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生殖器崇拝を弾圧された聖書の民 [歴史]

酒井勝軍の「神州天子国」を読んでいたら、石川三四郎も同じ意見だと書かれていたので、石川三四郎の「古事記神話の新研究」を読んでみた。
大正10(1921)年4月1日初版発行 三徳社
大正10年5月1日3版のを読んだ。

検索したところによると、この本は何度も改訂されているらしく、25版までいったとか。
著者は自分がいつ死ぬかわからないので、わかったところを訂正して何度も書き直し出版しているよう。


著者の主張は、古事記の記事、ことにその神代記中には、多くの異なる時代、多くの異なる地方、の事実と思想と伝説とが、雑然として不統一に集められているという。
古事記神話には、太古のカルデヤやパレスチナ地方の伝説や歴史が挿入されていると著者は信じる。
古事記中には移住の途中に付加されたと思われる伝説がかなりに多く、そしてそれはあまりに重要でないにもかかわらず、かえって詳細に記されていると。


カルデヤ(wiki)
メソポタミア南東部に広がる沼沢地域の歴史的呼称である。カルデア人は紀元前7世紀に新バビロニア王国を建国した。


著者は世界各地を旅し、アフリカ(亜弗利加)、スペイン(西班牙)、フランス(仏蘭西)、ベルギー(白耳義)、イギリス(英吉利)などを旅行している。


1919年12月、石川は旧友ポオル・ルクリユ(Paul Reclus)氏とともに、同氏夫人マルゲリト氏の病を療養するために、三人で仏国(フランス)を出発し、モロッコ国の旧都マラケシ市(モロッコ市とも称せらる)につく。
滞在していた家は、ポオル氏弟アンドレ・ルクリユ氏の家。
宗教史の権威エリイ・ルクリユを父とし、地理学の泰斗エリゼ・ルクリユを叔父とするアンドレ氏は、こうした種類のおびただしい図書を蔵有していた。石川はこの家に7ヶ月間滞在して、かなりに多くの読書に時間と、研究の便宜とを得た。
このときメソポタミヤに注意が向いた。従来から久しく持っていた古事記神話の疑問に対して、稲妻のごとき明光が投げられたとしている。


◯歴史を研究するなら、地理をおさえながらでないといけないと。

◯天津諸神が移住の目的地、約束の地と定めたる豊葦原の中つ国あるいは水穂の国は決して日本のごとき山岳小島国ではない。

◯古事記にわにがでてくるのだから、日本ではない。

◯生殖器崇拝を弾圧された民が聖書に書かれている
エドワード・カーペンターの「異教及び基教の信条」第12章によると、
キリスト教は主要教義において異教の儀式を取り込んでいるが、大きな例外があり、それはキリスト教の性に対する態度である。
イエスの信徒たちは、婚礼の宴に性の神秘を賛美したために罪せられたことが度々あった。
教会が強力となり、修道僧の断根と禁欲主義、独身僧侶と賛美される象徴(十字架、三形象、リスの花形)の性的意義の否定とを持って、非性欲的略形をたてるにいたった。
パレスチナのシリヤ人が生殖器崇拝のために厳責された事実を知る。同地の高き丘や青樹の下には、必ず突起した形象(男性)とGroveあるいはAshirah(女性)とがおいてあった。(列王記第16章22−24、第23章)
(列王記第13章21−23、列王記第15章14−15、列王記第23章4−15)


https://ja.wikipedia.org/wiki/聖なる高台
「聖なる高台」とは新共同訳聖書での訳語で、口語訳聖書では高き所 、文語訳聖書では崇邱 (たかをか/たかきところ)と訳す。
列王記下第23章によれば、南ユダ王国のヨシヤ王は、異民族の習慣であるこの聖なる高台の使用を禁じ、ヤハウェへの祭祀はエルサレム神殿でのみ行うよう命じた。だがそれでも一掃はできず、聖なる高台での神々への祭祀はエレミヤの時代まで続いていたという(エレミヤ書第19章)。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

聖書の民が生殖器崇拝をしていたという解釈は、聞いたことがなかったが、とても興味深い。

日本の祭りや神社には、生殖器を祀っているところがたくさんある。
松江市の八重垣神社の鏡の池に通じる祠には男性生殖器が祀ってあった。

聖書の民が生殖器崇拝していたということはなかったことにされている事実なのかもしれない。

リュック・ベッソンの映画「フィフス・エレメント」では、
エジプトの遺跡で、「土・火・水・風」の4元素を表す秘石を配置し、その中央でミラ・ジョボビッチとリュック・ベッソンが合体をすると、光の御柱を発生させ、地球を破壊しようとする邪悪な力を撃退する。

https://www.supertorchritual.com/fifth-element-code/
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーgoogle翻訳開始 一部転載
スーパートーチの儀式
第5要素コード
Goro (2017年10月22日)


歴史の終わりには、スターゲイトから第五要素が出てくるのがわかります。
・・・
この文脈では、ラスベガスは五角形のスターゲイト・シーケンス(五角形のオリンピック・スタジアムをエコーし​​ている)が開始されていることがわかります。
・・・
平壌2018のロゴに​​は、5つ星の星と2つのローマ数字に似た記号があり、一緒に「2つ星」を意味しています。 それはまさに平昌2018パラリンピックのロゴにあるものです。
スターゲイトを構成する星は明らかに2つあります。

重力波を発生させる2つの中性子星が、初めてTorch Relayを開始する8日前に10月16日に発表された。
・・・
... 5つ星の星と共鳴する " 第5の要素 " - " 本質 "としても知られています。
20171118-4.jpg
ブルース・ウィリスとミラ・ジョヴォヴィッチが主演した1997年の映画フィフス・エレメント ...
...第5要素のシンボルがあります。 正方形を形成する4組の線:

リールー(ジョヴォビッチによって演じられた)はそれを彼女の手首に入れ墨して、彼女を第5の要素として識別させた。
20171118-1.jpg
2018年冬季オリンピックの開催都市である平昌(ピョンチャン ) 公式紋章とほぼ同じです。
20171118-2.jpg
第五の要素はまた、 ラスベガスの大虐殺を呼び起こす...
... フロストン惑星の周りを運行する " パラダイス "と呼ばれるリゾートホテル - 宇宙船の頭にものが登場する。

フィフス・エレメントの最大のアクションシーケンスは、パラダイスのコンサートホール内での「大量銃殺」です。
ラスベガスの古代エジプト...
20171118-3.jpg
ストーリーは古代エジプトの寺院で始まり、終わりになります。活性化された五番目の要素が宇宙への強力な光線を放射し、入ってくる宇宙の岩石を止め、地球を全滅から救います。

この力は強く、オードを通して主要な高次元衝撃波を生み出します。第5要素は、次元間ポータルを開きます。

これは...連絡先ですか?
(映画「コンタクト」)
Ellieを...に運ぶ間接的な "スターゲイト" Vega 。 (映画のラスベガスへの直接参照があります。)

ベガの最初の外国人コミュニケーションには、ベルリンでオリンピックの開幕を宣言したアドルフヒトラーのビデオが含まれています。
1938年にこのナチスオリンピックの最中に、トーチリレーの伝統が最初に紹介されました。その後、国際イベントの主要な部分となっています。

2017年10月24日:古代ゲーム(ギリシャオリンピア)の発祥の地で太陽の熱によって儀式的に照らされたオリンピックの炎は、
10月31日:Panathenaicスタジアムの平壌2018組織委員会に引き渡された炎
11月1日:韓国内の101日間の国内トーチリレーの開始
2018年2月09日:開会式のために平昌オリンピックスタジアムに到着

トーチの照明(10月24日)は、 グレート・スフィンクスの峠の日の出のアライメントと一致します...
...天体大スフィンクス(レオ)の心臓部(Regulus)にある大アメリカン・イクリプスの時に設定された太陽と揃った同じ道筋。
ルクソール・ラスベガス・スフィンクスは、ギザのグレート・スフィンクスの様式のレプリカです。
8月21日の日食が最後にあったのは1933年で、ナチスは力を得た年です。
グレートアメリカン・エクリプスの前には、トーチを持つ新ナチスと白人ナショナリストがいた(8月11日〜12日)。 彼らを非難するためのトランプの不可解な躊躇は、アメリカの誰もが感じる暗闇を増幅させました。
・・・
パラダイスは終わりです...
クロックが終了までカウントダウンしています...
生き残るための唯一の希望は第五の要素です - 物理的なものを超えて存在するもの...心臓にあるもの。
星の王子様が何度も強調したように...
...小惑星から来た人。
リトル・プリンスは、2016年8月5日にリオ夏季オリンピックの開幕日にアメリカでリリースされました...
2016年8月5日オリンピックはリオで始まります

... Venusによってマークされた - "愛" - ライオンの中心、レグルス。 レグルスという名前は、「王子」または「小さな王」を意味します。
それは愛ですか、それとも私たちが心に抱く闇ですか?
それはスフィンクスが求めている質問です。 Ma'atが求めているのは、死の星を準備しているからです。
第五要素があなたの答えを待っています...
別の領域へのポータル...単語を超えて、しきい値を超えて。
すべてのオッズに対して、我々はそこに着く必要があります。 準備はできたか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー転載ここまで

上記サイトにはもっとたくさんの画像と情報があります。

キリスト教でタブーとされた性。
石川三四郎の指摘はとても興味深い。


Pyeongchang County
http://www.wikiwand.com/en/Pyeongchang_County
Emblem of Pyeongchang
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イスラエル建国の理由 [歴史]

ようやくイスラエル(Israel)が建国された理由がつかめた。

イスラエル(Israel)が建国されたのは、1948年。

ヨーロッパの白色ユダヤ人・アシュケナージ(Ashkenazy)ユダヤ・カザールユダヤ(Kazar Judea)は本当は聖書に記されたユダヤ人ではないのに、ユダヤ人だと言っていた。

聖書に書かれたユダヤ人であることにしたいために、ヨーロッパのユダヤ人にパレスチナへの入植を勧めた。

またユダヤ人であるからにはヘブライ語を話さねばならぬとして、ロシア出身のエリエゼル・ベン・イェフダー(’Eli‘ezer bēn Yәhūdhāh)がヘブライ語を復活させた。


「死語同然となっていたヘブライ語」
http://kusunoki-456.blog.so-net.ne.jp/2017-11-12-2


聖書に書かれたユダヤ人であるからには、ハルマゲドンのあと、イスラエルが建国され、そこに住むことが当然である。

そのために、ハルマゲドン(広島・長崎の原爆)が起こされた。(1945年)

そして聖書に書かれたとおりに、イスラエルが建国。(1948年)

聖書と違うのは、そのユダヤ人は偽物だということだ。


https://ja.wikipedia.org/wiki/アーサー・ケストラー
アーサー・ケストラー(Arthur Koestler、ブダペスト1905年9月5日 - ロンドン1983年3月3日)は、ユダヤ人のジャーナリスト、小説家、政治活動家、哲学者。 ハンガリー出身のユダヤ人でありながら、著書『第13支族』で、アシュケナジムユダヤ人のルーツはユダヤ教に改宗したハザール人であると主張した。
The Thirteenth Tribe, 1976
宇野正美訳『ユダヤ人とは誰か 第十三支族・カザール王国の謎』三交社、1990年



「ユダヤ人がユダヤ人でないと指摘した人は誰か 」
http://kusunoki-456.blog.so-net.ne.jp/2017-10-05-1
「我が闘争」(上)アドルフ・ヒトラー 昭和四十八年 角川文庫
P.328
「しかし、うそと、真相の否認が利用されうる可能性についての、この真理をもっともよく知っているものは、どの時代でもユダヤ人であった。なにしろ、かれらの全存在がすでに比類のない大きな嘘の上に建てられているからである。すなわち、そのうそとは、一つの人種 ー しかもなんという人種であることだろうか ー がそもそも問題であるはずだのに、かれらの間では一つの宗教団体が問題だと主張される点である。だが人類のもっとも偉大な精神の所有者の一人により、根本的な真理を表す、永遠に妥当する格言でもって、かれらが永遠にそのようなものであると確認された。その人は(*)、かれらを「うその大名人」と読んだ。この点を認識し、あるいは信じようとしないものは、この世で真理を勝利させるように、助力することはけっしてできないであろう。」 (*)その人とは、アルトゥール・ショーペンハワー(1788−1860)のこと。ドイツの哲学者。


「ヒトラーにユダヤ人殲滅を依頼したパレスチナのイスラム教宗教指導者」
https://matome.naver.jp/odai/2139125162574953501
1926年に出版されたヒトラーの著書、『我が闘争』の中には、すでに以下のような記述があり、将来誕生することになるイスラエル建国を強く批判していた。

「 ユダヤ人の新たな民族意識はパレスチナでのユダヤ人国家建国によって満足されるのだと他の世界の人々に信じさせようとシオニストたちが努力するとき、お人好しな非ユダヤ人を騙すべく、それに関してユダヤ人はもう一つの手段を採る。彼らには、パレスチナにユダヤ人国家をそこに住むことができるように建国しようなどという意図は微塵もない。彼らの真の狙いは、国際的な詐欺とペテンのための中央組織を設立することにある。 主権国家として、これは他のいかなる国家にも支配されえない。したがってそれは、正体を見破られた詐欺師の避難場所と同時に、その他の詐欺師の訓練のための高等学校として役立ちうるのだ。」
『わが闘争』A.ヒトラー


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知恵袋「古代日本が中国(唐)に支配されていたって本当ですか?」 [歴史]

知恵袋「古代日本が中国(唐)に支配されていたって本当ですか?」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1276166072

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用開始
ベストアンサーに選ばれた回答
junjun2011_yさん 編集あり2011/11/2521:06:51

「古代日本が中国(唐)に支配されていた」 過去の話ではありません。今もそうです。
西暦663年11月18日(旧暦10月10日)、都出雲(当時はヤマトと呼ばれていました)が、唐王朝によって占領・征服されました。その詳細は、資治通鑑に残されています。その時に今で言う大国主命をはじめ数多くの人々が惨殺されました。その祟りを恐れ、今をもって出雲ではその弔いが行われています。それが、毎年、旧暦の10月10日の夜7時出雲大社の西500メートルにある稲佐の浜における神迎えの神事に始まる「神在祭」です。
当時の皇太子的存在であった柿本人麻呂は、出雲大社の地にあった巨大神殿の上で、その目前で焼き討ちに遭う都の姿を、歌に残しています。「東の 野にかぎろひ(炎)の 立つ見えて 返り見すれば 月傾きぬ」(1-48)
西暦660年、唐王朝第3代皇帝李治の皇后武則天は、当時の道教の理念に基づき、皇帝を天皇に皇后を天后に改称しました。しかし、武則天の失脚後にはまた元に戻されています。ですから、中国皇帝制度にあって天皇を名乗ったのは、李治ただ一人です。そして、同年、武則天は、朝鮮半島やこの日本の制圧の詔を発します。その指令に従って、武則天の手下劉仁軌は、663年秋、白村江の戦いで「日本軍」を殲滅すると直ちにこの列島も占領・征服しました。彼らは、唐(藤)を源(原)にするという意味で藤原氏を構成し、その後も日本の人々を植民地支配下に置き続けました。武則天の手下が直接支配したので、その手下は武氏、つまり武士です。
武則「天」の幼名・本名は、武「照」と言います。つまり、「天照」です。そして、武則天は自らが即位すると、聖神皇帝を名乗ります。つまり、聖なる「神」であるところの「武」則天で、「神武」です。すなわち、天皇の祖先が、天照だとか神武だとされているのは、我が国の天皇をシンボルとして崇拝する支配勢力のルーツは、天皇の命名者である「武則天」にあることを伝え残していたのです。ですから、その天照を祀る伊勢神宮の神紋は花菱、別名を「唐花」と呼ばれています。また、出雲国造家の神紋は、「剣花菱」、つまり、唐に剣でもって制圧されたことを伝えています。
その唐王朝も907年、朱全忠らによって滅ぼされ命からがらこの列島に流れ着きます。その時に奪われないようにと持ち込んだのが、東大寺正倉院に保管されている膨大な宝物です。その横にある聖護蔵には、隋・唐代の経巻が5000巻も残されています。そして、彼らは、再び大陸の支配者として舞い戻ることを、その最大の存在意義としています。つまり、秀吉の朝鮮出兵も、明治維新以降の大陸侵略も、その動機は「唐王朝再興」にありました。そんな時代錯誤も甚だしい思惑は、世界の民主主義によって敗北に追い込まれました。
ところが、彼らは、決して諦めてなどいません。再び、大陸を目指そうと着々と準備を進めているのが今です。憲法に反して自衛隊なる軍隊が再配備されたのも、戦後66年にもなるのに未だに米軍基地が居座っているのも、沖縄普天間基地を辺野古に移して強力な基地にしようとしているのも、憲法を執拗に改定しようとしているのも、君が代を強制しようとしているのも、すべては、我が国の支配勢力の秘められたる本性とその思惑「大陸制覇・唐王朝再興」に起因するものです。
我が国の現職総理は、憲法の政教分離という厳格な規定にも反し、毎年、年始に伊勢神宮に参拝します。庶民の初詣だとするのなら、別に他の神社でもその限りにおいては問題ないはずです。ところが、伊勢神宮に限定されているというのは、その祭神にこそ意味があります。我が国の最高権力者である総理大臣は、国民でもなく、憲法でもなく、天皇でもなく、天照であるところの武則天に跪き、必ずや「唐王朝を再興します」と忠誠を誓っているかのようです。
この秘められた支配構造にこそ、我が国の庶民がことごとく生活苦に陥れられている根源があったのです。しかし、庶民は、1300年にわたって彼らの捏造した記紀認識で騙され続けているので、我が国の支配勢力の本性が見えなくされてしまっています。

http://kodaishi-21.web.infoseek.co.jp/to-m.html


kasika0さん 2011/11/2519:18:59
作家、故・八切止夫氏の架空歴史小説です。
1960年代末期から80年代に、多くの作品を出版しています。
八切史観という言葉がありますが、別段、歴史ではありません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ここまで




「倭国は唐に支配されたということはないでしょうか(白村江から大宝元年まで)」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11166015936
(年号を追加)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用開始

ID非公開さん2016/10/2511:31:36
倭国は唐に支配されたということはないでしょうか(白村江から大宝元年まで)。

状況証拠として、
1、筑紫都督府が書紀に記載されている。
2、白村江で敗戦している(663年)。
3、百済貴族が倭国に大量に逃げ込み、唐はそれを問題にしている(禰軍墓誌)
4、倭国酋長が封禅の儀に参加させられている(旧唐書)。
5、大化・白雉元号のあと大宝まで元号が途絶えている(天武晩年の一年だけ例外)。
6、大宝元年(701年)くらいに国号を日本に変えた。
7、天智(661年即位)以降急速に律令化が進んだ。この間遣唐使がない(送史船を除く)にもかかわらず。
があげられます。

一つ一つには反論があるでしょうけれど、支配されたと考えれば、状況証拠はうなずけるものばかりです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ここまで

八切止夫はすごいな。
そこまで気づいていたんだ。


「天皇の和風諡号?」
http://kusunoki-456.blog.so-net.ne.jp/2017-08-20

こちらで書いたように、
「神武」とか「天武」とかの漢字2、3文字の天皇の名前は「漢風」諡号という。
「漢風」諡号がつけられる前の「和風」諡号は、神武天皇の場合、「神日本磐余彦天皇(かむやまといはれびこのすめらみこと)」です。

20171106-1.JPG
中学歴史地図・年表 東京法令出版 昭和五十五年発行

https://okurina.jimdo.com/神武天皇から昭和天皇まで/
漢風諡号は、初代神武天皇から第44代元正天皇(弘文天皇・文武天皇は除く)までは、弘文天皇の曾孫・淡海三船(おおみのみふね 722〜785)が勅令により、一括して選定されたといわれています。

45代が聖武天皇(724-749)。
このころには支配は完了していたということか。


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八幡書店について [歴史]

古史・古伝などを多く出版している八幡書店。
興味をそそられる本を多く扱っている。
書籍の紹介ページは要点が押さえられわかりやすい。

現在は書籍以外にもグッズや、ブレインマシンKASINAなるもの、神道、霊符・神折符、霊術・霊能開発、仙道・道教、タロット&オラクル、古史古伝と異史、東洋医学・民間療法・代替医療、武道・武術、修験道・陰陽道・民間信仰関連書などを扱っておられる。

創業者のwikipediaを読んで、妻が出口王仁三郎の孫である出口和明の娘と知って驚いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/武田崇元
武田 崇元(たけだ すうげん 1950年 - )は日本の出版事業家、神道霊学研究家、超常現象研究家[1]。本名は武田洋一。武田益尚、武内裕、有賀龍太などの筆名を持つ。
1980年代のオカルト・ブームの火付け役である。学研発行のオカルト雑誌『ムー』には、南山宏と共に1979年の創刊時からの顧問として非常に強い影響力を持ち、現代日本のオカルト業界を築いた。また80年代前半日本オカルト精神世界関係者では「オカルト精神世界の実力者」として畏怖されていた[要出典]。
『竹内文書』『東日流外三郡誌』など超古代史文献の刊行者でも知られる。

来歴
兵庫県生まれ(京都府という説もある)。灘高等学校卒業。東京大学法学部在学中は共産主義者同盟(ブント)に所属して学生運動に携わるも挫折。社会変革に失敗した経験から、人間の内面の精神世界に関心を向けるようになった。卒業後は東京海上火災に入社するも、間もなく退社。
絃映社に入り、1976年から伝説的オカルト雑誌『地球ロマン』誌の編集長(~1977年、武田洋一名義。伊藤裕夫と共同編集)。ユニバース出版にて武田益尚名義で『UFOと宇宙』(後のトワイライトゾーン)編集長を務めた後、白馬書房に移り、1979年から『迷宮』誌編集長(武田洋一名義)。
1981年、国学者大石凝真素美の全集を刊行。その全集刊行会を母体として、オカルト専門の出版社である有限会社八幡書店を創業し、代表取締役となる。同時に武田崇元と名を改め、ファシストを宣言、新右翼活動家と連携する。90年代前後老舗出版社今日の話題社を吸収。現在は再び反体制時代に回帰しているが、過激な側面はほとんど消えている。
妻は出口王仁三郎の孫である出口和明の娘。
と学会の原田実は武田崇元の下で働いた事がある。
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仕組まれているような、試されているような [歴史]

酒井勝軍、竹内文書・天津教、大本教などについて調べていると、
どれも第2次世界大戦前に起こっている。
特に1935、36年頃の濃さはどうだろう。


https://ja.wikipedia.org/wiki/酒井勝軍
1918年(大正7年)シベリア出兵、『シオン賢者の議定書』と反ユダヤ主義の存在を知る。
1923年(大正12年)帰国。
1924年(大正13年)酒井は『猶太人の世界征略運動』、『猶太民族の大陰謀[3]』、『世界の正体と猶太人』を相次いで発表『進んで米国を敵とすべし』刊行。
1927年(昭和2年)安江と酒井はパレスチナやエジプトに大日本帝国陸軍からユダヤ研究のために派遣『神州天子国』出版。
1928年(昭和3年)、『橄欖山上疑問の錦旗』出版。
1929年(昭和4年)3月10日、酒井は竹内巨麿の所有する竹内文書(前年公開)を拝観した。9月11日酒井は竹内巨麿を訪ね古代イスラエルのオニックスを求め「発見」し[4]同年『参千年間日本に秘蔵せられたるモーセの裏十戒』(国教宣明団出版)を出版した。11月3日、11月21日にも皇祖皇太神宮訪問。
1930年(昭和5年)『神代秘史百話[5]』出版。
1931年(昭和6年)、『天皇礼賛のシオン運動』出版。
1932年(昭和7年)に日猶協会設立。
1934年(昭和9年)4月24日、酒井は広島県庄原市を調査し葦嶽山をピラミッドであると断定した。(鳥谷幡山が1934年(昭和9年)10月、青森県戸来村(現新郷村)において、ピラミッド大石神を「発見」する。1935年(昭和10年)8月初、同ピラミッドを訪問した、竹内巨麿は塚を発見したとし後にキリストの墓とした。[6])同年、『太古日本のピラミッド[7]』(国教宣明団)出版。
1935年(昭和10年)『神代秘史』出版。
1936年(昭和11年)神秘之日本社を創る。10月1日雑誌『神秘之日本』をだす。同年『神字考』出版。他に『ピラミッドの正體』などの本を出版する。その主張する内容は日本の天皇は世界に君臨すべきこと、神政復古の実現を目指すべきであること、超古代の日本に優れた文明が存在したことなどであった。それにも関わらず、酒井の出版物はしばしば特別高等警察に押収され、彼も拘束されている。しかし数々の弾圧にも屈することなく、酒井は「竹内文書」の世界を主張し続けた。
1937年(昭和12年)、『天孫民族と神撰民族[8]』出版
1938年(昭和13年)、岩手県釜石市西の五葉山裾野の甲子村明神台で調査、5月22日、付近の川原で「ヒヒイロカネ」を発見したという。
1939年(昭和14年)10月15日、地元10人と岩手県五葉山の調査。
1940年(昭和15年)7月6日に酒井は死亡した。墓は多磨霊園にある。



https://ja.wikipedia.org/wiki/竹内文書
天津教弾圧事件[編集]
第一次天津教弾圧事件
1930年(昭和5年)12月7日~19日、『東京日日新聞』に批判記事。警視庁が詐欺罪容疑で竹内巨磨、前田常蔵、高畠康寿を取り調べする。不起訴。
1932年(昭和7年)、内務省特高警察が竹内巨磨を拘引、不敬の言動により同年6月、神宝拝観禁止、神社の鳥居を撤去。
第二次天津教弾圧事件
1935年(昭和10年)12月28日、神宝が秦真次の手により東京市・靖国神社の遊就館の松田常太館長に託された。
1936年(昭和11年)2月13日朝、茨城県多賀郡磯原町にて竹内巨麿(1937年7月7日まで水戸警察で拘留)と磯原館という旅館の吉田兼吉が不敬罪、文書偽造行使罪、詐欺罪容疑で逮捕された。同年、4月17日検察書類送致、同月30日、竹内巨麿、神宝を水戸地方裁判所に移す旨の受託書を書く。[7]
1937年(昭和12年)12月11日、逮捕者15名中竹内巨麿のみが不敬罪で起訴される。
1942年(昭和17年)3月16日、一審不敬罪有罪判決。上告。上告代理人弁護士は田多井四郎治、宮本正美、特別弁護人鵜澤總明(後の極東国際軍事裁判の日本弁護団長)
1944年(昭和19年)12月12日、大審院(現最高裁判所)無罪判決、結審。判決では、「この問題は裁判所の権限を超えた宗教問題である」、あるいは「単なる証拠不十分である」として無罪が宣告される[3]。 解散指定
1950年(昭和25年)1月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)から天津教は解散指定される[8]。


https://ja.wikipedia.org/wiki/大本事件
1921年(大正10年)2月、当局は大本に不敬罪と新聞紙法違反を適用し、王仁三郎含め三名を起訴した(第一次大本事件)[1]。
1932年(昭和7年)11月、大本は再び「皇道大本」と復名し第一次大本事件で頓挫した「大正維新」を「昭和維新」として実行しようとしていた[56]。
1934年(昭和9年)7月22日に昭和神聖会を結成する[57]。昭和神聖会の政策請願に署名した人数は800万人にのぼる[59]。
1935年(昭和10年)の時点で、大本は支部1990、信者100万 - 300万人(特高警察資料、大本教40万・人類愛善会25万人)、3割は大学卒業者という高学歴で、政治家・軍人を含む確固たる宗教勢力に成長している[61]。
1935年(昭和10年)12月、当局は治安維持法を適用して王仁三郎夫妻以下1000名近くを検挙(起訴61名)[1]。
当局は裁判前の時点で教団施設の全破壊を急いだ[96]。
1936年2月25日、邪教撲滅の意思を確認する[97]。
3月13日、林頼三郎司法大臣は不敬罪と治安維持法の嫌疑で起訴決定、潮恵之輔内務大臣は大本解散命令を決定した[98]。
全国の教団施設・建物・碑石類の撤去が決定する[100]。
破壊は5月11日から開始され、 亀岡の聖地をダイナマイトで跡形も無く破壊[106]。


真珠湾攻撃は1941年(昭和16年)12月8日である。


悪がどうしようもないほどはびこり、また大きな義の心が芽生えることも、想定されている気がする。
試されているんじゃないかと思う。
見えない世界のことは検証できないけれども。


ヨハネの黙示録 22:11
不正を行うものには、なお不正を行わせ、汚れたものはなお汚れるままにしておけ。正しいものには、なお正しいことを行わせ、聖なるものは、なお聖なるものとならせよ。
見よ、わたしはすぐに来る。わたしは報いを携えてきて、それぞれの行いに応じて報いる。
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びっくりな標識「直進 キリストの墓、左折 ピラミッド」 [歴史]

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「直進 キリストの墓
左折 ピラミッド」

これが日本の標識なのだから、驚く。

画像はこちらのまとめから
【ガチ】日本の神秘のピラミッドたち
https://matome.naver.jp/odai/2147157050124091001


酒井勝軍を調べてみてびっくりする。
https://ja.wikipedia.org/wiki/酒井勝軍
酒井 勝軍(さかい かつとき/かついさ、1874年3月15日 - 1940年7月6日)は独自のキリスト教伝道者、日ユ同祖論者、オカルティスト、「日本のピラミッド」発見者である。

キリスト教徒になる、音楽研究を目的として渡米、サンフランシスコで新聞記者をした、東京唱歌学校を設立、渋谷の夜空に幻影をみる、シベリア出兵に通訳として従軍し、白軍将校を接待して『シオン賢者の議定書』と反ユダヤ主義の存在を知る

1924年(大正13年)酒井は『猶太人の世界征略運動』、『猶太民族の大陰謀[3]』、『世界の正体と猶太人』を相次いで発表し、日本に反ユダヤ主義の存在を紹介する。しかし、酒井の主張は単純な反ユダヤ主義的主張ではなく、ロシアやナチス・ドイツのユダヤ人虐殺に口実を与えた史上最悪の偽書『シオン賢者の議定書』も、酒井にかかっては、ユダヤ人とマソン(フリーメーソン)の暗躍が最終的には「神選の君主」たる皇室の栄光につながるという証拠文書となり、シオニズムも日本回帰運動として解釈されてしまう。酒井の主張は次第に反ユダヤ的なものから、親ユダヤ的なものに変わっていく。彼のこの思想の変遷や行為は満州経営にユダヤ資本の導入を目指し、同時にアメリカとの関係強化を画策する安江仙弘の河豚計画に影響を与えたと考えられる。安江と酒井はシベリア出兵からの友人であり、酒井にシオン賢者の議定書を出版させたのも安江だと言われている。『進んで米国を敵とすべし』刊行。

安江と酒井はパレスチナやエジプトに大日本帝国陸軍からユダヤ研究のために派遣された。それ以来、安江は親ユダヤ主義傾向を強めている。(酒井はエジプトではピラミッドも研究したと言われる)安江も大日本帝国陸軍特務機関に勤めながら、日ユ同祖論の書籍を出版している。安江の行為は、河豚計画を最終目的とする行為と思われるが、酒井の行為も側面から安江の計画を支援したとも考えられる。『神州天子国』出版。

1929年(昭和4年)3月10日、酒井は高畠康次郎、長谷川栄作、中山忠也、中山忠直、鳥谷幡山らとともに磯原町の天津教総本山の皇祖皇太神宮に竹内巨麿の所有する竹内文書(前年公開)を拝観した。9月11日酒井は入来重彦、星野房次郎、伊藤善彌、前田準らとともに竹内巨麿を訪ね古代イスラエルのオニックスを求め「発見」し[4]同年『参千年間日本に秘蔵せられたるモーセの裏十戒』(国教宣明団出版)を出版した。11月3日、11月21日にも皇祖皇太神宮訪問。

1936年(昭和11年)神秘之日本社を創る。10月1日雑誌『神秘之日本』をだす。同年『神字考』出版。他に『ピラミッドの正體』などの本を出版する。その主張する内容は日本の天皇は世界に君臨すべきこと、神政復古の実現を目指すべきであること、超古代の日本に優れた文明が存在したことなどであった。それにも関わらず、酒井の出版物はしばしば特別高等警察に押収され、彼も拘束されている。しかし数々の弾圧にも屈することなく、酒井は「竹内文書」の世界を主張し続けた。
1937年(昭和12年)、『天孫民族と神撰民族[8]』出版において酒井は明確にシオニズム支持の立場を表明する。

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どういうことだろう。
世界を征服しようとするユダヤ人。
反ユダヤ的なものから、親ユダヤ的なものに
「ユダヤ人とマソン(フリーメーソン)の暗躍が最終的には「神選の君主」たる皇室の栄光につながる」
わけがわからなくなってきた。

しかし日本にピラミッドがあることは確かで、それは公式の歴史の中ではなく、地方史とオカルトの範囲にとどめ置かれている。


https://ja.wikipedia.org/wiki/皇祖皇太神宮天津教
皇祖皇太神宮天津教本庁(皇祖皇太神宮)(茨城県北茨城市磯原町磯原835[1])
竹内巨麿が祖父より譲り受けた、世界の歴史や、太古の天皇家を記した古文献(いわゆる竹内文書)や、真正な神器とされる神宝の正当な認知や、皇祖皇太神宮の国家による日本国の再興を求め、1900年に茨城県において御嶽教天都教会を開く。
終戦後、1946年、宗教法人令により宗教法人大日教に改め、1949年天津巨と再改名するが、1950年に今度は超国家主義的思想を有する団体としてGHQから解散を命じられる。

天津教弾圧事件が二度もあったりと、まるで大本教のよう。

いろいろ読んでいると、公式の歴史ではエジプトや、チグリス・ユーフラテスあたりの文明がインドや中国を経て日本にたどり着いたとなっているが、ほんとにそうなのかという意見がある。

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フリーメイソン、ピラミッド

なんなんだろうな


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黒又山は日本のピラミッド [歴史]

朝日新聞の「UFO伝説をたどって」
10回目では秋田県鹿角の黒又山が日本のピラミッドという説があるということが紹介されている。
昔あるグループが地下レーダー調査をした時、ふもとから山頂にかけて階段状になっており、頂上の下に空洞があることがわかっている。
黒又山の近くには不思議な形状をした大湯環状列石(ストーンサークル)がある。

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長野県の皆神山もピラミッド説がある。

また滋賀県の三上山もそうである。
「みなかみやま」と「みかみやま」響きも似ている。
三上山は名神高速を走っていると見えて、綺麗な三角の山に見える。
近江富士と呼ばれている。

近くに赤神山というのもあるようだ。
地図を見ると竜王町がとなりにある。竜王山もある。

(10月20日追記)
20171020-4.jpg
エジプトのツタンカーメンの像が頭に蛇をつけている。
20171020-6.jpg
アメンホテプ4世もそう。
20171020-5.jpg
アクエンアテンにはないが、蛇がついていたと推測。

だからピラミッドと、その地域の支配者と蛇(龍、竜)は関係があると思うのです。
支配者が蛇(龍)のイメージがあるのは、爬虫類人的宇宙人であるからであろうと。

日本珍スポット100景
http://bqspot.com/kansai/shiga/10018
この三上山を人工のものだと主張しているのは昭和初期に超古代史ブームを巻き起こした酒井勝軍(さかいかつとき1874〜 1940)です。出た! オカルト好きならご存知であろうこの名前。酒井は広島の葦嶽山、富山の尖山、青森の黒又山など日本各地の山を人工ピラミッドであると述べています。青森の大石神ピラミッドもその一つ。
ただ私は竹内文書にしても、酒井勝軍にしても文字を見ただけで心ときめくのです。古代ユダヤ民族と日本の超古代史とのつながりなんてロマンチシズムにあふれていてワクワクします。さすがに「日本こそがピラミッド(比彌廣殿)の発祥地だ」とまで言い切ってしまう酒井には、おいおいちょっと待てと言いたくはなりますが。
酒井の言うピラミッドの条件とは
1:山が三角形をしている
2:太陽石や環状列石(ストーンサークル)を持つ
3:ピラミッドの麓に拝殿がある

「精神世界の鉄人」 エッセイ集
http://www.tomaatlas.com/lib677.htm
はやし浩司さんの説によると、この滋賀県の「三上山」は、間違いなく、人工のピラミッドだそうです。 さらに、卑弥呼に縁のあると言われている、奈良県の「箸墓古墳」、そして、宮崎県の「西都原古墳群」や福岡県の「沖ノ島」などは、位置的に綺麗な幾何学的なラインで、結ばれるそうです。 ちなみに、この沖ノ島という島は、卑弥呼の財宝が、8万点も、発掘された場所だそうです。 三上山は、他にも、「魏志倭人伝」の中に出てくる、魏の首都だった洛陽の「龍門」という場所とも、意味のあるラインで、結ばれるそうです。 さらに、この龍門にある石仏と三上山の石仏が、似ていることから、両方の土地は、卑弥呼が、関わっていたという説が、有力だそうです。 着いたのは、夕方で、少し薄暗くなっていたのですが、近くにある、「御神神社」というところに、参拝に行きました。 漢字は違いますが、どちらも、「みかみ」という名前ですね。

滋賀県野洲の銅鐸博物館
http://inoues.net/museum/yasudoutaku.html
明治14年(1881)滋賀県野洲町大岩山に遊びに来ていた14歳と16歳の少年が大中小3個の銅鐸を発見した。翌日、その話を聞いて駆けつけた大人達によりさらに11個が見つかり、計14個の銅鐸が発見される。この銅鐸の中には総長 134.7cmという、我が国で最大長の「袈裟襷紋銅鐸」が含まれていた。銅鐸は直ちに滋賀県令から博物局長に届けられ、東京帝室博物館(現東京国立博物館)で詳細に調査された。 その後地元の強い要望もあり、2個を東京に残して後は全て地元へ返還されたが全てが散逸し、現在地元には1個も現存していない。 この博物館の銅鐸もレプリカである。2個は東京国立博物館にあり、訪問すればいつでも現物を実見できる。残り12個の内10個については、梅原末治、佐原真氏らの研究により 所在が判明している。しかし国内外の美術館、大学、寺院、個人等に散在しており、一般人が気楽に見学できるのは上野の国立博物館のみである。

大岩山銅鐸と滋賀県出土銅鐸・小銅鐸
http://www.city.yasu.lg.jp/kosodate/bunka/bunka/1454413360291.html
ここで出土した銅鐸は、東京国立博物館、天理大学附属参考館、辰馬考古資料館、ケルン市立東アジア美術館、知恩院、國學院大學、サンフランシスコ・アジア美術館、MOA美術館、ミネアポリス美術研究所、個人などに散逸しているよう。

日本最大の銅鐸の出土地だそう。
銅鐸の模様はなんだろう。
鶴と亀、餅つき?

滋賀って意外にいろいろあるよう。


また大湯環状列石(ストーンサークル)で調べてみると、
大湯環状列石は万座遺跡、野中堂遺跡というストーンサークルの総称。
しかし、石の大きさは小さい。
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たとえ話ーパール判事の日本無罪論 [歴史]

ある町に、日本さん、中国さん、イギリスさん、フランスさん、アメリカさん、インドさんたちの一家が住んでいました。

イギリスさんと、フランスさん、オランダさん、アメリカさん一家は無法者で、インドさんち、ビルマさんち、ベトナムさんち、インドネシアさんち、ハワイさんちなどを武力で自分たちのものにしていました。

その無法さに怒った日本さんは、戦って解放するんだといいながら、自分たちでのっとってしまいました。
自分たちがこれらの家をよくしてあげるといいながら、リフォームしたり、台所を直したり、屋根を直したりまではよかったですが、日本さんの土地にしようとしたことが反感を買いました。

アメリカさんはじっと見ていましたが、あるとき、日本さんちの水道(ガソリン)がでないようにしてしまいました。
水道がなければ死ぬしかありません。

日本さんはアメリカさんちがすでに自分のものにしていたハワイさんちに攻撃に行き、並んでいたアメリカさんの古い車を壊しました。
しかえしされ、日本さんちの一室が焼かれ、おばあちゃんはひどいやけどをおいました。

いろいろ戦いがあって、自治会で日本さんは裁判にかけられることになりました。
しかし裁判員のインドさんは言ったのです。
「イギリスさんと、フランスさん、オランダさん、アメリカさんちも同じことしてたよね。どうして日本さんだけが悪者になるの?」
「そもそもあんたたちそれを裁く権利なんてあるの?」と。
しかし多数決で、日本さんは負けてしまいました。

どれだけ日本さんはひどい一家かということが自治会報に書かれ、全戸に配布されました。
また地区のケーブルテレビでも日本さん一家がどんなにひどいかを放送されました。
イギリスさんちは自治会長で、ケーブルテレビの社長でもありました。
そして日本さんちの子供は自治会報やケーブルテレビの方を信じてしまいました。
日本さんちのおじいちゃんが、そうじゃないんだといっても、子供達は自治会報の方を信じています。
おばあちゃんがやけどしたのは、日本さんちのお父さんが悪いんだと思わされています。
アメリカさん、イギリスさんと、フランスさん、オランダさんは自分たちは正しいんだという顔をしています。


「ひど過ぎるハワイ併合の歴史【民主主義の侵略】」
https://matome.naver.jp/odai/2141341391352546701
>>アメリカ合衆国の移民を受け入れてしまった
>>アメリカ移民による暴動
>>ハワイの米国人による武力による奪い取り
>>ハワイ人・アジア人には選挙権を与えない
>>戦艦ボストンによる女王幽閉
>>女王は捕らえられ、拘束したハワイ人の命と天秤にかけて王位を放棄するよう要求されたリリウオカラニ女王は、市民の命を優先し、退位してしまいます。
>>1月17日、ドールはハワイ臨時政府を打ち立て、王政廃止を宣言。
>>多くの先住ハワイ人が虐殺され、リリウオカラニ女王は捕らえられた約200人のハワイ人の命と引き換えに王位請求を断念、ハワイ王国は崩壊した。
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たとえ話ーアヘン戦争 [歴史]

たとえ話でアヘン戦争を説明してみると、
中国さんと、イギリスさんの一家がありました。

イギリスさんは中国さんからたくさんお茶を買っていましたが、中国さん一家の土地は広くなんでもとれ、イギリスさんから買うものはなにもありません。
イギリスさんちからどんどん、銀貨がでていくばかり。

イギリスさんは、インドさんちを自分のものにしてしまっており、インドさんちでつくることのできるドラッグを中国さんちに買ってもらおうとしました。

そこでイギリスさんちは中国さんちの子供三人にドラッグを教え、ドラッグ漬けにしてしまいました。
中国さんちの子供はドラッグがやめられなくなり、お金はどんどんでていきます。
お父さんが怒ってもやめることができないのです。

このままでは中国さんちの子供はだめになり、中国さん一家はつぶれてしまいます。
そこで中国さんちのおとうさんは、玄関先に積んであった、ドラッグ2万箱を使えない様に処分してしまいました。
イギリスさんちは怒り、バットを持ってなぐりこみにきました。
凶暴な相手に中国さんは、イギリスさんにしたがうほかなくなり、中国さんは、2万箱のドラッグの代金を支払い、イギリスさんとはつきあいを持ちたくなかったのに、つきあわされることになり、しかも離れ(香港島)をイギリスさんちにのっとられてしまいましたとさ。

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美化されすぎた明治維新 [歴史]

こういう内容をもしも私が書いたとすると、陰謀論めいた語り口になってしまい、ある種の人々を遠ざけてしまうが、山本正樹氏の語り口は理性的で、わかりやすく、説得力がある。


地方からの情報発信 山本正樹
「美化されすぎた明治維新」~明治維新以後150年の歴史が大きな節目を迎えている~
http://www.yamamotomasaki.com/archives/2063
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 一部転載開始
戦後の国民作家である司馬遼太郎氏が創り上げた<明治維新の夢>から目を覚ます時を日本人は迎えている。(もっとも十代、二十代、小生もその夢を事実だと思っていたのだが、)元スタンフォード大学の西 悦夫氏が「誰も知らない明治維新の真実」という講演で明治維新の真実を暴露したり、原田伊織氏の「明治維新の過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~」という本が出版され、結構売れているのもおそらく、そんな時代の大きな変化の現れである。

そう言えば小栗上野介忠順の甥である蜷川 新氏の「維新正観」という名著も本年、再刊されたようである。知ろうと思えば、本当の事を知ることのできる環境が整ってきたということであろう。まだ、一方でNHK大河ドラマ「花燃ゆ」のような明治維新勝利者側の官製プロパガンダドラマも相変わらず放映されているが、間違いなく日本の長い歴史から考えても現在、日本は大きな節目を迎えていると考えていいだろう。

大英帝国を基盤とする国際銀行家のお金が日本に影響を与え始めるのは、幕末からである。伊藤博文や坂本龍馬も、ロスチャイルド一族とつながっていた人物であることを絶対に私たちは忘れてはならない。このことは「一外交官の見た明治維新」(アーネスト・サトウ)等の本を行間まで読むとはっきりと浮かび上がってくる。

周知のことだが、明治維新を成し遂げたのは、薩摩藩や長州藩、それに土佐藩など地方の下級武士であったとされている。代表的な人物には、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)などがいる。ほかにも、テレビドラマに再三登場する坂本龍馬などがいる。彼らの背後にいたのが、ロスチャイルド一族の使用人であるイギリス人の、トーマス・グラバーという武器商人であった。実はこの人物こそが、明治維新のキーマンである。グラバーは、イギリスのロスチャイルド一族の貿易会社マセソン商会の社員として中国の上海に来た後、日本の長崎にやって来た。そこでマセソン商会の日本支社であるグラバー商会を立ち上げ、幕末の混乱を利用して薩摩藩や土佐藩などの倒幕側に武器や弾薬、その資金まで提供している。そして坂本竜馬もグラバーから約7000丁のライフルを売ってもらい、それを薩摩藩名義で長州藩へ横流しすることで、薩長同盟を成功させたのである。つまり龍馬も、幕府を倒したいグラバーの計画通りに動かされていたということである。

 このようにイギリス人の存在も含めて明治維新を見直すと、明治維新がロスチャイルド一族とその配下のイギリス人たちが、日本の下級武士たちに起こさせたテロ、クーデター(倒幕)であった性格を持つことがはっきりと見えてくるのである。

このようにして、イギリス勢は下級武士と協力し、明治維新と呼ばれる数々の構造改革を行ない、日本の近代を間接的にコントロールしていくことになる。その事が戦争ばかりをする日本近代史に繋がっていることをそろそろ私たち日本人は、気が付くべきなのである。

私たちが知っている明治維新は、官軍の創作にすぎない

歴史というものは勝者が作り上げるものであり、そこには多かれ少なかれ嘘や捏造が紛れ込んでいるという考え方がある。しかもその多くが、薩長政権による創作であるとしたらどうだろう。NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」が描くような吉田松陰や門下生による幕末・明治維新は、本当に存在したのだろうか。松陰や門下生の活躍を描いた司馬遼太郎「世に棲む日々」を読むと、吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作たちがやったことは、現在でいうならテロである。異国船での密航、英国公使の暗殺未遂、英国公使官の焼き討ち、幕府老中の暗殺計画などは間違いなくテロである。司馬遼太郎は、それらを「革命」という言葉で誤魔化しているが、果たしてそれは正しい歴史認識なのだろうか?

官軍教育が教える明治維新とは

原田氏はまず、薩長政権が作り上げた「明治維新」とは何かを提示する。長く鎖国が続き、封建体制のまま停滞していた日本を、欧米の列強による植民地化から防ぎ、大いなる近代化をもたらした革命。その立役者が薩長土肥の下級武士を中心とした「志士」たちだった。長州の桂小五郎、吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、山県有朋、伊藤博文、井上馨、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、土佐の坂本龍馬、板垣退助、後藤象二郎、肥前の大隈重信、江藤新平などである。彼らは幕府や佐幕派の勢力の弾圧に屈せず、「戊辰戦争」に勝利して、討幕を成し遂げ、日本はようやく近代化への道を進み、今日の繁栄があるのだ。それが、著者が教えられた「官軍の歴史」である。しかも学校での教育だけではなく、エンターティンメントの分野でも「新撰組など悪の勢力と戦い、勤皇の志士を助ける正義の味方、鞍馬天狗」などの作品が偽りの「明治維新」を国民に刷り込んでいったのだ。「竜馬がゆく」を書いた司馬遼太郎にも、その責任の一端はあるという。著者は、この「官軍による明治維新」をほぼすべて否定している。そして勝者ではない側の視点から幕末史をもう一度見つめ直そうとしている。



テロリスト集団、長州藩



原田氏がまず注目するのは、薩長土肥の勤皇の志士の人物像である。彼らは、今でいうなら「暗殺者集団」、つまりテロリストであると著者はいう。我が国の初代総理大臣は「暗殺者集団」の構成員だったのである。また維新の精神的支柱と言われた吉田松陰が、事あるごとに、どれだけ暗殺を主張したか…。著者は、本書で多くのページを費やして、長州、そして薩摩のテロリストぶりを紹介している。高杉晋作による英国公使の暗殺未遂や英国公館の焼き討ち、久坂玄瑞らによる京での残虐なテロの数々。そして天皇の拉致、御所への砲撃も辞さなかった長州のクーデター計画。幕府を挑発するために、江戸において火付け、強盗、強姦、殺人など暴力の限りをつくした薩摩の赤報隊。「大政奉還」や「王政復古」をめぐる薩長勢力と幕府や佐幕派の熾烈な暗闘。そこで薩長が仕組んだ、天をも恐れぬ策略の数々…。そして著者は、テロリストたちの元凶とも言える吉田松陰の実像に迫っていく。



吉田松陰像の嘘



長州の志士たちの中でも、最も嘘で固められているのが、吉田松陰であると著者はいう。松陰は、乱暴者が多い長州人の中でも、特に過激な若者に過ぎず、いわば地方都市の悪ガキであると著者は決めつけている。松陰が開いたとされる松下村塾は、実は松陰の叔父の玉木文之進が開いたものであった。松陰が神格化されるのは、維新後しばらく経ってから、自らの出自を権威づけたかった山県有朋の手によってである。松陰の思想というのも稚拙なもので、北海道の開拓、北方の占拠、琉球の日本領化、朝鮮の属国化、満州、台湾、フィリッピンの領有などを主張している。奇妙なことに、長州閥が支配する帝国陸軍を中心とした勢力は、松陰が主張した通りにアジアを侵略し、そのあげく日本を敗戦に導いていくのだ。

「維新正観─秘められた日本史・明治篇」蜷川 新著については、批評社の紹介文をそのまま紹介する。幕府側から見た明治維新を知る事のできる貴重な本である。以下。

「維新」の名は美しく世人には響くけれども、事実は極めて醜悪に満ちている。われわれが国定教科書で教えられたことの大部分は、偽瞞の歴史である。その真実の究明から、新日本の「民主」を推進したい。(「序文」より)



尊皇攘夷の旗の下、幕府の開国政策に無謀な異議を唱え、孝明天皇の毒殺をはじめとする奸策と狡知によって、倒幕・権力詐取に成功したのが、薩長の奸賊集団であった。幕末維新史の実相を、史実に即して、大胆にしてかつ独自の視点から「正観」した明治維新論。類まれなる名著の翻刻版である。

安政7年3月3日(1860年3月24日)、桜田門外で大老井伊直弼が水戸徳川家の家臣によって斬殺され、慶応2年7月20日(1866年)、大阪城内で第14代将軍家茂が毒殺されたが(同年8月20日まで伏せられた)、著者の父親、蜷川左衛門尉親賢は当時小姓組頭で将軍家茂に近侍していたため極秘事をよく知っていたのである。

さらに宮中においては岩倉具視が妹を女官として宮中に潜り込ませ、孝明天皇の毒殺を試みたが、一度目は失敗し、二度目に孝明天皇を毒殺したが、岩倉の妹女官は薩摩に連れて行かれ斬殺されたという。

一般に、孝明天皇は1866年12月25日に天然痘で亡くなったことにされているが、一度目の毒殺は失敗に帰し、12月11日頃から症状が出始めていたが、17日から便通もあり、食欲も回復し、熱も順調に下がり始めていた。二度目の毒殺で、21日から膿が出始め、23日には膿の吹き出しも収まって、全快に向かっていた。病状が急変したのは、25日。激しい下痢と嘔吐、最後には体中の穴等穴から出血という激しい死に様だったという。

「風評では(孝明天皇)崩御の原因は天然痘といわれたけれども、幾年かのちに、私は裏面の消息に精通する日本人から、帝は毒殺されたのだと教えられた」(遠山茂樹著『明治維新』211頁)。当時の武士には武士道の矜恃がまだ残っていたが、薩長の反幕集団には、武士ではなく郷士という武士階級(士分)の下層に属した人々が多く、「尊皇」の志もないまま、損得利害だけで天皇毒殺という大それた犯罪もそれほどの抵抗なく行われた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー転載ここまで
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