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「日本会議と神社本庁」宇佐神宮 気多大社 [宗教]

森友学園問題で話題を集めている日本会議。
それでこちらの本を買ってみました。

「日本会議と神社本庁」 週刊金曜日成澤宗男編著 2016年

P.140には、
政治運動化する神社本庁の暗部 神社乗っ取り事件
大分県宇佐市の宇佐神宮
日本会議の中核として存在感をみせている神社本庁。全国約8万5000社のうち約7万9000社の神社を包括する巨大な宗教法人をめぐる不可解な事件を追った。

宇佐神宮は全国に約4万600社ある八幡宮の総本宮。
2008年、病気療養中の宮司の後任として、代々の宮司家である到津家の長女で権宮司(宮司の代理)の職にあった到津克子さんを宮司に選任することを、宇佐神宮の責任委員会で決定し、任命権を持っている神社本庁にその任命を具申したが、神社本庁からはなんの返答もなく、裏であからさまな人事介入をしてきた。
病気療養中の宮司がなくなると、元大分県教育委員長がきて、後継者に当時の宮内庁掌典長を天下りさせるから承認せよといってきた。官僚の天下りはだめだと断ると、神社本庁は、宇佐神宮のような大きなお宮の宮司には女性は任命しないといってきた。

P.146には
田中副総長(当時)=岩清水八幡宮宮司が「だれが宮司になんかするか!世襲は田中(自分のこと=岩清水八幡宮)、千家(出雲大社)、西高辻(太宰府天満宮)の三家だけじゃ。宮司じゃないと(神社本庁を)脱退できないからな。気多大社みたいにはいかんぞ」といった。

神社本庁からの脱退を決めた気多大社(石川県羽咋市)に対し、神社本庁は06年8月、当時の宮司を懲戒免職にし、石川県神社庁長を兼任宮司に任命。この処分を不服とし、気多大社は裁判に訴え(被告は文部大臣)、10年4月、最高裁が気多大社による神社規則変更(神社本庁からの脱退)を認める決定をした。

ほかにもP。153には香川高松市の冠糸嬰神社(糸嬰で一文字)が、乗っ取られた、神社本庁に狙われたとあります。


大きいお宮の宮司は男性でという考えは理解できますが、いろいろもめているようですね。

「ツァラトゥストラはかく語りき」ニーチェ [宗教]

魔術についての本を読んだりしていると、たびたび「ツァラトゥストラ」のことがでてきました。
ツァラトゥストラというのは、ゾロアスターのことであり、古代ペルシアの預言者、宗教改革者であったと。
ツァラトゥストラは、古ペルシア語であると。
(世界の名著 57 ニーチェ 中央公論社 P.63)

そしてモーツァルトの「魔笛」にでてくる神官ザラストロは、ゾロアスターのことであると。

ゾロアスターっていったいなんでしょうか。
なにか悪魔教のようなイメージがあったのですがそれはどうなのでしょうか。

これは「ツァラトゥストラはかく語りき」を読んでみなければと思って手に取ってみましたが、なにを伝えたいのかどうもよくわかりません。

なんでもニーチェはあるところにいったときに、悟りを得て、わずか10日間で第一部を書き上げ、2週間で第2部を書き上げたとあります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ツァラトゥストラはこう語った
本書は、後期ニーチェの重要な哲学的研究のひとつであり、19世紀末期におけるヨーロッパの没落を背景としながら、キリスト教的な理想に代わる超人(Übermensch)の思想が展開されている。ツァラトゥストラを主人公とする物語の体裁をとっているが、大半はツァラトゥストラによる思想の吐露である。山に篭もっていたツァラトゥストラは、神が死んだことを知り、絶対者がいなくなった世界で、超人を人々に教えようとするが、低俗な人々は耳を貸そうとしない。そこで、ツァラトゥストラは、自分の思想を理解する人を探し始めるが、「師に従うばかりではいけない」と結局弟子も棄ててしまう。ツァラトゥストラは、あらたな思索の末、人々に対して自らの思想を語ることを控えることを決め、山に帰郷する。山の中で、ツァラトゥストラは、何人かの特別に高等な人々と会い、彼らとの交流の中で歓喜する。最後には、ツァラトゥストラが再び山を降りることで、物語は締めくくられている。この一連の物語において、ニーチェは神の死、超人、そして永劫回帰の思想を散文的な文体で論じている。

永劫回帰の思想とは、すべての善悪、優劣は人間の主観的な思い込みに過ぎず、絶対的な善悪だけでなく、相対的な善悪も否定する、価値相対主義の極限という点では、ブッダの諸行無常・諸法無我、荘子の万物斉同論に近い。絶対正義を語るキリスト教の強い西洋思想というよりも、東洋思想によく見られる発想である。が、仏教については諦観だとしてニーチェは否認しているので、永劫回帰はもっと能動的である。すべてのものは平等に無価値であり、終わりも始まりもない永劫回帰という究極のニヒリズムから、運命愛にいたり、無から新価値を創造、確立する強い意志を持った者をニーチェは超人と呼んでいる。しがらみも伝統も秩序もまったくの無であるということは、そこからあらゆる新価値、新秩序が構成可能だということである。

正直どういうことなのかよくわからないのですが、この世界はすでにハルマゲドンが何度か起きているのではないか、何度も同じことが繰り返されているのではという気もしますし、私が生きている意味ってあんまりないのかなと思ったり。
ただ人は生まれ、ただ死ぬというのは、堪え難い気もします。
なにかおまえには使命があるとかであったらいいななんて思います。
なにもなくただ生きてただ死ぬのはやるせない。

かしこい人が書いた解説を記します。
**********引用開始
「オウム真理教の精神史」大田俊寛 春秋社 2011年
P.124
ニーチェの超人思想

メスマーとは発想も立場も大きく異にするが、近代人にその生の指針を示すために「超人」というヴィジョンを提示したのは、哲学者のフリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)である。ニーチェは、近代の世界においてはもはやキリスト教の原理が通用しないこと、より具体的に言えば、キリスト教が提示してきた目的論的な歴史観が執行してしまったという事態に対して、もっとも正面から向き合おうとした思想家であった。
1885年に発表されたニーチェの主著の一つ「ツァラトゥストラ」は、超人賛歌と呼びうる詩的な作品である。主人公のツァラトゥストラは、30歳からの10年間、一人で孤独に山中に隠棲していたが、神が死んだ後の世界に対し、人間の生の指針となる「超人」のあり方を示すために、山から降りて人間たちと接触する。しかし、興味本位でツァラトゥストラに近寄ってきた群衆は、彼の語る言葉をまったく理解しようとしない。彼らは「われわれは幸福を発明した」と口にして、現状に深く自足した態度を見せる。そして彼らはツァラトゥストラに「愛とは何か、想像とは何か、憧れとは何か、星とは何か」といった哲学風の空虚な問いを向けては、思わせぶりな瞬きを繰り返すばかりであった。ツァラトゥストラは、神が死んだということにさえ気づかず、功利主義的で教養俗物的な生き方に自足している群衆を「末人」や「畜群」と呼んで蔑み、彼らの元を離れる。
群衆から身を遠ざけたツァラトゥストラは、独白に近いスタイルで「超人」について語り始める。しかしそもそも、なにゆえに超人の存在が必要とされるのだろうか。
一言で言えばそれは、キリスト教の神がすでに死んでしまったため、神の存在を基準として人間自体を陶治(さんずいではないが表示できず)してゆくという従来の方法が、もはや通用しなくなったからである。ニーチェは、キリスト教的な主体から超人へと至る精神の歩みを、駱駝、獅子、小児という三段階の比喩を用いて語っている。ここで駱駝とは、敬虔の念にあふれた重荷に耐える精神、すなわちキリスト教の規範に従属する禁欲的精神のことをさすが、これに対して獅子は「われは欲す」という欲望と意思の言葉によって、その生き方を打ち砕く。しかし獅子も、新しい価値を自ら創造することはできない。それが可能なのは、無垢な小児である。小児は過去については忘却し、その目は常に新しい始まりに対して開かれ、世界生成のありのままの姿を肯定する。「創造の遊戯」によって新たな価値を生み出すことができるのは、小児=超人である。
ニーチェは、プラトン主義的な形而上学や、神の国の実現という目的=終末を設定するキリスト教的な歴史観を、空虚な「背後世界」の存在を仮定し、それによって人間の価値や存在意義を捏造しようとする錯誤的な思考であるとして、厳しく退ける。それに代ってニーチェが持ち出すのは、いわゆる「永劫回帰」の世界観である。それによれば、あの世などという「背後世界」は実在せず、存在するのはあくまでこの世だけである。そしてこの世において、万物は流れさるとともに、再び同一の状態へと回帰する。死もまた、人間の生にピリオドを打つものではない。人の一生はまったく同じあり方で、同じ世界の中に再び回帰してくるからである。何らの意味も目的も終わりもなく、流れ去っては永久に回帰し続ける世界ーこうした世界観を肯定的に受容できるかどうかという点に、人間が超人へと変容する際の試金石があると、ニーチェは主張する。
既存の意味や目的が失効した時代にあって、その空虚さを肯定的に受け止め、むしろ自ら新しい価値を生み出すことのできる存在=超人になること、そこにこそ、人間の生の意味がある。こうしたニーチェの主張は、きわめて根深い逆説性を孕んだものであり、その思考の歩みはまさに苦闘と呼ばれるにふさわしい。そしてニーチェの思想も、超人という人間観や、永劫回帰の世界観といったその大和くんによって評価されるべきではなく、むしろ逆説に満ちた思想的葛藤の中で彼が示した具体的な霊感の数々によって図られるべきであると思われる。また私は、ニーチェの超人思想が、オウムの思想と直結しているというつもりもない。なぜなら、ニーチェはあの世の存在を明確に否定しているし、、また超人を群衆に対して背を向ける孤独な存在として描いているからである。
しかしそれでもなお、世界史の流れを大局的にみれば、オウムが唱えた「超人類」や「解脱者」につながるような人間像が、ニーチェの超人思想によってかなりの程度造形されたということは、否定し得ないように思われる。それは第一に、キリスト教的理念やその目的論的歴史観を退け、世界の実相として円環的な永久運動を想定したこと、そして第二に、そうした世界観を前提として、人間が現在の事故を超えた存在へと進化しうると唱えたことである。「ツァラトゥストラ」(=ゾロアスター)というタイトルも相まって、ニーチェの提示した永劫回帰の世界観は、優れて東洋的なものとして一般に受容された。また永劫回帰の世界観においては、人間は事実上不死の存在として捉えられ、そして超人は、今や消失した神にとってかわる存在へと高められているのである。ニーチェの思想は、シュタイナーやユングのような20世紀ロマン主義者たちに多くの霊感を与え、またのちに見るように、ナチズムにおける進化論や人種論を支えるバックボーンともなったのだった。

P.139
「ツァラトゥストラ」の記述において事実に反しているように思われるのは、ニーチェが「末人」たちを、現状に自足した存在として描いていることである。実際には群衆は、現状に満足などしていない。彼らは多くの人間が集合することによって作り上げられた巨大な社会から常に物質的な恩恵を被っていながらも、その状況自体に対して、言いようのない不満を抱いている。
群衆は、自らもその一員である群衆を嫌悪し、蔑視する。群衆は自分自身は群衆ではない特別な人間(超人)であり、不愉快にも自分の周りを取り囲んでいる自分以外の他人の群れこそが、魂を失った畜群(末人)であると考える。群衆意識の実態とはこうしたものであり、その意味において「超人」と「末人」は裏側で通底している、あるいは、両者の実は表裏一体のものである、と言わなければならないだろう。
**********引用ここまで

「ツァラトゥストラ」の扉には、「万人にあたえる書、何びとにもあたえぬ書」とあります。
なにやらかっこいい。

「世界の名著 57 ニーチェ」には、「ツァラトゥストラ」のほか「悲劇の誕生」も収録されています。
これの訳者が西尾幹二さん。
聞いたことのある名前だなと思ったら、「GHQ焚書図書開封」を書かれた方でした。
また「国民の歴史」はじめ、著書多数でした。

一神教のルーツ [宗教]

「逆説の世界史 2 一神教のタブーと民族差別」井沢元彦著 小学館 2016年
P.8
世界三大宗教は、仏教、キリスト教、イスラム教。
キリスト教徒は約21億人で、人類の3分の一はキリスト教徒。
イスラム教徒は12億人。
中国人を伝統的な儒教という宗教の信者と考えれば13億人。
ヒンドゥー教徒は10億人。
仏教は統計の取り方にもよるが4億人。

仏教は複数の神を認める宗教だが、キリスト教及びイスラム教は原則としてたった一つの神しか認めない。
キリスト教とイスラム教の信者を合算すれば30億人を超え、人類の約二人に一人は一神教の信者ということになる。

日本を一歩出れば、人々の根本的考えを規定しているのは宗教である。
しかし、日本人は自分たちも神道(正確に言えば仏教と合体した神道)に深層心理で影響を受けているのにすら気がついておらず、多くの人は自分は無宗教だと思い込み、ますます相互理解とは程遠い場所に自分を追い込んでしまっている。

国際親善、相互理解のためには、世界史を知らねばならない。その世界史を知るということの根本に、宗教を知るということがある。

P.10
地球人類の半分は一神教の信者であるにもかかわらず、日本人ほど一神教についての常識が欠けている民族もない。
日本人は歴史的に一神教的伝統とはほとんど無縁で生きてきたからだ。
世界で起こっている戦争や紛争のかなりの部分は実は一神教に由来している。

P.17
人類最初の完成された形の一神教はユダヤ教である。
ユダヤ教の聖典に含まれるトーラーは、キリスト教の旧約聖書と同じである。
ユダヤ教では、唯一神が世界を作り、人類を作ったとしている。

ユダヤ教以前に「完成されない形」の一神教は存在した。
「完成品」が生まれる前には必ず「失敗作」がある。多くの場合「失敗作」が存在したが故に、「完成品」が導かれた。

P.20
古代エジプト文明の中に、まさにプロトタイプともいえる一神教がある。
それは紀元前14世紀に古代エジプトのファラオのアクエンアテン(初名アメンホテプ4世)が始めたとされる太陽を信仰の対象とした一神教である。
アメンホテプ4世が在位1年目から空前絶後の宗教改革に取り組んだ。
古代エジプトは建国以来、人類の古代文明がすべてそうであるように、多神教を信仰していた。
しかし、アメンホテプ4世は、一神教に改宗しようとした。
そのあとツタンカーメンは一神教を放棄し、伝統的な多神教に戻った。

**********
「彼ら」は一神教を世界中に広めたい。
コントールが容易だから。
「彼ら」はキリスト教より前に、太陽神という一神教を広めたかもしれない。
だから「彼ら」の発行する1ドル紙幣にピラミッドが描かれ、各地にオベリスクが建てられるのかも。
支配の始まりはそこかもしれません。

引き寄せの法則はあり [宗教]

引き寄せの法則ってありなんじゃないかなと思います。
というのも科学ではないとされているものの中に真実があるような気がするのです。
オカルトとか、胡散臭いとか、危険だとかいうレッテルを貼られているものの中に真実があるような気がする。

明治維新のことを調べているとき、なぜだかわからないけれど、フルベッキが妙に気になりました。
それまで一度も名前を聞いたことのなかった人。
なにか妙に気になり、英語サイトまで調べて翻訳して、そしてフルベッキが明治維新のキーとなる人物だという確信を得ました。

それこそが引き寄せだと思うのですよね。

そしてハルマゲドンについて書いていた時も、なぜか「彼らはハルマゲドンを「再現」したいのでは」と、打ち込んでしまったことがあります。
まだハルマゲドンは起きてないのだから、「再現」ではないよなと思って書き直したのですが、いろいろ調べて行くと過去にハルマゲドンは起きていたんではないかと思うようになりました。
だから無意識に打ってしまった「再現」が実はあっていたのではないかと。


そして今は、龍、竜、刺青と龍笛がどうも気になるのですよね。

デーヴィッド・アイクも「世界覚醒言論」において以下のように言っています。P.379

引き寄せの法則について私が強調しておきたいことのひとつは、自由意志は多くの水準で発生しうるだろうということだ。もし私たちが進むべき特定の経路を持っているなら、潜在意識の中でその方向に進むよううまく仕向けられているのかもしれない。私が何度も言ってきたことだが、私の人生は象徴的な鉄道線路の上にあり、分岐器で進路を変更しているある力とともに生きていると私は感じている。

もしそのような何かがなかった場合、私は比較的少ない年月で集めたすべての資料を編纂して伝えることは決してできなかっただろう。私がより卓越した理解のために私が必要とするものを、ふさわしい場所でふさわしい時に見たり経験したりする状況に私を置こうとする、ある隠れた力が存在している。あなたは同じことを経験したに違いない。特にあなたが目覚めて人生の共時性(シンクロニシティ)がかつてよりはっきりと作動し始めたときに。

引き寄せの法則は依然としてそのような場合に作動する。しかし、それは潜在意識の中にあらかじめ仕組まれた経路からきている。そしてその経路は、私たちがそこに到達する前に自分の自由意志を使って選択したものだ。

手短に言えば、私たちはある理由によってここにいることを選択していて、私たちが好まないものを変えるための力が私たちの中にずっと存在している。私たちが自分の「人生における宿命」だと信じることから解放されうるこの基礎的理解から私たちが無知でいるように社会が構築されているだけなのだ。

さて、私たちには人生を変えたり夢や欲望を具現化したりする力があり、そしてそれを使うときなのだ。

「魔法が無いとか、魔法に近づくなと語る勢力は魔法使い」
http://magicaldragon.blog.fc2.com/blog-entry-138.html
大衆を引き寄せの法則から遠ざけようとする勢力は黒魔導師だと考えられる。引き寄せの法則・成功法則というのは、要するに一般大衆でも魔導師になれますよという話なのだ。引き寄せの法則というのは魔術の一種なのだ。
面白いトリックとしては、ある悪名高い秘密結社があるわけだが、その結社が引き寄せの法則を作ったという話をする。そんな事を言う人自身が秘密結社に属している所が面白いのだ。
団体組織のロゴ、企業のロゴや商品のロゴ、映画アニメゲームに描かれるシンボル。芸能人の取るポーズ。これらが全てことごとく魔法で埋められつつも、「魔術に近づくな」とは何事かと思わねばならない。独占したいとしか考えられない。魔術に近づいた者だけが幅を利かせられるのだ。

心にちらっとよぎったこと、おもわずしてしまったキーの打ち間違いが真実をついていたりするのではと思うのです。

ハウプト・ホルガーさんのページ [宗教]

在日ドイツ人 ハウプト・ホルガーさんのページ
http://www.hpo.net/users/hhhptdai/jphp.htm

キリスト教の犯罪史
教会は最大の犯罪組織
http://www.hpo.net/users/hhhptdai/kyoukaihanzai.htm
キリスト教が世界中でどれほど多くの虐殺を行ってきたか、まとめられています。
>>キリスト教教会が史上最大の犯罪組織となり、何千万人もの人々を拷問したり殺したりしたのは不思議ではありません。キリスト教の源であり、今もなお、絶対的真実として信者に信じられている聖書には、こうした行為は神のみ心にかなったものと書いてあります。聖戦、十字軍遠征、異教徒の大虐殺、魔女の焼き殺し、拷問、他の民族の奴隷化や絶滅等はすべて、そもそも聖書に起源をもつものでした。

http://www.hpo.net/users/hhhptdai/sommer2004jp.htm
>>ドイツでは「リンク犯罪」という罪もある。その罪に問われるのは、主にユダヤ人大虐殺を否認するページへリンクを張ったホームページウェブマスターなのである

ユダヤ人大虐殺を否認するページへリンクを張ったら犯罪って、恐ろしいことです。
本当のことを広めて欲しくないからここまでやるんですね。

マザー・テレサ、スーパー物乞い
http://www.hpo.net/users/hhhptdai/motherteresa.htm
>>マザー・テレサは偉くない。教会の中の犯罪者の一人に過ぎない。
>>マザー・テレサは膨大な寄付金やノーベル賞をはじめとする数多くの賞金や「スピーチ謝礼金」などを受け取り、マザー・テレサの死後マザー・テレサのニューヨーク支店口座を管理していたシスターは、彼女の担当期間中その口座に5000万ドルも振り込まれたことを証言した(Christopher Hitchens の本”The Missionary Position: Mother Teresa in Theory and Practice”より)。マザー・テレサはその膨大な金をどう使ったのか。彼女のカルカッタの施設は荒れ果てた所だった。
>>マザー・テレサの施設には医薬品も寄付されが、マザー・テレサは、人間が苦難を味わってこそ罪が清められると言う不健全なキリスト教思想の持主で、薬や鎮痛剤には批判的で、病人にそれらの薬を与えなかった。さらに、その寄付された薬を別の非キリスト教援助団体に提供することをもしなかった。医療より洗礼を施すことがモットーだったらしい。

キリスト教の大学 [宗教]

気がつかなかったけれど、キリスト教の大学はこんなにもあるんですね。
関西の有名私大関関同立のうち、2つ関西学院大学と同志社がそうです。
こういう大学では、宗教の授業をとらなければならないところもあるとか。
入学した時は違和感を感じていても授業を受けるうちに染まってしまう。
恐ろしや恐ろしや。

そして皇室の方もかなりキリスト教に染まっておられるのですね。
「皇族が国際基督教大学に通うことに違和感を禁じ得ません。」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10135629470
**********引用開始
皇室とキリスト教とは関係が深いのです。今上天皇の家庭教師はヴァイニング夫人というクリスチャンでした。昭和天皇が戦争責任をとらされないよう、GHQとの橋渡しをした宣教師などのクリスチャンもいました。また、牧師の賀川豊彦は東久邇宮内閣の参与でした。三笠宮崇仁殿下は旧約聖書のヘブライ語の学者です。
**********ここまで引用

「キリスト教系の大学をカトリック系とプロテスタント系に分けて列挙してください」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1227439057
**********引用開始
■プロテスタント
ルーテル学院大学
九州ルーテル学院大学
関東学院大学
尚絅学院大学
姫路日ノ本短期大学
西南学院大学
西南女学院大学
同志社大学
同志社女子大学
神戸女学院大学
桜美林大学
梅花女子大学
梅花女子大学短期大学部
新島学園短期大学
敬和学園大学
松山東雲女子大学
共愛学園前橋国際大学
明治学院大学
フェリス女学院大学
東北学院大学
宮城学院女子大学
大阪女学院大学
大阪女学院短期大学
北星学園大学
稚内北星学園大学
金城学院大学
四国学院大学
聖隷クリストファー大学
北陸学院短期大学
梅光学院大学

■カトリック
上智大学
上智短期大学
エリザベト音楽大学
星美学園短期大学
南山大学
聖トマス大学
聖心女子大学
白百合女子大学
仙台白百合女子大学
清泉女子大学
清泉女学院大学
ノートルダム清心女子大学
京都ノートルダム女子大学
神戸海星女子学院大学
聖母大学
聖母女学院短期大学
青森明の星短期大学
明の星女子短期大学
大阪信愛女学院短期大学
和歌山信愛女子短期大学
久留米信愛女学院短期大学
聖カタリナ大学
聖カタリナ大学短期大学部
長崎純心大学
鹿児島純心女子大学
東京純心女子大学
カリタス女子短期大学

■英国国教会系
立教大学
立教女学院短期大学
聖路加看護大学
桃山学院大学
平安女学院大学
平安女学院大学短期大学部
神戸松蔭女子学院大学
神戸松蔭女子学院大学短期大学部
プール学院大学
プール学院大学短期大学部
神戸国際大学
名古屋柳城短期大学

■超教派
国際基督教大学
東京女子大学
津田塾大学
中部学院大学
中部学院大学短期大学部
長崎外国語大学
長崎外国語短期大学

**********ここまで引用

キリスト教にだまされるな「高山右近、福者の列に」 [宗教]

キリシタン大名の高山右近がカトリックの福者に認められたことを宣言する列福式が2月7日大阪城ホールで開かれた。ローマ法王代理としてバチカン(ローマ法王庁)から派遣された枢機卿が進行役の主旨式を務め、信者ら約1万人が参列した。日本では42人が聖人に、393人が福者に認定されている。(朝日新聞)

布教は精神的日本侵略のためなのに。
キリスト教に騙されてはいけません。

彼らはプロパガンダが上手で、これを最も重要な戦略としている。
遠藤周作のキリシタン迫害がテーマの小説「沈黙」がこの時期に映画化されるものそう。
2007年に日本では188人が福者に決まっている。
このときから再布教への取り組みが始まっていたのですね。
2007年の記事で一度にこれだけ多くの日本人が列福されるのは1867年以来とあります。
1867年は明治維新のころ。
ふーむ。なるほどね。

江戸時代初期の日本人殉教者188人「福者」に
2007年6月4日21時48分
http://www.christiantoday.co.jp/articles/1020/20070604/news.htm
**********引用開始
教皇ベネディクト16世は2007年6月1日、江戸時代初期に弾圧を受け殉教した日本人188人に「福者(ふくしゃ)」の称号を与えることを決めた。一度にこれだけ多くの日本人が列福されるのは1867年以来。福者に決まった多くは、女性や子どもを含む一般信徒。列福式は今年秋に長崎で行われる見通しで、日本での開催は初めて。

 188人の中には、遠藤周作の小説「銃と十字架」にも登場し、マカオへの追放後、約2年間かけて徒歩でローマまで向かい、「世界を歩いた神父」として知られるペトロ岐部(1587〜1639)、天正遣欧使節の1人としてローマを訪問したジュリアン中浦(1568〜1633)、大阪最後の宣教師とされているディオゴ結城(1574〜1636)らが含まれている。
**********ここまで引用

17世紀の日本人殉教者188人が聖人に次ぐ「福者」に
2007年03月03日
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200703030258.html
**********引用開始
日本では1862年1987年に計42人が聖人に、1867年に205人が福者とされているが、日本で殉教した外国人司祭のほか、圧倒的に男性の指導的な信徒が多かった。今回の188人中司祭は4人だけで、女性が3分の1を占める。

 いずれも1603~1639年と江戸幕府成立から鎖国体制の確立に至る時期の信徒で、殉教の地もさまざまだ。
**********ここまで引用

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/sengokukinokenkyu/sengokudaimyoco/takayamaukunco.html
**********引用開始
 1581(天正9)年、イタリアから有名な巡察師ヴァリニァーノを招いて天正4年をしのぐ盛大な復活祭を催した。グレゴリオ聖歌が流れ、日本で最初に輸入された小型の移動式パイプオルガンが演奏された という。ヴァリニャーノ、フロイスも驚嘆した。 信長もヴァリニャーノらをいたれりつくせりで歓迎した。その後の右近は仲間の武将にキリスト教を広め「高山の宗門」と呼ばれる隠然勢力を形成し始める。この間、高槻領内の神社仏閣を破壊し神官や僧侶に迫害を加えたため、旧高槻領内には古い神社仏閣の建物はほとんど残っていない。旧領内の多くの寺社の記録には、「高山右近の軍勢により破壊され、一時衰退した」などの記述がある。

  フロイス日本史などのキリスト教徒側の記述では、この地に教会を建て、京都南蛮寺建立にも貢献し、領民の改宗に尽力した。天正9年には高槻の領民2万5000のうち1万8000人がキリシタンとなった(約72%)。教会は領内に20程あったという。領内の住民のほとんどがキリスト教徒となってしまったので、寺社が必然的に減り、廃寺となったものが多かったので、これを打ち壊して教会建設の材料としたと記されている。立場によって見方が分かれている。細川忠興、前田利家は右近に影響を受けてキリシタンに対して好意的であった。 

2007年には江戸幕府の弾圧で殉教したペトロ岐部ら日本人カトリック教徒188人が福者に決まり、2008年に長崎市で列福式が行われた。 
**********引用ここまで

秀吉はなぜ「伴天連(バテレン)追放令」を出したのか~~その1
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/?tag=高山右近
それを読むと、秀吉は7月24日に怒り狂い、夜にイエズス会の日本準管区長のガスパル・コエリョに対し使いを出して、次の様な太閤の言葉を伝えさせている。

「その第一は、汝らは何ゆえに日本の地において、今まであのように振舞ってきたのか。…仏僧たちは、その屋敷や寺院の中で教えを説くだけであり…汝らのように宗徒を作ろうとして、一地方の者をもって他地方の者をいとも熱烈に扇動するようなことはしない。よって爾後、汝らはすべて当下九州に留まるように命ずる。…もし、それが不服ならば、汝らは全員シナ(マカオ)へ帰還せよ。…」

「第二の伝言は、汝らは何ゆえに馬や牛を食べるのか。…馬は、道中、人間の労苦を和らげ、荷物を運び、戦場で仕えるために飼育されたものであり、耕作用の牛は、百姓の道具として存在する。しかるにもし汝らがそれを食するならば、日本の諸国は、人々にとってはなはだ大切な二つの助力を奪われることとなる。…」

「第三は、予は商用のために当地方(九州)に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られていったすべての日本人をふたたび日本に連れ戻すように取り計られよ。もしそれが遠隔の地のゆえに不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。予はそれに費やした銀子を支払うであろう。」(ルイス・フロイス「日本史4」中公文庫p.207-208)

これらの太閤の言葉に対し、三つ目の日本人奴隷の問題に関してイエズス会準管区長のコエリョが答えた内容については同書にこう書かれている。

「…この忌むべき行為の濫用は、ここ下の九ヶ国(九州)においてのみ弘まったもので、五畿内や坂東地方では見られぬことである。我ら司祭たちは、かかる人身売買、および奴隷売買を廃止させようと、どれほど苦労したか知れぬのである。だがここにおいてもっとも肝要なのは、外国船が貿易のために来航する港の殿たちが、厳にそれを禁止せねばならぬという点である。」(同書p.210-211)
と、奴隷売買は九州だけでおこっていることで、我らも廃止させようと努力しているのに取り締まらない日本側に問題があると答えたのである。
「外国船が貿易のために来航する港の殿たち」とは、九州の切支丹大名を遠回しに述べたものである。

翌朝秀吉の怒りはさらに激しくなり、「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」との伝言を持たせて、再びコエリョに使者を送った。

そこでコエリョが答えた内容は
「キリシタンたちは、我らの教えを聞き、真理を知り、新たに信ずるキリシタンの教え以外には救いがないことを悟った。そして彼らは、…神も仏も、またそれらを安置してある寺院も何ら役に立たぬことを知った。彼らは、…神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅したのである。」 (同書p.215)

そのコエリョの回答を聞いて、太閤がさらに激怒したことは当然である。
秀吉は「予は日本のいかなる地にも汝らが留まることを欲しない。ここ二十日以内に、日本中に分散している者どもを集合せしめ、日本の全諸国より退去せよ」と命じ、「伴天連追放令」と呼ばれる布告を司令官ドミンゴス・モンテイロに手交したのである。

「伴天連追放令」については秀吉の側近の記録が残され、外国人の書いた文章でも日本人奴隷の実態を書いている文書などもあるようだ。
文章が長くなるので次回以降に紹介することするが、秀吉がキリスト教の独善性と宣教師の野望に早い時期に気付きその拡大を許さなかったことが、この時期に日本が植民地にならず独立国を維持できた要因の一つだと思っている。
**********ここまで引用

牧場と稲作 [宗教]

米学者「キリスト教は、奴隷をコントロールするためのシステムとして作られた」
http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/1381770026/
**********引用開始
110 : ファイナルカット(茸):2013/10/15(火) 02:58:35.02 ID:5/TKFYjc0
というのも、ごく最近ですが気づいたことがあります。いわゆる日本以外の
文明というのは社会の原型モデルを牧場ととらえているのに対し日本文明は
社会の原型モデルを稲作の家族で理解しているのではないかということです。

西洋文明社会の原型モデルの牧場というのは、牧場主とその家族だけが人間で、
その下に牧羊犬その犬に導かれる羊がいます。

このモデルで会社をとらえると経営者だけが人間で管理職は犬、一般社員は
羊になります。つまり牧場モデルでは一般社員は家畜になってしまいます。
そこで人間でいるためには家畜ではない振る舞いをしなくてはなりません。

111 : ファイナルカット(茸):2013/10/15(火) 02:59:43.88 ID:5/TKFYjc0
そのため必要なのが契約です。家畜や奴隷で無い労働は、そこの主人(会社)
と契約をして仕事と報酬を交換することで人間としての尊厳が保たれます。
サービス残業、名札や制服、選択肢の無いみんな同一の食事などは
人間でない家畜あるいは奴隷に身を落とすことですから嫌われます。

牧場のモデルで資本主義社会をとらえると、銀行や資本家だけが人間で
会社は犬、社員は羊になります。共産主義社会は共産党だけが人間で
企業や政府機関は犬、人民はやはり羊になります。

ところが日本社会は社会の原型モデルが稲作の家族なので、みんなで
田植えして、同じ釜の飯を食べ、みんなで収穫するのが基本です。
したがって牧場モデルの文明から見ると日本人の多くは喜んで家畜、
奴隷に身を落とすへんな人たちなのでしょう。

日本では牧場社会のようにはヒエラルキーがそもそも強くありません。
113 : ファイナルカット(茸):2013/10/15(火) 03:00:36.00 ID:5/TKFYjc0
このことを伝統的に身をもって示しているのが私たちの天皇陛下です。
毎年、皇居内の水田に陛下自身の手で田植えをし豊作を祈ります。
秋になれば稲刈りをし、収穫を祝い、神々に感謝を捧げます。儀式的では
あっても天皇陛下が田植えも稲刈りもするのですから、日本においては
どんな大社長、大臣、貴族であっても田植えや稲刈りを「汚い!」などと
言ってさげすんだり、断ることは許されません。これが日本の文明の
根本であると考えられます。

戦後の教育は、この牧場モデルから発生した唯物史観、改革思想、
革命教育しか教えられていないので、ほとんどの人々は日本の国柄に
ついて考えたことすらありません。しかし稲作の家族が社会モデルの
原型であり、それを具現化している天皇陛下こそが私たちの文明の
根っこであることは、理屈になっていなくてもなんとなく感覚で
理解してる人がそこそこいるのではないかと思います。

**********引用ここまで

脱キリスト教の桃栗さんのブログ [宗教]

「ここがヘンだよキリスト教」桃栗さんのブログ
わたし(イエス)が来たのは地上に平和をもたらすためではなく、剣をもたらすために来たのだ。敵対させるために来たのだ。マタイ10:34-35/わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。ルカ12:49
http://exchristian.blog80.fc2.com
**********引用開始

私はいわゆる元クリスチャンです。
両親がクリスチャンだったので、小さいころから家族で教会に通っていました。
私がいつごろから通い始めたのかは記憶にありませんが、
たぶん生まれて間もないころから両親に連れられて行っていたと思います。
小学生のころには教会学校だけ出席していましたが、
中学に上がったころに大人の礼拝にも出るようになり、洗礼も受けました。

自分の記憶ではただの一度も教会を休んだ記憶がありません。
学校の体育祭やクラブ活動など学校の行事を除き、
とにかく日曜日は欠かさず教会に通う家族でした。
ところが今では私は信仰を捨てました。
キリスト教をやっていてわけが分からなくなったからです。

むしろ自分が小さかったころは教会で教わる話を素直に信じていました。
小さいころからまったく疑問がなかったわけではありませんが、
神を疑うことは罪だと思っていましたので、
そういう疑問は心の奥底にギュッと押し込め、
いつか理解できる時が来るだろうといちおうは信じていました。
その後、自分が成長して中学、高校、大学へと進むにつれて、
キリスト教への理解が深まるどころかますますわけが分からなくなってきました。
そして信仰を捨てた瞬間から、心に閉じ込めていた疑問が次々にあふれ出し、
とりあえずは文字に書いてみようということでブログを始めました。

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話し合っても無駄です。
解決できないことは全て「祈りましょう」の一言で済まされますから。
とにかくクリスチャンって何かあると「祈りましょう」と言うのが好きですね。
それで問題が解決したつもりになっているのですからアッパレな人たちです。
その一方で神社やお寺にお参りする人たちのことを
「ご利益宗教」だと言って上から目線で見下す。
やってることは同じではないですか。
ご利益宗教にすがってもキリスト教にすがっても物理的には何も変わりません。

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「安息日」という言葉がありますね。
しかし、子供だって月曜から土曜まで学校に行って疲れていて、
日曜ぐらいゆっくり休んで好きなことをしたいのに、
私には安息日がありませんでした。
礼拝は基本的に午前中だけでしたが、
午後に特別集会がある時はそれにも必ず出ていました。
普通の子供は仲間とつるんで友情をはぐくんで青春を謳歌するのに、
私にはその時間がありませんでした。
高校時代は、同級生の家に遊びに行ったり、同級生が私の家に来たことは、
ただの一度もありませんでした。
その後遺症で、社会の中で人間関係を上手く形成することができません。
私の青春はキリスト教のせいで台無しになりました。
私の青春を返してほしいです。
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この「信仰に基づいた生活」が私にとっても重荷でした。
しかも、当時の私は神に背いてはいけないと信じていましたから、
「信仰生活が嫌ならやめればいい」という発想が全くありませんでした。
ある年齢に達した時に宗教観が180度変わり、
宗教に縛られない生き方に喜びを感じる一方、
なぜもっと早く気付かなかったのかと後悔しています。
人生を無駄にしました。

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感情を押し込めていた
桃栗さん
おはようございます

キャンプの季節がやってきました
子どもの頃、夏休みになると教会のキャンプに参加していました

そのキャンプは、子どもに洗礼を受けさせるための伝道(洗脳?(笑))の場だったのだと大人になった今、ハッキリとわかります

子どもをあのようなキャンプに参加させることは、本当に怖いことです
真面目な子どもほど神の愛とか自分には罪があるとか真剣に考えて
心に罪悪感を植え付けられていきます

小さな頃から教会に行っているので悪口も言わないし、悪いこともしたことがないのに、そんな自分の小さな罪まで思い出させようとする・・・

学校生活では本当に感情を押し込めていたと今本当にあの頃の自分が可哀想です

満足にけんかもできない精神状態
正当に主張する心が育ってない
強く言われても強く言い返せない
嫌いと思うことも罪
何でも祈って考える
赦さなければ罪

世の中の子どもたちがそんなことにお構いなしに子どもとしての社会性を学んでいくのに
真剣に聖書の話を信じている子どもは必然的に弱い立場にたってしまうのです

たちが悪いのは
教会に来ているけれど真剣に聖書の話を信じてない子ども

そういった子どもは
真面目に神様の言葉を信じている子どもを操作するのです
ワガママをなんでも言ってもこいつは受け入れるだろうとわかって利用してくるのです

私もそんな理不尽なことをクリスチャンの友だちにされました

その友人はクリスチャンという肩書きを利用しミッションスクールに入学し
早々に教会から遠のきました

真面目な子どもは絶対に教会学校に行っちゃいけないと本当に思います

自由な心の動きや正しい人間関係の対処法を神に奪われてしまいます

2016-07-23 土 08:50:41 | URL | さくら [編集]

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クリスチャンは「神は私たちに自由を与えて下さった」言うくせに、
「信じない自由」は認めないのです。
クリスチャンが言う「自由」って、本当に訳が分かりません。

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私も、今から考えてみれば、
子供を対象にした教会学校というのは、
教会側にとっては格好の洗脳の場だったのです。
要するに、子供の頭の柔らかいうちにキリスト教を叩き込もうというわけです。
そして、先生たちは子供の関心を引くために、
かなり大げさに子供に話しをしていました。
例えば、神をバカにしていた人が事故に遭って死んだとか、
そういう類のたとえ話をして、
神に従わなければ罰を受けるというようなことをよく教わりました。
もちろん、大人は冗談半分でたとえ話として教えていたのでしょうけど、
何も知らない子供の私はそれを真に受けてしまい、
自分はいつ神の罰を受けるのかと不安な信仰生活を送っていました。

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また、これはキリスト教だけに限ったことではなく他の宗教でも起こりうることです。
子供が純真であるのをいいことに宗教を教えるのはやめてほしいです。
たちが悪いのは、多くの親が「良かれ」と思ってやっているところです。
だから、宗教が原因で子供が正常に育たなかったとしても、
親は絶対に自分たちの宗教に原因があることを認めません。
むしろ、子供が正しく信仰しなかったのが悪いと決めつけてきます。
このブログに訪れるクリスチャンの発言を見ればそれが明らかです。
誰一人として、キリスト教の欠点を認めようとせず、
あくまでも悪いのは私(桃栗)だと決めつける人ばかりですよね。
牧師さんに私の体験談と悩みを話したところで、
「イエス様はいつもあなたを愛しておられます」
「あなたのために祈っています」などと響きの良いきれいごとを言うだけで、
絶対にキリスト教の欠点を認めようとしません。
本当にお高く留まった偽善的な宗教です。
私の人生の最大の不幸は、クリスチャンホームに生まれたことです。

**********引用ここまで

原爆を落とさないと地獄に落ちますよと言われたか [宗教]

失われた日本史  にきみたまの道
広島原爆投下機にカトリック神父が搭乗していたこと」
http://nihonshitanbou.blog.fc2.com/blog-entry-204.html

ドクター苫米地ブログ - Dr. Hideto Tomabechi Official Weblog
「デスコト国連総会議長と歓談した。エノラゲイについて歴史的な発言だ。」
http://www.tomabechi.jp/archives/50868404.html

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キリスト教徒を代表して謝罪をしたいというのは、原爆を投下した爆撃機エノラゲイの機長がカトリック信徒であったことがまずあるそうだ。機長はカトリックであるにも関わらず、自分の良心ではなく、上からの命令で行動したからだという。また、これは機長個人のことではなく、当時のカトリックでは、個人の良心よりも疑いを持たずに従うことが重要だと教えていたのであり、これを謝罪したいということだった。

更に重要な理由は、これは、私には初耳であったが、エノラゲイには、公表されている12名の軍人乗組員以外に、13人目の乗員がいたということだ。

その知られていなかった乗員は、アメリカカトリック教会の神父が一人乗機していたということだ。これは長年知られていなかったことだ。議長が「アメリカ」カトリック教会と強調して言われた口調には必ずしも当時のバチカンが同調していた訳ではないというニュアンスを感じた。

アメリカカトリック教会の神父がエノラゲイに乗機していたのは、機長や乗組員が原爆投下を恐れずに実行できるようにという配慮だったそうだ。 言ってみれば、アメリカで死刑執行の場に神父や牧師が立ち会うのと同様の論理だったのだろう。また、私の著書、『洗脳護身術』や『洗脳』などでも書いたが、2003年3月下旬に始まったイラク戦争が米国で24時間CNNやFOXなどで流れ続けていた時に、戦車隊に常に牧師が一緒について行動して、何時間おきかの休憩ごとに、戦車の横に集まってお祈りをしていたシーンが何度も流れていたことを思い出した。

**********引用ここまで