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「絵図と景観が語る骨寺村の歴史」 [神社・神話]

巨人の骨がテレビに偶然映っていたことを書きました。
「ネフィリム 巨人は日本にもいた 岩手一関」
http://kusunoki-456.blog.so-net.ne.jp/2017-08-09-1

もっと少し詳しく知りたくて、
「絵図と景観が語る骨寺村の歴史」國學院大学教授 吉田敏弘 2008年を入手。

骨寺村の昔の地図が中尊寺にあり、それらが国の重要文化財に指定されています。
ネットの画像では細かいところがわかりませんが、本では部分部分の拡大図がありよくわかります。

盛りだくさんの情報なのですが、一部取り上げると、
骨寺村の北西に有名な平泉町の中尊寺があるが、中尊寺はもともと骨寺村にあったという伝承が村に残っている。
それだけではなく中尊寺近くの毛越寺も骨寺村にあったという話がある。

20170810-1.png
古地図の右上部分は一部欠損し、継紙があてられている。
そこは川の流れから山王山が描かれていたと推測される。
本来の山王山を削除し、手前の山に「山王」と追記したとの推測。
(ブログ主:なぜそこだけ欠損しているのか。
なにか都合の悪いものが書かれていたのではないか。
たとえば巨人の情報などが)

近くに窟がふたつある。
山王山と、平泉町の達谷窟(たっこくのいわや)。
達谷窟には坂上田村麻呂に征伐された蝦夷の悪路王(あくろおう)伝説が伝わっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/悪路王
悪路王(あくろおう)は平安時代初期の蝦夷の首長。文献によっては盗賊の首領や、鬼とされることもある。 しばしばアテルイと同一視されるが、ほかにも異称は多く存在し、それらのどこまでが同じ人物でどこまでが別人なのかは、史料によって異なる。また、伝承が残るのは主に岩手県や宮城県だが、奥羽山脈を越えた秋田県や北関東の栃木県、さらに蝦夷とは何の関係もない滋賀県にもゆかりの地とされる旧跡が存在する。 どの伝説においても、坂上田村麻呂ないし彼をモデルとした伝承上の人物によって討たれるところは共通している。

古文書が残っており、それを調べてwikipediaに書いてくれる方がいる。
ありがたいことです。

「「悪路王の首」についての資料はあるか」
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000135436

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厳美町の名前の由来は
https://ja.wikipedia.org/wiki/厳美村_(岩手県)
厳美村(げんびむら)は、昭和29年(1954年)まで岩手県西磐井郡にあった村。現在の一関市厳美町にあたる。
明治22年(1889年)4月1日 - 町村制施行にともない、五串(いつくし)村と猪岡村が合併して厳美村が発足。

五串(いつくし)ー>厳(いつくし)ー>厳美(げんび)ということのよう。

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蝦夷征伐とか坂上田村麻呂とか、歴史で習っていてもそれが何を意味するのか理解していないのですよね。
知れば知るほど、わからないことがでてきます。

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「神社」と「天皇」を理解したいが [神社・神話]

「神社」と「天皇」この歴史がわからないと、日本がわからないような気がする。
結論を言うと、私にはまだわからない。

「先代舊事本紀大成經七十一 神社本紀」
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sendaikuji/taisei.htm
通計一百三十有四國,都和二百十有三社。內,三神社號闕。

これが書かれた時点で、213社の神社がある。
これは聖徳太子が編纂したことになっているらしい。

現在日本には8万から10万の神社があるらしい。
213からどういう風に増えていったのか。

一番最初の神社はどれなのだろうか。

同じ名前の神社がたくさんある。
八幡神社系列、稲荷神社系列、兵主神社、などなどたくさんあるようだ。
それぞれ支配系列が違うということだろうか。

http://dic.nicovideo.jp/a/" target="_blank">http://dic.nicovideo.jp/a/神社の系列

このたくさんの神社はどうやって生きながらえてきたのか。

そして天皇ってなんなのか。

誰かが真実を見つけているだろうけど、ブラフの情報があまりにも多いので、いろいろ本を読んだり、ネットを見たりするのだけど、これが真実だと思われるところになかなかたどりつけない。
「日本書紀」も捏造が入っているそうだし、天照大神も公式では女だが、「ホツマツタエ」では男だ。

まさに砂の中から砂金を見つけるぐらいに、見つけられない。

爬虫類系天皇と、天地開闢と、エジプトか中東の方からやってきて日本に住み着いた人たちと、どこがどうなっているのやら。


厳島神社は約500社 [神社・神話]

兵庫県丹波市の地図を見ていたら、厳島神社があることに気づきました。

厳島神社といえば、広島県のものと思っていましたが、調べて見るとなんと全国に500社もあるそうです。

丹波市市島町上牧1065の厳島神社は、創建時期が不明。祭神は市杵嶋比売命。7月16日例祭。
http://tanba.jp/modules/column/index.php?page=article&storyid=4329
「創建時不詳だが、 元禄時代に安芸の宮島の厳島神社から分霊を遷座されたものである。」とありますが、本当かなと。

丹波市市島町戸平516にも厳島神社がある。
祭神は市杵嶋比売命。7月23日例祭。

丹波市タンバシ 市島町北奥イチジマチョウキタオク522-2
祭神は市杵嶋比売命。7月18日例祭。

「平凡な、おっちゃんの足跡」
「厳島神社・・・中井権次一統の足跡を巡って・・・丹波市市島町上牧!」
http://a-shi-a-to.blogspot.jp/2016/09/blog-post_12.html
こちらは彫刻の中井権次一統に焦点をあてて。


丹波には元伊勢、元出雲があるように、元厳島があるんじゃないかという気がするのです。
本当の歴史を隠すために、わざと本物はどれでしょうと、同じ名前の神社をたくさん作ったんじゃないかと。

町の名前も「市島」いちじまーいつくしまと近いし。
しかしはっきりした何かはみつけられなかった。

広島県宮島の厳島神社
http://www.miyajima-wch.jp/jp/itsukushima/02.html
「嚴島神社の創建は、推古元年(593年)、佐伯鞍職によると伝えられます。平安時代後期の仁安3年(1168年)には、佐伯景弘が嚴島神社を崇敬した平清盛の援助を得て、今日のような廻廊で結ばれた海上社殿を造営。」

神社とは何のために作られたのか。
なぜ同じ名前の神社がたくさんあるのか。

「ニッポン日記ーその3 うす気味悪い発明品ー神道の末路」
http://kusunoki-456.blog.so-net.ne.jp/2016-11-21
マーク・ゲインの「ニッポン日記」から神道について。
幾世紀もの間顧みられなかったこの宗教は1867年明治天皇即位とともに改定されたが、それは慎重かつ巧妙に行われた。近代日本の建設者たちは何か手頃な政治的道具を必要としたが、これを供給したのが、神道だった。新刊は国家の監督のもとにおかれた。小学校の生徒は神社参拝を強制された。新国教の維持と繁栄のために補助金が与えられた。

国家主義の成長に伴い、神道はその侍女となった。それは矮小な男の心を、彼自身半神格であり、神は彼に世界支配を期待し、偉大さへの道は忠誠と服従にあるという信念で水浸しにするのに甚だ有用であった。屢次(るじ:しばしば起こる、たびたび繰り返される)の戦争で戦死者が増えるにつれ、神籍名簿は拡張され中世期的祭式は益々巧妙に近代侵略の道具に採用された。

今次戦争勃発当時の神道勢力はおそろしく強大で、三百の神弊社(皇祖天照大神に親告するため天皇がしばしば親拝する一万三千エーカーの敷地を擁する伊勢大廟もこの中に入る)、百二十九箇所の軍人たちのための別格神弊社、五万の県、郷、村、市町村社、六万の私弊社が存在していた。神道に注ぎ込まれた金額と努力は考えただけでもぞっとするくらいだ。


丹波市の神社
http://18.photo-web.cc/~miyasama2748/HOME/P56tanbashi.html
厳島神社が丹波市春日町にもたくさんあることがわかる。

「先代舊事本紀大成經七十一 神社本紀」
https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sendaikuji/taisei.htm" target="_blank">https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/sendaikuji/taisei.htm
神社本紀をみると、
谿羽(たんば)國二神:魚井神社、分野神社
谿間(たじま)國二鼬:出石神社、分野神社
稻葉(いなば)國二神:鸕部神社、水根神社
帚樹國(ほうき)一神:石鳥神社
出雲國(いづも)三神:杵築神社、熊野神社、道祖神社

現在丹波には、魚井神社なるものはないよう。

http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/yaharajj.html
笶原神社の概要
鳥居には「総社笶原魚井匏やはらまないよさ宮」と書かれた大きな神額がかかっている
「魚井」は「まない」。
このあいだも出てきました。

「饒速日命」をなぜ「にぎはやひのみこと」と読むんだろう [神社・神話]

饒速日命について違う角度から調べてみようと思い、図書館に行って、「饒」という字を調べました。
(こんなに巨大な漢字辞典があるなんて今まで気づかなかったんですが、一冊の厚みが10センチのものが14巻ありました。完成までおそろしく時間がかかったでしょうね。大変ありがたい恩恵を受けています。)

大漢和辞典 諸橋轍次著 大修館書店
昭和34年初版発行 平成6年修訂第2版第三刷発行

こんなに漢字があるんだと驚きながら調べると、
「饒」の読みは、「ぜう」、「ねう」 だけで、「にぎ」と読むとは出てきませんでした。
20170421-1.JPG

なんで「にぎ」って読むってでてこないんだろうと思って探していますと、

漢字の読みには、呉音、漢音、唐音なるものがあると知りました。
呉音なる言葉があることは聞いたことがありましたが、それがなにかはよくわかっていませんでした。

http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-11330813745.html
よく知られている様に、音読みには音を輸入した時代順に「呉音」「漢音」「唐音」、その他に「慣用音」が有ります。そして、特に「呉音」「漢音」はほぼ全ての漢字が有しています。

最初に呉音が仏教と共に伝来・伝播したのですが、実際に渡唐してみると唐では別の発音(漢音)が。 そこで朝廷は、改めて漢音を「「正しい音」とする様に指導したのですが間に合わず・・・というのが、呉音・漢音が「併用されている」大まかな経緯です。

「京」が「きょう」と読んだり「けい」と読んだり、
「男」が「だん」と読んだり「なん」と読んだりする違いがあるわけがやっとわかりました。

それで、「饒」の「ぜう」が漢音で、「ねう」が呉音となるそうです。
それでも「饒速日」は「ねうはやひ」で、「にぎはやひ」にならない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/呉音
末子音(韻尾)、とくに /ŋ/ を表す規則が一定していない。呉音でも -ウ や -イ が添えられることが多いが、公(ク)のように省略されているものもある。双六(スゴロク)のようにガ行音を充てたものもいくらか見受けられる[1]。
脚注
^ 日本固有の地名や人名にも同様の字音を当てているものが見られる。相模(サガミ)、相良(サガラ)、愛宕(アタゴ)、鳳至(フゲシ)など。

「呉音の特徴としてガ行音を充てたものがある」と、そういうことですね。
双六ーそうろく+ごー>すごろく
相模ーそうみ+がー>さがみ
だから「ねうはやひ」に「ぎ」が加えられて「にぎはやひ」になったと。

解説を書いてくださっているサイトがたくさんあって、たどりつけました。
はーすっきり。

厳島神社:中近東の建物で高麗の女を祀る [神社・神話]

「戦国意外史」 八切止夫 読売新聞社 昭和44年

これによると、
広島県厳島神社の建て方は、今日の建築史でも明白に指摘されているように大陸的である。
それが中近東であることも明瞭である。
そして鯛漁で有名な備後福山の海面の仙酔島にも、アラビヤスタイルの極彩色のものがある。

世に「平家納経」として名高い33巻の平家一門の経巻や願文が国宝として宝物になっているこの厳島神社の社殿というのは、平清盛が造営し奉納したものとされている。
だから宝物殿に今ある平家の公達のおびていたという太刀も、これまた、まるで日本刀とは違う。
さやに入っているから外見ではわからぬが、刀身はサーベルで、トルコで三日月刀と共に現存する棒刀そのものである。

「フロイス耶蘇教通信」には、「この宮島の神は、高麗の女らを祭りたるものなりというが、人民これを知らず参拝するもの多し」と、ゼズス派のパードレのフロイスは、戦国時代にその御神体のすっぱ抜きをやっている。

もちろん明治の「大日本神祇史」には、そんなことはでていない。
それには、(厳島文書及厳島道芝記)によるとして、「推古帝の御代、神託により内舎人佐伯鞍職が安芸恩賀島に神殿を造り、田心(たごり)姫の命ら二神を祀る」となっている。
ところが今でも韓国では上着を「チョゴリ」といい、裳を「チマー」というが、高貴な裾長きは、「タンゴリ」とも三韓征伐の頃はいうとる。

とすると、天照様の姫であったというこじつけの説もあるが、「タゴリのみこと」とは「タンゴリを着たみこと」かもわからぬ。
**********

タンゴリってこれのことでしょうか。

https://ja.wikipedia.org/wiki/韓服
タンウィ(唐衣)
前後に長い垂れのあるチョゴリ。王侯貴族女性の第二礼装。これもチマチョゴリの上に着用する。

20170420-1.jpeg
http://glidia.blog.fc2.com/blog-entry-1572.html

https://ja.wikipedia.org/wiki/厳島神社
祭神は次の3柱[4]。3柱は「宗像三女神」と総称される。
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
田心姫命(たごりひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)

https://ja.wikipedia.org/wiki/タキリビメ
天照大神と素戔嗚尊の誓約により誕生した「宗像三女神」の一柱で『古事記』では多紀理毘売命、『日本書紀』では田心姫(たごりひめ)・田霧姫と表記される。別名奥津島比売命(おきつしまひめ)だが、『日本書紀』第三の一書では市杵嶋姫(市寸島比売・いちきしまひめ)の別名としている。 神名の「タキリ」は海上の霧(きり)のこととも、「滾(たぎ)り」(水が激しく流れる)の意で天の安河の早瀬のこととも解釈される。日本書紀の「タゴリ」は「タギリ」が転じたものである。

舞楽 厳島神社に伝わる古典
https://www.youtube.com/watch?v=q0n6bBfUD-g
いろんな舞をダイジェストで。
説明もありよくわかります。
左方舞と右方舞があり、左方舞は赤色系、右方舞は緑色。
それぞれ発祥地がちがい、左方舞はインドや中国から伝えられた、右方舞は朝鮮半島から。


2017宮島厳島神社・元始祭 「陵王」
https://www.youtube.com/watch?v=5NfzVJJgBpA

2017宮島厳島神社・元始祭 「 納曽利 」
https://www.youtube.com/watch?v=8BnjcfT4qxU
2017/01/03 世界遺産宮島・厳島神社で行われた、元始祭の映像です。「陵王」の、番い舞に当たるが「納曽利」です。雄雌2匹の龍がたわむれ遊んでいるとこを表現した舞であり、昇天する姿を模していると言われます。「双龍舞」とも言われています。

2017宮島厳島神社・元始祭 「 胡徳楽 」
https://www.youtube.com/watch?v=-5wjN5HX3Tc
2017/01/03 世界遺産宮島・厳島神社で行われた、舞楽奉納の映像です。客人4人にお酒を振る舞うのですが、瓶子取りは、目を盗んで独酌で酒を飲み千鳥足で舞台を退出する滑稽な舞です。

宮島・厳島神社 桃花祭 舞楽 「蘇利古(そりこ)」
https://www.youtube.com/watch?v=a7Z326j8_K0
2016/04/15 宮島 厳島神社 桃花祭で行われた舞楽奉納「蘇利古」の模様です。朝鮮においては 酒を造る際、竈(かまど)と井戸を清める風習があります。そうした姿を舞にしたもので竈祭舞(かまどまつりのまい)ともいわれています。奇っ怪な衣装で、「死神か」と、勘違いしてしまいそうです。

2017宮島厳島神社・元始祭 「狛鉾」
https://www.youtube.com/watch?v=zPb9kx534jQ
2017/01/03 世界遺産宮島厳島神社で行われた、舞楽奉納・元始祭の映像です。茶色の着物姿(インドや中国、西アジアから伝来)で左楽房から始まる左方舞の「太平楽」に対して、対舞になるのが「狛鉾」です。右楽房・緑色の着物姿で(朝鮮半島・シベリア方面から伝来)の舞になります。高麗の貢ぎ物を運ぶ船が、五色の彩色をした棹で船を操り港に入る有様を舞にしたと言われています。

宮島 厳島神社 桃花祭 舞楽 「蘭陵王(らんりょうおう)」
https://www.youtube.com/watch?v=OD3PLJD48o8
2016/04/15 宮島 厳島神社 桃花祭で行なわれた舞楽奉納「陵王」の模様です。約1400年前の中国・北斎の国王、蘭陵王・長恭(ちょうきょう)は、あまりにも美しい容姿であったので、戦時の際、自軍の士気が揚がらない為、恐ろしい形相の面を付けて指揮を執り、周の大軍との戦いに勝利しました。その姿を舞にし、武勲を称えたと伝えられています。

**********

なぜ厳島神社の御神体が高麗の女らだと、フロイスは言ったんでしょうか。どこで知ったんでしょうか。
人民はこれを知らずに参拝していると。

建物は中近東、祭神は高麗。

なぜだろうと思ったら、舞は両方を取り入れているのですね。
中近東ルーツの左方舞と朝鮮半島ルーツの右方舞。

まだまだたくさんありますが、このお面は何を表しているのでしょう。
人間ではないような。
「陵王」って「龍王」かなと思ったり。

「狛鉾」の「こま」は「高麗」のことかな。

「厳島神社の神は変遷している」
http://miya-jima.net/page/130.html
まとめ
●10世紀には伊都岐島大明神が祀られていた。
●12世紀に海上神殿が収蔵された時もおそらく、伊都岐島大明神が祀られていた。
●鎌倉時代に現在、祀られている市杵島姫神を含む宗像三女神に変わった。

(旧約聖書+新約聖書)のゴッドは同じ存在ではない [神社・神話]

情報の洪水の中で、何が真実でなにを知るべきなのか。
誤誘導する情報が多い中で、知るべきなのは何か。
あちこち文献を読み、ブログを読み、直感を働かせて、ある程度あたりをつけないと、真実の情報にたどりつくキーワードは得られない。


「ほとんどの神社が宇宙から来た爬虫類生命体「龍」を祀っている?」
「天孫降臨/神武の驚くべき正体 日本古代史の闇」第一部 コンノケンイチ(今野 健一)
http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-223.html#end

内容は「「先代旧事本紀大成経」、「デヴィッド・アイクの爬虫類人」、「日本のいちばん醜い日」(鬼塚英昭)、「天皇の金塊」(高橋五郎)、「出口王仁三郎」、「日月神示」、「聖書」から組み立てられた類例のない推考」とのことで、著者しか生み出せない大胆なる天皇論、歴史考察であった。複数回に分けて引用する。
日本の古代に降臨した神々は、私たち人類とは基本から異なる、異星の爬虫類生命「龍(ドラゴン)」だった。それを私たち日本人は神と崇めてきた。
同じく、キリスト教の聖書(旧約聖書+新約聖書)のゴッドは同じ存在ではなかった。旧約聖書のゴッドは日本に天孫降臨してきた異星の爬虫類生命「龍」と同一で、新約聖書のゴッドこそ人類のルーツに直結するゴッドだった。互いは基本から相反する異質の神だったのである。

古代中国の歴代皇帝は「顔は龍」で、さまざまに変身できるとされている。人間の姿から角と輝く龍の目を持ち、鱗が生えたトグロを巻く体と形容されている。
同じ意味が、「本紀大成経」が述べる神武天皇から16代までの天皇の容姿で、角と輝く龍の目を持ち、鱗と尻尾が生えてトグロを巻くとある。
・・・・・(中略)・・・・・
歴代の中国皇帝も、自らの権力の象徴として「龍」の名を多用してきた。
秦の始皇帝の別名は「租龍(そりゅう)」で、漢の高祖は龍と人間の間にできた子だという。そして皇帝の顔は「龍顔」で、王座は「龍座」と称された。中国における龍は、この世の権力と宇宙霊力の象徴でもあり、創造主の代名詞だった。



「大群衆が目撃した巨大UFO、そしてファティマ第三の予言とは 2014.01.05」
「天孫降臨/神武の驚くべき正体 日本古代史の闇」第二部 コンノケンイチ(今野 健一)
http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-224.html#end
バチカンには「奇跡現象認定委員会」が存在し、奇跡現象の審査は厳重をきわめる。そして、これまでバチカンに正式に認定された奇跡現象は「ラ・サレットの奇跡」「ルールドの奇跡」「ファティマの奇跡」の3つだけである。
*その日ファティマ一帯は、爆発しそうな状況にあった。ヨーロッパ全土から7万~10万人もの大観衆が続々と詰めかけ、極度の興奮状態で運命の時刻を待ち構えていた。そのなかには、ヨーロッパの主要な国の新聞記者、科学者の顔もあった。
そして彼らは観た。降り注いでいた雨がピタリとやんで、空を覆っていた雨雲からぽっかりと青空がのぞき、太陽のようなものが天頂に姿を見せた。その太陽は明るく輝いていたが、不思議なことに少しもまぶしくない。 すると突然、太陽が震え始め、ぐらぐらと動きだし、燃え盛る車輪のように回転しながら、四方八方へ無数の色の光線を発した。そのために雲や地面や樹木や岩が、そしてすべての群集が幻想的な色彩に染まっていった・・・。
その原因の第一は、バチカン司教も宣言したように、7~10万人の大群衆の頭上で起きた奇跡現象は錯覚でも幻覚でもない、まぎれもない現実の出来事だった。となるとイエス・キリストの母マリアを象意として人類を「わが子よ」と呼びかけていたことは、新約聖書のゴッド(神)は宇宙に実在し、その直系のルーツが人類となる。
ここで重要なのは旧約聖書ではなく、新約聖書のゴッドということである。

Youtube SPECでの「ファティマ第三の予言」の内容





「日本人は各神社で、レプティリアン「ヤハウェ」を敬虔な心で拝んでいた? 2014.01.07 」
「天孫降臨/神武の驚くべき正体 日本古代史の闇」第三部 コンノケンイチ(今野 健一)
http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-226.html#end

その証拠の一つに、キリストの教えは635年に中国に伝わり、長安に「大秦景教流行中国碑」の石碑も建てられていることである。
空海も「マタイによる福音書」を長安から日本に持ち帰っており、「大秦景教流行中国碑」のレプリカも高野山にある。このようにキリスト教と仏教の根っこは同じだったようである。

第1章で述べた、応神天皇の容姿を思い出していただきたい。次のようであった。

身長は2メートル90センチ、肘に鞆の形があり。眼の形は弓を張ったような三角形、顔の真ん中の角は天に向かって弓に矢を番えているようだ。胸に72本の青い毛が牛の尾のように生えており、長さは馬の尾のようだ。強く生えているので、決して抜けない。

応神天皇は初代の神武天皇から930年を経ているが「龍」の容姿は十分に保っている。 日本に来たガド族は応神天皇のレプティリアン・パワーと合体し、「申命記」が予言したように日本の民衆に「ヤハウェの正義と審判を行なった」のである。
*その秦氏が、伊勢神宮の創設にかかわっていた。ある面では日本固有の「神道」、その象徴である神社すべては秦氏から始まっているのだ。日本固有と思われてきた神道は、秦氏が持ち込んだものだったのである。 そうした意味ではユダヤ教も神道も唯一神、となると伊勢神宮はユダヤ教のゴッド「ヤハウェ」を祀っていることになる。
・・・・・(中略)・・・・・
こんぴらさんの名で親しまれる「金刀比羅宮」は、もとの名を「旗宮」、すなわち「秦宮」という。全国の「白山神社」や「愛宕(あたご)神社」を開いたのも秦泰澄(たいちょう)である。
八幡神社もそうで、八幡とはユダヤのことで、八幡は本来ヤハタと発音し、それがイエフダー~ユダヤとなる。八幡神社もユダヤの神「ヤハウェ」を祀っていたのである。
日本人は各神社で、レプティリアン「ヤハウェ」を敬虔な心で拝んでいた。異星から来た爬虫類生命体とも知らず・・・・。



「あなたの神、主は焼き尽くす神、妬む神である 2014.01.10」
「天孫降臨/神武の驚くべき正体 日本古代史の闇」第四部(最終回) コンノケンイチ(今野 健一)
http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-230.html#end

*筆者は以前から、東京大空襲で全都が焼け野原と化したのに、皇居に一発の弾丸も落ちなかったことが妙に胸に引っ掛かっていた。それについて書かれた本にも、出会ったことはない。

日本の戦国時代も、敵の首魁(しゅかい)の住む本丸「城」を攻撃目標とした。東京全都に32万発の弾丸が落ちて火の海と化したのに、皇居に一発の弾丸も落ちなかったのは妙と思わないだろうか。無条件降伏なのに最高責任者の天皇は裁かれず、天皇制が継続されたことも奇妙だった。
東西ドイツのように国が分断されず、戦争責任のない朝鮮半島のほうが38度線で分断されたのである。なぜだろう。そこには英王室を代表する、レプティリアン血流の意志が働いていたとしか思えなかったのである。

レプティリアンの特徴は、感情面があまり発達しておらず、ワニやトカゲのそれとあまり変わらない。哺乳動物と同じようには感じないのだ。だが知的感覚は鋭く、科学技術を造り出したり、利用することには非常に適している。彼らの精神の働き方をたとえれば、コンピューターだ。ある程度までは効果的に働くが、感情が乏しいので限界がある。だから自分たちと同じ周波数を持つ、哺乳種族の染色体(DNA)を欲しがっている。
また感情のバランスを欠く彼らの精神構造は、この上なく残虐な行為をしながら、犠牲者たちに何の哀れみも感じることがない。それが喜びなのだ。だから彼らの系統は戦争を起こし、何千万人を殺害したり、不自由な身体にすることができるのだ。

さらに、あえて引用しなかったが、「アポロ月着陸に対する著者の見解」等に疑問に感じざるを得ない文面も多々あった。私は「人類は月に行っていない」と思っているが、著者は「人類は月に行っており、月着陸疑惑報道自体が演出である」と、述べている。

それはさておき、よくぞここまで、時代、国家、宗教、思想を越えて、異なる著者及び著書の見解・記述から、「天孫降臨の真実及び、爬虫類系宇宙生命体(旧約のゴッド)と哺乳類系宇宙生命体(新約のゴッド)は対立している」といった、“著者独自の見解”を導き出すことができたものだと思う。
「旧約のゴッドと新約のゴッドが異なる存在である」とのことだが、このことについては、以前、太田龍氏も「キリストが非難していたパリサイ・ユダヤ勢力が、キリストが信仰していた本来の神を、パリサイ・ユダヤが信仰するヤハウェにすり替えた」と記していたが、表現の方法が違うだけで両者は同様のことを述べていると思われる。

『新撰姓氏録』ー外国人が意外に多い [神社・神話]

写真は「新撰姓氏録の研究 本文編」佐伯有清 昭和37年 吉川弘文館
20170418-1.JPG
秦忌寸
秦の始皇帝の子孫。弓月王。与田天皇14年日本にきた。、、、
秦の民92部族18670人を連れてきた。、、、
蚕を飼い、絹を織る。岳のごとく、山の如く。朝廷に蓄え積む。天皇これを喜ぶ。号を賜るうずまさという。、、、

https://ja.wikipedia.org/wiki/弓月君
弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、、、無事に弓月君の民が渡来した
弓月君は朝鮮半島を経由しているものの、秦氏の系統は『新撰姓氏録』において「漢」(現在でいう漢民族)の区分であり、当時の朝鮮半島の人々である高麗(高句麗)、任那、百済、新羅とは区分を異にしている。
三国志』魏書辰韓伝によれば朝鮮半島の南東部には古くから秦の亡命者が移住しており、そのため辰韓(秦韓)と呼ばれるようになったという。
中国の西、ウイグル、カザフスタンの辺りに弓月国(クンユエ)という国が存在しており、そこからはるばる日本に渡ってきたという、佐伯好郎説も存在する。

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饒速日命が天から降りてきた時の従者だったものの子孫。

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山城国
物部氏 饒速日命の子孫。

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百済国人の子孫。百済国人の子孫。百済国人の子孫。、、、

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高麗国人の子孫。高麗国人の子孫。新羅国人の子孫。新羅国人の子孫。新羅国人の子孫。、、、

「日本は単一民族」ってぜんぜんうそやん。
平安時代初期にはすでに、めっちゃきてるやんと思いました。

ここに載っているのは京と、五畿だけだそうですが、この分だと日本中混じり合ってそうですね。

「新撰姓氏録」が作られた目的は、なんでしょう。
だれがどういうルーツをもつのかわかりにくくなりつつあるときに、作られたものなんではないかなと思います。


https://ja.wikipedia.org/wiki/新撰姓氏録
**********引用開始
『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)は、平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑。
京および畿内に住む1182氏を、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に分類してその祖先を明らかにし、氏名(うじな)の由来、分岐の様子などを記述するものであるが、主として氏族の改賜姓が正確かどうかを判別するために編まれたものである。後述するように、記載氏族が限られているとはいえ、日本古代氏族あるいは日本古代史全般の研究に欠かせない史料である。
現存する『新撰姓氏録』は、目録だけの抄記(抜き書き)であって本文は残っていないが、所々にその残滓が認められるとともに、若干の逸文が知られている。なお、本書の対象とする範囲は京(左京・右京)と五畿内に住む姓氏に限られており、また「序」にはそれすらも過半が登載されていないと記している。
本書には、全部で1182氏姓が記録され、その出自により「皇別」・「神別」・「諸蕃」に3分類されている。
皇別[編集]
筆頭にあげられた「皇別」の姓氏とは、神武天皇以降、天皇家から分かれた氏族のことで、335氏が挙げられている。代表的なものは、清原、橘、源などがある。皇別氏族は、さらに、皇親(「真人」の姓(カバネ)をもつ氏族)とそれ以外の姓をもつ氏族に分かれる。
神別[編集]
「神別」の姓氏とは、神武天皇以前の神代に別れ、あるいは生じた氏族のことで、404氏が挙げられている。神別姓氏は、さらに、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天孫降臨した際に付き随った神々の子孫を「天神」とし、瓊瓊杵尊から3代の間に分かれた子孫を「天孫」とし、天孫降臨以前から土着していた神々の子孫を「地祇」として3分類している。
「天神」に分類された姓氏は藤原、大中臣など246氏、「天孫」は尾張、出雲など128氏(隼人系の氏族は天孫に分類される。)、「地祇」は安曇、弓削など30氏がある。
諸蕃[編集]
「諸蕃」の姓氏とは、渡来人系の氏族で、秦、大蔵など326氏が挙げられている。諸蕃氏族は、さらに5分類され、「漢」として163氏、「百済」として104氏、「高麗」(高句麗を指す)として41氏、「新羅」として9氏、「任那」として9氏がそれぞれ挙げられる。
また、これらのどこにも属さない氏族として、117氏が挙げられている。
**********ここまで引用

剣を抜いて撃殺?漢字廃止論の怖さ [神社・神話]

「国史体系 第七巻 古事記 先代旧事本紀 神道五部書」
発行所 国史体系刊行会
発売所 吉川弘文館、日用書房
昭和11年発行

漢文で、返り点とかあります。
ぱらぱらと流し見。

先代旧事本紀はいろんなバージョンがあるらしく、10巻のものと72巻で「先代旧事本紀大成経」といわれるもの、31巻のものとかあるそうです。
こちらに載っているのは10巻のもの。

https://ja.wikipedia.org/wiki/保食神
保食神(うけもちのかみ)は、日本神話に登場する神である。『古事記』には登場せず、『日本書紀』の神産みの段の第十一の一書にのみ登場する。神話での記述内容[1]から、女神と考えられる[2]。
天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。
天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。

月夜見尊は汚らしいと怒った。
「是時月夜見尊憤然作色曰。穢哉。」

日本書紀では保食神(うけもちのかみ)は、月夜見尊に殺されたように読めます。
この先代旧事本紀2巻では、
「抜剣撃殺。然後復命。」
復命って生き返ったのかと思いましたが、命令に従ってした事の経過・結果を命令者に報告することなんだそうです。


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wikipediaによれば、「先代旧事本紀は、現在では大同年間(806年~810年)以後、延喜書紀講筵(904年~906年)以前に成立したとみられている。」とあります。

1100年も昔のものをちょっとは読むことができる。
漢字って素晴らしいと思います。

以前にも「漢字廃止論の危険さ」で書きましたが、
http://kusunoki-456.blog.so-net.ne.jp/2016-12-04-2

明治期にも、昭和の戦後にも漢字をなくそうとする動きがありました。
これで学校で漢字が教えられなくなり、刊行物から漢字がなくされると、もうこんな古代のものは一部の研究者しか読めなくなっていたわけです。

学校教育で、毎年教えられてたくさんの漢字を読み書きすることができ、中国の文献だって、少しは読めるわけです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/柴田武
柴田 武(しばた たけし、1918年7月14日 - 2007年7月12日)は、日本の言語学者、国語学者。東京大学名誉教授、埼玉大学名誉教授。文学博士(東京大学)(1969年)。愛知県名古屋市生まれ。
方言地理学、社会言語学などの研究を続け、「日本の方言」(岩波書店)などを著した。『新明解国語辞典』(三省堂)や『類語大辞典』(講談社)の編纂にも参加した。長く、NHKテレビ『日本語再発見』に出演し、1985年、NHK放送文化賞を受賞。私的な側面では国字ローマ字論の第一人者であり、財団法人日本のローマ字社の理事長を長らく務めた。
太平洋戦争終結後、1948年(昭和23年)に「日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている」という偏見から、GHQのジョン・ペルゼル[1]による発案で、日本語をローマ字表記にしようとする計画が起こされた。そして正確な識字率調査のため民間情報教育局は国字ローマ字論者の言語学者である柴田武に全国的な調査を指示した(統計処理は林知己夫が担当)。1948年8月、文部省教育研修所(現・国立教育政策研究所)により、15歳から64歳までの約1万7千人の老若男女を対象とした日本初の全国調査「日本人の読み書き能力調査」が実施されたが、その結果は漢字の読み書きができない者は2.1%にとどまり、日本人の識字率が非常に高いことが証明された。柴田はテスト後にペルゼルに呼び出され、「識字率が低い結果でないと困る」と遠回しに言われたが、柴田は「結果は曲げられない」と突っぱね[2]、日本語のローマ字化は撤回された[3]。この話は2010年9月23日放送のみんなでニホンGO!で取り上げられた[4]。

国字ローマ字論の第一人者に調査させるGHQの卑劣さと、
国字ローマ字論の第一人者であるのに、自分の主張に沿わない調査結果をごまかさない柴田 武。
これぞ日本人って気がします。
足を向けては眠れません。

「漢字を廃止した韓国は今になって後悔?=「日本でさえ漢字を廃止することはできなかった」「韓国の歴史書は全部漢字で書かれてるのに」―中国ネット」
http://www.recordchina.co.jp/b151187-s0-c60.html

ハングル専用の弊害:「漢字を廃止した韓国」で知的荒廃が起こっている」
http://nettaro-note.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-59b0.html
・韓国の漢字廃止は1948年に大韓民国が成立し、公用文は「原則的にすべてハングルで書くべし」との法律が制定されたことに始まる。しかし政府の推奨にも関わらず、公用文、新聞、専門書などからは依然として漢字がなくなることはなかった。漢字廃止には専門家たちの反発が大きかった。
・韓国の学校教育で「漢字廃止・ハングル専用政策」がとられるようになったのは、1968年春から。(当時の韓国では小学校4年から漢字を教えていた)
・漢字廃止政策以後の韓国では、教科書をはじめ、新聞・雑誌・書籍からレストランのメニューに至るまで、漢字はほとんどその姿を消してしまっている。
韓国語は漢字を廃止したために、日常的にはあまり使われない、しかし概念や理念を表す言葉、各種の専門用語など、伝統的に漢語で表されてきた重要な言葉の多くが、一般にはしだいに使われなくなっていった。各種の評論・研究論文や新聞・雑誌の記事に、総じて書き言葉の世界に、語彙の恐ろしいまでの貧困化がもたらされた。
・現在の韓国人が書く文章は一般的に、簡潔、単純、直接的という傾向が強く、言葉の奥行きがきわめて浅い。
・現在、漢字教育を受けることなくハングルだけで育った者たちが韓国人口の大半を占めるに至っている

「ハングルの弊害は「知力の向上」が望めない」
http://ameblo.jp/hironk2005/entry-11555595300.html
こうした現象の大きな原因の一つが「漢字廃止」である。私が中学生だった1970年の春、韓国は学校で漢字を教えることをやめた。私の世代以降は“ハングル専用世代”となり、50年近く経った今日では約8割の国民がハングルしか読めなくなってしまった。
韓国語の語彙は漢字由来の「漢字語」が約7割を占める。それを表音文字であるハングルだけで表わすのだから、日本語を平仮名だけで書くようなものだ。自ずと同音異義語の判断に迷うことが増える。
さらに恐ろしいのは文化の断絶である。古典や史料がどんどん読めなくなり、大学の研究者たちでさえ1960年代に自らの指導教授が書いた論文を読むことができないのだから、問題の根はとても深い。
 折に触れて漢字の復活が議論されたが、「世界一優れた文字を守れ」と主張するハングル至上主義者たちの反対に遭い、今や教師の世代に漢字を教えられる人材がいなくなってしまった。自分たちの大統領である「朴槿惠」はおろか、過去の調査では大学生の25%が「大韓民國」を漢字で書けないとするものもあった。


漢字を廃止して、また再開しているようですが、漢字を学校で教えられなかった世代はずっと教えられることがない。
先人が残した歴史を読むことができない。
これはとても大きな損失です。
韓国の方が「彼ら」の強い影響下にあることがわかります。

多くの天皇の母は藤原氏 [神社・神話]

藤原氏って多くの天皇の母親なんですね。
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「角川日本史辞典」の大王・天皇表(舒明ー今上)までの天皇の父親、母親、即位年月日、退位年月日の表をみると、97人の大王・天皇のうち、母親が藤原氏なのは64人もいました。
実に66パーセント
藤原とつかなくても、実は藤原氏の出であるという人まではちょっとわからないので、実際はもっと多いかもしれません。

藤原氏が母親で一番古い天皇が、聖武天皇。
一番新しいのが孝明天皇。明治天皇の前の天皇です。

明治天皇の母の中山慶子を調べると、父は中山忠能。
中山忠能の父は藤原北家の花山院流権大納言・中山忠頼とあるので、この方も藤原氏の系列。

大正天皇の母、柳原愛子を調べると、
柳原家(やなぎわらけ、やなぎはらの読みは慣例)は、名家の家格を有する公家。京都十三名家。藤原北家の日野家の分流。
これもまた藤原氏の系列。

この二人を含めると、母が藤原氏系列は66人になります。

また、佐藤、加藤、斎藤、工藤、安藤、伊藤など、「藤」がつく苗字は藤原氏の流れなんだそうです。
http://style.nikkei.com/article/DGXBZO18679650S0A121C1000000?channel=DF280120166607&style=1
名字研究家の森岡浩さんによると、こうした「○藤」さんは、基本的に藤原氏の末裔(まつえい)であることが多いそうだ。ただ、平安時代に藤原一族が朝廷の要職を席巻したため、藤原とは別の名字を名乗る必要が生じ、自分の領地や職業と、藤原の「藤」を組み合わせた新しい名字をつくったらしい。
 それなら、実力者、藤原氏の一族であることを示しつつも、藤原氏と区別した名字を名乗れるからだ。 身近にもその苗字の人はたくさんいます。

地域名+藤や、職業名+藤となっていて、地域的に偏りもあるそう。
藤原氏の一族であることを示しつつも、藤原氏と区別した名字を名乗れる
結局は苗字を変えて、重要職を独占していたってことでしょうか。

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20170416-1.JPG
こちらは名数表というそうです。
六家集とはどれをいうか、七卿落ちとはだれをいうかとか、まとまっていておもしろいです。

八部衆
https://ja.wikipedia.org/wiki/八部衆
八部衆とは8つの種族という意味である。これにはいくつかの説がある。通常に用いられるのは『舎利弗問経』を基本に、『法華経』や『金光明最勝王経』などの説により、天衆、龍衆、夜叉衆、乾闥婆衆、阿修羅衆、迦楼羅衆、緊那羅衆、摩睺羅伽衆の8つを指す。
ただし、奈良・興福寺の著名な八部衆像の各像の名称は上述のものと異なり、寺伝では五部浄、沙羯羅(さから、しゃがら)、鳩槃荼(くはんだ)、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、畢婆迦羅(ひばから)と呼ばれている。
なお、四天王に仕える八部鬼衆は、これらの八部衆と名称も類似し一部重複するので間違われやすいが基本的に異なる。ちなみに八部鬼衆は、乾闥婆・毘舎闍・鳩槃荼・薛茘多・那伽(龍)・富單那・夜叉・羅刹の名を挙げる。 法華経の序品(じょぼん)には、聴衆として比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷(出家在家の男女)などの「人」のほかに、この八部衆を「非人」として名が連ねられている。

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八部衆とは8つの種族という意味。
宇宙からやってきたのは、一つの種類ではなく、龍・爬虫類タイプやら鳥頭タイプやら阿修羅のように多面のものもいるように思えます。

16代までの長命の天皇 [神社・神話]

「天孫降臨/日本古代史の闇」コンノケンイチ 著 徳間書店 2008年 を読んでいます。

カバーの内側に
「先代旧事本紀大成経」、「デーヴィッド・アイクの爬虫類人」、「日本のいちばん醜い日」(鬼塚英昭)、「天皇の金塊」(高橋五郎)、「出口王仁三郎」、「日月神事」、「聖書」から組み立てられた類例のない推考!
とあります。

上の中でかじったことがないのは、「出口王仁三郎」、「日月神事」です。
「デーヴィッド・アイクの爬虫類人」、「日本のいちばん醜い日」(鬼塚英昭)、「天皇の金塊」(高橋五郎)は読んだことあり。

デーヴィッド・アイクやデニケンの本を読んで以来、天孫降臨してきた神々は、人間ではなく宇宙人で、爬虫類タイプであろうと思うようになった私の考えとも一致し、かつ爬虫類人が世界を支配し、現在日本や世界を取り巻く裏の情勢も説明できるという、まさにこれと思う一冊です。

「記紀以前の資料による古代日本正史」原田常治著には、
神武天皇がいつ頃に天皇になったかを、17代天皇から32代天皇、33代天皇から48代天皇までの平均在位期間を調べて、そこから干支を含め計算して、西暦241年であるとしていました。
だいたい平均在位10−12年です。
これは天皇が人間であるとした場合です。

日本書紀によると、神武天皇の即位年は西暦紀元前660年に相当し、1代の神武天皇から16代の仁徳天皇までは在位期間が異常に長く、100年近い天皇もいます。
第1代 神武天皇 BC660
第2代 綏靖天皇 BC581
第3代 安寧天皇 BC549
第4代 懿徳天皇 BC510
第5代 孝昭天皇 BC473
第6代 孝安天皇 BC392
第7代  孝霊天皇 BC290
第8代 孝元天皇  BC214
第9代 開化天皇 BC158
第10代 崇神天皇 BC97
第11代 垂仁天皇 BC29
第12代 景行天皇 AD71
第13代 成務天皇 AD131
第14代 仲哀天皇 AD192
第15代 応神天皇 AD270
第16代 仁徳天皇 AD313
第17代 履中天皇 AD400
第18代 反正天皇 AD406
第19代 允恭天皇 AD412
第20代 安康天皇 AD453


「歴代天皇の年齢・在位年数」
http://ysigle.x.fc2.com/TNenrei.html
こちらのサイトより引用
**********引用開始
歴代天皇の年齢・在位年数
更新日:2008/11/28
<歴代天皇の年齢・在位年数(記紀の時代)>
天皇    年齢         在位年数 
      日本書紀 古事記 日本書紀
1神武天皇  127 137    75
2綏靖天皇  84    45    30
3安寧天皇  57    49    39
4懿徳天皇  77   45    33
5孝昭天皇  114 93    82
6孝安天皇  137 123    100
7孝霊天皇  128 106    75
8孝元天皇  116 57    56
9開化天皇  115 63    60
10崇神天皇 120 168    68
11垂仁天皇 140 153    100
12景行天皇 143 137    60
13成務天皇 107 95    60
14仲哀天皇      95    8
 神功皇后  100 100    69
15応神天皇 111 130    40
16仁徳天皇 142 83    86
**********ここまで引用

第6代の在位102年とか、第11代の100年とか長すぎないかというわけです。

17代以降で在位年数40年を越えているのは昭和天皇と19代だけ。
在位30年を越えているのも6、7人ぐらいです。
若くで即位して、30代ぐらいで上皇になっている方が多いようで、だから短いといえますが。

第1代から16代までの何人かは外見的に人でない、龍的な特徴をもっていたと書かれているので、だから長命といえる。

旧約聖書 創世記5
アダムは930年生き、そして死んだ。
セトは912年生き、そして死んだ。
エノシュは905年生き、そして死んだ。
ケナンは910年生き、そして死んだ。
マハラルエルは895年生き、そして死んだ。
イエレドは962年生き、そして死んだ。
エノクは365年生きた。
メトシェラは969年生き、そして死んだ。
レメクは777年生き、そして死んだ。
ノアは500歳になったとき、セム、ハム、ヤフェトをもうけた。

創世記7.6
ノアが600歳の時、洪水が地上に起こり、水が地の上にみなぎった。

長い、長すぎる。
人ではないですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/神武天皇
神武天皇の即位年は、『日本書紀』の歴代天皇在位年数を元に逆算[13]すると西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、即位日の干支は「庚辰」である。そこで西暦紀元前660年の立春に最も近い「庚辰」の日を探すと、西暦では2月11日と特定される。その前後では前年12月13日と同年4月12日も庚辰の日であるが、これらは「春正月」になり得ない。したがって「辛酉年春正月庚辰」は紀元前660年2月11日以外には考えられない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/天皇の一覧
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