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竹内文献 天降りし国の図 [ホツマツタエ・古史]

20171106-3.JPG
「定本 竹内文献」P.256 八幡書店 平成二十六年発行
天日神の天降りし国の図

四角に点は、天降り天皇城大都の印
黒三角は、天降りし国の印
これを見ると本州に、四角は5カ所、三角は6カ所。計11カ所。


「過去の文化や経済から見る岩船大祭」
09K064 竹内 元希
https://www.keiwa-c.ac.jp/wp-content/uploads/2013/12/veritas20-06.pdf
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・・・
2、地名の由来
ここでは、岩船の地名の由来について見ていきたいが、地名の由来を考察するにあたり、岩船に伝承さ れている昔話を見ていきたい。これについては『岩樟舟夜話』(P1~P2)を参考にする。
「むかしむかしのこと、冬の晩がた、はるか沖あいから、異様な舟が浜べをさしこいで来ました。
・・・
ここに出てくる神様は、現在岩船の主祭神である饒速日命とされており、この話は『日本書紀』にでて くる「天磐船に乗りて飛び降りる者ありと(中略)おもふにこれ饒速日が」と『備後国風土記逸分』に記 されており、蘇民、巨旦の説話が合わさった話だと考えることができる。

地名 所在地 関連地形岩石等 社寺信仰等
1.岩船 岩手県宮古市 船底岩床 自然石 岩船大明神
2.岩船 茨城県桂村 船形巨石 自然石 石船神社
3.岩船 千葉県大原町 船形岩塊 自然地形 岩船地蔵尊
4.岩船 栃木県岩舟町 船形山塊 自然地形 岩船山高勝寺
5.岩船 新潟県村上市 船形山陵 自然地形 石船神社
6.岩船 新潟県出雲崎町 (勧請・寛永元年) 岩船神社
7.岩船 長野県中野市 (岩水神社に隣接) 岩船地蔵尊
8.岩船 京都府加茂町 船形削石 人工石 岩船寺石風呂
9.岩船 奈良県橿原市 削孔巨石 人工石 (放棄石棺説)
10.磐船 大阪府交野市 船形巨石 自然石 磐船神社
11.岩船 大阪市味原町 石棺・塚 人工石 比売許曽神社
12.岩船 島根県安来市 石棺・塚 人工石 印珠寺岩船地蔵
13.岩船 島根県斐川町 船形石棺 人工石 神庭岩船山古墳
14.岩船 島根県広瀬町 船形巨石 自然石 磐船神社

・・・
岩船大祭はメディアなどで取り上げられる際には「船霊様の祭 り」などと言われる。船霊について石船神社の禰宜である小野正典さんに尋ねてみると、「岩船大祭は船 霊祭りと言われるが石船神社の神様でもなければ石船神社に関係はない。誰かが作った造語。」と言って おり、高橋俊雄さんも「昔は船霊祭りとは言わなかった。岩船大祭が昭和63年に新潟県の無形民俗文化 財に指定された頃から船霊祭りと言うようになった。

・・・
岩船祭りは、祭神が岩船の地にお着きになった日として9月19日を祭礼日としてきた。
・・・
そしてこの年以後、祭礼日は 10月19日に実施するようになり現在に至っている
・・・
この御霊遷し の際には御船様は舳先を社殿に向けており、5本の幣束をもらうが、小野正典さんは「5本の幣束は岩船 の神様を表している。饒速日命、ミズハメノミコト、タカオカミノカミ、クラオカミノカミ、船霊様と言 われているが、資料がないため正確なことは言えない」と言っていた。
・・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ここまで

6番の新潟県出雲崎町のは勧請なので外していいだろう。
巨石があるだけで岩船神社になったところもあるだろう。

「にぎはやひ」と空を飛ぶ岩船の話の、本家と分家があるはずで、
まったく巨石がないところが本家であるかもしれない。

「わらべうたによせて」メール紹介のページ
http://www.home-nagahama.jp/kotoba/warabe/mail.htm
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用開始
竹内新一さん(99/03/04)
先月メールいたしました竹内です。
「日本の伝承童謡」を入手して読みました。全国の童謡160曲ほどが収録されており、それぞれ簡潔に解説が付してありますが、私の調べていた「一番始めは」の解説に興味深い点がありました。
愛知県岡崎地方のわらべうたとして収録されているこの歌が、越後節という瞽女唄の影響によるとされ、「妹欲しさに御立願かァけて、一に岩船お地蔵さァまよ、二には新潟の白山さァまよ、三に讃岐の金毘羅さァまよ、四には信濃の善光寺さぁまよ、五には~ 」という歌詞が参照されております。
岩船という地名は全国各地にありますが、千葉(旧下野)の岩船では日本三大岩船地蔵として、下野、越後、上総をあげ、長野の岩船では日本三所の岩船地蔵尊として、信濃、越後、下野をあげています。
越後岩船は、もちろん私どもの町を指しているのですが、残念ながら当地では、地蔵様は数多くまつられていますが、肝心の「岩船地蔵」が特定できておりません。
それはさておき、瞽女唄で歌うところの岩船は、他県の岩船よりも当地である可能性が高いと思われます。そうであれば、現在私たちの町に残る「一番始めは」は、「本家がえりだったのだなあ」と、この本によって発見して感心している次第です。

竹内新一さん(99/02/17)
私は新潟県村上市に住む、1960年生まれの自営業者です。
町のお祭り「岩船大祭」に関連して、歴史、神道、音楽、など色々な角度から研究(というほど大袈裟ではないですが)しています。
祭りで唄われる「数え歌」のルーツを調べていて、廣部先生のサイトにたどり着きました。素晴らしいページ、研究内容に感動しております。
「一番はじめは(てまりうた)」として紹介されているのが、おそらくそのルーツだろうと思います。さっそく岩波文庫「日本の伝承童謡」を読んでみます。
ちなみに友人がHPを開設していてhttp://www.iwafune.ne.jp/~matajoe/
岩船大祭に関して、私(ペンネーム四方末太郎)のまとめたものを掲載してくれているのですが、その中の「呼び太鼓のうた」が、私どもの祭りで歌われている数え歌です。興味があったらみてください。
日本の祭囃子を調査、採譜した研究者が(それが誰で、どんな内容なのかも忘れてしまって、そちらも調査中なのですが)、膨大な量のお囃子の中から、「三つ挙げれば、秩父、長浜、岩船」を選んだそうです。
これも何かの縁かもしれないと、感慨深いものがあります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ここまで

祭囃子や、わらべ唄の中に「岩船」がでてくる。
とても興味深い話だ。


「呼び太鼓の歌」
http://www.iwafune.ne.jp/~matajoe/iwafune/yobidaiko.html


話は飛ぶがなんとなく「十二所神社」が気になる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/十二所神社
十二所神社(じゅうにしょじんじゃ)、十二社神社(じゅうにしゃじんじゃ)、十二神社(じゅうにじんじゃ)という名前の神社は日本全国に存在し、十二社(じゅうにそう)と称するものもある。
古くからの十二様と称する土着の山の神を祀ったものと、熊野神社の系列のものとがある。前者の信仰は射日儀礼を含む「十二講」の習俗を伴い、北関東・甲信越を中心にして東日本の山間部に分布する。後者は十二所権現社などと呼ばれる熊野三山の神(熊野権現)を勧請して祀ったものである。それらの中には明治の神仏分離によって祭神を「天神七代・地神五代」としている所もある。

十二所神社
http://www.geocities.jp/engisiki/awa2/bun/awh560304-04.html
徳島県美馬市穴吹町口山字尾山491
由緒
当国50社の内美馬郡鎮座式内社伊弉那美神社と古老の口碑に有り。
又七種の神宝東北南北に石立、鏡三面あり(徳島県神社明細帳)
鏡神社 伊弉冉尊を祀る元和元年柳川家の傍の古墳を発掘、宝鏡銀輪五百箇御統瓊曲玉焼物四外五色の土剣外12件が出土十二所神社へ納めた



実は・・・日本が人類誕生の地だって本当!?
この世の終わりが、九分九厘決まった時。最後の一厘、神の力で逆転する。この、一厘の秘密の意味を解いた者はまだ誰もいない。そしてこれを一厘の仕組と呼ぶ。 更新日: 2014年12月19日
https://matome.naver.jp/odai/2134176617192707201
この世の終わりが、九分九厘決まった時。最後の一厘、神の力で逆転する。この、一厘の秘密の意味を解いた者はまだ誰もいない。そしてこれを一厘の仕組と呼ぶ。
一厘の仕組を解く者、此れ即ち、天照大日孁貴大神の血脈
一厘の仕組を解く者、此れ即ち、三種神器の主
一厘の仕組を解く者、此れ即ち、国体の天皇
一厘の仕組を解く者、此れ即ち、シュメールの天帝
一厘の仕組を解く者、此れ即ち、スメラのミコト
旧約聖書に記されし真の契約の民、古代縄文人の末裔、イスラエル12支族の子孫、真の古代ユダヤ人、古代スメラミコトの臣民、シュメールの直系、周・呉の太伯の子孫、此れ即ち、我ら日ノ本の民
今度の戦は神力と学力のとどめの戦ぞ。神力が九分九厘まで負けたようになった時に、まことの神力出して、グレンと引っ繰り返して、神の世にして、日本のてんし様が世界をまるめて治しめす世と致して、天地神々様にお目にかけるぞ (日月神示 下つ巻第20帖)
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古代日本は唐に占領された ― 漢字文化に抹殺された真実 [ホツマツタエ・古史]

「ヒエタノアレモコロサレキ」(稗田阿禮も殺されき) 古代日本は唐に占領された ― 漢字文化に抹殺された眞實
http://www.asyura2.com/10/bd59/msg/848.html
投稿者 不動明 日時 2011 年 8 月 12 日 06:17:05: yX4.ILg8Nhnko
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー抜粋開始

第3章 古代日本は中国に占領された―漢字文化に抹殺された真実
 
 
 神代文字を抹殺した恐るべき〝黒い勢力〟がある

 奈良時代以前の日本に文字があったことは、文献にもはっきり書かれているし、遺物にもはっきり刻まれている。したがって、文献と遺物の両方から、日本に古代文字があったことはすでに立証済みである。
 にもかかわらず、そのことがこれまで周知の事実とならなかったのはなぜだろうか。古代史の権威が口をそろえて神代文字を否定したり、日本の古代文字を無視してきたのはいったいなぜなのか。
 ここには私たち日本人のすべてが、いまだにその真相をつかんでいない歴史上の大きなトリックがあるように思われる。そこには、これまでの権威すらも呑みこんでしまう歴史上のブラック・ホールのようなもの、つまり私が先に〝漢字の呪縛〟と名づけた、私たちの目には見えない巨大な意志が存在し、この恐るべきカが日本の古代文字資料を抹殺して奈良時代以前の歴史を封印してきた背景があるように思われるのだ。
 その恐るべき力の正体とは何か。
 私たち日本人の奈良時代以前の歴史に、誰が考えても異常としか思えない巨大な空白をもたらした力の実体とは何か。日本古来の文字で書かれた文献を奪い取った、途方もない勢力とはいったいなんだったのだろうか。
 私には、その力の実体がどんなものであったのか、今のところすべてを正確に述べることはできない。が、一つだけはっきりしていることは、その勢力が今から千三百五十年ほど前の大化改新(六四五年)と白村江の戦い(六六三年)の時代に、日本海周辺のほぼ全域に台頭し、それまでの日本にあった固有の文字と文化、王家と有力氏族の記憶をほとんど消し去ってしまった、という点である。
 私たちはこれまでの教育のなかで、日本は滅亡に瀕した百済の請いを受けて唐・新羅の連合軍と白村江で戦い、手痛い敗北を喫したあとは〝連合軍〟の侵攻を恐れて都を近江に遷したとしか教わっていない。いわんやその戦いに敗れたときに、そのまま日本が唐の軍隊に占領され
たこと、そして、この時代以後につくられた日本の都城や古墳の設計単位が、それまでの高麗尺(唐によって滅ぼされた高句麗の尺度)から、唐尺に全面的に改めさせられたことなどは一度も教わっていない。
 したがって、この時期に中国東北部と朝鮮半島、日本を占領した中国の軍隊が、この地域に伝わる固有の文字資料をことごとく抹殺し、漢字で書かれたもの以外は絶対に後世に伝えないようにした、などということは考えたことすらなかったはずである。

 中国の日本占領〝GHQ〟は大宰府に置かれていた

 けれども、古代の日本が六六三年の白村江の戦いに敗れたあと、中国の占領支配を受けたことは、『日本書紀』の天智天皇の条のなかにそれとなく記されている。
 すなわち、天智四(六六五)年の記事では、この年、日本へやってきた唐の使節団の人数が二百五十四人であったのが、同八年と九年には二千人にふくれあがっている。天智八年十二月の条にはこうある。

   もろこしかくむそう  よ   つかは きた
……大唐、郭務悰等二千餘人を遣して來らしむ。……

 敗戦後の日本へ二干人という大量の使者が続々とやってきたのは異常といわなければならない。このことは、唐の使者がただの使者ではなく、占領軍司令部の要員であったことを暗示しているのだ。
 また、天智六(六六七)年の記事によれば、この年には、すでに九州の太宰府が「筑紫都督府」という呼び名に変わっているが、この〝都督府〟という表現は、唐の軍隊が高麗と百済の都をそれぞれ占領したときに「平壌都督府」「熊津都督府」と称した例をみてもわかるように、
唐の占領軍司令部が置かれた外国の都をさしている。したがって、九州の太宰府が六六七年以降、中国による日本占領支紀の拠点となっていたことは明らかである。
 いってみれば太宰府が、第二次大戦後に皇居前の第一生命ビルに置かれたマッカーサーの占領軍司令部(GHQ)と同じようになっていたのである。そして、戦後の日本が英語使用を強要されたのと同じく、いやそれ以上に、白村江の敗戦後の日本は、全面的な漢字使用を強制されたのだ。 
天智天皇はこの年の春、近江京に遷都し「漢字使用令」を出した。こうした近江京の文化が漢字文化そのものであったこと、そして、天智天皇と天武天皇に代表される勢力が六七二年の壬申の乱で激しい死闘を演じたことなどは、これまで、この時期の中国による日本占領支配とのかかわりのなかで論じられたことはなかった。
 この問題については、ごく少数の学者か天智天皇は百済系で天武天皇は新羅系または高句麗系であったということを述べる程度にとどまり、白村江の敗戦以後、日本と朝鮮、中国東北部にまたがるかつての高句麗王国が解体したことや、その後、壬申の乱を機に高句麗の旧領に渤海・新羅・日本の三国が、唐の承認を必要とするかたちで成立したことなどは論じられていない。
 しかし、この時期の唐帝国の周辺を見渡せばわかることだが、この頃からインドと日本を結ぶ南海ルートの影が薄くなっていく。つまり、私流にいえば、インド以東のアジアには漢字以外の文字文化が、それ以前にはなかったような印象が強くなる。

 七世紀の初めに隋の陽帝が率いる百万の大軍と戦ってこれを退け、ついに隋を滅ぼす糸口をつくった高句麗は、六六八年に唐によって滅ぼされるまで、七百年以上もの歴史を誇っていた古い国であるが、このような国にさえ固有の文字で書かれた記録はなかったことになっている。
 秦・漢帝国以来の中国諸王朝が、周辺諸国にみずからの漢字文化を押しつけ、中国の宗主権を認めない国を侵略して、その国の文字文化を破壊したことは、中国の史書に王家の記録を没収した記事がたびたび登場することをみても確かだ。
 このような中国の支配者による歴史抹殺の手口、すなわち漢字以外の文字で書かれた他民族の記録を抹殺し、そのことによって他民族を中華帝国に従属させていくやり方の最も顕著な例が、秦の始皇帝による焚書坑儒だ。
 中国における漢字の成り立ちを調べてみても、漢字のなかには、それ以前に大陸の各地で使われていた日本の古代文字を並べ替え、それによって元の意味を消し去る手法で新たにつくられた例がいくつかあることが確認できる。
 
 
 〝日本解体〟を目にした天武天皇の憤慨

 これまで日本人は、中国の漢字文化を受け入れることによって、原始の日本が開明化したかのように教えこまれてきた。が、それははたして本当だろうか。実際は逆ではなかったか。
 中国の日本占領支配の実態は、目にあまるものがあったように思われる。壬申の乱に勝利して、中国の日本占領支配にいちおうの終止符を打った天武天皇も、国内の中国人に対し、憤慨してこう述べている(『日本書紀』天武六<六七七>年の条)。

  なんじ
  「汝らのやからは、もとより七つのあしきことを犯せり、
             はか
    ……常に汝らは謀りごとをもって事わざとなす」

 つまり、中国人がいつも陰謀を企て、国家の解体をはかってきたことを天武天皇は糾弾しているのである。こうしたことはおよそ、戦争に敗れた国が占領軍に対して種々感ずることであろう。通常の日本人が、史上初の被占領体験と孝えている第二次大戦後の約十年間にも、同様のことをアメリカに対して抱いたと聞く。
 いや、それ以上のものだったろう。被占領時にその国の歴史に根ざす貴重な遺産ともいえる言葉や文字を剥奪された例はたくさんあるし、戦勝国の文字を押しつけられた国は古今東西を問わず多くの実例で確かめることができる。
 しかし、である。まさか私たちの国にもこのような屈辱的な歴史があったとは、讀者は夢にも思わなかったであろう。そう、日本は白村江の戦いに敗れて中国に占領され、漢字使用を押しつけられるなかで神代文字を喪失したのだ。
 
 
 稗田阿礼は神代文字の〝通訳〟だった

 天武天皇は、二度目の被占領時の首相・吉田茂にたとえられるかもしれない。完全な再独立こそできなかったにしても、主権の回復はなしえたことと思われる。その一端が『古事記』の成立である。また、天武の即位後しばらくして「筑紫都督府」の呼称も消えている。
 ちなみに、さきにもふれた壬申の乱だが、通常、天智と天武は兄弟であり、この内乱は皇位継承をめぐって天智の子・大友皇子との間で戦われたとされている。
 しかし、そうした考えからは天智と天武の政策の遠いがまったく説明できない。そこに〝歴史の闇の封印〟が介在していることは明らかだろう。
 前述した系統の違いはその意味でも注目される。そして、これを詳述するには紙面に限りがあるため、ここでは皇室の菩提寺(京都の泉涌寺)に天武天皇の墓がないことだけをいっておこう。

 さて、稗田阿礼が〝誦み〟、それを太安万侶が漢字で書きとめてつくられたといわれる『古事記』だが、私はなんらかの圧力(たとえばそれ以前にあった日本の古代文字の記録を漢字に改めるようかかった圧力)と、日本の解体を憂慮した天武天皇の意思とが相乗されて撰録され
たと考えている。
 その証拠に、『古事記』には、稗田阿礼が神代文字で書かれた記録を〝読んだ〟ものを、安万侶が漢字に改めていったという意味合いのことがはっきり書かれている。たとえば、安万侶自身が『古事記』序文でこう述べている。

 そこで天皇(天武天皇のこと)は阿礼に命じて、帝皇の日継及び先代旧辞を誦み習わせ たり……。
 ここに天皇(持統天皇のこと)は、帝紀及び旧辞の違いを正そうとして、臣、安万侶に命じて、阿礼が誦むところの先帝(天武天皇)の御命令になられた旧辞の類を撰録して差し出すようにと仰せられた……。

 つまり、安万侶は「阿礼が誦む(=読む)ところの帝紀・旧辞」を手がかりとして、『古事記』を編纂したのである。もし帝紀や旧辞が漢字で書かれたものであるなら、漢文の達人だった安万侶がそれを自分で読めばすむことで、わざわざ阿礼の口を借りる必要はないはずだ。
 これはどういうことを意味するのか。そうだ、『古事記』の元になった『帝紀』や『旧辞』(注12)は、阿礼には読めても安万侶には読めない文字、つまり日本の古代文字で書かれていたのだ。そして、阿礼は神代文字で書かれた記録と漢文の橋渡し役、いわば通訳として安万侶のために働いた、ということではないか。
 記憶力バツグンといわれた阿礼は、「読み習ったもの」を記憶した。しかしそれは、神代文字で書かれていたものを読んで、それを記億にとどめたということなのだ。
 正史編纂という国家の重大事業にあたって、おそらく阿礼は、神代文字で書かれた『帝紀』や『旧辞』を暗誦するくらい念入りに讀み、それをていねいに安万侶に読んで聞かせたものと思われる。
 
 
 ヒエタノアレモコロサレキ ― 知りすぎた男の悲劇

 こうして日本人は、八世紀の初めに『古事記』と「日本書紀』というかたちで、漢字に置き替えられた日本の歴史書をもったが、その元になった『帝紀』や『旧辞』などの書物、あるいは日本に古くから伝わる固有の文字で書かれた由緒正しい歴史の記録を失うことによって、本来の日本人がもっていた自由な精神や創造的な見方さえも失ってしまったのではないか。
 私がこのことを痛感するのは、ほかでもない。宮崎県の高千穂で見つかったという碑文(郷土誌『すみのえ』一〇四号所収)を私なりに解読した結果、そこに以下のような恐るべき一文が刻まれていたことを確認したからである。

  「ヒエタノアレモコロサレキ」(稗田阿礼も殺されき)

 この短いが驚くべき一文について、説明は要すまい。稗田阿礼は『古事記』の完成した七一二年以後のある日、突然、何者かの手によって暗殺されたことを、この高千穂碑文は物語っているのである。
 もしこのことが事実であるとしたら、彼の死は、日本の古代文字資料に記されていた真実の歴史が、闇の力によって葬られたことを意味するのである。
 そして、このことはまた、そのような力がつい最近まで、すべての日本人の無意識に働きかけ、私たちの歴史解明の努力を歪めてきたことをも意味している。
『古事記』と『日本書紀』が日本の古代文字で書かれず、漢字を使って書かれた背景には何があったのか。日本人の言葉と歴史が漢字に置き替えられたとき、そこにはどんなトリックが用意されていたのか。稗田阿礼は、その秘密をあまりにも知りすぎたために消されてしまったの
ではないだろうか。
 おそらく阿礼と同じ運命にあった者は一人や二人ではなかったろう。「稗田阿礼も……」という記述からそれを察することができる。

 ベールに覆われた日本人の祖先の歴史

 私は漢字以前の日本の古代文字の存在について検証してきた。
 日本には漢字以前に文字がなかった、という定説がなぜつくられてきたのだろうか。それは、この高千穂碑文の解読の結果、「稗田阿礼も殺されき」という言葉によっても推測されるよう
に、意図的に日本の過去の歴史が消されていった事実を示しているのだ。
 時の権力者、この場合は中国(唐)の日本占領軍の指令によって、日本古来の文字を使うことが禁止され、占領国の文字(漢字)を使用することが強制されたのである。
 とはいうものの日本は古い国である。古代の「残存遺物」は多く残されているし、「古史古伝」と呼ばれる「記紀(『古事記』と『日本書紀』)以前の書」にも伝えられている。
 これらの文書は、もちろん日本の古代文字で書かれていたにちがいないが、古代文字の使用が禁止されたあとは、漢字を当てはめて書き写され、伝えられてきた。
 古史古伝が偽作、偽書とされる理由は、その内容が記紀と異なる部分が多いことにある。しかし記紀の記述が一〇〇パーセント正しいという証明はなされていない。『魏志倭人伝』に記述されている邪馬台国や、その女王の卑弥呼について、記紀は一言もふれていないではないか。
逆にいえば、『魏志倭人伝』を中心にみるなら、記紀こそ偽作、あるいは偽書だという疑いすら出てくる。
 まして、古史古伝には、ほぼ共通したテーマ、あるいは目的のようなものがある。それは、そのほとんどが古代の権力闘争に敗れた側の豪族の家系に伝わった文書というかたちをとっていることである。戦争に勝利した新しい権力にとっては、これらの敗北者の過去の歴史は抹殺の対象になるべきものであったにちがいない。だからこそ、文書を保存しようとする敗者の側は、さまざまなカムフラージュを施すことになる。
 したがって、後世の私たちが読むと、難解で奇想天外な話として映り、それが歴史的事実だということがわからなくなってしまいそうである。
 しかし、それは史実を史実でないようなものに変えて伝えたために、そうなってしまった、と受け止めるのが正しい見方であろう。
 だとすれば、古史古伝を読む場合は、意図的になされたカムフラージュのべールを一枚一枚たんねんにはがしていけばよいわけである。するとそこには、消されたはずの私たちの祖先の歴史が、白日のもとに浮かび上がってくるにちがいない。
 
 
 〝闇の封印〟の外にある『契丹古伝』の発見

 このような視点に立って、読者とともに古史古伝を読みながら本書を進めていこうと思うのだが、まず最初にあげられるものは『契丹古伝(きったんこでん)』であろう。
『契丹古伝』は九四二年に編纂された遼(契丹)王家の史書である。遼は、文献史上では五世紀に内モンゴルのシラムレン河流域に現われた遊牧狩猟民族・契丹(キタイ)が十世紀に打ち立てた王朝で、モンゴルから中国東北地方と華北の一部にまたがる地域を支配していた。宋かから燕雲十六州を奪うなど、いわば中国(漢人〈漢民族〉)と対抗していたといっていい。しか
も『契丹古伝』は一九〇五年に現在の中国・吉林省で発見されるまで長い間王家の人々によって守られてきたため、漢民族の〝闇の封印〟にあっていない。
 そしてこの、『契丹古伝』の編纂目的は、建国まもない遼(九一六~一一二五)の王家がみずからの歴史的背景と正統性を明らかにしながら、漢民族の中原(ちゅうげん)支配に抵抗する周辺民族の団結をリードし、鼓舞するところにあった。
 が、同書は結果的に、私たち日本人が今となっては入手できなくなった『秘府録』(後述)をはじめとする八世紀以前の古代史料を駆使することによって、記紀や他の古史古伝から洩れてしまった渤海滅亡以前の高句麗・日本の太古史を明らかにする数少ない貴重な資料となったのである。これは、同書の編纂に携わった契丹の史官・耶律羽之(やりつうし)の歴史家としての資質が優れていたこと、すなわち憶説にたよらず「史料に語らせる」という客観的で実証的な叙述方法の賜物である。
『契丹古伝』は『秘府録』その他の資料を忠実に引用することによって、私たちがもはや知る機会のなくなった太古日本の歴史の真相を間接的に物語ることになった。
 さらにこの書物は、契丹王家の源流を明らかにする試みを通して、アジア全土にかつて栄えた高句麗・日本の王家の失われた歴史をよみがえらせ、今は亡き契丹人の祖先とともに私たち日本人の祖先が西方からの侵略者と勇敢に戦ったことや、漢帝国の成立以前に彼らが世界各地で活躍した事を伝えてくれるのである。 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー抜粋ここまで

本文はもっと長いが一部だけ紹介した。
やっぱりそうだった。
漢字民族が日本の古代文字の民族を支配し、歴史を改竄していた。それは今も。
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「モーゼの裏十戒」「太古日本のピラミッド」の参考に [ホツマツタエ・古史]

「参千年間日本に秘蔵せられたるモーゼの裏十戒」「太古日本のピラミッド」酒井勝軍著の参考資料を示す。

◯聖書の名前が文語になっている。
以賽亞書はイザヤ書かなと見当がつけられるが、但以理書(ダニエル書)は難しい。

https://www.amazon.co.jp/文語訳-旧約聖書-日本聖書協会-ebook/dp/B00FEXCOS4/
創世記
出埃及記(出エジプト記)
利未記(レビ記)
民數紀略
申命記
約書亞記(ヨシュア記)
士師記
路得記(ルツ記)
撒母耳前書(サムエル前書)
撒母耳後書(サムエル後書)
列王紀略上
列王紀略下
歴代志略上
歴代志略下
以士喇書(エズラ書)
尼希米亞記(ネヘミヤ記)
以士帖書(エステル書)
約百記(ヨブ記)
詩篇
箴言
傳道之書
雅歌
以賽亞書(イザヤ書)
耶利米亞記(ヱレミヤ記)
耶利米亞哀歌(エレミヤの哀歌)
以西結書(エゼキエル書)
但以理書(ダニエル書)
何西阿書(ホセア書)
約耳書(ヨエル書)
亞麽士書(アモス書)
阿巴底亞書(オバデヤ書)
約拿書(ヨナ書)
米迦書(ミカ書)
拿翁書(ナホム書)
哈巴谷書(ハバクク書)
西番雅書(ゼパニヤ書)
哈基書(ハガイ書)
撒加利亞書(ゼカリヤ書)
馬拉基書(マラキ書)


◯地名、国名などが文語になっている
希臘(ギリシャ)
希伯来(ヘブライ)
埃及(エジプト)
拉丁(ラテン)
羅馬(ローマ)
猶太(ユダヤ)
欧羅巴(ヨーロッパ)
佛蘭西(フランス)
波斯(ペルシャ)
回教(イスラム)
基督(キリスト)
支那(中国)

◯山の所在地
宝達山(石川県中部の山、富山県にまたがる)
橄欖山(かんらんざん、オリーブ山、エルサレム東郊にある丘陵)

◯イスラエルの12部族と石との対応
「聖書に登場する宝石たち」
http://powerstone-dic.jp/stone_34/

宝石の名前 部族の名前
カーネリアン ルベン族
トパーズ シメオン族
エメラルド レビ族
ルビーまたはガーネット ユダ族
サファイア ダン族
ベリル ナフタリ族
ヒヤシンス石 ガド族
アゲート アシェル族
アメジスト イサカル族
ペリドット ゼブルン族
オニキス ヨセフ族
ジャスパー ベニヤミン族

◯ヘブライの古文書
Sabbath(安息日)
Mechilta Jethro(Mechiltaにいたモーゼの義父であるJethro)
どちらもヘブライの古文書であること以上はわからない

◯登場している書
ウヘツフミ(上記 うえつふみ 源頼朝の次男藤原能直が編集 神代文字で書かれている)
浜名寛祐(「古代漢文を基礎とする言語学の一科 (1933年)」?『契丹古伝』)

「六甲山と瀬織津姫 88 契丹古伝の女神」
http://mintun.exblog.jp/23653660/
『契丹古伝』の原文はわずか2980字、句読点のない 叙情詩といった体裁だが、日露戦争中に鴨緑江で従軍中  に偶然写本を入手した浜名寛祐氏が、20年をかけ解読。 『日韓正宗遡源』として刊行した。 『契丹古伝』はその復刻版。
日祖が地上に降臨させた日孫は、スサナミコという。 「日孫の一族は各地に発展」「先住民と仲良く暮らした」。 各地に「発展」して居住した神子や姫たちのなか には、日本神話に登場する神も登場する。


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古代天皇の天浮船(あめのうきふね)という飛行空母の空港はどこか [ホツマツタエ・古史]

竹内文献に、古代天皇が天浮船(あめのうきふね)という飛行空母に乗って世界各地を訪れていたとあるのを知った。

そうすると、世界はわからないけど、日本では「フネ」とつく山が各地にあることを説明できるのでは?
また「イワフネ」という神社や地名などがあることも。
(フナオカヤマは川沿いにあることが多いようなので除外した)

船通山(せんつうざん) 鳥取県日野郡日南町・島根県仁多郡横田町
  『古事記』によればスサノオが高天原から降りてきたのは船通山の麓だと云われています。
  出雲地方では古来「鳥上山」あるいは「鳥上峰」とも呼ばれる。
  『古事記』によれば船通山の麓へ降ったスサノオは八岐大蛇を退治し、
  八岐大蛇の尾から得た天叢雲剣を天照大神に献上したという。

岩船山 岩船山(いわふねさん、いわふねやま)は、北関東、栃木県栃木市にある、標高172.7メートルの山。


島根県安来市岩舟(岩舟古墳)
茨城県常北市岩船
長野県中野市岩船
栃木県栃木市 岩舟町
岩船村(いわふねむら)は茨城県東茨城郡にかつて存在した村
益田岩船(ますだのいわふね)は、奈良県橿原市白橿町にある石造物。奈良県指定史跡に指定されている(指定名称は「岩船」)。 亀石や酒船石などと並ぶ飛鳥の石造物の1つで、その中でも最大のものである。 橿原ニュータウン内、白橿南小学校の西の丘陵(岩船山)頂上付近の斜面にある

磐舟柵 新潟県村上市岩船

磐船神社 福井県越前市広瀬町



西野神社 社務日誌 「古史古伝」 より
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20070224
≪竹内文献≫ たけうちぶんけん
紀元前3175億年から続く天皇は天浮船(あめのうきふね)という飛行空母に乗って世界各地を訪れて文明を与え、地球が天変地異に襲われるとその度に天皇は天浮船で外宇宙に避難した、などという破天荒なストーリー


秩父・仙台まほろばの道「船と名のつく岩で想うこと」
http://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/9618da3b0e34bc97ebcd8bf1958990d7
▲船とつく神社-----------------------▼
一例:
・岩船神社(宮城県)----祭神はニギハヤヒ
・磐椅明神(福島県)----船曳き祭りがある。
・岩船神社(茨城県)----鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)が起源。
・岩船神社(新潟県)----ニギハヤヒ、ミズハノメ、タカオカミをお祀りする。(岩と船の由来)
・岩船神社(山梨県)----タカオカミ・クラオカミ=貴船神社(元は木船)
・荒船神社(群馬県)-----荒船山は元はアララト山?
・石舟明神(高知県)---物部氏 ニギハヤヒの船がある。
・熊野速玉大社----御船祭
・磐舟神社(大阪)----平石がある。
・磐船神社(大阪府)---木よりも鉄、鉱石を持つ人たちの強い船ができていた。(祭礼がある)
(深野稔生 船翔ける船紀行 より引用)
まだまだたくさんあるのですが、岩船というとニギハヤヒをお祀りする神社がほとんど。
物部氏と関係している氏族が建てたというのもありますが、
神話にあるニニギやニギハヤヒと「ニギ」という言葉に意味があるようなので、人物名でないことは確か。


第94回 船通山【せんつうざん】
http://japanknowledge.com/articles/blogjournal/howtoread/entry.html?entryid=103
鳥取県と島根県の県境、かつての伯耆・出雲の国境に標高一一四二・五メートルの船通山が聳えている。しかし、中国山地の脊梁部に「船が通う山」があるのは不思議な感じもする。
この疑問に対しての一つの解答が、天和二年(一六八二)成立の『出雲風土記抄』に載る山名由来である。それによると、素戔嗚尊すさのおのみこと(須佐之男命)が新羅しらぎから土船で東征した折、その船を山頂に置いたという。ノアの箱舟を連想させるような話だが、『日本書紀』の一書に神の国から追放された素戔嗚尊が新羅の国へ降臨したと伝えることから派生した解釈であろう。


岩船大祭 新潟県村上市
岩船大祭の由来と見どころ
http://www.city.murakami.lg.jp/site/kanko/iwafune-taisai-midokoro.html
お船様はなぜ山に登るのでしょうか
神社本殿へ向かう「お船様」
「げにやめでたき神代の昔 蜻蛉洲(あきつしま)に宮始まりて…」(本当にめでたい 神様がおられた昔 日本の国にお宮様が始まって)と木遣りの声が石船(いわふね)神社の杜(もり)にしみ通って流れます。
なぜ、船が山に登るのでしょう。船は本来、海や川に浮かぶものですが、岩船のお船様は山に登ります。このような神事を探してみました。大阪府の磐船神社に同じような神事が昔あったと言われております。この大阪の磐船(いわふね)神社と岩船の石船神社は、磐と石の文字の違いはあっても同じ「いわふね」と読みますから、何らかの関係があったのではないでしょうか。
日本書紀によると、曉速日命が天より降りるときに用いる乗り物が「天磐船(天磐樟船)」と言われるものです。これは、神の世界と人間の世界を往来するときに用いられたものです。それは、「くすの木で作った岩のように丈夫な船」という意味なのだそうです。その船に乗って饒速日命が天からどの地に降りたのかは、日本書紀には書いてありません。古代の人々は、山に神が宿ると信じていました。石船神社のある明神山は海岸部にあり、しかも陵(みさぎ)のような円い巨大なまんじゅうのような形をしています。古代の人々が神様が降りてくる聖地だと考えるのに、まさにふさわしい場所だったと思われます。また、人々は、神霊の世界が海の彼方にあって、その船に乗ればその岸に到着できると考えていたようです。


竹内文書が偽書でないことを、磐船・磐舟・岩船・岩舟に残る伝承が示している。

あとは海外での天の浮舟の空港がどこにあるかだが、
たぶんそれを伝えていたであろうインディアンは殺されてしまった。
ケルト民族なら伝えていそう。

天から神々が降りて来るという神話は多くの場所にあるが、それと日本や天皇とが結びつくものがみつかるか。


「宇宙船磐船神社にいきました 「イワフネ」神社いろいろ」
http://kusunoki-456.blog.so-net.ne.jp/2017-03-24
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竹内宿禰 蝦夷の地を巡察 [ホツマツタエ・古史]

蝦夷(えぞ、えみし)というとアイヌだと思っていたが、違うようだ。

蝦夷には、アイヌも含まれるが、「政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指すこともある。」とあるので、大和朝廷(漢字民族・中国人)に対しての蝦夷(神代文字民族・古来日本人)であるかもしれないと思った。


竹内文書を所持していたのは、竹内宿禰の子孫である。
しかし、辞典の記述はなにかひっかかるのである。
「記紀にみえる伝承上の人物」といい、「蝦夷(えみし)の地の巡察は史実ではない」という、その言い方がかえって、これは実在の人物であり、史実であると思わせる。


竹内宿禰は、蝦夷(えみし)の地の巡察をしていて、神代文字の文書群を知った?
竹内家は本当の歴史を消すわけにはいかないと、固く固く秘して、一千年以上守り続け、竹内巨摩が公開する大正・昭和の頃まで守り抜いたんではないだろうか。



えみし 蝦夷(角川日本史辞典)
古代、東北地方の住民に対して律令制国家が用いた名称。律令制以前には「毛人」と表記したが、中華思想における東夷(とうい)の概念と結びつき蝦夷となる。戦前はアイヌの祖先につながる異民族と考えられてきたが、その証拠はなく、最近では否定されている。しかし残存する地名や土器には、当時の日本人が使用していたものとは異なる要素が含まれており、蝦夷の中には異種族も存在していたと考えられる。律令制国家における中華思想の元、王の教化に服さない化外(けがい)の民とされ、征服の対象となった。国家の支配下に入った蝦夷はそのまま公民身分に編入されたのではなく、班田や調庸収取・(しんごう)の対象とならない俘囚や田夷・山夷などの様々な中間身分に組み込まれた。その後東北地方の内国化が進み、平安中期以後、東北から北海道にかけての住民に対する呼称は「えぞ」に変化。これには後のアイヌの一部につながる種族が含まれていた。



たけしうちのすくね 武内宿禰(角川日本史辞典)
「たけうちのすくね」とも読み、建内宿禰とも書く。記紀にみえる伝承上の人物。孝元天皇の孫ないしひ孫と称し、景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇(「古事記」は成務から)の5代に仕えた大臣という。蝦夷(えみし)の地の巡察、新羅との戦いなどを伝えるが、史実ではない。子の男子七人は波多氏・巨瀬氏・蘇我氏・平群氏・紀氏・葛城氏・江野間氏の祖とされ、葛城・平群・巨瀬・蘇我氏は大臣を務めた。


景行(12)・成務(13)・仲哀(14)・応神(15)・仁徳(16代)天皇である。
仁徳天皇から大和時代になる。


https://ja.wikipedia.org/wiki/大和時代
大和時代(やまとじだい)は、日本史の時代区分の呼称の一つ。弥生時代の後、奈良時代の前、4世紀頃から6世紀頃までを指したり、あるいは飛鳥時代(6世紀後半 - 7世紀)をも含めることがある。ヤマト王権による支配が強まり、壮大な古墳(前方後円墳・円墳)が盛んに作られ、古代国家の基礎が整えられた時期にあたる。


「漢字を使う人々が古代文字を使う人々を征服」
http://kusunoki-456.blog.so-net.ne.jp/2017-10-30


https://ja.wikipedia.org/wiki/武内宿禰
武内宿禰(たけしうちのすくね[1][2]/たけうちのすくね[3][注 2]/たけのうちのすくね、景行天皇14年[注 1] - 没年不詳)は、記紀に伝わる古代日本の人物。
『日本書紀』では「武内宿禰」、『古事記』では「建内宿禰」、他文献では「建内足尼」とも表記される。「宿禰」は尊称で、名称は「勇猛な、内廷の宿禰」の意とされる[4]。
第12代景行天皇紀
景行天皇25年7月3日条、同27年2月12日条
武内宿禰は北陸及び東方に派遣され、地形と百姓の様子を視察した。帰国すると、蝦夷を討つよう景行天皇に進言した[2]。
国造
『先代旧事本紀』「国造本紀」には、次の国造が後裔として記載されている。
江沼国造 - 柴垣朝(18代・反正天皇)の御世に蘇我臣同祖の武内宿禰四世孫の志波勝足尼を国造に定める、という。のちの加賀国江沼郡周辺にあたる[14]。
伊弥頭国造 - 志賀高穴穂朝(13代・成務天皇)の御世に宗我同祖の建内足尼の孫の大河音足尼を国造に定める表記修正、という。のちの越中国射水郡周辺にあたる[15]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/射水郡
20171101-1.png
射水郡(いみずぐん)は、富山県(越中国)にあった郡。
江戸時代までは越中国の北西部一帯を占める郡で、現在の高岡市の一部(北部・中部)、富山市の一部(老田地区)、射水市、氷見市の市域に相当する。南を礪波郡、東を婦負郡、北と東を加賀国・能登国に接する。律令時代には伏木(現 高岡市伏木)に越中国府が置かれた。


「ヨセフ族の石がなぜオニキスなのか」
http://kusunoki-456.blog.so-net.ne.jp/2017-10-29
皇祖皇大神宮が茨城県から移ってくる前にあったのは、越中国婦負郡宮川郷、この神域は今は神通川の西淵山田川の川底である。


建内足尼(たけうちすくね)の孫の大河音足尼が伊弥頭(いみず)の国造になった。
越中国婦負郡の隣である。


古史古伝 - 西野神社 社務日誌 - はてなダイアリー
http://d.hatena.ne.jp/nisinojinnjya/20070224
≪竹内文献≫ たけうちぶんけん
5世紀末、武内宿禰(たけうちのすくね)の孫である平群真鳥(へぐりのまとり)が、武烈天皇の勅命により、真の神代史を正しく後世に伝えるため、象形文字で書かれていた神代の記録を漢字仮名混じり文に改めて筆写したとされる文書で、平群真鳥の子孫とされる越中神明村の赤池神明宮の宮司家・竹内一族に伝えられ、大正末期から昭和初期にかけて、竹内家に養子に入った竹内巨麿(たけうちきよまろ)によって世に公開されました。

↑たいへんわかりやすい、古史古伝まとめ。

武烈天皇は第25代天皇。

https://ja.wikipedia.org/wiki/神明村_(富山県)
神明村(しんめいむら)は、かつて富山県婦負郡にあった村。


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日本書紀全29巻中12巻が中国人によって書かれている [ホツマツタエ・古史]

漢字渡来以前に日本には文字が何種類かあり、また神武天皇以前に
天神7代
上古廿五代(別称:皇統二十五代)
不合朝(あえずちょう、72代続く)
があって、現在の神倭朝(かむやまとちょう、所謂神武天皇以降、現在までの総称)に続くという記録が竹内文書にあるという。

https://ja.wikipedia.org/wiki/神代文字
主に神社の御神体や石碑や施設に記載されたり[1]、神事などに使われており、一部の神社では符、札、お守りなどに使用するほか、神社に奉納される事もあった。機密文書や武術の伝書のほか、忍者など一部の集団で秘密の漏えいを防ぐために暗号として使用されたという。また、江戸時代の藩札の中には、偽造防止のため意図的に神代文字を使用したものもある。
鎌倉時代のころから朝廷の学者によって研究されたほか、江戸時代にも多くの学者に研究されたが、近代以降は、現存する神代文字は古代文字ではなく、漢字渡来以前の日本に固有の文字はなかったとする説が一般的である。その一方で、神代文字存在説は古史古伝や古神道の関係者を中心に現在も支持されている。


官製学者は漢字渡来以前の日本に固有の文字はなかったとする。


竹内文書を所持している皇祖皇太神宮天津教は、弾圧を受け神宝拝観禁止、神社の鳥居を撤去され、また1950年(昭和25年)1月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)から天津教は解散指定されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/竹内文書


神代文字の実在と、神武天皇以前の王朝の存在を伝える酒井勝軍も著書の多くが発禁にされている。


https://ja.wikipedia.org/wiki/日本書紀
『日本書紀』は純漢文体であると思われてきたが、森博達の研究では、語彙や語法に倭習(和習・和臭)が多くみられ、加えて使用されている万葉仮名の音韻の違いなどの研究からα群(巻第十四〜二十一、巻第二十四〜二十七)とβ群(巻第一〜十三、巻第二十二〜二十三、巻第二十八〜二十九)にわかれるとし、倭習のみられない正格漢文のα群を中国人(渡来唐人であり大学の音博士であった続守言と薩弘恪)が、倭習のみられる和化漢文であるβ群を日本人(新羅に留学した学僧山田史御方)が書いたものと推定している[10]。またα群にも一部に倭習がみられるがこれは原資料から直接文章を引用した、もしくは日本人が後から追加・修正を行ったと推定されている。特に巻第二十四、巻第二十五はα群に分類されるにもかかわらず、乙巳の変・大化の改新に関する部分には倭習が頻出しており、蘇我氏を逆臣として誅滅を図ったクーデターに関しては、元明天皇(天智天皇の子)、藤原不比等(藤原鎌足の子)の意向で大幅に「加筆」された可能性を指摘する学者もいる[誰?]。


つまり日本書紀は、全29巻中少なくとも12巻が中国人によって書かれている。

すなわち中国人による侵略と、それを隠すための歴史の書き換えがあったことが推測される。

https://ja.wikipedia.org/wiki/神代文字
神代文字存在説への批判に対する反論
5.学問以外の部分
島国で1000年以上の間漢字に親しんできた日本人には、漢字以前にあったという見慣れない別の「文字」の存在は精神的に受け入れがたく、そこから否定論が起きるとする。肯定論者[23]は、古代日本に文字があった可能性を全否定するのは、古い考えへの拘り、頑迷な態度と主張している。月刊『日本神学』主幹の中野裕道も神代文字否定説について「これは日本人のもつ島国根性といわれる悪い性格傾向によるものであって、近代の学問が科学的態度を重視するように、事実の前にはもっと謙虚にならなければいけない」と述べている[24]。
6.ヲシテ支持者の主張
伊予文字、秀真文字として神代文字のひとつである[2][3]ヲシテには、11万字におよぶ古文書(ヲシテ文献)が確認されており、記紀との3書比較により先行性が確認されたとの主張や[4]、その文字形によって大和言葉の文法や語源を説明しうるとする主張[5]などにより、少なくともヲシテは実在した古代文字であるとする説がある。



神代文字・古代文字が日本にあったということを正式に認めれば、古代文字で書かれた文献を創作だ、偽作だということは簡単にはできなくなる。
そうすると、天皇は神武からはじまったとする日本書紀との整合性がとれなくなる。

神代文字はどうしていつ漢字に変わってしまったのか。
どうして神代文字の文献と、日本書紀などの記述が食い違うのか、そこに焦点があたるからだろう。


大きな謎がひとつとけてかなりすっきり。
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漢字を使う人々が古代文字を使う人々を征服 [ホツマツタエ・古史]

漢字が伝わる以前に、日本には文字があったことは確かなよう。
それらの文字は一部の神社のお守りやお札の中に残されている。

しかし、公式にはなかったことにされている。
漢字が伝わるまで日本に文字はなかったと。

それはつまり、日本には古代文字(神代文字)を使用する人々がいたが、漢字を使用する人々に侵略されたということだろう。
しかし侵略があったということはなかったことにしたい。
そしてその支配は、現在まで続いているので、現在でも神代文字の存在はなかったことにされているのでは。


「多くの天皇の母は藤原氏」
http://kusunoki-456.blog.so-net.ne.jp/2017-04-16
天皇の母の66%が藤原氏。
大正天皇の母・柳原愛子も藤原氏系列である。
昭和天皇の母・九条節子氏も藤原氏系列である。


では漢字を使用する人々の侵略はいつだろうか。

「古事記」や「日本書紀」はそうだろう。
20171030-1.jpg
古事記の写本。8世紀初め頃とされる。

20171030-2.jpg
日本書紀の写本。

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本書紀
『日本書紀』は純漢文体であると思われてきたが、森博達の研究では、語彙や語法に倭習(和習・和臭)が多くみられ、加えて使用されている万葉仮名の音韻の違いなどの研究からα群(巻第十四〜二十一、巻第二十四〜二十七)とβ群(巻第一〜十三、巻第二十二〜二十三、巻第二十八〜二十九)にわかれるとし、倭習のみられない正格漢文のα群を中国人(渡来唐人であり大学の音博士であった続守言と薩弘恪)が、倭習のみられる和化漢文であるβ群を日本人(新羅に留学した学僧山田史御方)が書いたものと推定している[10]。またα群にも一部に倭習がみられるがこれは原資料から直接文章を引用した、もしくは日本人が後から追加・修正を行ったと推定されている。特に巻第二十四、巻第二十五はα群に分類されるにもかかわらず、乙巳の変・大化の改新に関する部分には倭習が頻出しており、蘇我氏を逆臣として誅滅を図ったクーデターに関しては、元明天皇(天智天皇の子)、藤原不比等(藤原鎌足の子)の意向で大幅に「加筆」された可能性を指摘する学者もいる[誰?]。


漢字を使う民族と、古代文字を使う民族との境が、渟足柵(ぬたりのき/ぬたりのさく)大化3年(647年)、磐舟柵(いわふねのき/いわふねさく)大化4年(648年)648年に越国、出羽柵(でわのき/いではのき/でわのさく)709年以前なのかもしれない。


https://ja.wikipedia.org/wiki/蝦夷
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)
大きく、「エミシ、エビス(愛瀰詩、毛人、蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。
えみし、毛人・蝦夷の語源については、以下に紹介する様々な説が唱えられているものの、いずれも確たる証拠はないが、エミシ(愛瀰詩)の初見は神武東征記であり、神武天皇によって滅ぼされた畿内の先住勢力とされている。「蝦夷」表記の初出は、日本書紀の景行天皇条である。そこでは、武内宿禰が北陸及び東方諸国を視察して、「東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」と述べており、5世紀頃とされる景行期には、蝦夷が現在の東北地方だけではなく関東地方を含む広く東方にいたこと、蝦夷は、「身を文けて」つまり、邪馬台国の人々と同じく、入墨(文身)をしていたことが分かっている。
蘇我蝦夷のように古代の日本人の名に使われた
蘇我蝦夷は『日本書紀』では蝦夷だが、『上宮聖徳法王帝説』では蘇我豊浦毛人と書かれている。
蝦夷の蝦の字については、あごひげが長いのをエビに見たてて付けたのだとする説がある
夷の字を分解すると「弓人」になり、これが蝦夷の特徴なのだという説もある
諸説ある中で唯一定まっているのは、「夷」が東の異民族を指す字で、中華思想を日本中心にあてはめたものだということである。「夷」単独なら『古事記』などにも普通にあるが、その場合古訓で「ひな」と読む。多くの学者は用字の変化を異族への蔑視の表れとし、蘇我毛人を蘇我蝦夷としたのも『日本書紀』編者が彼を卑しめたものとする
一字で「夷」と「狄」を使い分けることもよくあった。これは管轄する国(令制国)による人工的区分で、越後国(後に出羽国)所轄の日本海側と北海道のえみしを蝦狄・狄、陸奥国所轄の太平洋側のえみしを蝦夷・夷としたのである[17]。
古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した。統一した政治勢力をなさず、積極的に朝廷に接近する集団もあれば、敵対した集団もあったと考えられている。しかし、次第に影響力を増大させていく大和朝廷により、征服・吸収されていった。蝦夷と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は和人につながったと考えられている。 蝦夷(えぞ)と蝦夷(えみし)とは連続性を有すると考えられてきたが、昭和に入ってから東北地方に弥生時代の稲作遺跡が発見されたことから、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)を、人種的にはともかく、民族的には区別する説が有力となった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

蘇我氏は先住民族だったよう。
大化の改新あたりが転換点か。
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ヨセフ族の石がなぜオニキスなのか [ホツマツタエ・古史]

「三千年間日本に秘蔵せられたるモーゼの裏十戒」酒井勝軍 昭和六年

日本には、聖書に記されたユダヤ人12支族のうちのいくつか正系も含めてきており、モーゼもきているという。

昭和四年11月3日午後一時、茨城県磯原町皇祖皇大神宮で、酒井勝軍は、竹内巨摩氏始め、前田淳および與語忠次郎立会いのもと、この神社の神宝を見せてもらっている。

厳重に梱包された巻物や、漢字以前の文字で書かれた石。

真十戒石、表十戒石、裏十戒石だという。

酒井はたずねる
「これだけの御神宝が揃っている以上、必ずオニックスがあるはずだ」(P.89)
オニックスとは縞瑪瑙のこと、最初はないと言っていたが、
「そう言われてみると、実は十戒石と一緒に小さな硬い石があり、あまりよく火が出るので神社の火打ち石に使っております。まさかそれではないでしょう」
とってきてもらうと、まさにオニックスだった。

P.87
第2はオニックスの発見である。オニックスはすなわち縞瑪瑙であるが、聖書によれば世界の統治者はイスラエルの正系ヨセフ族から出現することになっているが、このヨセフ族の代表石はオニックスであるから、苟(いやしく)も世界統治の大任を負うヨセフ族が地上に存在するものとせば、そこには必ずオニックスがなければならぬのである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
なぜヨセフ族とオニックス(オニキス)がつながるのか。
ずいぶんと強い確信を持って、オニキスがあるはずというその根拠はなにか。
それは聖書にあった。


聖書に登場する宝石たち
http://powerstone-dic.jp/stone_34/
新約聖書「ヨハネの黙示録」からです。
古いキリスト教の信仰の中に、「この世は一度滅び、その後に全く新しい神の国が誕生する」という考え方があります。
この、新しい神の国の都であるエルサレム城壁の土台石が、12種類の宝石で飾られていた、と語られているのです。
これまでのことから分かる通り、聖書では高僧の胸当ても城壁の土台石にも、どちらも12個の宝石が登場してきていました。
この12という数は、実はユダヤ民族の12部族に対応しており、それぞれ以下の宝石が、それぞれの部族を象徴していた、といわれています。

宝石の名前 部族の名前
カーネリアン ルベン族
トパーズ シメオン族
エメラルド レビ族
ルビーまたはガーネット ユダ族
サファイア ダン族
ベリル ナフタリ族
ヒヤシンス石 ガド族
アゲート アシェル族
アメジスト イサカル族
ペリドット ゼブルン族
オニキス ヨセフ族
ジャスパー ベニヤミン族


酒井氏の聖書の解釈は相当深い。
ガド族とミカドを結びつける説はネットでよくみるが、関係はないという。

P.114
このオニックスの発見で、余が多年日本はイスラエルの正系であると主張して来った研究は成功であったばかりでなく、モーセがこれを外宮の神体として奉納したことは世界万民に日本は祖国なりとの声明をなしたものといわねばならぬ。
しかるに日本人の起源を論じた某書に、ミカドを以ってガドの後裔なりと盲断している。しかも深い論議があるのでなく、ただ名称相似ているというにすぎないので、学説としてなんの価もなき馬鹿らしき見解であるばかりでなく、ミカドは絶対の職称である。また字義も全く異なっておる。
これだけならば歯牙にかけるにたらぬことだが、ガドなるものは奴隷の子で、イスラエル族の最劣級者である。すなわちユダ(ユダヤ人の祖)の母レアの奴婢ジルバが生んだものであるから、彼の説を立てればミカドはユダヤ人の異母弟で、なんと畏れ多き不敬極まる盲論放言ではないか。しかも斯(かか)る不敬の図書を天覧に供したというに到っては狂気の沙汰といわねばならぬが、幸いにはオニックスの発見で凡てが解決されたことは天佑である。


伝説の聖者が日本に眠る「モーセの墓」
http://www.nazotoki.com/moses.html
石川県宝達志水ほうだつしみず町には、「十戒」で有名なモーセの墓がある。 戦後のあるとき(おそらく昭和20年代)、アメリカ軍の兵士たちがモーセの墓を調べるためにやってきたことは事実。


伝説の森公園(モーゼパーク)
http://www.hodatsushimizu.jp/kurashi/section/detail.jsp?id=100
神より十戒を授かったモーゼが、宝達山の山麓、三ツ子塚古墳群の中に葬られているという奇想天外なミステリー。


キリストの墓も、モーゼの墓も日本にあることになる。

皇祖皇大神宮が茨城県から移ってくる前にあったのは、越中国婦見郡宮川郷、この神域は今は神通川の西淵山田川の川底である。
婦見郡ではなく婦負郡か?


http://kusunoki-456.blog.so-net.ne.jp/2017-10-27-1
皇祖皇大神宮は日本最古の神社で、もとは越中国婦見郡宮川郷にあり、武内宿禰の子孫竹内家代々これが神主を営むこの神域は今は神通川の西淵山田川の川底になったが、神社は茨城県にうつされた。(P.18)


20171029-1.png
https://ja.wikipedia.org/wiki/婦負郡
婦負郡(ねいぐん、めひのこおり)は富山県(越中国)にあった郡。

現在の富山市、射水市のあたりになる。

スクリーンショット 2017-10-29 6.24.19.png

モーゼの十戒石のある皇祖皇大神宮の移転前の場所と、モーゼの墓は直線で30−40キロぐらいである。


皇祖皇大神宮 資料館
http://www.kousokoutaijingu.or.jp/sub8.html

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2系統ある竹内文書 [ホツマツタエ・古史]

古文書の中に竹内文書(竹内文献)というものがあり、漢字以前の文字(神代文字)で書かれ、神武天皇以前に何代もの王朝があり、日本の王が世界を統べていたという内容が書かれているそう。

この文書を伝えた一族の末裔が、Youtubeでよくみる竹内陸泰氏だと思っていたが、なんと別系統であることを知った。

「三千年間日本に秘蔵せられたるモーゼの裏十戒」酒井勝軍 昭和六年発行
によると、酒井氏が調査に行ったのは、茨城県の皇祖皇大神宮。
皇祖皇大神宮は日本最古の神社で、もとは越中国婦見郡宮川郷にあり、武内宿禰の子孫竹内家代々これが神主を営むこの神域は今は神通川の西淵山田川の川底になったが、神社は茨城県にうつされた。(P.18)


この神社には、モーゼの十戒の石や大量の文書が、厳重に秘密にされ、秘匿されてきたが、第66代竹内巨摩氏の時代に、公開すべき時期が来たと封を切り始めた。


太平洋戦争中に、原本は消失してしまった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/竹内文書
この裁判にあたり、皇祖皇太神宮から「神宮神祠不敬被告事件上告趣意書」が、神宝を含む竹内文書約4,000点と史跡の現地調査の報告書などとともに、提出された[9]。無罪判決となるも、提出物は裁判が終了してもすぐに返還がかなわず、それら原本は太平洋戦争中の空襲により『吉備津彦命兵法之巻』などを焼失したとされている[9]。戦後、巨麿の子、竹内義宮がその写本を伝えている。


もう一方の系統、竹内睦泰氏は麻生太郎氏と親戚だそう。

https://blogs.yahoo.co.jp/x_lucy0_x/42707287.html
”変な縁です(笑) 麻生太郎総理の祖父は 吉田茂総理ですが もともとの名前は 竹内茂。 実は竹内家から吉田家に 養子に行ったのが吉田茂。”
『★笑顔!笑顔!笑顔!~心強き仲間たち!!! (6月20日の日記)』
http://amba.to/296en0M より

吉田茂の父親は竹内綱。

https://ja.wikipedia.org/wiki/吉田茂
1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区)[注 1]に生まれる[2]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/竹内綱
天保10年(1840年)、土佐藩家老・山内氏(伊賀氏、宿毛領主)の家臣・竹内庄右衛門吉管の子として土佐国宿毛に生まれる。


竹内睦泰氏は第73代竹内宿禰といっている。


土佐宿毛人脈、竹内綱人脈
http://kingendaikeizu.net/tosasukumo.htm
転載禁止なので、転載できないがこの系図の中に吉田茂と尾崎行雄が入っている。
吉田茂の父親・竹内綱の母親の兄弟が結婚した相手の兄弟の孫の嫁と尾崎行雄の嫁が姉妹という遠さではあるが。


https://ja.wikipedia.org/wiki/世界連邦運動
日本では終戦直後に尾崎行雄ら有志の議員が「世界連邦建設に関する決議案」を国会に提出。1948年には「世界連邦建設同盟」が結成され尾崎行雄が会長に、賀川豊彦が副会長となって活動を開始した。また、名誉会長には戦後初の総理大臣東久邇稔彦が、第五代会長には湯川秀樹が就任している。「世界連邦建設同盟」は現在「世界連邦運動協会」と名を変えて活動している。


https://ja.wikipedia.org/wiki/枝野幸男
祖父が尊敬していた憲政の神様である尾崎行雄にあやかり、男の初孫である枝野には「ゆきお」という名前をつけろと父が祖父から言われていて、字は違うが"幸男"と名付けたというのが名前の由来である[1]。自身の名前の由来を聞かされたことが影響し、物心がついた頃から政治家を志望していた[2]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/尾崎三良
仁和寺宮諸大夫の若林盛之の三男[注釈 1]として山城国葛野郡西院(現在の京都市右京区)で生まれたが、幼くして両親と死別し、学問への志をもちながらも、1857年から烏丸家、そして冷泉家に仕えた後、三条実美に気に入られて、元家人の戸田氏の養子となり、実美の家人となる。
文久2年(1862年)、孝明天皇の勅使となった三条実美に随従して江戸に赴き、翌年の八月十八日の政変で三条ら過激派公卿が京都を追放された七卿落ちでは三条に随行し、長州藩へ落ち延びた。慶応元年(1865年)、三条に随って大宰府に移った。この間、撃剣・乗馬を習い、読書を積んだ[1]。 「戸田雅楽」の別名で、三条の名代として西郷隆盛など尊皇攘夷派との連絡役をつとめたのもこの時期である。大宰府では、公卿の臣下や諸藩の人士との交流によって攘夷論から開国論へと転向した[2]。
慶応3年(1867年)、三条の諒解を得て見物の名目で長崎に赴いた際にアメリカ領事や坂本龍馬・中島信行らと親交を結び、大政奉還の策を協議して岩倉具視に建策する。その際に出されたのが、後の三職制度であるとされている。坂本・陸奥宗光らとともに土佐へも赴き、ついで京都にむかい、そこで坂本と同席しているあいだに京都二条城で徳川慶喜により大政奉還がおこなわれた[3]。 そこで急遽西郷隆盛らと同船して大宰府に戻り、事態を三条実美に報告した[3]。維新後、実家の尾崎氏の姓を継ぎ「尾崎三良」と称した。
龍馬の死後、三条は朝廷に復帰するが、尾崎は龍馬から聞いた海外の話に関心を持って留学を志す。これは伊藤博文にも支持され、三条は嫡男・公恭とともにその従者としてイギリス留学することを命じた[3]。 慶応4年(1868年)3月、公恭、中御門寛丸、毛利元功およびその従者の一行8人で神戸港から渡英した。長崎からは62日間の船旅となった[3]。イギリスでは河瀬真孝に英語を学んだが、のちにオックスフォード大学聴講生としてイギリス法を修得するまでになっている。後に河鰭実文のイギリス留学の世話もしている。
明治6年(1873年)には木戸の要請で帰国、太政官に出仕して法制整備の任にあたる。明治13年(1880年)、ロシア駐在一等書記官として、公使柳原前光とともにサンクトペテルブルクに入る。翌年、帰国を命じられて太政官大書記官、内務大丞などを歴任。明治18年(1885年)には元老院議官として大日本帝国憲法の審議にあたった。
明治23年(1890年)の帝国議会発足とともに同年9月29日貴族院議員に勅撰され[4]、翌年成立した第1次松方内閣においては法制局長官に就任した。 明治23年(1890年)12月に出版された 『国会傍聴 議場の奇談』には「尾崎三良氏の演説は中々上出来 三浦安氏の弁舌は流暢なり共に老練々々」と記されている。


尾崎三良って聞いたことがなかったが、結構大きな仕事をしている。


茨城の竹内家と土佐の竹内家とどうつながるんだろうか。
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ピラミッドを上から見ると旭日旗だったという説 [ホツマツタエ・古史]

「黒又山は日本のピラミッド」
http://kusunoki-456.blog.so-net.ne.jp/2017-10-19
で、検索しているときにでてきた酒井勝軍(さかいかつとき1874(明治6)〜 1940(昭和15))の著書「太古日本のピラミッド」を入手した。

旧漢字で書かれているので、一部読めない漢字もあるが、これがもう、読み始めるとわくわくする面白さ。

興味深い指摘はたくさんあるのだが、まず一つをあげると
エジプトのギザのピラミッドの現在の形というのは、骸骨だけ残ったようなものであり、完成時の形は、白と赤の石で覆われ、上から見ると日本の旭日旗のような模様をしていたと推測できるというもの。

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びっくりするような推測だが、著者はエジプトに行き、ピラミッドを調査し、ピラミッドの外装を剥奪して造営されたマホメット寺院を調査してえた結論。

イギリスのピラミッド研究家エドガー兄弟は、ピラミッドは全部白色大理石で粧飾され、頂上に太陽を象徴する赤色大理石が置かれてあったと公表したが、著者がマホメット寺院を調査すると、赤色大理石が多く使用されていたのを見たほか、その内庭は全部大理石で舗装され、あちこちに20ばかり赤白両色の大理石で日本の軍旗が表現され、またユダヤの古文書には、メシヤが世界に君臨されるときには、東西南北に各4條の光芒を放射するといるされていることから。

(ブログ主:ピラミッドの完成形が白と赤だったというのもきいたことがないが、ましてやそれがはがされて寺院に使われているなんてことも聞いたことがなかった。大変興味深い。)


次にピラミッドという言葉は天の御柱という意義で、陰陽合致、神人交通、すなわち天地人合体、いわゆるアーミンの象徴である。ギザのピラミッドは、やがて近く出現さるべき世界の統治者メシヤの神姿を建築化したもの
という研究がエドガー技師によって完成せられて2千ページにわたる著書となっている。
著者の研究によるとそのメシヤとは日本の天皇にほかならないそうだ。

メシヤはヘブライ語であるが、ギリシャ語ではキリストと訳してしかるべきで、日本語ではスメラミカドすなわち天皇と訳すより他にないものである。天皇をエンペラーと訳すのは、不敬きわまるらしい。

またピラミッド建造に使用したキュビット尺は、地球の中心より南極または北極までの地軸の長さの1千万分の一に該当するもの。キュビットというのは、人間の肘より中指先までの長さを指したものであって、日本でも太古においてはこれを尺度に使用した。

(ブログ主:以前にも書いたが、ユダヤ人には2種類あり、
ユダヤ禍、ユダヤによる陰謀というときは、白人の偽ユダヤ人、ハザールユダヤ、アシュケナージユダヤを指し、日本とユダヤが同祖であるという話のときは、真性ユダヤ、有色のユダヤ人、スファラディユダヤ、を指す。)

著者は、世界はユダヤ人の運動によりて統一せられ、同時に日本天皇によりて統治さるることが明らかであると記している。

支那文化渡来前に日本の文化はなかったとか、文字はなかったというのはまったく許せない妄説である。
式内神社の配布するお守り札には神代文字の神名が書かれているではないか、太古日本の10種の神器には神代文字が明らかに深く刻まれているではないかと。


著者は広島県比婆郡本村の葦獄山を調査して日本のピラミッドであると確信した。
ドルメンとみられる石、鏡石などから。
登山2回目に実地調査を行う前、妨害運動が始まったという密告があり、なにものかが著者の名前で調査は延期とする偽の手紙を警察署にあてて送ったという事実があったそう。


ピラミッド:外装石と内部構造の謎
www2.odn.ne.jp/~cic04500/pyramid02.html
>>今ではピラミッドは外装石をほとんどはぎとられてしまっている
>>アラブ人によってピラミッドの外装石がはぎとられ、モスクなどの建設に使われてしまった
>>3大ピラミッドの本来の姿は、ほぼ全体が白く輝いていたのではなく、赤く彩色されていたのではないか、という意見もある。


神代宇宙文字の歴史
http://www.kamiyo.org/kamiyo/rekishi/rekishi.html
神璽(神符)・守符(お守り)に書かれている文字を見ていただくとお分かりになりますが、 国幣大社の神璽、守符には神代文字で御祭神のお名前が記載されております。
神代文字を使用した人々
稗田 阿礼 稗田 阿礼 菅原 道真 平 将門 源 義経 源 義経 源 頼朝 後醍醐 天皇 これらは伊勢神宮に奉納されています。

八幡書店
モーゼの裏十誡
太古日本のピラミッド
http://www.hachiman.com/shopdetail/000000000196/ct59/page1/recommend/
原書は昭和九年発行。八幡書店では復刻版が販売されている。
「説明するまでもない有名な幻の奇書。30年、斯道に携わってきましたが、古書店で原本を見たのは1回だけで、10万円というとてつもない値段がついており ました。ここまでくると、竹内文献がウソだとかホントだとか、そんなことを越えた地平に燦然と輝く貴重な天下一本といえましょう。それがこんなお値段で入 手できるのです。このチャンスをお見逃しなく。」
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