが、著作権や法的問題への懸念から、存在が伏せられていたという」とあるところに注目する。まことに、著作権はこういう風に真実を知らしめない為の方便で使われていることに注目すべきだろう。

 2007.1.26日 れんだいこ拝
【日共のアンネの日記に見せるネオ・シオニズム盲従性考】
 2007.2.28日付け赤旗の「『アンネの日記』焼却事件 独で裁判始まる 失業の克服 ネオナチ根絶へ課題」を転載しておく。日共がいかに露骨にネオ・シオニズムと親和し配下として蠢いているか判明しよう。貴重資料として保存しておく。
 【ベルリン=中村美弥子】第二次大戦中ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害の犠牲になったアンネ・フランクの『アンネの日記』を燃やしたとして、扇動罪などの罪で起訴された男性七人の公判が二十六日、ドイツ東部ザクセン・アンハルト州のマクデブルク裁判所で始まりました。

 ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の事実を否定するネオナチによる犯罪の増加が深刻化する中で昨年六月に起きたこの日記焼却事件は、ドイツ社会に衝撃と動揺を広げました。深刻な失業問題などの社会的背景が指摘されている事件だけに、今後の裁判の進展が注目されています。

 起訴されたのはマクデブルク近郊のプレツェン村に住む二十四歳から二十九歳までの男性。扇動罪、死者冒涜(ぼうとく)の容疑で逮捕されました。ドイツでは、ホロコーストを否定すると刑事罰に問われ、有罪となれば最高で五年の懲役刑となります。

 男性らは昨年六月二十四日にプレツェン村で開かれた夏祭り会場で、米国国旗とともに『アンネの日記』をキャンプファイアーに投げ入れました。その際、「すべてウソだ」と叫んだといいます。

 裁判で被告の一人は罪を認めた上で、「ドイツ史の悪の一章から自らを解放するため」の行為だったと主張しました。これに対し、検察側は、被告は日記を燃やすことでナチ思想を美化することが目的だったと指摘。「アンネ・フランクのみならず、強制収容所で殺された何百万人ものユダヤ人を愚弄(ぐろう)したことになる」と反論しました。

 アンネ・フランクが独占領下のオランダ・アムステルダムでの隠れ家生活をつづった『アンネの日記』は、世界中で読まれています。その日記の焼却事件は、ナチ政権下の一九三三年にナチ支持者がユダヤ系や共産主義的な書物を焼き捨てた焚書(ふんしょ)を連想させるものでした。

 この事件は同時に、ザクセン・アンハルト州をはじめ経済が停滞した旧東ドイツ地域が直面している問題も浮き彫りにしました。深刻な失業や貧困がネオナチ拡大の土壌になっているとされ、これらの州ではネオナチ根絶が大きな課題となっています。

(私論.私見)   日共のアンネの日記論について

 何気ない「アンネの日記焼却事件裁判」報道であると読み流す者もいるだろうが、そういう者は自身も又ネオ・シオニズムに盲従していることを知らなければならない。この記事は、次の点で留意を要する。一つは、アンネ・フランクの「アンネの日記」の信憑性が問題になりつつある今日において、日共が何の疑問も無くこれをアンネの自筆実書としていることにある。「アンネ・フランクが独占領下のオランダ・アムステルダムでの隠れ家生活をつづった『アンネの日記』は、世界中で読まれています」と記しており、現下日共党中央の親ネオ・シオニズムぶりを示して余りあろう。決して我々が期待する左派見解ではなく、親ネオ・シオニズム・テキストに従うサヨ見解とみなすべきである。

 次に、現下欧州で反ユダヤ主義運動を試みる者は厳しく取り締まられている状況においてこれを是としている姿勢である。「ドイツでは、ホロコーストを否定すると刑事罰に問われ、有罪となれば最高で五年の懲役刑となります」を当然視して紹介している。日共の変態性はこういうところにも現れており、この異常な取締りにエールを贈っていることが判明する。欧州に於ける反ユダヤ主義、他方のナチス礼賛に対する過度とも云える取締りと制裁は、それ自身が政治問題であるのに、平然と追認している。それは、戦前の治安維持法下で思想統制され弾圧された党史の歴史的意義を汚していよう。日共は、1955年の六全協での野坂-宮顕指導部の登場以来、こういう真反対の運動に手を染めるようになった。ロッキード事件では、冤罪の可能性のある角栄を容疑者どころか犯人扱いして政界追放を叫ぶ様を見てきたところである。

 日共はむしろ逆に、「その日記の焼却事件は、ナチ政権下の一九三三年にナチ支持者がユダヤ系や共産主義的な書物を焼き捨てた焚書(ふんしょ)を連想させるものでした」と述べている。これほど馬鹿げた話は無かろう。「欧州に於ける反ユダヤ主義、他方のナチス礼賛に対する過度とも云える取締りと制裁」こそが焚書であろうが。卑小なものを大きく取り上げ、重大なことを矮小化させる変態をみてとることができよう。我々は、事態を逆さまに説く詭弁に騙されてはいけない。

 結論として、「これらの州ではネオナチ根絶が大きな課題となっています」と述べ、同調している。粉砕阻止用語を極力戒め、常に反対表現を好むかの穏和な日共が、こういう問題では「根絶」を支持している。根絶は、ファシストの常套用語であり、暴力的急進主義用語であるが、日共はネオ・シオニズムに敵対する者に対しては平然と「根絶」を支持している。ネオ・シオニズム配下の日共党中央の危険なファシスト振りを漏らしていることになる。

 以上から判明することは、現下日共党中央の親ネオ・シオニズムぶりである。気になってそういう目で検証して行けば、何と日共は何から何までネオ・シオニズム・テキストに全面追随していることが分かる。こうなると、日共はいっそのこと正体通りに日本・ネオシオニズム党ないしはネオシオニズム党日本支部とでも名称変更すれば良い。断じて我々の知る共産党ではない。

 その日共党中央が悪冶の限りを働いている。日本政治の左傾化を押し止め、政府自民党のネオ・シオニズム化を「左」から裏支えしている。れんだいこが、宮顕-不破-志位系党中央の追放を唱える所以がここにある。宮顕論、不破論をサイトアップして久しいが反応が弱過ぎる。結局、批判する連中も批判しているように見えて同じ穴のムジナということか。そういうことになる。

 2007.3.3日 れんだいこ拝
 「阿修羅ホロコースト4」の木村愛二氏の2007.2.8日付け投稿「英文記事:Re: 『アンネの日記』焼却事件」を転載しておく。
 http://www.allheadlinenews.com/articles/7006580545
 Six On Trial For Burning Ann Frank's Diary
 February 26, 2007 9:56 p.m. EST
 Megan Shannon - All Headline News Staff Writer

 (AHN) - Six people are on trial in Germany for burning copies of The Diary of Ann Frank.

 One suspect admitted to burning the book during his trial. All six defendants are charged with inciting racial hatred and disparaging the dead. This trial adds to a fear building in Germany that Neo-Nazism is growing in the country.

 According to prosecutors, Lars Konrad of East Germany threw the novel into a bon fire during a party in June 2006.

 According to the court, burning the book supports Nazism. Any denial of the Holocaust or acts of racial hatred can cost an offender up to five years in prison.

 The diary was found after World War II. The author, Ann Frank, died in the Bergen-Belsen concentration camp in 1945. She wrote in her diary about her experience hiding from persecution with her family in Amsterdam. She died just before her 16th birthday.

 Konrad's attorney argued that he was showing distain for that time in German history by burning the book. But prosecutors argued that the bon fire was meant to mock those in the concentration camps, including Ann Frank.

【重大提言=アンネの日記そのものが創作とする説有り】
 「紫霄閣(ししょうかく) 歴史の底流と人間の本質を探る」の「嘘とペテンと陰謀だらけ・英米イスラエル報道」の中の「 4-2.日本で大人気のアンネの日記は低レベルの宣伝用フィクション」に次のような記述が為されている。これを転載しておく。
 ・ついでに申し添えておくと、ホロコーストと組み合わせて宣伝されている「アンネの日記」は、嘘と真実をごちゃまぜにしたフィクション。宣伝材料としては余りにレベルが低いので、欧米のまともな研究者は全く相手にしていない。  

 ・自筆原稿を徹底して隠蔽・父親オットー・フランクは1980に死ぬまで、自筆原稿の公開を拒否。テレビに登場 しても、自筆原稿にはフォーカスさせず。遺言でオランダ国立戦時資料研究所に 寄贈された後も、実質未公開。

 ・原本は古い文体でアンネが書くことは不可能 ・ユダヤ問題研究家の宇野正美氏によれば、小説家レビンが父親のオットー・フランクに頼まれて書いた小説であり、しかも、古典的ドイツ語で書かれており、オランダで生まれ育ったユダヤ人のアンネがそのようなドイツ語を駆使して日記を書くことなどできる筈もないという。
(私論.私見) アンネの日記そのものが創作とする説考

 「 4-2.日本で大人気のアンネの日記は低レベルの宣伝用フィクション」の記述が正しいとすれば、アンネの日記そのものがアンネ以外の者の創作ということになる。事が由々し過ぎよう。

 2007.8.9日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評318 れんだいこ 2007/08/09
 【アンネの日記真贋考】

 今日8.9日は長崎原爆投下命日である。新潟地震の際の柏崎原発の放射能汚染も発覚しており、何か原水禁運動に関係したことを書きたかったのだけれども、なぜだか「アンネの日記真贋考」を記す。

 最近「紫霄閣(ししょうかく) 歴史の底流と人間の本質を探る」の「嘘とペテンと陰謀だらけ・英米イスラエル報道」の中の「 4-2.日本で大人気のアンネの日記は低レベルの宣伝用フィクション」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/taigaishinryaku_horocoosto_annnenonikki.htm)を読む機会を得た。短いのでこれを転載しておく。
 ・ついでに申し添えておくと、ホロコーストと組み合わせて宣伝されている「アンネの日記」は、嘘と真実をごちゃまぜにしたフィクション。宣伝材料としては余りにレベルが低いので、欧米のまともな研究者は全く相手にしていない。

 ・自筆原稿を徹底して隠蔽
 ・父親オットー・フランクは1980に死ぬまで、自筆原稿の公開を拒否。テレビに登場しても、自筆原稿にはフォーカスさせず。遺言でオランダ国立戦時資料研究所に寄贈された後も、実質未公開。

・原本は古い文体でアンネが書くことは不可能
 ・ユダヤ問題研究家の宇野正美氏によれば、小説家レビンが父親のオットー・フランクに頼まれて書いた小説であり、しかも、古典的ドイツ語で書かれており、オランダで生まれ育ったユダヤ人のアンネがそのようなドイツ語を駆使して日記を書くことなどできる筈もないという。
 この記述が如何にセンセーショナルなものかというと、アンネの日記他者創作説を唱えていることにある。れんだいこはこれまで、「アンネの日記考」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/taigaishinryaku_horocoosto_annnenonikki.htm)で若干の考察をしている。そこでアンネの日記の真贋論争を紹介しているが、「(アンネの日記は)古典的ドイツ語で書かれており、オランダで生まれ育ったユダヤ人のアンネがそのようなドイツ語を駆使して日記を書くことなどできる筈もないとう」踏み込みは初めてだ。そこで早速書き直した。

 れんだいこは、アンネの日記の原書を知る立場には居ない。故に、論争を公平に聞き比べ、れんだいこなりの観点を生む以外に無い。問題は、ホロコースト論、南京大虐殺論、従軍慰安婦論にも通底してくるのだが、酷い拙い論争が行われていることにある。アンネの日記論争で言うと、次のようなやり取りが為されている。

 ウィキペディア通説(ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E8%A8%98、現在記述が変えられているようである)と「アンネ・フランクは、アンネの日記を書かなかった」(ttp://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/newversion/afrank.htm)が、同じ問題に対し全く違う記述をしている。

 例えば、通説が概要「問題のボールペン・インクによる記述は、最初の文書鑑定(1960年)の折りに紛れ込んだ小さな二枚の紙片に見られるに過ぎず、日記の内容に影響を与えるものでもなければ、当然アンネ・フランクが書いたものでも、ましてやメイヤー・レヴィンが書いたものでもない。この紙片の筆跡は、ドロテア・オッケルマンのものであったことが明らかになっている。鑑定レポートは、第三者の書き込みについても分析を行ない、これらをアンネが書いたものと区別して論述している。かくて、有名な伝説も否定された(そもそも『日記』の最初の出版は1947年である)」と記している下りに対して、

 疑惑説は次のように述べている。
 意訳概要「ドイツの裁判では、そんな小さな紙切れ二枚の鑑定などしていない。第四章全部が、ボールペンで書かれていると鑑定している。『小さな紙切れ二枚の鑑定』はすり替えである」。 概要「そもそもウィキペディアの記述は出典が明らかでない。ネット上で類似の情報を探しても何も引っ掛かってこない。『81年にオランダ国立法科学研究所において、紙質、インク、糊などに関する文書調査と筆跡鑑定が行われ、結果、42年から44年の間に、本人が書いたものと結論付けられた』というのも、出典不明である。つまり、便所の落書きと同じで根拠がない」。
 これは、三者三様に受け取る「真相は藪の中」の話ではない。ボールペン・インク記述二枚紙片説を廻って、二者のどちらかがウソをついていることにより白黒つけねばならない話である。しかしながら、調べれば容易に分かるのにこういう食い違いがそのまま通用している。世の中にはこういう食い違いが結構ある。れんだいこは、こういう場面に出くわすと、どちらが正しいのだろうと気になって仕方ないのだが、両説が平気で通用している。

 話を宮顕問題に振る。宮顕は先ほど逝ったが、例の戦前の党中央委員小畑査問致死事件の真相を語らずのままとなった。通説は、スパイ小畑説に立つ査問致死説であり、それも1・リンチは無かった説、2・そこそこあった説、3・凄惨なリンチ説の三説に分かれている。異説として、小畑はスパイでなかったとする冤罪説があり、これも三通りに分かれる。真相はこのうちのどれかであるのに精査されない。

 れんだいこは、宮顕論の中の「査問事件」(ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/miyamotoron/miyamotoron_1.htm)で記しているように小畑冤罪査問テロ致死説に立っている。もっと云えば、野坂-宮顕ラインこそスパイの頭目説に立っている。つまり、労働者派の小畑が、スパイ派の宮顕によりスパイ摘発と云う名目でテロラレタとみなしている。れんだいこはこの鬼説を堂々とサイトアップしているのであるが、通説派の誰からも議論が挑まれない。その癖、こたびの宮顕追悼で殆どの論者がこぞって歯の浮くような礼賛論を聞かせている。春から秋の僅か半年なのに「網走刑務所在監12年説」という有りもしない話を記す者も居る。

 こういうのっておかしくは無いか。例えば、世の中で誰が一番頭が良いのかとか、将棋と囲碁のどちらが難しいのかとか、演歌とシャンソンどちらが歌らしいかとか、日本酒としょうちゅうどちらが良い酒かとかというような白黒付けられないものもある。しかし、白黒つけねば先へ進まないものもある。不思議なことに、白黒つけねばならぬものをエエ加減にして、つけなくても良いようなものを争う傾向がある。朝青龍二場所出場停止事件のように、そう激しく制裁しなくても良いものに力んで強権発動させることもある。憲法改正のように急いでしなくても良いものに政治生命賭けてせかす首相も居る。

 こういうのっておかしくは無いか。アンネの日記考から話が飛んでしまったが、云いたいことではあったので総花的に述べてみた。そういえば、テロ対策特別措置法の延長問題などは二者択一しかない。小沢の腕の見せ所である。戦後日本は長い間不戦で成功した。軍事費に費やすものを公共事業に割り当ててきた。ハト派政治の復権賭けて小沢-管-横路ライン頑張れ。お盆前の長編投稿を読む人に捧げる。

 2007.8.9日 れんだいこ拝

れんだいこ:ホロコースト史実検証3(パレスチナ強制移住説) [「れんだいこ」から]

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/taigaishinryaku_horocoosto_kyoseiizyusetuco.htm

ホロコースト史実検証3(パレスチナ強制移住説)


 (最新見直し2006.8.7日) 

 「ナチスの蛮行としてのユダヤ人ホロコースト600万人説」の虚構が暴かれつつある。真実は、西欧各国居住ユダヤ人のパレスチナへの強制移送であり、ナチスがそれに協力して立ち退きを煽り、各地の強制収用所に中継させていた可能性が出てきている。その強制収用所に於ける病死、労働等が戦後になって不当にプロパガンダされ、「ナチスの蛮行としてのユダヤ人ホロコースト600万人説」へと教本化されていった気配が濃厚である。

 「イスラエルの正体(桜井ジャーナル)」は次のように記している。
 シオニズムが生まれたのは19世紀。帝政ロシアのポグロム(ユダヤ教徒虐殺)などが影響したとされている。ちなみに、修正主義の創始者ウラジミール・ジャボチンスキーは帝政ロシアのオデッサ、また労働シオニズムの指導者デイビッド・ベングリオンは帝政ロシア領ポーランドのプロンスクで生まれている。

 「ユダヤ人の国」の建設が現実味を帯びてくるのは、1917年11月にイギリス外相のアーサー・バルフォアがロスチャイルド卿に当てた書簡で「イギリス政府はパレスチナにユダヤ人の民族的郷土を設立することに賛成する」と約束してからである。

 ところが、シオニストは大きな問題を抱えていた。ヨーロッパや中東で暮らす多くのユダヤ教徒はパレスチナへの移住に興味を示さなかったのである。そこで、反ユダヤ政策を押し進めていたドイツのナチス政権に接触、ユダヤ人の移送などについて話し合っている。この事実を示す文書も残っている。

 調査ジャーナリストのエドウィンブラックによると、当時、ドイツに住むユダヤ教徒のうちでシオニズムを支持していたのは1、2パーセントにすぎなかったという。1940年代に入るとナチス政権はユダヤ人を強制収容所で組織的に殺し始めるが、この経験を経て、多くのユダヤ教徒がヨーロッパからパレスチナへ移住するようになったのだ。

 第2次世界大戦中、フランクリン・ルーズベルト米大統領はナチス政権下のユダヤ教徒をアメリカやイギリス、カナダ、ラテン・アメリカへ亡命させようと計画した。この案をアメリカの「ユダヤ人指導者」に提示したところ、大反対にあったという。シオニストにしてみると、ユダヤ教徒の行き先はパレスチナでなければならなかった。

 中東に住むユダヤ教徒も動こうとしなかった。例えば、その当時、イラクのバスラに住んでいた3万人のユダヤ教徒はパレスチナへ移住する気配はまったく示さなかった。こうした雰囲気を一変させたのが1941年の反ユダヤ運動とユダヤ教徒虐殺。イラク系ユダヤ教徒のジャーナリスト、ナエイム・ギラディによると、爆弾テロなどを繰り返していたのはシオニストだった。

 パレスチナ和平を実現するためには、まずユダヤ教徒とシオニストとを分けて考えることからはじめるべきかもしれない。

(私論.私見)

 これが実相とすると、「ナチスの蛮行としてのユダヤ人ホロコースト600万人説」の片棒担いできた反戦平和論者は何と皮相的な連中だろうか、ということになる。つまり、作り話しに乗せられ易い元々オツムが弱い連中なのかもしれない。れんだいこは、理論的研鑽の積み重ねとしてこの地平まできたが、それはごく普通のオツムでありさえすればそうなるだけのことであろう。問題は、頑としてこの地平にまで辿り着きたくないという非学問的な自称知識人が多過ぎるというだけのことであろう。

 2006.8.7日 れんだいこ拝


 この問題につき、西岡論文「南京とアウシュビッツ、『マルコポーロ事件』、ナチ『ガス室』はなかった」は次のように述べている。
1  ナチスがその政策においてユダヤ人に不当な差別を加え、様々な圧迫を加えたことは紛れもな い事実である。そして、アメリカとの戦争に突入した後、ドイツ本国及びドイツの支配下に置か れたヨーロッパ諸国ではユダヤ人に対する圧迫が強まり、ユダヤ人を強制収容所に収容する政策 が全ヨーロッパ的規模で開始された。この点について、従来の説明は大筋で正しい。
2  しかし、ヒトラー及びナチスの指導部は、収容したユダヤ人達の「絶滅」を計画したことなど ー度もなかった。ナチス指導部が計画したことは、強制収容所に収容したユダヤ人達を戦後、ソ 連領内などの「東方地域」に強制移住させることであった。彼らは、このユダヤ人強制移住計画をユダヤ人問題の「最終的解決」と名付け、東部戦線でソ連を打倒した後、実行するつもりでいた。
3  ナチスドイツが、アウシュヴィッツなど、ポーランド領内に建設した強制収容所は、戦後ドイ ツがソ連を打倒、占領した後に実行する「最終的解決」のためのユダヤ人強制移住計画の準備施設であった。すなわち、ナチスドイツは、アワシュヴィッツをはじめとするポーランド領内の収 容所に収容したユダヤ人達を戦争中は労働力として利用し、戦後、ドイツがソ連に勝利した暁には、ソ連領内ほかの「東方地域」に強制移住させる計画であった。従って、この計画とは両立し 得ない「ユダヤ人絶滅」などをドイツ政府が計画、実行したことは、一度もなかった。
4  ところが、ソ連戦線でドイツが敗退した結果、「ユダヤ人強制移住計画」は頓挫する。そして、 戦争末期の混乱の結果、ユダヤ人達がいた収容所の衛生状態が悪化し、チフス等の疾病の爆発的 発生が起きた。その結果、多くの罪のないユダヤ人達が収容所内で死亡した。
5  戦後、それらの収容所で病死したユダヤ人らの死体を撮影した連合軍は、そうした病死者達の 死体を「ガス室」の犠牲者であるかのように発表した。
(私論.私見)

 これが実相とすると、ナチスのユダヤ人迫害に伴う強制収容所は存在したが、それは「ユダヤ人強制移住計画」の一環としてのものであり、600万人にも及ぶ大ガス殺執行のものではなかった、ということになる。これが案外史実なのではなかろうか。戦後の反戦平和運動は、ネオ・シオニストが拵えた捏造事件に振り回され過ぎてきたのではなかろうか。よしんば反戦平和に利益があろうとも、史実に基づかなければフィクション運動であり、それは有害ではなかろうか。

 2006.8.7日 れんだいこ拝

れんだいこ:ホロコースト史実検証2(ガス室その他) [「れんだいこ」から]

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/horocoastco/shijitukensyo_gasroomco.htm

ホロコースト史実検証2、ガス室その他


 (最新見直し2015.02.08日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 歴史は実証主義をベースにしなければ黒が白と言い含められたり詐術を許すことになる。ホロコースト検証には明らかにこの精神が欠けている。「5W2H」は思考の基本中の基本であるからして、当然ホロコーストにも適用されるべきであろう。シオニズムが世界を席巻しつつある時代に於いて、明らかにシオニズムに利する結論を論証も為しに押し付けられて受け入れ、その尻馬に乗って正義ぶった論を吹聴することはアホウ丸出しだろう。そういう意味で、誰しも共有できる史実確認に向かうべきだと考える。

 2004年現在でも、巷間伝えられているホロコーストの伝聞を史実として確認することが民主主義と左派精神の証の如く位置づけられており、これに疑問を投げかける者には容赦ない罵声が浴びせかけられている。さほど知識を持たない者までが安易に付和雷同して、罵詈雑言の列に連なっている。

 しかしれんだいこは指摘しておこう。いわゆるホロコースト論は、第二次世界大戦を「民主主義対ファシズムの闘い」として描くネオシオニズム的国際主義プロパガンダの延長のものであり、イスラエル建国を正当化させるの都合上で悲劇の民性をプロパガンダしたものであり、吟味されたものではない。ここで云う民主主義と本来の左派精神とは基本的に関係なく、ホロコースト論が親シオニズムか反シオニズムかのリトマス試験紙として使われているに過ぎない。

 それをどう勘違いしてか、あたかも民主主義と左派精神の橋頭堡として「ホロコースト神話の堅塁を守り抜くことこそが民主主義者にして左派精神の証」であるかのように擬態されている。これと同じ姿勢で南京大虐殺事件が指弾され、靖国神社が弾劾されている。2006年現在、この観点が新旧左翼に共通している。

 れんだいこは、この仕掛けをいったんぶち壊そうと思う。依拠すべきは史実であり、そこから汲み上げられ積み上げられた論拠によって民主主義と左派精神を証しようと思うから。リアリズムこそ基礎にすえるものであり、虚構に立った正義論は我々が選ぶ道ではない。そういう正義論は却って邪道であると確信するから。我々は、史実をもっとリアルにリアルに徹底解明されねばならない。その上で、判明する限りの史実に則り、事件を告発し続け、歴史責任として受け止めていくべきではなかろうか。現状は情緒的扇動が強すぎて、れんだいこは唱和の列に連なることができない。

 2006.3.23日、再編集するに当りどっちつかずのスタンスを転換させ、「ホロコーストのウソ」を暴く視点から説くことにした。

 2004.8.7日、2006.3.23日再編集 れんだいこ拝

【「アウシュビッツ強制収容所展示館・国立オシフィエンチム博物館」】
 「ア ウ シ ュ ヴ ィ ッ ツ 1 」、「アウシュビッツ強制収容所」その他を参照する。

 ポーランドの強制収容所跡が保存されており、現在「アウシュビッツ強制収容所展示館」となっている。収容所は二重に張り巡らされた高圧線の有刺鉄線フェンスに囲まれ、囚人を監視する為に一定の間隔で監視塔が設置され、赤レンガで築かれた28の収容棟がある。鉄道で運ばれてくる収容者を降ろした停車場から門に向うと、「働けば自由になる」という文字が掲げられている。解放から60年をへた今も当時のままに保存されている施設は、来訪者をうちのめす。展示館には、ナチスの犯行を象徴する「めがね」、「靴」、「髪の毛」、「入れ歯」、「歯ブラシ」、「義手、義足」、「洋服」等々の遺品がガラスケースの中に収納されている。何万人もの収容者の本物の髪の毛が積み上げられ、その髪の毛で織ったじゅうたんや生地も展示されている。ガス室と焼却炉も保存されており、ガス室で死のシャワーを浴びせられた囚人は隣の焼却炉で焼かれた。3台の焼却炉で一日350人が焼かれたという記録が残されている、と云う。

 これを見れば。「ナチス・ドイツは廃物利用可能なありとあらゆるものを収容者から奪い、丸裸にしてガス室へ送り込んだ」様子がリアルに伝わってくる。「遺品の山は、人が人に、どこまで残虐になれるのか」を黙示している、と云う。
(私論.私見) 「アウシュビッツ強制収容所展示館の処刑システム」について
 れんだいこが疑問なことは、「アウシュビッツ強制収容所展示館」において、政治が人に為した残酷さを二度と繰り返してはならないと呼びかけているユダヤの人々が、何ゆえに2005年現在でもアラブの民に同様のあるいはそれ以上とも思える強権政治ー軍事を強制しているのかである。今現在進行中の「グァンタナモ刑務所、アブグレイブ刑務所、ファルージャでの蛮行」を見よ。

 これらの惨劇はたまたまの間違いなのか。種々考えると、「アウシュビッツ強制収容所展示館プロパガンダ」そのものにウソがあるのではなかろうか。史上、最も残忍なテロルと虐待を弄び、それをも科学し続けてきたのはサタン論理に染まった歴史的ユダヤの原理派側なのではなかろうか。こういうことを考えるのが思想というものだろう。

 「アウシュビッツ強制収容所展示館」の語り部が、イスラエルのパレスチナでの悪業について、ネオコンのアフガン、イラクでの悪業について黙するとしたら、現実にそうなっている場合が多いのだが、何やら底が浅く見えてきて仕方ない。こう考えるのはれんだいこ一人であろうか。

 それと、だいたいアウシュビッツ強制収容所のガス室と焼却炉の処刑システムが出来過ぎではなかろうか。今日でさえ死体焼却は汚臭を放つ。当時の囚人はその汚臭の中でシャワーを浴びせられるガス室に従順に向ったということになるが、ユダヤ人の知性はそれほど愚昧な訳が無かろう。云えば云うほど語るに落ちる話ではないか。これについてホロコースト論者の説明を求めたい。

 一体、一日何人の死体焼却されたのかについても諸説有り過ぎで、「3台の焼却炉で一日350人が焼かれた」から「2千の死体が12時間かかって5つのかまどで焼却された」まで幅広い。現物の「アウシュビッツ強制収容所展示館」があって何故に諸説分かれるのであろうか。責任ある検証が為されていないということを示しているのではなかろうか。

 2005.1.30日、2006.3.23日再編集 れんだいこ拝
【通説「アウシュビッツ論」について】
 「ア ウ シ ュ ヴ ィ ッ ツ 1」、「ヒトラーの対米宣戦とホロコースト」その他を参照する。それによると、「通説アウシュビッツの大虐殺」は次のような手順で遂行されたようである。
 1939年、ポーランドを占領したドイツは、クラクフに作戦司令部を置いた。クラクフは、国内の鉄道の分岐点として、また、全ヨーロッパの鉄道の拠点として、地の利を得ている。これに目をつけたナチスは、1940年、クラクフから50数キロメートル離れたポーランドとチェコの国境に近いオシフィエンチム村(ポーランド地名)に、強制収容所を建設した。ここには元々ポーランドの監獄があり、戦争前にはポーランド軍の基地であったので広大な跡地が使え、収容所の増設や隔離に好都合だった。また、人口密集地から遠く離れているので、強制収容所の情報が、外部に漏れる心配がなかった。

 アウシュヴィッツ強制収容所は、初めはポーランド人の政治犯を収容する目的だったが、次第に、ユダヤ人やロマ人などの劣等民族の絶滅作戦を展開する場所となり、また、ソ連の共産主義者、占領下の国々の反ナチス活動家、同性愛者、etcを捕らえ、収容する場所となって、拡張されていった。

 1942年、アウシュヴィッツが手狭になって、3キロメートル離れたビルケナウ(ポーランド名はブジェジンカ)村に、アウシュヴィッツ第2収容所として、それまでの10倍の規模の強制収容所を建設した。こうして、アウシュヴィッツは、集団虐殺を工業化!するシステムを持つ場所となった。ドイツの敗北が色濃くなった1945.1月、強制収容所を破壊する暇もなく、ドイツ軍は撤退したので、その姿が白日の下に暴かれ、ナチスの罪状をあるがままに、世界に知らせることになった。現在、「アウシュヴィッツ強制収容所」は「国立オシフィエンチム博物館」となってユダヤ人虐殺を物語る歴史的記念館として保存されている。

 ユダヤ人の大虐殺は如何なる手順で実行されたのか、これを見ておく。ユダヤ人はゲットーからの立ち退きを迫られ、集団で家畜用の貨物列車に乗せられて各地の強制収容所に送られた。輸送を担当したのはドイツ国有鉄道で、乗車運賃も決まっており一人あたり4kmで4ペニヒだった。

 収容所入り口のゲートには、「ARBEIT MACHT FREI 働けば自由になる」と標語されていた。このゲートをくぐった人は凡そ150万人とも、200万人ともいわれ、ビルケナウを加えると400万人になるという。そのうち、生きてこの場所から自由になったのは、ビルケナウと合わせて、数千人だったとか。ゲートを入った70~80%人は、働く前に死へ直行した。こうしてアウシュヴィッツに到着した日が人生の終わりになった人は、1日7千人~1万人にも上ったという。

 「トランクなどのわずかな荷物を抱えてユダヤ人が送られてくる。持った人々は、ホームに立つSS(ナチスの親衛)隊員と医者の判断で、健康な働ける人は「左」へ、老人・妊婦・子ども・乳飲み子を抱える女性は「右」へ、次々に振り分けられ選別された。選別を担当した医師の一人メンゲレ博士の選別の仕方は、オーケストラを指揮する指揮者のようだったと云われている。

 右へ向かったグループは虐殺コースに入る。「長い旅でたいへんでしたね。シャワーを浴びて、さっぱりしましょう」と促され、「浴場」ないしは「シャワー室」の掲示のある場所に向かい、裸にさせられた。「シャワーを浴びる間、荷物は預かってあげましょう」、「長旅でお疲れでしょうからお子さんを保育園にお預けなさい」と親切に!言われ、1度に250人が入る大浴場へ導かれた。扉の錠がかけられると、5度Cで気化するチクロンBが、天井の穴から注ぎ込まれ、15分後には窒息して死亡した。毒ガスによる殺害は、最初のうち車の排気ガスを使用して行われたが、後に殺虫剤として使われていたチクロンBが、最も効力を持っているとして使われ始めたという。

 30分後には死体が運び出され、次のシャワーを浴びる人が入ってくるという流れ作業が続いた。死者からは、金歯を抜き、髪の毛を切り、指輪や耳飾りを剥ぎ取る作業が、同じ収容者たちによっておこなわれたという。預けられた子供達の多くは人体実験の被害者となっていったともいう。

 一方、左に振り分けられた人は労働コースに入る。「囚人番号のついた囚人服に着替えさせられた。後には、アウシュヴィッツだけだったが、囚人番号は腕の入れ墨になっていく。囚人服には、政治犯には赤、凶悪犯罪者は緑、男色家はピンク、淫売婦は黒、聖職者は紫、ユダヤ人は、ダビデの星(後には、3角の上に黄色の筋をつけたもの)、ポーランド人はP、ロシア人はRの印をつけて、区別された。

 なお、このようにナチスは組織的にユダヤ人殺戮を行いましたが、個人的な犯罪に対しては厳格であった。ブーフェンバルト強制収容所司令官だったカール・コッホは、個人的にユダヤ人を殺害した罪で絞首刑に処せられている。
(私論.私見) 「ホロコースト通説」について
 「ホロコースト通説」は、凡そ以上の物語となるが、既に述べたように毎日毎日死体が焼かれ続けている状況下では有り得ないことと受け取るのが常識ではなかろうか。れんだいこは、「作られたウソ」とみなしたい。

 2006.3.23日 れんだいこ拝
【通説「ガス室存在裏づけ文書」について】
 ダッハウのガス室について、その存在を裏付ける文書証拠も発見されている。ダッハウで被拘禁者を材料に行われた人体実験の責任者として知られる Sigmund Rascher博士が、1942.8.9日にヒムラーに宛てて送った手紙。
 「ご存知のとおり、リンツにあるものと同種の施設がダッハウにも建設されます。『不適切な移送』がいずれにせよ特別室内で終わりとなる以上、私としましては、これらの人間を用いて我々の各種軍用ガス(Kampfgase)のテストができないものかと考えております。これまでのところ、我々の手元には動物実験およびガスの製造過程における事故死の報告しかございません。本項ゆえに、この手紙は『秘』と致します」。
 これに対して、ガス室自体が存在しなかったという「ガス室作り話説」がある。それによると、600万どころか100万人ですら処理できる設備など、すべての収容所のどこを探してもなかった、と云う。「死体の焼却炉」についても、ガス室で殺したユダヤ人を大量に処分できるようなものではなかった 。大量虐殺が事実であると印象付けるために、焼却炉をことさら強調して幻惑しているに過ぎない、と云う。

 収容所で死んだ人は、蔓延した伝染病が原因の疫病死だった。アンネ・フランクも、発疹チフスで死んだと云う。
 「アウシュヴィッツの争点その42、アンネ・フランクがもっとも有名な「発疹チフス」患者」  http://www.jca.apc.org/~altmedka/aus-42.html。「アンネが死んだ三月、チフス感染で1万8千人が死んだ。死者は合計5万人、解放時の生存者は6万人だった」。
【「アウシュビッツ強制収容所での体験証言による処刑システム通説」】
「ヴィクトール,E,フランクル著/霜山徳爾/訳『夜と霧』-ドイツ強制収容所の体験記録」(みすず書房、1961年初版)に、ホロコースト現場の生々しい様子が次のように記述されている。ちなみに、著者のフランクル(1905~97)はユダヤ人の精神医ということである。

「衣類を脱がされた囚人たちは、警備の指図で1回に250人くらいずつ部屋に連れ込まれた。扉に錠が下ろされ、それから1~2缶のチクロンBが壁の隙間から注ぎこまれた。チクロンBガスはこのような目的のために用いられるものであり、青酸の天然の化合物を含んでいるものなのだ。犠牲者を殺すに要する時間は天候によって異なるが、10分以上かかることは稀であった。

 30分後に扉が開かれ、死体はここで囚人の指揮者の手で除去され、穴の中で焼かれた。焼却の前に死体から金歯と指輪が奪取された。焼く時には、薪を死体の間に積み重ね、およそ100ぐらいが穴の中に入れられたところで、パラフィンをしみこませたぼろ布で火がつけられた。穴の底にたまった脂肪は集めて置いて、雨が降った際に火が消えないようにするためにバケツでかけるのに用いられた。このような状態で穴一杯の死体を焼くには6~7時間かかったがこの人間の体の焼ける臭いは、風の吹かぬ時ですら収容所に充満したのであった。
新しい改良されたガス室では、ガスが送りこまれてから30分たつと電気調整機が活動し始め、死体は昇降機によって焼却炉へと持ち上げられた。そしておよそ2千の死体が12時間かかって5つのかまどで焼却されたのである。

衣類や所持品はことごとく、よりわけられて貯蔵された。貴重品は毎月ベルリンの国立銀行に送られ、衣類はクリ-ニングをした後で、軍需会社に送られて奴隷労働者用に用いられた。また、歯から取った金は溶かされ、月に1度武装親衛隊の医療部へと送られた。かくしてアウシュビッツは『死の収容所』なる名前を得たのである」。

(私論.私見) 「アウシュビッツ強制収容所での体験証言による処刑システム通説」について
 これが通説である。まずここを踏まえねばならない。これによると、強制収用所に移送されたユダヤ人は次のような手順で殺され死体処理された。
1  衣類を脱がされる。「アウシュヴィッツ到着」の直後に消毒浴場にむかい、親衛隊員から『二分間でお前達は全部衣類を脱がなければならん』と命令された」。概要「他の部屋で毛をそられた。頭髪ばかりでなく、身体中残らず毛をそられてしまった」。
2  250人くらいずつ部屋に連れ込まれる。概要「それからシャワー室に追いこまれた。われわれは整列した。シャワーの漏斗から実際に水が滴り落ちてくるのを認めて喜んだ。もう一度言うが、シャワーの漏斗から実際に水が出てきた」。
3  チクロンBが壁の隙間から注ぎこまれる。
4  10分内外で集団殺戮された。
5  30分後に扉が開かれる。
6  焼却の前に死体から金歯と指輪が奪取された。
7  およそ100ぐらいが穴の中に入れられ焼かれた。
8  穴一杯の死体を焼くには6~7時間かかった。
9  人間の体の焼ける臭いは、風の吹かぬ時ですら収容所に充満した。
10  衣類や所持品はことごとく、よりわけられて貯蔵された。
11  貴重品は毎月ベルリンの国立銀行に送られた。
12  衣類はクリ-ニングをした後で、軍需会社に送られて奴隷労働者用に用いられた。
13  歯から取った金は溶かされ、月に1度武装親衛隊の医療部へと送られた。
14  改良されたガス室では、ガス殺戮後30分で自動的に昇降機によって焼却炉へと持ち上げられ、およそ2千の死体が12時間かかって5つのかまどで焼却された。  
 問題は、当時のドイツ軍及びナチスは、移送されたきたユダヤ人の名簿を作成することなく、このような方法で殺戮し、死体を焼却処理し、財物、衣類を強奪していたのだろうか、ということになる。それはあまりに野蛮に過ぎる。焼殺時の臭いは近所を悩まさなかったのか、この点についても証言を得たいと思う。
【「木村愛二氏のアウシュビッツ強制収容所での体験証言批判」考】
 「アウシュヴィッツの争点」(1995年)の著者、「偽イスラエル政治神話」の訳者でもある木村愛二氏は、「V.E.フランクル/著/霜山徳爾/訳『夜と霧』-ドイツ強制収容所の体験記録」に対して、「アウシュヴィッツの争点、第6章:減少する一方のガス室」の中で種々疑問を提起している。れんだいこの理解の及ぶところ次のような話になる。

 木村氏は「ガス室」の存在について疑義を呈している。アウシュヴィッツなどのナチスの捕虜収容所でも大流行した発疹チフス対策として設置された「消毒室」を「ガス室」として喧伝していった経過があるのではないかという。ユダヤ人を大量に強制移送したドイツ軍は、かれらを収容所にいれる前に、それまで着ていた衣服を全部ぬがせ、シラミの卵がうえつけられている可能性のたかい髪を刈り、シャワーを浴びさせた。衣服は別室にまとめ、殺虫剤チクロンBで薫蒸することよってシラミを駆除した。チクロンBと薫蒸室には、毒物の危険を知らせるために、どくろマークがつけられた、という。従って、概要「ガス室殺人は存在せず、それは発疹チフス対策としての消毒であった」と主張している。これは卓見かも知れない。 

 木村氏は、「衣服や髪の毛の山」とか、「どくろマーク」つきの「チクロンB」とか、おなじく「どくろマーク」つきの部屋とかが、そのまま強制収容所にのこされていた謎を解明する。それらの遺留品や設備はこれまですべて「ホロコースト」の物的証拠だと主張され、世界中の「ホロコースト記念展」などで写真や実物の展示までされてきたが、本当にそれだけの凶悪な犯罪の物的証拠ならば、なぜドイツ軍は、日本軍の七三一細菌部隊がそうしたように、撤退にさいしてそれらを破壊または焼却しようとしなかったのだろうか。この破壊作業は、要塞なみに頑丈につくられた鉄筋コンクリートの建物を相手にした七三一部隊の場合よりも、はるかに容易だったはずである、と疑問を投げかけている。これも卓見かも知れない。

 木村氏は、仮に「ガス室」だったとしても、「ロイヒター報告」の「最大に見積もっても10万人そこそこを殺すのがやっとだろう」との見解を支持している。ニュルンベルグ裁判の証拠「L・022」で主張された2年間で「176万5000人」の10分1にもならない、と云う。これも卓見のような気がする。

 木村氏は、以上を踏まえて次のように述べている。
 「ホロコーストの証拠として、大々的に利用されてきた『夜と霧』は、全く逆に、『ガス室』の偽装と主張されるシャワールームで、『湯を浴びた収容者の証言』になるのである」。
 「このような状況から、ホロコーストを大嘘と主張する歴史見直し論者(リヴィジョニスト)は、『ホロコースト生存者はホロコーストの嘘の生き証人』だと主張し続けているのである、ということになる」。

 まことに面白い指摘といっては語弊があるが、卓見ではなかろうか。

 2006.3.23日 れんだいこ拝
【「バルセロナより愛を込めて氏の毒ガス伝説批判」考】
 バルセロナより愛を込めて氏は、「阿修羅ホロコースト2」で、2006.3.4日付投稿「アウシュビッツ・ガス室伝説の化学的および毒物学的不可能性(Rense.com)」で次のように述べている。これを転載する。
  3月3日付のRense.comの記事です。これは非常に長い文章ですので、記事のUrlと共に、一部を抜粋して貼り付けておきますので、文章全体は各自ご覧ください。

 これは、実際に近年に起こった青酸ガスによる事故の例を挙げて、アウシュビッツの「ガス室」で青酸ガス(hydrogen cyanide:シアン化水素)を用いた大量殺人が化学的・毒物学的に見て不可能であることを論証した文章です。

 特に最近の悲惨な例としては1995年にフランスのMonterolierという町で起こったものがあります。3名の子供が洞窟の中で、第1次世界大戦の際の不発毒ガス弾を知らずに火の中に放り込み、それが爆発して青酸ガスが噴出しました。そしてそれは子供たちと同じく、ガスマスクを着用した4名の消防士を死亡させました。青酸ガスは消防士の汗に溶けて皮膚から体の中に浸透し、彼らに致死的な中毒症状を引き起こしたのです。

 さらにアイオワ州で青酸カリ自殺をした学生の話が注目されます。彼を病院に運んだ際にそれに携わった9名の人の全員が、彼の体から発する青酸ガスのために気分が悪くなってしまいました。青酸カリが彼の体の水分と反応して青酸ガスが発生していたのです。彼が住んでいた部屋と運ばれた病院は、空気の入れ替えをしなければなりませんでした。

 ところで「ガス室の目撃者」であるDavid Olereの話によると、ナチの作業員たちはロクな換気設備も付いていないガス室のドアを開けて、多数の死体を引きずり出しす作業をしていたのですが、防毒マスクを付けていないことは愚か、防御服もゴム手袋も無し、シャツを着ていない者すらいた、ということです。ガス室の中に入って死者の髪の毛を刈り集める作業をしていた収容者たちも同様であった、という話になっています。

 同様の「証言」が、ルドルフ・ホェスの『アウシュヴィッツの司令官』の中でなされています。下記をご参照ください。

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 http://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-20.html
 緊急Web無料公開『偽イスラエル政治神話』(その20)2章:20世紀の諸神話(その8)2節:ニュルンベルグの正義の神話(その5)(c)凶器・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 犠牲者の遺体が全ての青酸ガスをことごとく吸収して、「ガス室」の空気に全くガスが無い状態になっていた、というのなら、まさにWTC「パンケーキ崩壊論」同様の似非科学・オカルトのトンデモ話でしょう。

 以下、本文抜粋、貼り付け。
 http://www.rense.com/general69/gasccm.htm

 The Chemical & Toxicological Impossibility Of The Auschwitz Gas Chamber Legend

 Commentary By Paul Grubach 3-3-6

【前略】

 Finally, he claims that David Olere, a French-Jewish deportee to Auschwitz in 1943, is one of the most important eyewitnesses to the operation of the gas chambers. In his own words, the sketches of Olere "provide a very important visual record of the design and operation of the gas chamber and incinerators of Crematorium 3"7 Indeed, throughout his entire study he attempts to demonstrate that Olere is a credible eyewitness by showing how his sketches are consistent with physical evidence.

 Jean-Claude Pressac also claimed that the drawings of Olere that will be examined in this article are an important visual record of the operation of the homicidal gas chambers.8 And last but not least, Deborah Lipstadt attempts to convince her readership that Olere is a credible eyewitness by showing how his claims are consistent with the physical evidence. In this regard, she refers to the "drawings by Sonderkommando David Olere, who, upon liberation sketched the gas chambers.

【中略】

 Twenty-three year-old Scott Dominguez descended into a tank that once held hydrogen cyanide, and later phosphoric acid, in order to clean it. When this unfortunate worker began chipping away at the chemical film and hosing it down with water, hydrogen cyanide gas was produced.

 Just like the workers in Olere's drawings who supposedly removed the corpses from the Auschwitz gas chambers or the hair and gold from the teeth of gassed victims, Mr. Dominguez was not working with any safety equipment--no gas mask or protective suit. He was overcome by the HCN and had to be carried away by emergency firefighters. This hapless man suffers from permanent brain damage because of his exposure to HCN.17

 Another tragic incident involving firemen during a rescue operation further supports Leuchter's and Armontrout's assertions. In June 1995, there was a dramatic accident in a cave in the French city of Monterolier. Three children lit a fire in a cave, and threw an unexploded bomb they found from W.W.I that contained hydrogen cyanide gas into the fire. The bomb exploded and released the deadly HCN. It killed the children and also four firemen that came to the rescue. According to a Professor of Physical Chemistry, Louis Soulie, the deaths of the children and firemen, and even the fireman who was wearing a gas mask, were due to the fact that hydrogen cyanide dissolves in the sweat and penetrates the body through the skin, where it causes poisoning.18

 Let us repeat: One French fireman was wearing a gas mask, but he perished because the HCN dissolved in his sweat and penetrated his body. Even six days after their deaths, a cyanide concentration twice as high as the lethal dose was detected in the blood of the corpses.19

 Finally, there is the incident of suicide by cyanide poisoning that took place at Grinnell College, Iowa. A student committed suicide by swallowing so much potassium cyanide that the fumes from his body sickened nine people, all of whom had to be taken to a hospital. The potassium cyanide reacted with the water in his body to produce cyanide gas. The fumes that emitted from his body were so disturbing, that the residence hall where the tragic incident took place, and the hospital where the student's body was taken, had to be aired out.20 Keep in mind these are fumes that exuded from just one body. Imagine the fumes exuding from one to two thousand bodies that were allegedly poisoned by HCN in the Auschwitz gas chambers!

 In order to give the reader the appropriate perspective, let us recreate van Pelt's alleged scenario. The intended victims (one to two thousand) were jammed into the gas chamber. The deadly hydrogen cyanide was circulated throughout the chamber, and the victims were murdered. The victims' bodies absorbed the vast majority of the deadly gas-it is in the skin, in the hair, pores and lungs of the victims. The ventilation systems quickly removed the residual HCN. Now it was time for the inmates to go into the chamber and remove the dead bodies for cremation.

 Once again, let us give van Pelt the benefit of the doubt-the victims' bodies absorbed the vast majority of the deadly HCN gas. Here we have over one thousand dead bodies being saturated with deadly HCN-it is in the victims' hair, noses, mouths, on their skin, in their lungs. As Bill Armontrout points out, the HCN exudes from the victims' bodies.

 The Sonderkommandos enter the gas chamber to remove the bodies. According to one of van Pelt's most important eyewitnesses, David Olere, the inmates who removed the bodies from the chambers wore no gas masks, protective suits or rubber gloves to protect them from the inhalation or skin absorption of HCN. They did not even have shirts on!

 The heavy labor of removing the thousand bodies from the chambers causes the Sonderkommandos to sweat. People who are sweating are even more prone to absorb the deadly HCN through the skin.

 As the evidence points out, the victims' bodies exude the deadly HCN-this is why the body of someone who has died from HCN poisoning must be hosed down and rigorously decontaminated. In neither Pressac's nor van Pelt's authoritative tomes is there any mention that each victim's body was hosed down and thoroughly decontaminated after a mass gassing, nor is this process included in any of Olere's "true-to-life" sketches.

 We return to the operation of the gas chambers. The Sonderkommandos enter the chambers to remove the bodies. They perspire because of the hard labor. This makes them even more prone to absorb the deadly HCN gas that exudes from the mass of dead bodies in the gas chamber. As Professor Soulie points out, the firemen died from HCN absorbed by their sweat, even though one of them was wearing a gas mask. Dr. van Pelt's most important eyewitness, David Olere, claims in his sketches that the Sonderkommandos were shirtless and they wore no rubber gloves, nor did they wear any gas masks. This makes them extremely prone to HCN poisoning by way of skin absorption and inhalation.

 As we saw in the incident of the suicidal student from Grinnell College, the fumes from just one body were toxic enough to cause nine people to go to the hospital. Imagine the toxicological impact of one to two thousand dead bodies, all exuding the deadly HCN, upon the Sonderkommandos and Nazi guards who were wearing no gas masks or protective suits. It would have been overwhelming!

 Thus, the important sketch of Lipstadt and van Pelt's most important eyewitness, David Olere, contains a chemical and toxicological impossibility. Although his discussion of this matter is somewhat vague, van Pelt seems to implicitly realize that the Sonderkommandos would have--at the very least!-- needed gas masks to enter the gas chamber after they opened the door to remove the bodies.21 In this particular sketch, the inmates removing the bodies and the Nazi guards supervising those executions are not wearing any gas masks. The inmates dragging the dead bodies are even shirtless!

【中略】

 The door of the gas chamber is opened. According to the most important eyewitness, David Olere, the inmates who entered the chamber to remove the bodies for cremation wore no gas masks, rubber gloves or protective suits to protect them from HCN poisoning by way of inhalation or skin absorption. The inmates that entered the chamber to collect the hair of the victims wore no gas masks, rubber gloves, or protective suits to protect them from poisoning by way of inhalation or the skin absorption of the deadly HCN. The Nazi guards that supervised these executions wore no gas masks or protective suits. 【後略】

【「西岡昌紀氏の指摘」について】
 西岡昌紀氏は、「阿修羅ホロコースト1」の中で次のように指摘している。
 「連合軍が、ドイツ人に拷問を加えて「自白」を得ていた事をどう考えますか?」より。
 質問です。連合軍が、戦後、多くのドイツ人に拷問を加えて「自白調書」を作成して居た事は、もちろん、御存知と思います。この事について、いかなる考えをお持ちですか?
 「ドイツ政府は『ユダヤ人絶滅』の予算を計上していませんでしたが、何か?」より。
 第三帝国(ナチスドイツ)政府は、「ユダヤ人絶滅」などと言う計画のための予算を計上して居ませんでしたが、何か?
 「『ユダヤ人絶滅』の命令書は発見されていませんが、何か?」より。
 連合軍が戦後ドイツで押収した膨大なドイツ政府公文書の中に、ヒトラーもしくは他のドイツ政府指導者が「ユダヤ人絶滅」を命じた命令書は有りませんでしたが、何か?
 「『ガス室』で殺された死体の解剖記録は有りませんが、何か?」より。
 1985年1月17日(偶然にも木村愛二氏の誕生日です)、カナダのトロントで、「ガス室」肯定派の重鎮であるアメリカの歴史家ラウル・ヒルバーグ教授は、ツンデル裁判の法廷で、「ガス室」で殺された死体の解剖記録を知って居るか?と質問され、知らない、と答えています。即ち、「ガス室でユダヤ人が殺された」と主張する側の歴史家が、何と法廷において、つまり宣誓証言の中で、ガス室で殺された死体が、解剖で確認された事を示す記録を見た事が無い(!)と明言したのです。

 「ガス室大量殺人」を主張する歴史家自身が、その「ガス室」で殺された死体の解剖記録を見た事が無いと言っているのです。(これは、The SaultStarと言うカナダの新聞にデカデカと載っています) 「ガス室大量殺人」には、死体と言う物証が無いのです。
 「★阿修羅♪ > ホロコースト6」の2015.2.7日付投稿「ディーゼル・エンジンの一酸化炭素でガス室を作れるか?--「ホロコースト」の教義の科学的不合理」で次のように記している。

 http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/7791247.html

 この本における私の目的は、「はじめに」で述べた通り、「ユダヤ人絶滅計画」や「ガス室」の実在を最終的に否定することではなく、それらに疑問を投じることにそぎません。疑問を投じた後は、「ユダヤ人絶滅計画」や「ガス室」があったという人々による説明を待つばかりですが、「ホロコースト」の「定説」には、まだまだ驚くほどたくさん、不合理が含まれているのです。ですから、現状では、私個人は、こうした彼らの「教義」を信じることはできません。 最も決定的なことは、「ガス室大量殺人」に関する「定説」側の主張に、科学的に不合理な部分が多々含まれているということです。ここで言う不合理というのは、必ずしも不可能という意味ではありません。しかし、あまりにも困難である、或いは馬鹿げている、という意味だとご理解頂きたいと思います。そうした幾多の科学的不合理に「定説」を擁護する人たちは一体、どのような説明をするのでしょうか?

 先ず、そうした科学的不合理の極みとも言えるのが、既にお話しした、「ディーゼル・エンジンで一酸化炭素を発生させるガス室」の話です。即ち、繰り返しになりますが、「定説」側論者は、ポーランドに作られた六つの「絶滅収容所」の内、トレブリンカ、ソビボル、ヘルムノ、ベルゼックの四か所には、「ディーゼル・エンジンで一酸化炭素を発生させるガス室」があり、そうした「ガス室」によって、多くの人々が殺された、と主張しているのです。(「定説」側があったと主張するこの「ガス室」のことを、以下「ディーゼル・ガス室」と呼びます)

 これは、マーティン・ギルバートなど、多くの「定説」側歴歴史家が述べている主張ですが、既にお話しした通り、ディーゼル・エンジンは、ガソリン・エンジンとは違い、一酸化炭素は極く微量にしか排出しません。他の排気ガスはともかく、一酸化炭素の排出量が少ないことこそが、ディーゼル・エンジンの特徴なのです。ですから、仮にドイツ人たちが一酸化炭素を使うガス室などを作ろうとしたなら、はるかに多くの一酸化炭素を排出するガソリン・エンジンではなく、ディーゼル・エンジンを一酸化炭素発生法として選んだという話には、あまりにも合理性が欠けているのです。ところが、「定説」側の歴史家たちは、ドイツ人たちがそのディーゼル・エンジンで一酸化炭素を発生させるガス室を作り、「民族絶滅」の手段とした(!)と言うのです。

 ディーゼル・エンジンでも、不完全燃焼をさせれば、一酸化炭素の排出は増加します。しかし、ガソリン・エンジンを使えばはるかに高濃度の一酸化炭素を得られるのに、ディーゼル・エンジンを使う必要が一体どこにあるというのか、私には全く理解できません。(「定説」側論者の説明を聞きたいところです)。その上、既にお話しした通り、その「ディーゼル・エンジンで一酸化炭素を発生させるガス室」の実物は「現存」しないのです。そして、その「ディーゼル・ガス室」で殺された死体も一体もありません。(「隠滅されたから」なのでしょうか?)これで、「ディーゼル・ガス室」の存在を信じろと言うのでしょうか?

 (西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)212~214ページより)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%
84%E3%80%8C%E3%82%AC%E3%82%B9%E5%AE%A4%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E2%80%95%E6%9C%
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AE%E3%81%8B-%E8%A5%BF%E5%B2%A1-%E6%98%8C%E7%B4%80/dp/4817403934/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid
=1251191180&sr=1-1

【マウトハウゼン収容所でも「ガス室」の大嘘?】
 「云われるところの毒ガス致死に対する疑問」は既に多くの方から指摘されている。以下、2005.5.9日、バルセロナより愛を込めて氏が「阿修羅ホロコースト2」に「マウトハウゼン収容所でも「ガス室」の大嘘?」を参照し、れんだいこ風に整理してみる。

 「ナチ収容所で死んだ5000人のスペイン人たち(エル・ムンドより)」は、「マウトハウゼン強制収容所」について次のように述べている。
 これには以下のような記述があります。

 『ドナウ川に面したマウトハウゼンは、元々オーストリア最大の花崗岩採掘場であった。ナチは採掘場のそばに収容所を建設、他にグーゼン、エーベンゼーなど大規模な衛星収容所を従え、オーストリアにおける強制収容所ネットワークの拠点になった。収容所内の強制労働、暴力などは他のものと比べても凄惨を極め、ガス殺も行われた。』

 この「ガス室」については写真まで載せられているのですが、しかし私が昨日ご紹介したエル・ムンドの記事の中には「ガス室」に関する記述は一言もありませんでした。確かにそこでの強制労働が凄惨を究めたことに間違いはなく、7000名のスペイン人収容者のうち5000人が帰らぬ人となったのです。この記事を書いた記者は『「過労によって」行われる絶滅収容所(el campo el exterminio tuviera lugar "por agotamiento")となっていた』と書いているのですが、しかし「ガス殺」があったのならそれに少しは触れてもおかしくはないと思います。例えば「病気や怪我で役に立たなくなった者はガス殺された」とか何とか。

 またご紹介したエル・ムンドの記事に書かれているユダヤ人の少年シーグフィールド・メイァ(Siegfried Meir)についても「アレ?」と首をかしげました。両親がアウシュビッツで亡くなった、ということですが、労働力にならない小さな子供をわざわざポーランドのアウシュビッツからオーストリアのマウトハウゼンまで移送するのかな?と奇妙に感じたからです。

 彼は解放の1年前、つまり1944年にマウトハウゼンに移されたようですが、アウシュビッツが本当に「絶滅収容所」なら、両親が死んだ後(その死因についてもエル・ムンドの記事には書かれていない)どうして労働力にならない彼を生かしてここに移したのか? 彼が一人のスペイン人の世話で苦しみながらも生き延びることができたのは本当に良かったのですが、それはともかく、「絶滅収容所」に関しては重大な疑問が残ります。

 なおマウトハウゼンの「ガス室」に関しては、次の『歴史的修正主義研究会』の試訳によるロベール・フォーリソンの論文がありますので、ご参照ください。
 「試訳:マウトハウゼンとハルトハイムの「ガス室」文献資料解題」(  http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/faurisson_07.htm


 木村愛二氏は、サイト「憎まれ愚痴」の「ホロコースト神話一覧」の「 シオニスト『ガス室』謀略の周辺事態、『私にガス室を見せるか描くかせよ』」の中で次のように述べている。
 幸いなことに、『偽イスラエル政治神話』には、豊富な資料が盛り込まれている。初版の編集者としてガロディとともにパリ地裁の刑事法廷の被告だったピエール・ギヨームとは、法廷の前のロービーで並んで写真を撮ってきた。その写真をフランスで公開すると、また刑法にふれるというので、「日本でだけ」と約束していきた。ギヨーム自身が『歴史見直し論年代記』の著者でもあり、彼の何十年もの資料収集の成果が、ガロディに提供されている。その中には、「元収容者」であり、しかも、「フランスの第1級の歴史家」による自己点検の文章があった。以下は、『偽イスラエル政治神話』p.228.からの引用である。

 「“ガス室”の知識の出所は戦後の“特集読み物”」

 ブッフェンヴァルトやダッハウの元収容者たちでさえも、このように念を入れて物語られる伝説によって、暗示を与えられてしまう。フランスの第1級の歴史家で、カン市分科大学の名誉学長であり、元収容者としてマウトハウゼン研究所のメンバーに加わっているミシェル・ドゥ・ブアールは、1986年に、つぎのように言明した。

 《1954年に……提出したマウトハウゼンに関する専攻論文で、私は、2度にわたってガス室のことを書いた。その後に思い返す機会があって、私は、自分に問い直した。私は、どこで、マウトハウゼンのガス室についての確信を得たのだろうか?

 それは、私が、あの集中収容所で暮らしていた時期ではない。なぜなら、そのころは私自身も、その他の誰であろうとも、そんなものがあり得るなどとは想像さえしていなかったからである。だから、その知識の出所は、私が戦後に読んだ“特集読み物”だと認めざるを得ないのである。そこで、自分の論文を点検してみると、……私は、常に自分の確信の大部分を引用文献から得ているのだが、……そこにはガス室に関係する引用文献が明記されてなかったのである》(『西部フランス』86.8.2.& 3.)

 つまり、ドゥ・ブアールの場合、「戦後に読んだ“特集読み物”」の強烈な印象が、最早、検証の必要を感じない「記憶」になっていたのである。

 木村氏の阿修羅投稿「ブッシュらの修正主義者呼ばわり以後に牢屋入り覚悟で戦う事例続発し反撃の好機」(http://www.asyura.com/0306/war36/msg/487.html)は次のように述べている。
 http://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-20.html
 
 [“ガス室”論争に終止符を打つ法医学鑑定]
 もしも、誠実に公開の場での議論をする気があるのなら、現在すでに、“ガス室”に関する論争に終止符を打つ三つの研究報告[訳注1]がある。『ロイヒター報告』(88・4・5)、その再鑑定としてのクラクフの報告(90・9・24)、ゲルマル・ルドルフの報告(94)である。これらの研究報告が、なぜ論争に終止符を打つかというと、この方法こそが唯一の科学的で客観的なアプローチとして注目され、現場で採集したサンプルの調査、化学的な分析を可能にしているからである。

 訳注1:本書では『ロイヒター報告』をトロント裁判の記録として出典表示しているが、数種類の単行本がある。訳者が所持している英語版が入手しやすいので巻末リストで紹介する。続編として、ドイツ南西部のダッハウ、オーストリアのマウトハウゼンとハルトハイムを対象とした「第二ロイヒター報告」があり、『歴史見直しジャーナル』(90秋)に掲載されている。

 「クラクフ」とあるのはポーランドのクラクフ市にある国立の法医学研究所であり、日本ならば警視庁が鑑定を依頼するような最高権威である。クラクフの法医学研究所による再鑑定はアウシュヴィッツ博物館の依頼によるものである。同研究所の報告には、もう一つ、さらに詳しいもの(94・5・30)がある。訳者は同研究所を訪れ、鑑定結果についても、『アウシュヴィッツの争点』二三九頁以下に略記した。

 この他に、オーストリア人の工学者で工学専門家協会の会長、ヴァルター・ルフトルの報告(同誌92/93冬)もある。「ゲルマル・ルドルフの報告」は巻末で紹介する『歴史見直しジャーナル』(93・11/12)の記事によると、一九九三年中には公刊されている。ゲルマル・ルドルフは、公認の薬剤師で博士課程の研究者であり、その後に、クラクフの報告を批判する論文をも発表している。さらに同記事によると、アメリカの化学者ウィリアム・リンゼイと、ドイツの技術者ヴォルフガング・シュスターが、同様の調査を行い、それらすべてが『ロイヒター報告』の正しさを裏付けている。


 はちまき伍長氏の2005.5.10日付け「第二ロイヒター報告」(http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/108.html)は、「歴史的修正主義研究会のサイトにある試訳:第二ロイヒター報告(ダッハウ、マウトハウゼン、ハルトハイム調査報告書、フォーリソンの序文つき)」(

http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/leuchter_02.htm)の次の一節を紹介している。
 フォーリソン博士の序文に事情が書かれていました。

 修正主義者の反乱(インティファーダ)

 今日、「ホロコースト」の擁護者たちは混乱におちいっているが、そのことは奇妙な事態を生み出している。彼らは1970年末まで、ポーランドにあるアウシュヴィッツ、ビルケナウその他の収容所については、「ガス室」の実在の、したがって、ユダヤ人の「大虐殺」の「確固とした証拠」を持っていると信じていた。当時、彼らは、何らかの誇張があったこと、今日のポーランド以外の場所にある収容所にはガス室はなかったかもしれないことを認める姿勢をとるまでにいたっていた。ところが、1980年代初頭から、修正主義者の研究の圧力を受けて、ポーランド、とりわけアウシュヴィッツとビルケナウの「ガス室」の実在がますます疑わしいものとなってきた。このために、恐怖にもとづく反動が生み出された。宗教的ファンダメンタリズム、政治的ファンダメンタリズムでの動きと同じく、絶滅論者ももともとの信仰と教義への復帰を呼びかけるようになった。彼らは、放棄されたガス室を「ふたたび定説にしていった」。マウトハウゼン、ザクセンハウゼン、ラーフェンスブリュック、ノイエンガムメ、ストリューホフ・ナチヴァイラー、そしておそらくダッハウにも「ガス室」が存在したとふたたび主張するようになっていった。ここで念頭においているのは、リュッケルル、ラングバイン、コーゴンその他21名の筆者による『毒ガスによる民族社会主義者の大量殺戮』(Fischer Verlag, 1983)である。

Re:れんだいこのカンテラ時評その110 れんだいこ 2005/10/10
 【ネオ・シオニズムの「ホロコースト・プロパガンダ」考】

 「ホロコーストの史的真実」を廻って、「ガス室論争」はかなり為されている。ところが「死体焼却論争」はあまりお目にかかれない。そういう中で、木村愛二氏の季刊誌「真相の深層春号」の「ホロコーストは真実か、虚構か?」(イラク共産党カーデル派のヌーリー・ムラーディー氏著、斎藤力二郎氏訳)が貴重な見解を披瀝している。これを検証する。

 イラク共産党カーデル派とは、現在イラク暫定政権に参加しているイラク共産党とは袂を分かつ別党である。各国各地の共産党は日共もそうであるが、今やネオ・シオニズムに取り込まれている。イラク共産党カーデル派は、そういう仕掛けを拒否して反占領姿勢を鮮明にしている良質な党である。そのイデオローグであるムラーディー博士は次のように云う。

 ヒットラーが600万人のユダヤ人をガス炉で焼却したというこの事件が起きた時期は、第二次世界大戦(1939ー1945年)の最初の3年間とされている。このような大規模で恐るべき犯罪行為は、以下どちかの可能性がなければ起こりえなかったであろう。

1、どのような形にせよ、世界中がこの犯罪行為に加担したか。
2、加担者の誰かがこの物語を創作し、これを事実として世界中に宣伝したか。

 どちらかである。どちらの可能性がより高いのであろうか? 

 ムラーディー博士はこのように問いかけ、「ホロコーストの各要素を見てみよう」と述べて、概要以下のように主張している。(れんだいこ風に意訳している) 
 
1 焼却炉  これが当該焼却炉だとされているガス炉を実際に目にすれば、600万人もの人々をとても焼ききれない代物でしかない。
2 焼却灰  600万人を焼いたとされるならその灰も厖大な量になる。その灰はどこに行ったのだ。なぜ消え去ったのだ?
3 殺戮の手段  ヒットラーはなぜ、手間と費用のかかる殺戮方法を選んだのか。人間一人を毒殺し灰にするには2キロのプロパンガスが必要であり、600万人ともなると1万2千トンが必要になる。当時の局面にあって非常に貴重な燃料の使い方としても問題がある。爆発事故の報告例も無い。
4 人口  戦前戦後のユダヤ人の人口統計上、戦前(1939年)1600万人、戦後(1946年)1800万人と発表されている。むしろ200万人増えていることになるが、600万人を失ってなお200万人増える仕組みが解せない。
5 600万人  600万人はむしろ戦禍で蒙ったドイツ人の人口数である。、
6 全欧州のユダヤ人人口  当時の全欧州のユダヤ人人口は200万人と推定されている。そのうちナチスの支配下に置かれていたのは水増ししても20万人を超えない。如何にして600万人ものユダヤ人を調達したのか。
7 ヤルタ会談  テヘラン会談、ヤルタ会談、ポツダム会談で、ユダヤ人の600万人虐殺は話し合われていない。なぜ、この時、ナチスの犯罪を暴かなかったのか。
8 イスラエル  イスラエルへの移住は100年間に300万人である。ヒトラーは、3年間に600万人を集めたというがそれみそ不思議極まる。
 (れんだいこの私論.私見)

 れんだいこは思う。ムラーディー氏の検証にはなかなか説得力がある。れんだいこもホロコースト物語のウソにうすうす気づき始めているが、新観点で補強されたことになる。未だに尻馬に乗り正義ぶる手合いが後を絶たないので貝にならざるを得ないが、いずれ決着付けねばならない。戦後左派運動は、新旧左翼を問わずその反戦平和運動理論を再検証すべきではないのか。「作られた常識」なら覆さねばなるまい。こういう理論的営為をおろそかにしてはなるまい。

 2005.10.10日 れんだいこ拝
【ホロコースト考最新見解】
 「ヘブライの館2」の「公式に否定された絶滅収容所『ダッハウ収容所』」は「ホロコースト考最新見解」として注目される(「阿修羅ホロコースト2」の救国の草莽の志士氏の2006.2.12日付け投稿「公式に否定された絶滅収容所  投稿者 鉄人 氏が雑談版に投稿していた語源の代名詞「ダッハウ収容所」の真相 転載」)。これを転載しておく。
 ●今ではホロコーストの「絶滅収容所」といえば、ポーランドにある「アウシュヴィッツ収容所」が有名である。「アウシュヴィッツ収容所」はホロコーストの代名詞にまでなっている。しかし1960年代までは、「絶滅収容所」と言えばミュンヘン郊外にある「ダッハウ収容所」のほうが有名だった。「ダッハウ収容所」がホロコーストの代名詞だったのだ。
(※ 「ダッハウ収容所」はナチスが一番最初に作った収容所である。戦争が始まるより6年も前(1933年)、ナチスの政敵や同性愛者、売春婦など「非社会的」とされた人々を収容するために建設された)。

 ●「大量ガス殺」の現場証拠として、「ニュルンベルク裁判」で、唯一、法廷に提出されたのは、記録フィルムの上映による「ダッハウ収容所」のシャワールームの水栓の映像のみであった。裁判では、このシャワー栓の映像が法廷で映写されただけで、「ダッハウ収容所」は「絶滅収容所」だと断定され、「絶滅収容所」はドイツ各地に存在したとされたのである。そして、反対尋問も許さず600万人のユダヤ人虐殺が認定された。世界の人々は、長い間、この裁判結果に基づいて、大戦中に大量のユダヤ人が「ダッハウ収容所」のガス室で虐殺されたと信じてきた。

 ●しかし今では、イスラエル寄りの学者でも、「ダッハウ収容所」が「絶滅収容所」だと言う者はいないし、ドイツ国内に「絶滅収容所」があったと言う者もいない。なぜならば、ドイツ国内に「絶滅収容所」は無かったことが公式に発表されたからである。「ニュルンベルク裁判」から15年後の1960年のことである。当時、西ドイツ政府の第二次世界大戦や「ホロコースト」に関するスポークスマン的地位に会った歴史学者、マーティン・ブロサット博士が、突如として、ナチスが大戦中「ガス室」を作ったのはドイツ軍に占領されたポーランドだけで、ドイツ本国に「ガス室」はなかったという趣旨の声明を発表した。「ダッハウでも、ベンゲル=ベルンゼンでも、ブッフェンヴァルトでも、ユダヤ人その他の収容者がガスで殺されてはいない。……ガスによるユダヤ人の大量絶滅が始まったのは1941年から1942年であり、……(旧ドイツ帝国の領土内ではなくて)占領下のポーランドの、アウシュヴィッツ=ビルケナウ、ソビボル、トレブリンカ、ヘウムノ、ベウツェックにおいてである」(1960年8月19日付『ディー・ツァイト』紙)。

 ●このようにブロサット博士は「ニュルンベルク裁判」の判決に全く反する声明を発したのである。ブロサット博士はその後、1972年に「ミュンヘン現代史研究所」の所長に就任したが、この研究所は、それまで「大量ガス殺」の存在を「証明」するために実に多くの発表を行なっており、西ドイツ政府の歴史に関する見解を代弁する団体とみなされていた。しかしブロサット博士の影響で、従来の見解を捨て去ったのである。
 ●今では、あの「ナチ・ハンター」として有名なユダヤ人活動家、シモン・ヴィーゼンタールまでが、「ダッハウ収容所」を否定し、ドイツ国内には「絶滅収容所」はなかったと言わざるを得ないのである。もっとも、ドイツ国内に「大量ガス殺」収容所、すなわち「絶滅収容所」が存在したことは完全否定されたが、「ガス室」そのものは存在したとされる。場所は収容所ではなく「精神医療施設」。そこでは何万という精神障害者が「ガス室」で密殺されたのである。また、最近では、収容所内でも「実験的ガス殺」が存在していた、という研究報告も出されている。しかし、この「実験的ガス殺」は「絶滅収容所」のものと比べると非常に小規模なもので、そこでの死者は恐らく数千人程度で、1万人以下であることはほぼ確実だという。

 ●ホロコーストの代名詞として、「絶滅収容所」として名をはせた「ダッハウ収容所」は、現在は記念館になっていて、そのパンフレットには「このガス室はシャワー室に偽装したものですが、一度も使われたことがありませんでした」と書いてある。こうして、「ニュルンベルク裁判」で決定された「ドイツ国内にも絶滅収容所があった」という通説は、完全否定され、「ニュルンベルク裁判」で採用された唯一の映像は、決定的な物的証拠ではなかったことが判明したわけである。それまでは、ダッハウ以外のドイツ国内の収容所(ベルゲン・ベルゼンなど)でも、それぞれ「ガス室」における処刑を告発し、または自供する山ほどの「証言」があった。しかし、これらも吹き飛んでしまった。

 ●この一連の騒動のあと、「ダッハウ収容所」に代わって「絶滅収容所」として注目されたのが「アウシュヴィッツ収容所」である。「アウシュヴィッツ収容所」は、戦後10年間、ソ連が立ち入りを全面的に禁止していたため、十分な調査(実地検証)がなされていなかった。そのため、「アウシュヴィッツ収容所」の実態に関しては不明な部分が多く、現在も「アウシュヴィッツ収容所」を巡る論争は尽きない状態である。
 ●ちなみに、「ダッハウ収容所」を解放したのは、アメリカの日系人部隊である。

 ■■追加情報: ダッハウの「ハーブ園」と「医学人体実験」
 ●ナチス・ドイツではハーブと自然薬が大いに推奨されていたが、1930年代末、SS長官ハインリッヒ・ヒムラーの命令を受けたSSの植物学者たちは、ダッハウに広大な「ハーブ園」を建設した。こうして実験用およびSS隊員、軍への配給用として香辛料や植物の栽培が始まり、「ダッハウ収容所」は世界最大の「薬用植物研究所」をもつにいたったのである。多くの囚人たちが、ダッハウ湿原を耕した200エーカーの土地で様々な種類の薬草・香草類の栽培・乾燥・出荷にあたっていた。有機栽培で育てた花からハチミツも作られていた。

 ●アウシュヴィッツ収容所所長ルドルフ・ホェスによれば、戦争中、軍が使用した調味料のほとんどすべてがこの「プランテーション」で栽培されていたという。これは事業としても収益性が高く、SSは年間何十万ライヒスマルクを得ていた。そして1945年以後も、ダッハウの菜園は共同農場として運営が続けられ、何百人もの元囚人が労働を続けていたほど収益性の高いものだった。このダッハウの菜園以外にも、ヒムラーの命令によりSSの兵舎や収容所の多くで薬草の栽培が行なわれた。
 ●このように、「ダッハウ収容所」は世界有数のハーブとスパイスの栽培所となっていたのである。

 ●もちろん、「ダッハウ収容所」は囚人たちにとって「楽園」ではなかった。“死神”がうろつくような劣悪な生活環境であった。栄養失調、石切り場での重労働では数ヶ月しか命がもたなかった。また、ナチスの医者によって残酷な「医学人体実験」も行なわれていた。(主な人体実験に「低圧実験」「低温実験」「マラリア実験」「海水飲用実験」などがある。人体実験の被害にあったのはユダヤ人だけではなく、ジプシー(ロマ)も多く含まれていた)。
 ●微笑ましい風景に見える「ハーブ園」と、残酷でおぞましい「医学人体実験」──。この本来結びつきそうもない両者が、奇妙に共存していたのが「ダッハウ収容所」であった。ダッハウで「薬草」の栽培にいそしんでいたSS隊員たちにとって、囚人たちは価値のない「雑草」にしか見えなかったのかもしれない……
 ●ところで、当時のドイツにとって、囚人たちは貴重な「労働力」であったことも見逃すことはできない事実である。ダッハウではガスによる大虐殺はなかったが、過酷な労働作業が存在していた。(これを象徴するように、ダッハウのゲートには「労働が自由への道」という標語が掲げられていた。これと同じ標語が「アウシュヴィッツ収容所」のゲートにも掲げられていた)。
 ●ダッハウの「労働力」を使役して進められた大プロジェクトのひとつが、「モル」と呼ばれた巨大地下施設の建造である。防空構造を持たせたこの工場が生産する予定だったのは、「リンゲルタウベ(杜バト)」という暗号名で呼ばれた、ヒトラーの秘密兵器製造計画のひとつである。ドイツ空軍が連合軍機によって空から駆逐されつつあったため、ドイツ側は、猛烈な勢いで世界最初の実用ジェット戦闘機「Me262」の建造に取り組んでいたのだ。(この「Me262」は、何機かが1945年初期に離陸を果たすが、そのときにはすでに、連合軍の制空権は圧倒的なものとなってしまっていた)。

 「阿修羅ホロコースト2」の西岡昌紀氏の2006.2.12日付け投稿「フランツ・ブラーハ(Franz Blaha)の「証言」は何だったのか?」は次のようにコメントしている。
 ダッハウの元被収容者で、チェコ出身の医師であったフランツ・ブラーハ(Franz Blaha)は、ニュールンベルク裁判で、証人として証言し、自分は、医者だったので、ダッハウのガス室で、殺された人々の検死を毎日やらされて居た、と「証言」して居ます。(笑)

 一体、ブラーハのこの「証言」は何だったのでしょうね?                           


 「★阿修羅♪ > ホロコースト6」の西岡昌紀氏の2011.5.1日付け投稿「(書評)シュロモ ヴェネツィア著『私はガス室の「特殊任務」をしていた』」は次のようにコメントしている。
 (書評)私はガス室の「特殊任務」をしていた  シュロモ ヴェネツィア著エディション: 単行本 価格: ¥ 2,100 -------------------------------------------------------------------------------
 ナチスドイツが、ユダヤ人を差別・迫害した事は明白な史実です。しかし、ドイツが、「ガス室でユダヤ人を殺した」と言ふ話は、本当に検証の余地が無い歴史的事実なのでしょうか?  「何をバカな」とおっしゃる方は、次の医学的事実を御存知でしょうか?

 --戦後、「ドイツはガス室でユダヤ人を殺した」と言はれて来ました。ところが、その「ガス室」で殺された死体、即ち、何らかの毒ガスで死亡した死体は、一体も確認されて居ないのです。即ち、病理学者か法医学者が、解剖と化学分析によって、何らかの毒ガスで死亡したと確認した死体は、当時、実は、一体も発見されて居なかったのです。皆さんは、この事を御存知でしょうか?(テレビの資料映像等に出て来る収容所の死体の映像は、発疹チフスなどによる病死者の死体であった事が、アメリカの病理学者・法医学者チャールズ・ラーソン博士が行なった多数例の解剖によって明らかにされて居ます)

 「証言が有るじゃないか」とおっしゃる方は、この本の101ページをお開き下さい。そこに絵が有ります。その絵は、アウシュヴィッツ(ビルケナウ)のガス室で、処刑が行なはれた後、本書で語られる「特殊任務部隊」(作業員)の一人が処刑された死体をガス室から搬出し、焼却炉に運んで居る場面を描いた物とされて居ます。その「ガス室」で使はれた毒ガスは、ツィクロンBと言ふ製剤から遊離した青酸ガス(HCN)だとされて居ます。そして、その死体搬出の様子を、すぐ近くでドイツ兵が監視して居ます。皆さんは、この絵が描く光景をお信じに成る事が出来るでしょうか? 

 私は、信じられません。何故なら、青酸ガスは猛毒で、肺のみならず、皮膚科らも吸収される毒ガスだからです。だからこそ、青酸ガス(HCN)を使ったガス室で実際に死刑を行なって来たアメリカでは、処刑後、作業員は、死体の搬出に際して、全身を防護服で包み、もちろんガスマスクをして、同じ作業に当たって来たのです。青酸ガス(HCN)とは、それほど危険な物なのです。ところが、この本のこの絵に依れば、アウシュヴィッツ(ビルケナウ)では、同じ青酸ガスで処刑を行なった後、作業員はガスマスクもせず(!)、上半身裸の格好で(!)、青酸ガスによる処刑が行はれたガス室に入り、青酸ガスが付着した死体を素手で運び出して、焼却炉に運んだと言ふのです。そして、それを監視するドイツ兵も、ガスマスクをして居なかったと言ふのです。こんな事をしたら、「特殊任務部隊」の作業員もドイツ兵も、青酸ガスで命を落とした事は確実です。しかし、そんな、信じられない作業がアウシュヴィッツ(ビルケナウ)では行なはれて居たと言ふのです。又、113ページにも、同様の光景を描いたスケッチが掲載されて居ます。

 この様な、到底信じる事の出来無い光景を「目撃した」として、これらのスケッチを描いたのは、ダヴィッド・オレール(David Olere)と言ふ人物です。そのオレールの信じ難いスケッチを、シュロモ・ヴェネツィア氏は、肯定して居ます。皆さんは、この本の内容を信じる事が出来るのですか? 繰り返して言ひます。ナチスドイツが、ユダヤ人を差別・迫害した事は明白な史実です。しかし、だからと言って、戦後語られて来た「ホロコースト」の内容に、検証されるべき点は何も無いのでしょうか?「無い」とおっしゃる方は、私の上の指摘をどう説明するか、聴かせて頂きたいと思ひます。

れんだいこ:ホロコースト史実検証1(死者数) [「れんだいこ」から]

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/horocoastco/shijitukensyo_shisyasuco.htm

ホロコースト史実検証1、死者数


 (最新見直し2007.3.6日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
  現代歴史学の主流は、「世界中の一般的評価の到達点として、ホロコーストの犠牲者は、アウシュビッツの150万人を含め約600万人」との定説で一致している。しかし、れんだいこは思う。この定説には明らかに実証性が欠けている。その状態で、「踏み絵」と化している。

 「ユダヤ人のホロコースト犠牲者数論」は実際には600万人説から始まり、500万人説、300万人説、7万4千人説、3万人説と一定していない。それにしても、600万人から3万人のピンキリの違いが激し過ぎる。この差は足して2で割り平均数を出す訳には行かない。どちらかが間違っているとした方がよかろう。ここでは、それぞれの根拠を確認してみることにする。

 2005.12.26日 れんだいこ拝

【ホロコースト死者の死体処理、焼却、埋葬情報の皆無考】
 ホロコースト死者の数の詮議以前の問題として、仮に虐殺があったとして、「毒ガス廃棄処分後の死体処理をどうしたのか」について確たる証拠が出てこない。焼却時の臭い、骨の処理についても何らの情報もない。数十万人、数百万人の火葬による骨灰は何トンにもなる。これに関係する大規模な灰処理場の証拠は見つかっていない。戦争中、「ガス室」と火葬炉がフル稼働していたとされる時期、連合国はアウシュヴィッツの航空写真を撮影しているが、こうした写真には、収容所を常に覆っていたとされる大量の煙すら写っていない。あるいは、死体を燃やしたとされる穴も見当たらない。証拠が確実に残っているなら、ドイツに潜伏していた記者やスパイが見逃すはずがない。文化大革命やベトナム戦争における韓国兵の虐殺は証拠画像が残っている。東京大空襲の被害者画像もある。しかしアウシュビッツによる虐殺時の画像がほとんどない。あっても別の場所で空襲を受け、死んだ画像ばかりだ。証拠とされているものは戦後の証言、その大部分は「生存者」の個人証言である。

 これを検証しようにも、「ドイツ・フランス・イスラエルでは、ホロコーストを否定したり、ナチスを支持するような一切の発言や表現、ユダヤ人虐殺・ホロコーストを再検証する行為は法律によって禁止されている。それ以外の多くの国でも、タブー視されている事実がある」。

【2006.9.11日付、れんだいこのカンテラ時評211】
太田龍・氏の「アウシュビッツの死者の数。九百万人から七万三千余人へ」考】
 2001.9.115周年のこの日、「太田龍・氏の時事寸評」の2006.9.11日付け№1799回は、「アウシュビッツの死者の数。九百万人から七万三千余人へ」を掲載している。れんだいこが転載し、要点整理しておく。(れんだいこ責編集)
 「アウシュビッツ」、これは、過去六十年以上、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツのユダヤ人「六百万ホロコースト」「犯罪」のシンボルであり続けて居る。「アウシュビッツ―最終決算」(ヴィヴィアン・バード編集、1999、ザ・バーンズ・レヴュー刊、未邦訳)によると、ナチスドイツによってアウシュビッツ・ホロコーストで殺された人々の数は、次の如く変遷した。
1 九百万人説  1945年、フランスのドキュメンタリー、「夜と霧」。
2 八百万人説  1943.12.31日、フランス戦争犯罪調査局。
3 七百万人説  1945年、フランス戦争犯罪調査局。
4 六百万人説  1951年、ティベール・クレーマー。
5 五百万人~五百五十万人説  1945年、モスクワでのアウシュビッツ裁判。
6 五百万人説  1978.4.20日、フランスの新聞、ルモンド。
7 四百五十万人説  1945年、ヘンリク・マンデルバウム。
8 四百万人説  1945.5.6日、ソ連の数字。ニュルンベルグ裁判。
9 三百五十万人説  1991年、クロード・ランツマン。
10 三百万人説  アウシュビッツ収容所長、ルドルフ・ヘスの自白。
11 二百五十万人説  1961年、ルドルフ・ヴルラ。
12 二百万人~四百万人説  1982年、イスラエルの歴史家。
13 二百万人~三百万人説  SS士官ペリー・ブルームの自白。
14 二百万人~二百五十万人説  1945年、フリードリッヒ・エントレス博士の自白。
15 二百万人説  1951年、1973年、1975年。
16 百六十万人説  1989年、イスラエルの歴史家。
17 百三十万人説  1995年、ワレサ・ポーランド大統領。
18 百四十七万千五百九十五人説  1983年。
19 百四十三万三千人説  1989.9.1日、フランスのル・モンド紙。
20 百二十五万人説  1985年、歴史家。
21 百十万人~百五十万人説  1984年、1998年。
22 百万人説  1989年。
23 九十万人説  1990.8.3日、ニューヨークで発行されて居るユダヤ人の新聞アウフバウ。
24 八十万人~九十万人説  1953年。
25
26 六十三万人~七十一万人説  1994年。
27 七万三千百三十七人説。(73,137)  1991.3.5日号、ニューヨーク・タイムズ。 
 つまり、アウシュビッツの収容所の死者の数は、九百万人 → 七万三千百三十七人。9,000,000人 → 73,137人と、「変化」したわけである。

 筆者は、今、日本ではこの「アウシュビッツでのユダヤ人ホロコースト」の死者の数が、どのように報道され、放送され、記述され、教えられて居るか、詳しく調べては居ない。しかし、手許の「集英社国語辞典、第二版(二千年九月)」によると、アウシュビッツでのナチスドイツによる捕虜やユダヤ人など、四百万人以上が虐殺された、と記してある。この四百万人以上との説は、ドイツ降伏の直後、ソ連共産政権が出して来た説と一致する。

 しかし、一九九五年、ワレサ・ポーランド大統領は、百五十万人説である。このワレサ大統領の説は、前出日本の国語辞典発行者は、デマ宣伝 と見なすのであろう。いずれにしても、日本のエリート(実は単なる白痴、家畜人ヤプー)の心理は、第二次世界大戦直後のまま、時間は完全に動かないようである。(了)
(私論.私見) 「アウシュビッツの死者数のものすごい変遷」考
  なんとまぁホロコースト死者数は、最大9百万人説から最小7万3137人説まで27通りあるという。万事アバウト派のれんだいこのアバウト度を越えている。問題は次のことにある。

 鳴り物入りで喧伝され、戦後反戦平和運動の理論的支柱でもあるホロコーストの死者数のこれだけの落差を聞かされて、それがどしたとカエルの面にションベンの手合いは別として、多くの者は捨ててはおけないと思うのではなかろうか。学問が真に学問なら、実態検証に向うべきではなかろうか。それがそうならない現実がある。

 西横綱のホロコーストがそうなら、東横綱の南京大虐殺事件はどうなんだろう。西欧はズボラでも日本は違う、その数はェェェとェェェと締めて60万人説から数百人説までいろいろある、議論はしないのが上策などというのではないだろうな。

 戦後教育は数々の評価点がある。しかし、歴史認識のこの辺りをネオ・シオニスト教学で塗り込められ、それを疑わないのが知性で出世する。現に俺は大学教授だ、恐れ入ったかと成金舶来趣味を見せびらかしてご満悦するのは、戦後教育のお粗末なところだろう。

 そのお粗末シオニスタン三バカ中堅トリオが自民党総裁選を演出しており、読売系が後押ししている。曰く、お前は憲法改正を言え。お前は消費税10%を言え。お前は日米安保深のめり万歳論を唱え。連日これを吹聴することに意味がある。とでもするシナリオが出来ているんだろう。

 思えば、「痛みを伴う改革」で登場した小ネズミ5年有余の施政は、「痛みを伴う」のは本当だった。「改革」は全てコマーシャルに過ぎなかった。せんでも良いことばかりやって米英ユ同盟にはお供えにつぐお供えで国富を吸い取られてきた。云うことと為す事が明らかに狂人であるが、メディアはこれを異能と称えてきた。

 シオニスタン三バカ中堅トリオはこれを継承すると云う。ますますお供えに励み、人民大衆に痛みを強制し、食えなくなったら自衛隊入れ、戦え、危険手当が割り増しで出るぞ、稼いで帰れ、その為の愛国親孝行路線を敷く。憲法改正、教育基本法改正に邁進すると云う。

 しかしなぁ、歴史弁証法は面白い。作用には反作用が伴う。詭弁は所詮詭弁で、化けの皮が剥げる。その為の理論的営為が進行している。これではアカンと憂国する士が澎湃と連帯し始め、シオニスタン攻略に向うことになる。今はその曙光期だと思う。

 2006.9.11日 れんだいこ拝
【「ナチスによるユダヤ人虐殺600万人肯定説」について】
 「ア ウ シ ュ ヴ ィ ッ ツ 1」その他を参照する。
 「ナチスによるユダヤ人虐殺600万人説」は次のように述べている。
 「ナチスは、占領国の随所にアウシュヴィッツなど1000カ所の強制収容所を建設し、総数1800万人を収容した。収容所で死んだ者はおよそ1200万人。そのなかの600万人がユダヤ人。戦争が始まったとき、ポーランドには330万人のユダヤ人がいたが、戦争が終わったときには、4000人になっていた。「第2次大戦中、ドイツのナチス政権は欧州各地から数百万人のユダヤ人らを強制収容所に集めて殺した。なかでもポーランド南部のアウシュビッツ(現オシフィエンチム)では、毒ガス、銃殺、飢えで、100万人を超す人々が虫けらのように命を奪われた」。
 高橋亨・氏は、「『ガス室の嘘』オンライン論争の経験から」の中で、次のように述べている。
 http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/holocaust/lets23.htm
 「ホロコースト否定論とは、ナチス・ドイツが約600万にものぼる膨大な数のユダヤ人をガス室その他の手段を用いて殺害し、ヨーロッパにおけるユダヤ民族の絶滅を図ったという歴史的事実を否定し、それは戦中から戦後にかけて捏造された嘘…」。
 その歴史事情は次の通り。「国の紹介: イスラエルQ&A」は次のように記している。
 1933年、ドイツで権力を握ったアドルフ・ヒトラーは、国家社会主義党政権を樹立させました。この政権はナチ党の人種主義を信条としていましたが、それによるとアーリア人であるドイツ人は「至土人趣」に属する一方、ユダヤ入はウンターメンシェン、即ち人間以下の存在で人類には属さないとされていました。

 1939年、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、事態は第二次世界大戦へと突き進んでいきました。戦争の初めの段階で容易に連勝を重ねたヒトラーは、ある計画を実行に移す好機を得ました。ユダヤ民族の絶滅です。それが行なわれたのは、主にヨーロッパでユダヤ人が最も集中していたポーランドの地でした。

 戦後発見された文書から、ヒトラーが世界中の全てのユダヤ人の根絶を目指していたことが明らかになっています。その計画を履行するため、ドイツ軍はユダヤ人をゲットーに集め、強制労働・集結・絶滅を目的とした収容所を建設し、それらの施設にユダヤ人を移送しました。労働に適さないと見なされた者は殺され、残りの大半の者も餓死や病死へと追いやられました。
 
 この戦争中の6年間で、ナチに殺されたユダヤ人はおよそ600万人、当時のユダヤ人口の約三分の一にのぼります。そのうち150万人は子供たちでした。背筋の凍るような効率性を以って実行されたこのユダヤ人絶滅計画は、単なる大量殺薮以上のものでした。それは規模・運営・履行手段において他に類を見ないが故に、ホロコーストという独白の名称を冠されているのです。
 戦後50年が過ぎないうちから、ネオナチの人種主義者や反ユダヤ主義団体などが、ホロコーストが起きたことを否定しようとしたり、規模はもっと小さかったなどと主張してきました。こうした動きにはさまざまな理由がありますが、大半は政治的なものや反ユダヤ主義から発したものです。

 ナチズムの衰退を払拭したいと願う者たちもいれば、イスラエル国はユダヤ人に対するホロコーストの補償として建国されたが故にホロコーストが起きたことを否定することでイスラエルの生存権を奪うことができると信じている人々もいます。

 ホロコースト否定論に対する支持がアラブ諸国で高いのは、そのためです。しかし、ホロコーストは実際に起こりました。そして、それを記憶し、文書に残し、記念することで、二度と同じようなことがユダヤ人にも他の人々にも繰り返されることのない世界にしてゆくことができるのです。ホロコーストの否定は倫理に背いており、世界全体を脅かすものです。

【「ナチスによるユダヤ人虐殺600万人肯定説」の出所考】
 木村愛二氏の2006.9.13日付け阿修羅投稿「第2節:ニュルンベルグの正義の神話-2/8六百万人という数字の証言者はイギリスのスパイ」、網木村書店 Web無料公開「偽イスラエル政治神話(14)、第2章:二〇世紀の諸神話」は、次のように記している。これを転載しておく。
 ここで本書の主題、“偽イスラエル政治神話”の原点に立ち戻り、半世紀を経て後もなお、単に中東問題に止まらず、現在の世界にさらに重大な荒廃を及ぼしている虚偽の判定の一つ、六百万人のユダヤ人絶滅という神話について、その徹底検証に取り掛かろう。この神話は、すべての国際法の上に位置付けられている。アメリカに対しての、さらには国連を通じて、すべての現代の政治に対しての、とりわけ、パレスチナおよび中東におけるイスラエル国家のすべての不当な請求を正当化し、ホロコーストという言葉そのものが暗示しているように、神聖化する教義となっている。
 この数字は、ニュルンベルグ裁判所によって公式化され、それ以後、あるいは活字、あるいは音声による報道、文学、映画、学校で使われる教科書に至るまでの経路を通じて広められ、世論操作に役立ち続けてきた。

 ところが、この数字を支える証言は、たったの二つしかなかった。一つはホェトル証言であり、もう一つはヴィスリツェニー証言である。最初の証言は、つぎのようなものである。

 《ニュルンベルグの判事に対して、ドイツ国中央保安局第4課の上級突撃隊司令官、ヴィルヘルム・ホェテルは、つぎのように答えた。〈一九四四年四月のことだった。一九三八年以来の仲の親衛隊の上級突撃隊司令官、アドルフ・アイヒマンと、ブダペストのアパートの私の部屋で話し合ったことがある。……彼は、自分が同盟国から戦争犯罪人に指名されていて、その理由は身に覚えのある何万人ものユダヤ人の命のことだと知っていていた。私が、どのくらいの数になるのかと聞くと、彼は、この数字は極秘だといいながら、彼が受けた報告から到達した結論として、様々な絶滅収容所で約四百万人のユダヤ人が殺され、他の方法で死んだユダヤ人が二百万人に達すると語った〉》(ニュルンベルグ裁判記録)

 二番目は、つぎのようなものである。

 《彼(アイヒマン)は、喜んで墓場に飛び込むが、それは、身に覚えのある五百万人の命の印象が、彼に異常な満足をもたらしているからだと語った》(同前)
 この二つの証言については、ポリアコフ氏「後出。“ガス室”論争の禁止を提唱した絶滅論者]でさえもが、こう語っている。

 《こんなに不完全な支えしかない数字で嫌疑者にされることについては、異議を唱えることが可能だった》(『第二次世界大戦の歴史評論』56)

 ニューヨークのヘブライ語新聞、『ダ・アウフバウ』の一九六五年一月三〇日号は、この時までにヒトラーの支配下にあった時期に受けた被害を名目とする・賠償・請求を実現した人数を、三三七万五千人と報道した。

 [六百万人という数字に関する]最も重要な「証言」への付記として、この上なく完全で正確なのは、「秘密情報機関」の手先だったホェトルに関する実録である。イギリスの評論雑誌『ウィークエンド』の一九六一年一月二五日号は、ホェトルの写真を表紙に飾って、つぎの題の伝説を掲載した。

 《“あるスパイの生涯”、事実は小説よりも奇なり、このナチの指導者の友人のボスは、イギリス秘密情報機関の長官だった》

 “ニュルンベルグ裁判所”の法的な異常性に対して、アメリカの最高裁その他の大物法律家が唱えた異議の正しさを確認するために、ここでは単に、そこで蹂躙された実例の項目のみを示すが、これらは、すべての本来の訴訟手続きでは恒常的に確立されている規則なのである。1、提出された「書証」[textes.記録]の真正さの証明および検証。2、「証言」の証拠価値、および出所、それが獲得された状況の分析。3、「凶器」の機能と効果を証明するための科学的鑑定。

【「ナチスによるユダヤ人虐殺600万人疑問説」について】
 これに対して、次のような反論が為されている。「ホロコーストは戦後のユダヤ特権を享受するための捏造神話」、「アドルフ・ヒットラーはイスラエル建国の父」その他は次のように記している。

 戦前1900万人いた世界のユダヤ人が、戦中、欧州で600万人虐殺されたのに、戦後5年ったら1850万人に回復している?ユダヤ人は戦後、気が狂ったように子作りに励んだのでしょうか?ユダヤ人はハツカネズミだとでもいうのでしょうか?人口増加率の高いインドでもせいぜい1.5%だから、ユダヤ人も戦後同じペースでせっせと励んだとしても、600万人虐殺が本当なら、1950年でせいぜい1400万人にしかならない筈です。(逆に戦後、ユダヤ人口は増えているとするデータすらあります。-参考EF。実際に収容所で死んだユダヤ人は、15万から30万だったろうと結論付けています。)

 「600万人」が嘘だということです。こんな初歩的な嘘にも気づかず、必死に否定論に対抗している「肯定論者」の方の素性に大いに興味が持たれます。なにか、ユダヤ勢力と特別の利害関係でもあるのでしょうか?

 
 「シンドラーのリスト」に拠れば、世界のユダヤ人の人口を示す統計数字の事実に関する指摘があり、世界のユダヤ人口は、戦前1900万、戦後の1950年に1850万という統計が出されている。ニューヨークのユダヤ人協会が発行している世界年鑑に出ている数字である。600万人も減少した人口が僅か5年の内にたちまち回復するなどとても考えられない事であり、明らかにおかしなことになる。

 「ホロコーストは戦後のユダヤ特権を享受するための捏造神話」は次のように記している。
 ユダヤの一部の人たちは、ホロコーストの嘘を狡猾に利用して、特権を行使してきたと思います。ユダヤ人を批判することは、ユダヤ人を虐殺したナチス・ドイツと同じ罪を犯したことになると世界の民に思わせる。誰も追求・批判できなくなったユダヤ人たちは、心置きなく犯罪に走る。ユダヤの嘘。「悲劇の民族」を強調して、特権を手に入れ、甘い汁を吸ってきたのです。

 麻薬の世界をちょっと覗いてみると、ユダヤにぶち当たります。あっちでもこっちでもユダヤが出てきます。追及されない特権を悪用して、ユダヤはおおっぴらに麻薬事業に精を出してきたのです。

 911にしても、ユダヤの内部犯行であることは明白です。911でユダヤがもくろんだことはいくつかありますが、中でももっとも重要な目的は、アフガンの麻薬利権を回復することであったと考えます。オピウムの生産を禁止したタリバン政権を倒した結果、アフガンのヘロイン生産は、911以前よりもさらに拡大しています。世界のヘロインの75%以上をユダヤが盗み取ったのです。

 ホロコーストを免罪符に使って、追及・批判を逃れ、やりたい放題の犯罪を繰り返すのは、いい加減にやめてください。911があなた方ユダヤ人の謀略であったことも、もうわかる人にはわかっています。あなた方が、極東の飼い犬たちを動かして、もう一度大戦争を引き起こして、金儲けを企んでいることもわかっています。ですが、もう諦めてください。

 そして善良なるユダヤの皆さん、一部の暴走者ユダヤ人を止めてください。このまま放置すれば、ユダヤ社会全体の存亡の危機です。ユダヤの輝かしい歴史が血塗られます。ユダヤの問題はユダヤが解決してください。

 そして、ユダヤに戦後の特権を授けたアドルフ・ヒットラーとナチスという存在にもおおいに疑問を持たざるを得ません。ユダヤ弾圧の主役であったアイヒマンは、ユダヤのイーデッシュ後が堪能な「ユダヤ人」であったとする分析があります。ヒットラー自身にも祖父にあたる人物が、ユダヤ社会のトップにあったウイーンのロスチャイルド家(ロートシルト男爵)の当主であった強い可能性があります。さらには、ナチスの資金源も、調べていくとロスチャイルド、ロックフェラー、ハリマンといったユダヤ財閥だったのです。ナチスがユダヤによって作られたものだったと世界の人が認識を新たにする時代がもうすぐやってくると思います。人類は、ユダヤ人によって騙され続けてきたのです。
 「アドルフ・ヒットラーはイスラエル建国の父」は次のように記している。
 彼は「ヨーロッパのユダヤ人600万人をガス室で殺戮した人類史上最悪の犯罪者」であると認識されています。そう認識されてはいますが、事実と合致する認識であるかどうかは、おおいに疑わしいのです。

 確かにナチスは、ユダヤ人狩りを行い、強制収容所に送り込みました。しかし、その数は600万人ではなかったし、ガス室で殺戮した事実もありませんでした。「600万人」も「ガス室」も、戦後のユダヤ人に同情を集めるための作り話であり、他人様の土地にユダヤ国家を勝手にでっち上げ、パレスチナ人を殺したいだけ殺してきたユダヤ人の免罪符として、上手に使われてきた捏造神話だったのです。

 確かにヨーロッパのユダヤ人は、600万人減少したようです。しかし、その大半は、アメリカとイスラエルに逃れました。ガス室で死んでなどいません。そんな大量殺戮のできる設備など最初からありませんでした。むしろ、戦後数年して、世界のユダヤ人口は戦前よりも300万人も増えています。

 そして、アウシュビッツにはガス室などありませんでした。あるべき膨大な量の遺骨もみつかっていません。収容所で死んだユダヤ人はどんなに多く見積もっても100万人。ほとんどの死因は、伝染病でした。アンネの日記のアンネ・フランクもガス室ではなく腸チフスで死にました。「ユダヤ虐殺の悲劇」は、ユダヤとイスラエルの利益を生むためのプロパガンダでもあったのです。さて、そのいまわしい虐殺を主導したナチスの連中の正体を暴いてみましょう。

 ドイツ民族の永遠に消えない恥辱、ナチス・ドイツですが、一体、どちら様がスポンサーだったのでしょうか? ユダヤ人でした。繰り返します。ヒットラーのナチス・ドイツのスポンサーは、ユダヤ人でした。アドルフに資金を注入し、ナチスのトップに押し上げ、さらにナチスに政権をとらせたのは、ユダヤ財閥、ロスチャイルドだったのです。そして、強制収容所のユダヤ人の奴隷労働でぼろ儲けをしていたのは、ロックフェラー、ブッシュ、デゥポン、ハリマン、ウォーバ-グら、アメリカのユダヤ財閥だったのです。

 「そ、そんな馬鹿な。なんで、ヒットラーをユダヤ・ロスチャイルド財閥が資金援助したんだ?そんなこと、あるわけない!」と、お怒りのあなた、その「なんで?」についてご説明しましょう。「ヒットラーは、シオニスト・ユダヤ人にとって不可欠な必要悪」だったのです。ヒットラー以前の欧州ではユダヤ人の現地民族との同化が進み、民族意識が希薄になりつつありました。その事態を恐れていたのは、狂信的なシオニスト・ユダヤでした。彼らは、旧約聖書の予言にある「ダビデ王の国の再興」を目指していました。ダビデ王の国を再建するには、国民をどこかから シオンの丘に連れてくる必要がありました。ヒットラーのユダヤ弾圧は、ヨーロッパのユダヤ人の民族意識を覚醒させ、父祖の国、イスラエルに回帰させる結果を生んだのです。ヨーロッパから流れたユダヤ人口が、イスラエルの国民となって、戦後、晴れて旧約聖書の予言は達成されたのです。このイスラエル建国に尽力したシオニスト ・ユダヤ人の中心人物は、ヒットラーの後援者でもあるロスチャイルドだったのです。

 実際、ナチスはシオニスト・ユダヤ組織と緊密に連携しています。ナチスも、シオニスト同様に、欧州のユダヤ人を追い出す政策で、シオニストと一致していたのです。そして、ユダヤ弾圧の当事者であったアイヒマン(左の写真)が、シオニストとの折衝に当たっていたようです。そのアイヒマン当人が、実はイーデッシュ語ガぺらぺらのユダヤ人であったという説すらあります。また、シオニスト組織は、ナチの迫害を受けているユダヤの大衆を助けようとはしなかったそうです。助けないことにより、ユダヤ人が欧州を出てイスラエルに赴くよう仕向けたのでしょうか?

 イスラエル建国の悲願達成のため、奔走したユダヤ大財閥、ロスチャイルド家。そのロスチャイルドから後援されていたヒットラー。欧州からユダヤ羊の群れを追い出し、イスラエルという囲いに追い込んだ牧羊犬、ヒットラー。奇妙な関係です。では、ヒットラーとは一体誰なんでしょうか?

 「ヒットラーの父方の祖父が誰であるのか?」に注目しましょう。ヒットラーの祖母、マリア・アンナは、オーストリアのロスチャイルド家(ロートシルト家)に家政婦として奉公していた際、誰かの子供を身ごもって、実家に帰されています。そして、実家でアドルフの父にあたるアリオスを出産しているのです。(参考④)当時、ロスチャイルド男爵は家族とはなれてひとりで生活しており、若い女に狂っていたそうです。さて、ヒットラーの祖母 に手をつけたお相手が、誰であったか?...........もし、ヒットラーがウイーン・ロスチャイルド家の当主の孫息子であり、ユダヤ大富豪から秘密裏に支援されて、ナチの頭目となり、ドイツの総統となって「ユダヤの敵を演じる」役割を果たしてきたのなら。

 以上の通り、アドルフ・ヒットラーがイスラエル建国の父であることに間違いはありません。そして、どうやら、新聞もテレビも真実を報道しないし、学校の歴史の授業も真実とは無関係のようです。ヒットラーは「ユダヤの装置」だったのではないでしょうか? ドイツ政府は、当時のナチス幹部連中の「戸籍調査」を徹底して行うべきです。「隠れユダヤ」が混じっていなかったかどうかを。
【「ナチスによるユダヤ人虐殺7万4千人説」について】
【「ソ連軍が押収したドイツ政府の文書」による推定はこうなる】
 「阿修羅ホロコースト2」の2005.12.26日付け「ブッシュ親子の自作自演テロの11」の投稿「ドイツ軍のアウシュビッツに関する公式記録。ユダヤ病死者は、6万人」は、次のように述べている。
 Political Incorrectness
 http://tbrnews.org/Archives/a2037.htm#_ftn1

Summation: From July, 1941 through October, 1944
Total number of Jewish prisoners in the Auschwitz camp system: 173,000
Total number of Jewish prisoners who died of typhus: 58,240
Total number of Jewish prisoners who died of natural causes: 2,064
Total number of Jewish prisoners transferred to other camps: 100,743
Total number of Jewish prisoners executed: 117
Total number of Jewish prisoners in camp after German evacuation on January 15, 1945: 11,839

 ロシアで発見されたドイツ軍のアウシュビッツ収容所に関する公式の囚人記録。

◎1941年7月から44年10月までの間にアウシュビッツに収容されていたユダヤ人の数は、延べ173000人。
◎発疹チフスで死亡したユダヤ人の数、58,240人。
◎自然死したユダヤ人の数、2,064人。
◎他の収容所へ転出させられたユダヤ人の数、100,743人。
◎処刑されたユダヤ人の数、117人。
◎1945年1月15日にドイツ軍が収容所を去った後に残ったユダヤ人の数、11,839人。

【太田龍・氏の「ソ連軍が押収したドイツ政府の文書」に基づく推定】
 太田龍氏は、2004.2.12日付け「時事寸評」で、「アウシュヴィッツ収容所でナチスドイツは四百万人以上のユダヤ人その他を虐殺した」(集英社)とされている定説が覆されつつあることを指摘している。「ソ連軍が押収したドイツ政府の文書では、アウシュヴィッツの死者は約7万4千人。そのうちユダヤ人は約3万。大部分は病死」なる見解を披瀝している。これを簡略に紹介する。

 概要「アウシュヴィッツとは、ポーランド南部の工業都市オシフィエンチウムのドイツ名で、第二次世界大戦中、ナチスドイツが強制収容所を建設し、捕虜やユダヤ人など四百万人以上が虐殺された地」とされてきているが、ソ連共産政権が崩壊したあと45年間ソ連秘密警察(KGB)の秘密文書の中に眠らされていた貴重資料が開示された。それによると、ソ連軍は、第二次世界大戦末期からその直後にかけて、ドイツ政府機関から相当量の文書を押収した。その中に、ナチスドイツの収容所の膨大な文書を含まれている。問題のアウシュヴィッツ収容所の文書もあった。その文書にはアウシュヴィッツ収容所に於ける死者の名簿があり、この名簿を丹念に調査したところ、アウシュヴィッツ収容所の全期間を通じて死者合計は、約7万4千人。その7万4千人の死者のうち、ユダヤ人は、約3万人。残りは、ポーランド人、ロシア人、その他。死因は大部分が病死であったことが判明した」。
 こうなると、これまでの「600万人説」、「400万人説」の根拠が詮議されねばならないことになる。太田氏曰く「その数字の出典を示してもらいたい」は、極めて妥当な批判であるように思われる。確か、木村愛二氏も同様の考証をしている。以下、「アウシュヴィッツ考」をしてみたい。

 2004.2.12日 れんだいこ拝
 2005.2.17日付け投稿「ジオン兵士」さんの「ゴルバチョフが公表したアウシュヴィッツの『死亡リスト』─実際には7万4千人。うちユダヤ人は3万人」が次のように補足している。全文転載する。
> 実際には7万4千人。うちユダヤ人は3万人で、その多くは病死らしい(・・)

 これに関して、以前、下のような情報が流れていました。多分、これが情報元だと思います。
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 1989年、当時のソ連指導者ゴルバチョフに対し署名運動を起こした。それは、赤軍が1945年にアウシュヴィッツ強制収容所を占領した際、持ち去った死亡リストを公表させる署名運動だった。数か月経ち、この要求は認められた。ゴルバチョフはこの重要リストを赤十字に公表したのである。これには、アウシュヴィッツで死んだ人々の出生地・住所・死亡時刻・死亡原因などが細かく記載されていた。

 このリストに掲載されていたのは7万4000人であった。そのうち、ユダヤ人は約3万人で、ポーランド人がほぼ同数、それに他国籍の人々がいた。

 驚くほど少ないホロコーストである! 私たちは半世紀の間、「何百万人」という話をずっと聞かされ続け、今もこの話は出回っている。しかしこの話は全て、哀れなホェスの証言に基づいている。彼はドイツ敗北後の凍てつく夜、殴打されてこの証言を述べたのである。

 http://www.nsjap.com/v_b/12.html

【異説「ルドルフ・ホェスの証言」(「アウシュヴィッツ強制収容所でのユダヤ人死亡者3万人説」)について】
 「阿修羅戦争67」に於ける「ブッシュ親子の自作自演テロの11」さんの2005.2.16日付け投稿「Re:創価学会・統一教会ユダヤ尻拭き突撃隊のホロコースト捏造神話防衛・詭弁生産本部より通達!」に衝撃的な指摘が為されており、これを転載しておく。
 「600万人の犠牲者」言うのは、どうにも計算が合わないし、説明がつかなくなってきた。まずいんで、「誤差」があったことにして、「100万人でも大虐殺に違いない」で誤魔化せ。(ホントは、100万人どころか、3万人かそこいらが発疹チフス死しただけだが.....)だが、イスラエル大使館もホロコースト記念館もいまだに「600万人」を使っている。(今更、訂正もできないんだろうけど。)ホロコースト丸ごと嘘だってバレバレじゃないか。まずいなぁ。いくら我々、ユダヤ隷属朝鮮宗教が頑張っても、ここを突っつかれると......
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▲犠牲者のデータベース公開 ホロコースト記念館
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041129-00000111-kyodo-int
 【エルサレム29日共同】エルサレムのホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)記念館「ヤド・バシェム」はこのほど、犠牲者のうち約300万人の横顔や経歴を集めたデータベースをインターネットで公開した。ホロコーストの犠牲者は推定約600万人。データベース公開を機に、記録が残っていない犠牲者や、経歴が分からない犠牲者についての情報提供を世界中のユダヤ人らに呼び掛ける。当時を知る人々の高齢化が進んでいるため、記念館は今回が「最後のチャンス」とみている。

▲駐日イスラエル大使館も600万人と言っているわけだが、そうなると、どー考えても計算が合わないんだが。要するに、ホロコーストは嘘だらけってことでいいわけだね。こうなってくると、当然、ガス室もアンネの日記を眉に唾をたっぷりつけて聞かないといけない話ってことだね。
 http://tokyo.mfa.gov.il/mfm/web/main/document.asp?DocumentID=49398&MissionID=43

 この戦争中の6年間で、ナチに殺されたユダヤ人はおよそ600万人、当時のユダヤ人口の約三分の一にのぼります。そのうち150万人は子供たちでした。背筋の凍るような効率性を以って実行されたこのユダヤ人絶滅計画は、単なる大量殺薮以上のものでした。それは規模・運営・履行手段において他に類を見ないが故に、ホロコーストという独白の名称を冠されているのです。

▲ホローコースト=ナチスによる死者数は600万人
 実際には7万4千人。うちユダヤ人は3万人で、その多くは病死らしい(・・)
 http://d.hatena.ne.jp/goro358/20050112(引用終わり)
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 収容所のどこを探してもガス室なんかないといわれるんで、戦後、ユダヤ国家ソ連がアウシュビッツにそれらしきものを後から作ったわけだが.....換気装置はないし。どう考えても、収容能力が説明できないし。死体を焼いた灰はないし。なにしろ、ほとんどが発疹チフスで死んだか餓死したわけで、うわわわぁぁぁん、ガス室なんかあるわけないじゃん。

 チクロンBは、加熱しないと青酸ガスは出ないし、空気よりも軽いんで、ガス室なんかに使える代物ではない。だが、アウシュビッツでは、発疹チフス予防のために、殺虫剤として使っていたので、空き缶は山ほどある。だから、チクロンBをガス室に使ったとシオニストが偽ったわけだが......一回ガス室を使うと20時間は換気時間が必要だし。そうなると、一日2000人なんて処理できるわけない。焼却炉も2機繋がったのが3台くらいしかなくて、2000体を処理するには、最大でも一体当たり10分くらいにしかならない。出し入れの時間もかかるし。生焼け以前のカツオの焙り位にしかならない。う~、いくらなんでも誤魔化しようがない。

 ルドルフ・ホェスの証言は、勿論、尋問した英軍が適当にでっち上げて、ホェスにサインを強要した偽モノだが、とにかく、ナチ当事者の証言ということで、これをガス室実在の証拠と言い張るしかない。証言が英語で書かれていて、ホェスが英語がぜんぜん読み書きできなかったことには.......この際触れるな。避けて通れ。だが、証言を捏造した英軍は、チクロンの知識がなかったようで、「犠牲者が死んだ10分後に,部下が『ガス室』に入って死体を取り出した」と証言したことにしてしまっている。ドジを踏みやがって。10分後に入ったら、そいつも即刻、死んでしまう。「陳述書」の中で「ガス投入10分後,部下は煙草を吸いながら死体を取り出した」と述べたことになっているが、馬鹿野郎、青酸ガスで大爆発だろうがっ。この辺を突っつかれると.......うぅぅぅぅ。

 実を言うと、ナチスというのは、シオニスト組織の別働隊みたいなもので、上の方は、実は、ユダヤが混じってたんだ。ユダヤ人をヨーロッパから追い出して、パレスチナやユダヤ国家ソ連に追い込むのが、ロスチャイルドから与えられた使命だったわけだが、まさか、ホロコーストがユダヤの同胞殺しだったなんて、バレたらタイヘンだ。そこのところには、決して触れるな。議論を避けろ!アイゴ~

 ということで、ホロコーストの嘘防衛体制は非常に厳しい。なんとか、詭弁でイイワケできるところだけを狙って、「各論」で、長々とコピペ貼りまくって、詭弁しろ。イタイ所をつつかれても、素通りしろ。追い込まれたら、ほとぼりが冷めるまで、静かにしていろ。わかったな。ネット専従諸君、ご苦労だが、今日もユダヤの嘘の隠蔽、よろしく頼む。池田朝鮮人も文鮮明師も期待してるぞ!(ホントは、もうすぐ死にそうなんだが.....) 以上、創価学会・統一教会ユダヤ尻拭き突撃隊のホロコースト捏造神話防衛・詭弁生産本部通達終わり!ちゃんちゃん。


 「★阿修羅♪ > ホロコースト6」の西岡昌紀氏の2011.5.3日付け投稿「(書評) 芝健介著 『ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌 』(中公新書)」を転載しておく。
 (書評)ホロコースト―ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌 (中公新書) 芝 健介著 エディション: 新書
 「ホロコースト」は検証されなくて良いのか?

 ナチスドイツがユダヤ人を差別、迫害した事は明白な史実である。しかし、戦後、ニュールンベルク裁判が「事実認定」し、その「事実認定」に基いて、「歴史家」たちが語って来た「歴史」は、全てが本当の事だったのだろうか? 例えば、アウシュヴィッツ収容所の司令官であったルドルフ・ヘス(Rudolf Hoess)は、戦後、ドイツ北部でイギリス軍によって発見、逮捕された。ところが、そのヘスを逮捕したイギリスの軍人バーナード・クラークは、1983年、ヘスを逮捕した際の状況をインタビューに答えて語り、ヘスを逮捕した際、ヘスに激しい暴力を加えた事を誇らしげに語って居る。ニュールンベルク裁判において、ヘスは、アウシュヴィッツで、ガス室による処刑を始めた人物とされたが、その根拠は、イギリス軍が、ヘスを逮捕した直後に作成したヘスの「自白調書」であった。ところが、その「自白調書」を作成する直前、ヘスは、イギリス軍人によって拷問を受けて居たのである。拷問の産物と呼んで間違い無いこの「自白調書」に、芝健介氏は証拠能力を認めるのだろうか?(このイギリス発表の「ヘス自白調書」に、Wolzecと言ふ、実在しない収容所での「大量殺人」が述べられて居る事を芝健介氏はどう考えるのだろうか?)

 繰り返して言ふが、ドイツがユダヤ人を差別、迫害した事自体は明白である。しかし、戦後語られて来た(1)ドイツはユダヤ人をただユダヤ人だと言ふだけの理由で絶滅しようとした。「絶滅」である、とする主張と、(2)その方法として、ドイツは、ガス室でユダヤ人を処刑した、とする二つの話は、本当に間違いの無い事実なのだろうか?

 そうだと言ふなら、以下の諸事実をどう説明すれば良いのだろうか?

(1)  戦後、連合軍が押収した膨大な戦時中のドイツ政府公文書の中に、ヒトラーもしくは他のドイツ政府指導者が、「ユダヤ人絶滅」を命じた命令書は一枚も発見されて居ない。
(2)  ナチスドイツ政府は、「ユダヤ人絶滅」と言った計画の為の予算を計上して居なかった事が判明して居る。
(3)  それどころか、押収された戦時中のドイツ政府文書の中には、アウシュヴィッツ等に収容したユダヤ人を、ソ連を打倒した後、ソ連領内に移住させる計画が有った事を明記した文書が複数見られる。これは、アウシュヴィッツなどでユダヤ人を「絶滅」する計画だったとする連合国側歴史家の主張と両立しない。
(4)  ソ連軍が、アウシュヴィッツで押収した膨大なドイツ側文書の中に、処刑用ガス室の設計図は一枚も発見されて居ない。死体焼却炉の設計図は多数有るにも関はらず、その隣りに有ったとされる「ガス室」の設計図が一枚も発見されて居ないのは余りにも不自然である。
(5)  今日、アウシュヴィッツで「処刑用ガス室」であった部屋として公開されて居る部屋は、ソ連軍が押収したドイツ側の図面を見ると、病死者などを安置する為の死体安置室(Leichenkeller)として設計されて居た事が、明瞭に見て取れる。即ち、戦後、ポーランドの共産主義政権は、ドイツが病死者などを安置する目的で建設した死体安置室(霊安室)を「ガス室」と偽って公開して来たと考えられる。
(6)  (5)を裏ずける様に、アウシュヴィッツで「処刑用ガス室」として公開されてきた複数の部屋もしくは建物の残骸からは、青酸化合物が殆ど検出されない。(対照(コントロール)として採取された衣服消毒用ガス室の断片からは、戦後40年以上が経っても高濃度の青酸化合物が検出されて居る)
(7)  アウシュヴィッツを含めた戦争中のナチス収容所では多くの病死者の死体が発見された。しかし、「ガス室」で、即ち何らかの毒ガスで殺された事が医学的に確認された死体の報告は、実は、一件も無い。
(8)  実際に青酸ガスによる処刑を死刑の一手段として行なって来たアメリカの経験では、青酸ガスを使ったガス室は、最も費用のかかる処刑法である。その様な方法を「民族絶滅」の手段に選んだと言ふ話は根本的に不合理である。
(9)  アウシュヴィッツ他の収容所で、ドイツは、病気に成ったユダヤ人に病院で医療を行なって居る。(アンネ・フランクの父親もその一人)これは、アウシュヴィッツ収容の存在目的が「ユダヤ人絶滅」であったとする説明と矛盾する。
(10)  (9)と同様に、アウシュヴィッツ(ビルケナウを含む)には被収容者の為のプールや売春宿まで存在した。これは、「絶滅」が目的の収容所とは到底考えられない事ではないか?
(11)  アウシュヴィッツ他の収容所に収容されたユダヤ人やレジスタンスの中には、「ガス室」の存在に否定的な証言をする人々が実は多数居た。
(12)  ビルケナウ収容所のクレマ2地下室には処刑用ガス室が有ったとされて居る。そして、「証言」に依れば、その地下室と成った「ガス室」には、地上部分に四つツィクロンBの投入孔が有り、そこから、青酸ガスを遊離するツィクロンBが投げ込まれたとされて居る。ところが(!)現地(第二アウシュヴィッツ)でその「ガス室」とされる地下室の天井(地上部分)を見ると、穴は一つしか無い(!)しかも、新しい穴で、戦後開けられた物と考えられる。穴が無い「ガス室」にどうやってツィクロンBは投げ込まれたのか?
(13)   「ガス室」に関するアウシュヴィッツ博物館の説明は変はって居る。特に、第一アウシュヴィッツで「ガス室」として公開されて居るクレマ1について、アウシュヴィッツ博物館は、戦後永い間、「オリジナルな建物だ」と主張して居た。しかし、1990年代前半ころから、「復元された建物でした」と説明を変えて居る。実際、ソ連軍が1945年に撮影したこの建物(クレマ1)の写真を見ると、今日、そこにある煙突が映って居ない。即ち、その煙突は、戦後捏造された物であるが、それをアウシュヴィッツ博物館は、長い間「オリジナルな物」だと説明して居た。(テープ、ビデオに博物館職員の説明は記録されて居る)
 これらは、私が、本書における著者の主張に疑問を抱く理由のほんの一部である。まだまだ疑問は沢山有る。読者は、どう考えるだろうか?(西岡昌紀・内科医)

(私論.私見) 異説「ルドルフ・ホェスの証言」(「アウシュヴィッツ強制収容所でのユダヤ人死亡者3万人説」)について

 本件情報に拠ると、1945年、ソ連の赤軍がアウシュヴィッツ強制収容所を占領した際、「死亡リスト」が存在しており、それを持ち去った、ということになる。1989年、当時のソ連指導者ゴルバチョフに対し死亡リストを公表させる署名運動が起こり、数か月後、この要求が認められ、ゴルバチョフはこの重要リストを赤十字に公表した。これには、アウシュヴィッツで死んだ人々の出生地・住所・死亡時刻・死亡原因などが細かく記載されており、「7万4千人人の死亡名簿、そのうち、ユダヤ人は約3万人で、ポーランド人がほぼ同数、それに他国籍の人々がいた」ということになる。

 シオン兵士氏は、「この話は全て、哀れなホェスの証言に基づいている。彼はドイツ敗北後の凍てつく夜、殴打されてこの証言を述べたのである」と記している。れんだいこは、「死亡リスト」と「ルドルフ・ホェスの証言」がどう絡むのか分からない。「死亡リスト」があったのなら、取り敢えずは「ルドルフ・ホェスの証言」とは何の関わりも無いだろうに。何故、末尾でそういう文句を付けるのだろう。

 つまりは、「彼はドイツ敗北後の凍てつく夜、殴打されてこの証言を述べた」故に、「死亡リスト」の記載内容はイカガワシイということを云いたいのだろうか。ということは、ソ連赤軍はルドルフ・ホェスが供述証言したものを記し持ち帰ったという訳か。何か話が違うではないか。普通には、ソ連赤軍がアウシュヴィッツ強制収容所に踏み込んだとき、そこにあった死亡名簿を持ち帰った、とのみ受け取る話なのではなかろうか。

 2005.2.20日 れんだいこ拝
【異説「600万人虐殺説は、イスラエルの賠償金狙い説」について】
 木村愛二氏は、「アウシュヴィッツの争点 (その68)終章:核心的真実~または人類史の最後にしてほしい情報操作の本音の真相~ 」(http://www.jca.apc.org/~altmedka/aus-68.html)の中で、「『六〇〇万人の神話』の出発点は『見さげはてた即物的課題』か?」の項で次のように述べている。
 「ホロコースト見直し論の父」として紹介したフランスのポール・ラッシニエの場合を考えてみよう。ラッシニエは、レジスタンス運動にくわわって、ナチス・ドイツのフランス侵略とたたかった。ゲシュタポに逮捕され、二年間にわたるナチ収容所での生活を経験した。戦後にはフランス政府から勲章を授与され、下院議員にもなっている。その「抵抗運動の英雄」のラッシニエが、みずからの実体験にもとづいて「ガス室はなかった」と主張し、各種の著作についての実証的な調査を積みかさね、自分でも何冊かの著作を発表していたというのに、なぜその主張がいままで少数派の憂き目を見ていたのだろうか。

 すでに紹介したように、ラッシニエは、『ヨーロッパのユダヤ人のドラマ』(『ホロコースト物語とユリシーズの嘘』所収)と題する著作のなかで、つぎのように断言していた。
 「(ホロコーストの犠牲者数の計算は)しかるべき死体の数によって、イスラエルという国家にたいしてドイツが戦後一貫して毎年支払い、いまも支払いつづけている莫大な補償金の額を正当化するための課題でしかない」。
 ラッシニエはさらに、「それは単に、純粋に、そして非常に卑劣なことに、即物的な課題でしかないのだ」という表現をもちいている。一九四八年までは存在していなかったイスラエルという国家にたいして、一九四五年以前の問題についての補償金を支払うという「イスラエル協定」については、その法的矛盾を指摘するとともに、「いかなる言語でも“詐欺”としか表現できない」という告発までしている。

 このラッシニエの告発は、決して突拍子もないものではなかった。永井清彦も『ヴァイツゼッカー演説の精神』のなかで「イスラエル協定」について、つぎのようにしるしている。
 「この協定は日本では普通、『賠償』協定と呼ばれているが、実はボツダム協定にいう賠償の枠を越えた、『償い』の協定であった。イスラエルはかねてから、ドイツからの賠償を要求していた。しかし、戦時中には存在していなかったイスラエルに、賠償請求権があるかどうかについては法的な疑問がある、というのが戦勝四大国の立場であった」。
 ラッシニエの言葉はたしかにきつい。だがわたしは、みずからの生命をナチス・ドイツとのたたかいで危険にさらした立場だけに、その上前をはねようとする策動へのいかりが、人一倍強かったのだと理解する。

 朝日新聞の特集記事「問われる戦後補償、下」(93・11・14)によると、一九九三年現在で、一九四九年以来イスラエルがドイツからうけとった金額は、九〇四億九三〇〇万マルク[一九九四年現在の交換レートで約五兆七九〇四億五二〇〇万円]に達している。協定の期限の西暦二〇〇〇年までの支払い予定の残額は三一七億六五〇〇万マルクで、あわせて一二二二億六五〇〇万マルク[おなじく約七兆八二四九億六〇〇〇万円]になる。

 イスラエルは、砂漠地帯に給水設備をめぐらせつつ、国際的にも非難されている「占領地域」にまで入植し、いまや三〇〇発以上の核弾頭を保有するという事が公然の秘密とされている超々軍事国家である。人口の増加は、軍事的な意味でも必死の課題だが、移住者をむかえるためにも資金が必要である。イスラエルの経済はもともと、ドイツやアメリカからの資金援助なしには絶対に成り立たなかったのである。
 だから当然、以上のようなラッシニエのきびしい糾弾の言葉は、「イスラエルという国家」、またはシオニストにとって致命傷となりうるものだった。
 西岡昌紀氏の「戦後世界史最大のタブー。ナチガス室はなかった」の「ガス室による大量虐殺に疑問を呈した最初の知識人はフランス左翼知識人。戦争中はレジスタンスに参加して、ナチの弾圧まで受けた人物であった」は、次のように述べている。
 気の早い読者は、「ホロコースト・リビジョニスト」達は、「ネオナチ」かそれに似た人間だと思うかもしれない。実際、「ネオナチ」の中にも「ホロコースト」の虚構を強調するグループはいる。だが、「ホロコースト・リビジョニスト」の中には、明らかに反ナチスの立場を取る個人やユダヤ人も多数含まれているのであって、「ホロコースト・リビジョニスト」を「ネオナチ」や「反ユダヤ」などという枠でくくることは余りに事実と懸け離れている。

 その反証として最も明らかなものは、最初の「ホロコースト・リビジョニスト」とも呼べる歴史家が、フランスのポール・ラッシニエ(Paul Rassinier)という大学教授で、彼が、戦争中、フランスのレジスタンス運動に参加して、戦後、そのレジスタンス活動の故にフランス政府から勲章まで授与された人物だったという事実ではないだろうか? 

 このラッシニエという学者は、元は地理学者で、左翼思想の持ち主だったため、反ナチスのレジスタンス運動に参加したのであるが、そのレジスタンス活動の故に、ナチス占領下のフランスでゲシュタポに捕らえられ、強制収容所に入れられたという人物なのである。ラッシニエは、ドイツ西部の収容所に収容され、戦争末期には、そこでチフスにかかるという苦難まで味わっている。

 そのラッシニエが、「ホロコースト・リビジョニズム(見直し論)」の「開祖」となった理由は、単純である。ラッシニエは、戦争中、反ナチス活動の故にドイツ西部の複数の強制収容所に入れられていたのであるが、彼は、それらの収容所の何処でも「ガス室」など見たことはなかったのである。

 ところが、戦後、ニュールンベルク裁判や欧米のマスメディアが、戦争中ラッシニエが収容されていたドイツ国内の収容所に「ガス室」が存在し、多くの人々が殺されたと言い始めたためにラッシニエは驚き、彼自身の左翼という政治的立場とは別に、「ドイツの強制収容所にガス室などなかった」と、声を大にして主張し始めたのであった。

 しかし、フランスのマスコミは、ラッシニエがレジスタンス活動家として、ドイツの収容所を実際に目撃した人物であったにもかかわらず、彼を非難し、その証言を無視した。ラッシニエは、その後もこのことについて語り続け、さらには学者として、ナチスの収容所政策全体を調査、研究し続けるが、その主張を無視されたまま、一九六七年に死去している。しかし、彼に触発されたフランスの知識人の間から、もちろん「ネオナチ」等とは全く無関係に、「ガス室はあったのか?」という疑問が上がり始めるのである。

 このように、学術研究としての「ホロコースト否定論(または見直し論)」は、第二次大戦後、ドイツではなくフランスで誕生したものなのだが、「ガス室による大量虐殺」に疑問を投げかけた最初の歴史家が、いわゆる「ネオナチ」などではなく、フランスの左翼知識人で、戦争中レジスタンスに参加してナチの弾圧まで受けた人物であったという事実は重要である。
【「エロ作家・渡辺淳一のホロコースト死者一千万説」考】
 2005.9.1日号週間新潮の「あとの祭り№65」で、「エロ作家・渡辺淳一のホロコースト死者一千万説」が掲載されていることが判明した。渡辺氏は、「アウシュビッツ」を見るドイツ人」と題して次のように書いている。
 「ここのガス室では、一日三五〇人のユダヤ人が殺されたといわれ、その他の収容所の犠牲者も加えると一〇〇〇万人以上に達するといわれている」。
 木村愛二氏は、「ホロコースト死者一千万人ポルノ作家「週刊新潮」記事の唖然!」で次のように評している。
 これには驚いた。これまでの最大の数字は、六〇〇万人である。ポルノ作家の駄弁として放置するわけにはいかない。数字は独り歩きする。ともかく、急ぎ、警告を発する。
 
 以下は、拙訳『偽イスラエル政治神話』の関連箇所である。
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 http://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-22.html
 『偽イスラエル政治神話』 第2章:二〇世紀の諸神話 第3節:"六百万人"の神話 [六百万マイナス三百万は六百万という奇妙な算術]

 アウシュヴィッツ=ビルケナウの犠牲者の数が、公式に、四〇〇万人から一〇〇万人に減らされた以上、ユダヤ人全体についての絶滅の数字として、六〇〇万人[原注1]使い続けることは不可能なのだが、不思議なことに、それが繰り返され続けている。六百万マイナス三百万は六百万という奇妙な算術が、まかり通っているのである。

 原注1:アメリカ・ユダヤ人出版協会がフィラデルフィアで発行した『アメリカ・ユダヤ年鑑』の一九四二年版によると、ナチの支配圏が最大限度に広がり、ロシアまで達していた一九四一年現在、ドイツに残っていたユダヤ人をも含めて、ドイツの支配下にあったユダヤ人の総数は、三一一万と七二二人(!)だった。それなのに、どうやって、六〇〇万人の絶滅ができたというのだろうか?

 以上の一連の見積もりは、アウシュヴィッツ=ビルケナウという一つの集中収容所に関する数字だった。同じ性質の論証が、他の集中収容所に関しても可能なのである。

  たとえば、マイダネクでの死者の数は、どうなっているのだろうか?

 ●一五〇万人というのが、ルシー・ダヴィドヴィッツの著書『ユダヤ人に対する戦争』(87)に出てくる数字である。

 ●三〇万人というのが、リー・ロッシュとエバハルト・ジャケルの共著、『死神を唯一の主人にした第三帝国』(91)に出てくる数字である。
 ●五万人というのが、ラウル・ヒルバーグの『ヨーロッパのユダヤ人の破壊』(前出、85)に出てくる数字である。
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 http://www.jca.apc.org/~altmedka/ 憎まれ愚痴
(私論.私見)
 渡辺淳一なる者の権威従順性品格が露呈していると云うべきだろう。れんだいこ的には、エロ作家であろうが、ポルノ作家であろうが、それは構わない。それと権威従順性とは別個だろうが、往々にしてそういう傾向がある。

 2007.3.6日 れんだいこ拝

れんだいこ:「ユダヤ人への迫害通説考」 [「れんだいこ」から]

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/horocoastco/hakugaitusetuco.htm

「ユダヤ人への迫害通説考」


 (最新見直し2008.10.25日)

 (れんだいこのショートメッセージ
 2005.3.30日付け毎日新聞の「よくわかるページ」欄に「ユダヤ人への迫害」と題する解説記事が書かれている。10歳の少年の「ユダヤ人はなぜ迫害されたのですか」という質問に、布施広・論説委員が回答している。その内容が興味深いので取り上げ、ここにサイト化しておく。布施論説委員は次のように答えている。れんだいこが逐次コメントしてみる。

 2005.3.31日 れんだいこ拝

 見出し。
 「キリスト教との対立が始まり」
(私論.私見) 「キリスト教との対立が始まり」について
 「ユダヤ人への迫害」につき、見出しの「キリスト教との対立が始まり」とあるが、これは正しいだろうか。れんだいこには極めて問題ある見出しのように思える。もしこの見出しの言が正しいのなら、キリスト教発生以前には「ユダヤ人問題」が無かったということになろう。果してそうだろうか。

 西欧史に精通していないとコメントできないが、れんだいこは、「ユダヤ人問題」は既にモーゼ以前より発生しており、モーゼ指導による「出エジプト」も当時における「ユダヤ人問題」の絡みを通じて理解しなければ解けないだろうと思っている。つまり、「キリスト教との対立が始まり」なる見出しは何の根拠もない説になる。いくら子供相手の回答とはいえ見過ごせない。
 次に、いよいよ本文の検討に入る。
 「ユダヤ人迫害は偏見に基づくものです。14世紀にヨーロッパでペストが大流行した時、「ユダヤ人が井戸に毒を投げ込んだ」」という声が上がり、大勢のユダヤ人が殺されました。ユダヤ人とペストは何の関係もありません」。
(私論.私見) 「ユダヤ人迫害は偏見に基づくもの」について
 「ユダヤ人迫害は偏見に基づくものであったのかどうか」、軽々に判断できない。なぜなら、偏見に基づくものであったとする場合、迫害した側の非ユダヤ人の愚昧さを前提としているからである。果して、ユダヤ人迫害側の民はそれほど無知蒙昧の輩達であったのか。れんだいこは、それは歴史の戯画化であると思う。

 ある時代のある人々の行動が今日から見て理解できない場合、できるだけ記録を検討せねばならない。記録が散逸している場合でも極力実証的に精査せねばならない。それは何も「ユダヤ人問題」に限らないだろう。そのようにして調べていけば、「偏見に基づく行動例」は案外少なく、それなりの根拠があったことが知られる事例の方が多かろう。歴史科学はこれを証しているように思われる。

 にも拘らず、「ユダヤ人迫害」になるとなぜこうも易々と偏見説で語られるのだろう。れんだいこには解せない。14世紀の西欧でのペスト流行及び大勢の西欧人の犠牲、ユダヤ人迫害はいずれも史実である。これを語るのに、「ユダヤ人とペストは何の関係もありません」なる結論は、何も語っていないに等しい。語るべきは、「ユダヤ人が井戸に毒を投げ込んだ」」という風説が流されたとして、どういう事情からそういう風説が生まれたのか、その根拠を明かさねばなるまい。その上で、その根拠は「偏見に基づくものであった」とせねばなるまい。この肝心のところの解説抜きに結論だけ持ってくるのは如何なものだろうか。
 次。
 「なぜユダヤ人は嫌われる運命をたどったのか。これを考える上で、ユダヤ教とキリスト教の対立は見逃せません。古代ユダヤ人はイエスを救世主(キリスト)と認めず、イエスと対立して十字架を負わせたとされるからです」。
(私論.私見) 「ユダヤ教とキリスト教の対立」について
 既に述べたように、ユダヤ人が嫌われるようになった理由に「ユダヤ教とキリスト教の対立」を挙げるのは一例でしかない。そこを踏まえて、「ユダヤ教とキリスト教の対立」を見るとすれば、その対立の真因として、布施論説委員が「古代ユダヤ人はイエスを救世主(キリスト)と認めなかった」ことを指摘していることは要点を掴んでいるように思える。他にもいろいろあるが、「ユダヤ教とキリスト教の対立」は実に、イエスの神性を廻る教義的対立にこそあった。ユダヤ教義は、啓示者は認めるが人の神格化は認めない。その点で、イエスないしはその使徒たちのイエスの神格化は断じて許し難いものであった。このことは踏まえておく必要がある。よって、布施論説委員の「古代ユダヤ人はイエスを救世主(キリスト)と認めなかった」なる指摘は正しい。

 問題は、布施論説委員の次の説明即ち「イエスと対立して十字架を負わせたとされるからです」はどうであろうか。れんだいこは、間違いではないが、重要な指摘を逸しているとみなす。つまり、教義内容が許し難いという理由で、古代ユダヤ人から見て異端の者を十字架刑に処するよう働き掛けたその行為の是非が問われねばなるまい。むしろ、ここにこそ「ユダヤ教とキリスト教の対立」の原因があるというべきではなかろう。つまり、ここでははっきりと古代ユダヤ人の側よりする迫害が語られているのであり、この「ユダヤ人側よりする迫害」を踏まえないと見えるものが見えてこないであろう。

 イエスが十字架を背負わされたのはその結果でしかない。重要なことは、迫害側に廻っているユダヤ人の史実を見て取ることであろう。
 次。
 「イスラエル・ヘブライ大学のベン・アミー・シロニー教授によると、ユダヤ人は『キリストを殺し、その福音を拒否した』(「ユダヤ人と日本人」)とみなされました。ユダヤ人は神の怒りに触れたのであり、彼らを懲罰するのは神の意思に叶う、という危険な考え方がキリスト教社会にできていったのです」。
(私論.私見) 「布施論説委員によるキリスト教の危険な考え方」について
 布施論説委員はここで明らかにすり替えをしている。シロニー教授の言を引用しつつ、「ユダヤ人は神の怒りに触れたのであり、彼らを懲罰するのは神の意思に叶う、という危険な考え方がキリスト教社会にできていった」と誘導している。これは論理のレトリックであろう。イエス教義がキリスト教に転嫁し、そのキリスト教がイエスを神格化したのは事実である。しかし、キリスト教が、ユダヤ人を懲罰するのは神の意思に叶うとしたのかどうか。そういう過激教義を持つ派が生み出されたとすればそれは特殊例であり、主団体たるカソリックまでがそのような教義を形成したのかどうか。

 中世キリスト教全盛時代の「ユダヤ人迫害」をキリスト教の教義に求め、世俗的な面での対立のあれこれが「ユダヤ人迫害」を生んでいたことを踏まえない観点は、かなり意図的に歪められたそれこそ「危険な考え方」ではなかろうか。これは、布施論説委員の見識に関わる問題である。
 次。
 「一方で、シェークスピアの『ベニスの商人』に登場する高利貸しのシャイロックのように、ユダヤ人はずる賢いというイメージが広がりました。20世紀初頭には、ユダヤ人が世界支配をたくらんでいるとする『シオン長老の議定書』というにせの文書が流され、日本でも広く読まれて政府の対外政策に微妙な影響を与えました」。
(私論.私見) 「ユダヤ人のずる賢いというイメージ」について
 布施論説委員はここで、「ユダヤ人のずる賢いというイメージ」について語っている。ここでも明らかにすり替えをしている。続いて、「『シオン長老の議定書』というにせの文書」こ言及することにより、「ユダヤ人のずる賢いというイメージ」はウソとのイメージを与えている。布施論説委員が為さねばならぬことは、「ユダヤ人のずる賢いというイメージ」に根拠があるのかないのかの解明であるのに、それに触れぬまま間接的話法で否定せんとしている。しかしそれは卑怯姑息な遣り方だろう。
(私論.私見) 「シオン長老の議定書」について
 布施論説委員はここで唐突に「シオン長老の議定書」を持ち出し、「にせの文書」という解説を付している。布施論説委員が「シオン長老の議定書」を持ち出した真意は不明であるが、「にせの文書」ということをわざわざ言いたかった為であろうか。しかしながら、「シオン長老の議定書」がなぜ「にせの文書」なのかという説明はない。単に結論を書き付けているだけである。「シオン長老の議定書」の真偽はとかく論議の為されている問題であり、にも拘わらずかような一方的判断を持ち出すこの論法は公平ではなく、解説としては行き過ぎではなかろうか。
 次。
 「にせものが出回るのは、一面でユダヤ人へのねたみがあるからです。活路を求めるユダヤ人は、主に金融業など経済分野で力をつけました。近代以降のヨーロッパやアメリカにはユダヤ系の財閥や大企業が少なく有りません」。
(私論.私見) 「ユダヤ人へのねたみ」について
 布施論説委員はここで唐突に「ユダヤ人の経済活動の成功に対するねたみ」について語っている。その真意は分からない。
 次。
 「第二次大戦前後、ナチスは600万人以上ともされるユダヤ人を虐殺しました(ホロコースト)。ヒトラーがユダヤ人を憎んだ理由は良く分かりません。しかし、神に選ばれたという『選民意識』を持つユダヤ人が、芸術・科学分野でも逸材を輸出していることに対して、彼が危機感を持っていたのは確かでしょう」。
(私論.私見) 「ナチスとホロコースト」について
 布施論説委員はここで「ナチスとホロコースト」について語っている。ヒトラーがユダヤ人を憎んだ理由は良く分からないとしつつ、「ねたみと危機感」を思わせぶりに指摘している。且つ「神に選ばれたという『選民意識』を持つユダヤ人が、芸術・科学分野でも逸材を輸出している」とも語っている。この説明によれば、ユダヤ人の選民意識には十分根拠があるということになろう。とてもではないが変な解説ではある。
(私論.私見) 【「ユダヤ人への迫害」に関する毎日新聞解説記事考】
 毎日新聞社が、「ユダヤ人への迫害」についての解説記事を掲載した姿勢は評価できる。問題は中身だ。布施論説委員の解説は決して普通のものではない。結論として、新聞社はいつからこんなに偏ったシオニズム御用系の解説記事を許すようになったのだろう。れんだいこは、知力の衰えを感ずる。マジ恐ろしい時代に入ったことが分かる。

 2005.3.31日 れんだいこ拝

【ユダヤ人同情論のその一、祖国を持たない悲哀論考】
 ユダヤ人の悲劇を、国の無い故の迫害であり悲劇であったとしてイスラエル建国を支持する論調がある。それはそれで構わないが、実際にどういう汚い手を使ってイスラエル建国に向ったのかだ。この考察抜きにイスラエル建国を支持することはアラブの民の怒りを買うだけだろう。

 問題は、イスラエル建国に見せたシオニストの筆舌尽くし難き乱暴狼藉ぶりである。それを知れば「祖国を持たない悲哀論」の容貌が変じ、「何故この国の民がかの時に所払いさせられ、以降国を持つことを許されなかったのか」の問いへと転じることになる。実に「ユダヤ人問題」は数千年の歴史の重みの中で考えねばならないことで、東洋の日本の我々の単純な同情論で解決できるようなものではない。そのことを知るべきだろう。

 2005.4.4日 れんだいこ拝

「イエズス会日本書翰集」生理休暇と男色 [歴史]

「日本関係海外史料 イエズス会日本書翰集 譯文編之一 (上)」天文十六年より天文十九年

イエズス会の宣教師の日本に関する報告書です。
平成三年発行 東京大學史料編纂所 編纂。
東京大學 発行
ヨシダ印刷株式會社兩國工場

読みやすいように訳し、注釈もつけてくれる。
こういう方々がいて、昔の書物の内容を知ることができる。
大変ありがたいことです。

平成三年の発行なのに、旧漢字が使われているのは、旧漢字を守りたいと意思の表れなんでしょうね。

背教師たちは、日本の土地、風物、慣習などについて、恐ろしくよく把握していて、とてもおもしろいです。

おもしろいと思った部分を抜き出します。

P.8 1547年の報告
これらの菜園には豊富な野菜や食用にする植物の種がまかれています。各家に井戸があり、また各家は雌雄の鶏一番を買っていますが、彼らは通例としてそれ以上の鶏を飼うことはしません。そして、同じ菜園には彼らが着用するための麻や、大麻を植え付けています。また各家は織り機や竃、米を搗くための木製の道具(搗臼)や小麦を碾くための石臼を所有しています。

P.9
この日本の人たちはその大部分が中背で頑健な肉体を持ち、労働には甚だ堅牢な人々です。

P.10
彼らはあまり貪欲ではなく、たいそう思いやりのある(物惜しみをしない)人々です。もしあなた方(イエズス会宣教師)がその土地に行ったならば、最も身分ある人々はあなた方が彼らの家に来て食事をし、眠るよう、あなたがたを招待する(、と思われます)。彼らはあなたがたを心の中に入れたいと望んでいると思われます。もし彼らが思い切って尋ねようとするなら、彼らは私たちの土地やその事柄について熱心に知りたがっている人々です。彼らは猜疑心のない人々です。(彼らがあなたがたに与えるのと)同じ程度のことを、(すなわち)彼らが私たちの船に来るときに、あなたがたが彼らに飲食物を与え、彼らが見たいと望んでいるものすべてをあなたがたが彼らに見せ、そしてあなたがたが彼らをもてなすことを欲する人々です。彼らは盗みをひどく恥じています。このため5ないし6タンガの額のために(盗人を)直ちに殺してしまいます。

P.12
その土地には獄舎はひとつもなく、各人が自分の家で裁きを行うことができます。その土地には戦争で捕らえられた奴隷が若干おり、多額の高利のために質に入って囚われているものもいます。奴隷たちは、ある主人と一緒に居たくないと思うときには自分を売るように主人に申し出ます。それで主人は止むを得ず彼を購う物を探さなければならない、という自由を保有しています。

P.14
彼らは音楽を楽しみ、横笛や、太鼓を持って居ます。また喜劇(狂言か)を演じています。彼らは賭け事をひどく嫌っています。

P.16
彼らは毎日二度体を洗います。彼らには羞恥心がまったくなく、人々が彼らの恥部を見てもなんとも感じません。女性は非常によく均整がとれていて、とても色白であり、美顔料や、白粉を塗っています。彼女たちはたいそう情が細やかで親切です。そして身分の高い女性たちは甚だ貞淑であり、その夫の名誉を非常に気遣っています。、、、女性はその夫に答えを求めることなく気ままに行きたいと思うところへ行っています。女性は月経になるといかなるものにも手を触れず、また用便をすることのほかはある場所から動くこともしません。そして婢女ないし下女が月経の場合には、そのことが続いている間はずっと、それが彼女から去るまで自分一人で家(忌小屋)の中におります。

P.17
これらの日本人は二種類の信仰の家(寺院と神社)を持っています。、、、これらのものはシナの方法で読み、シナ人の書物をたくさん所有しています。、、、わたしはこの典礼のやり方がシナから来たと思います。、、、彼らは自分たちが教導している若者と一緒に男色にふけっていますが非難されることはありません。


P.20
彼ら(坊主)はシナ語(漢字)を書き、読みますが、話すことはできません。彼らはシナ人とは書いて(筆談)理解しあっています。シナ人たちは日本語を話すことはできません。

P.21
私はその地で別の偶像を崇拝しているパードレたち(修験者)の属するもうひとつの宗団(修験道)を見ました。これはこの国固有の宗団です。彼らは聖櫃に入れられた自分たちの小さな偶像を所有していて、ある祭りの時以外には誰にも決してそれらを見ません。

1548年
P.24
彼ら(ポルトガル商人)によると、(日本の)人々は大いに知識欲にあふれていて、それはインドの異教徒たちが持ち合わせていないことですので、その島で私たちの聖なる信仰を広めれば、インドのどの地方におけるよりもいっそう豊かな成果が上がるだろうとのことです。

P.26
彼(アンジロー)はポルトガル語をかなり話すことができますので、彼は私が彼に語ったことをすべて理解しましたし、私もまた彼が私に話したことがわかりました。 したがってもしも、日本人すべてがアンヘロ(アンジロー)のように、それほどに知識欲にあふれているならば、彼らはこれまで発見されているすべての土地の中で最も知識欲のある人々であると私には思われます。、、、彼は私に多くの質問をしました。彼は非常に知識欲のある人間ですが、それは非常に向上する人間の徴であり、また短時日のうちに真実を認識するに至る人間の徴候です。

私がアンヘロに、もしも私が彼と一緒に彼の国へ行ったならば、日本の人たちはキリスト教とになるだろうかと、尋ねたところ、彼は私に、自分の国の人たちはすぐにキリスト教徒にならず、まず初めに私に数多くの質問を行い、私が彼らに返答したことや、私が理解していること、そして特に私が述べた事柄に自分が相応しく生活しているか否かを彼らは見極めるであろう、と答えました。


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生理中は、下女であっても休むことができた。なんというありがたいシステムなんでしょうか。

ものを盗むとすぐ殺されてしまい、賭け事を嫌い、人々はとても清らかな心を持っているようです。