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黒又山は日本のピラミッド [歴史]

朝日新聞の「UFO伝説をたどって」
10回目では秋田県鹿角の黒又山が日本のピラミッドという説があるということが紹介されている。
昔あるグループが地下レーダー調査をした時、ふもとから山頂にかけて階段状になっており、頂上の下に空洞があることがわかっている。
黒又山の近くには不思議な形状をした大湯環状列石(ストーンサークル)がある。

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長野県の皆神山もピラミッド説がある。

また滋賀県の三上山もそうである。
「みなかみやま」と「みかみやま」響きも似ている。
三上山は名神高速を走っていると見えて、綺麗な三角の山に見える。
近江富士と呼ばれている。

近くに赤神山というのもあるようだ。
地図を見ると竜王町がとなりにある。竜王山もある。

(10月20日追記)
20171020-4.jpg
エジプトのツタンカーメンの像が頭に蛇をつけている。
20171020-6.jpg
アメンホテプ4世もそう。
20171020-5.jpg
アクエンアテンにはないが、蛇がついていたと推測。

だからピラミッドと、その地域の支配者と蛇(龍、竜)は関係があると思うのです。
支配者が蛇(龍)のイメージがあるのは、爬虫類人的宇宙人であるからであろうと。

日本珍スポット100景
http://bqspot.com/kansai/shiga/10018
この三上山を人工のものだと主張しているのは昭和初期に超古代史ブームを巻き起こした酒井勝軍(さかいかつとき1874〜 1940)です。出た! オカルト好きならご存知であろうこの名前。酒井は広島の葦嶽山、富山の尖山、青森の黒又山など日本各地の山を人工ピラミッドであると述べています。青森の大石神ピラミッドもその一つ。
ただ私は竹内文書にしても、酒井勝軍にしても文字を見ただけで心ときめくのです。古代ユダヤ民族と日本の超古代史とのつながりなんてロマンチシズムにあふれていてワクワクします。さすがに「日本こそがピラミッド(比彌廣殿)の発祥地だ」とまで言い切ってしまう酒井には、おいおいちょっと待てと言いたくはなりますが。
酒井の言うピラミッドの条件とは
1:山が三角形をしている
2:太陽石や環状列石(ストーンサークル)を持つ
3:ピラミッドの麓に拝殿がある

「精神世界の鉄人」 エッセイ集
http://www.tomaatlas.com/lib677.htm
はやし浩司さんの説によると、この滋賀県の「三上山」は、間違いなく、人工のピラミッドだそうです。 さらに、卑弥呼に縁のあると言われている、奈良県の「箸墓古墳」、そして、宮崎県の「西都原古墳群」や福岡県の「沖ノ島」などは、位置的に綺麗な幾何学的なラインで、結ばれるそうです。 ちなみに、この沖ノ島という島は、卑弥呼の財宝が、8万点も、発掘された場所だそうです。 三上山は、他にも、「魏志倭人伝」の中に出てくる、魏の首都だった洛陽の「龍門」という場所とも、意味のあるラインで、結ばれるそうです。 さらに、この龍門にある石仏と三上山の石仏が、似ていることから、両方の土地は、卑弥呼が、関わっていたという説が、有力だそうです。 着いたのは、夕方で、少し薄暗くなっていたのですが、近くにある、「御神神社」というところに、参拝に行きました。 漢字は違いますが、どちらも、「みかみ」という名前ですね。

滋賀県野洲の銅鐸博物館
http://inoues.net/museum/yasudoutaku.html
明治14年(1881)滋賀県野洲町大岩山に遊びに来ていた14歳と16歳の少年が大中小3個の銅鐸を発見した。翌日、その話を聞いて駆けつけた大人達によりさらに11個が見つかり、計14個の銅鐸が発見される。この銅鐸の中には総長 134.7cmという、我が国で最大長の「袈裟襷紋銅鐸」が含まれていた。銅鐸は直ちに滋賀県令から博物局長に届けられ、東京帝室博物館(現東京国立博物館)で詳細に調査された。 その後地元の強い要望もあり、2個を東京に残して後は全て地元へ返還されたが全てが散逸し、現在地元には1個も現存していない。 この博物館の銅鐸もレプリカである。2個は東京国立博物館にあり、訪問すればいつでも現物を実見できる。残り12個の内10個については、梅原末治、佐原真氏らの研究により 所在が判明している。しかし国内外の美術館、大学、寺院、個人等に散在しており、一般人が気楽に見学できるのは上野の国立博物館のみである。

大岩山銅鐸と滋賀県出土銅鐸・小銅鐸
http://www.city.yasu.lg.jp/kosodate/bunka/bunka/1454413360291.html
ここで出土した銅鐸は、東京国立博物館、天理大学附属参考館、辰馬考古資料館、ケルン市立東アジア美術館、知恩院、國學院大學、サンフランシスコ・アジア美術館、MOA美術館、ミネアポリス美術研究所、個人などに散逸しているよう。

日本最大の銅鐸の出土地だそう。
銅鐸の模様はなんだろう。
鶴と亀、餅つき?

滋賀って意外にいろいろあるよう。


また大湯環状列石(ストーンサークル)で調べてみると、
大湯環状列石は万座遺跡、野中堂遺跡というストーンサークルの総称。
しかし、石の大きさは小さい。
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たとえ話ーパール判事の日本無罪論 [歴史]

ある町に、日本さん、中国さん、イギリスさん、フランスさん、アメリカさん、インドさんたちの一家が住んでいました。

イギリスさんと、フランスさん、オランダさん、アメリカさん一家は無法者で、インドさんち、ビルマさんち、ベトナムさんち、インドネシアさんち、ハワイさんちなどを武力で自分たちのものにしていました。

その無法さに怒った日本さんは、戦って解放するんだといいながら、自分たちでのっとってしまいました。
自分たちがこれらの家をよくしてあげるといいながら、リフォームしたり、台所を直したり、屋根を直したりまではよかったですが、日本さんの土地にしようとしたことが反感を買いました。

アメリカさんはじっと見ていましたが、あるとき、日本さんちの水道(ガソリン)がでないようにしてしまいました。
水道がなければ死ぬしかありません。

日本さんはアメリカさんちがすでに自分のものにしていたハワイさんちに攻撃に行き、並んでいたアメリカさんの古い車を壊しました。
しかえしされ、日本さんちの一室が焼かれ、おばあちゃんはひどいやけどをおいました。

いろいろ戦いがあって、自治会で日本さんは裁判にかけられることになりました。
しかし裁判員のインドさんは言ったのです。
「イギリスさんと、フランスさん、オランダさん、アメリカさんちも同じことしてたよね。どうして日本さんだけが悪者になるの?」
「そもそもあんたたちそれを裁く権利なんてあるの?」と。
しかし多数決で、日本さんは負けてしまいました。

どれだけ日本さんはひどい一家かということが自治会報に書かれ、全戸に配布されました。
また地区のケーブルテレビでも日本さん一家がどんなにひどいかを放送されました。
イギリスさんちは自治会長で、ケーブルテレビの社長でもありました。
そして日本さんちの子供は自治会報やケーブルテレビの方を信じてしまいました。
日本さんちのおじいちゃんが、そうじゃないんだといっても、子供達は自治会報の方を信じています。
おばあちゃんがやけどしたのは、日本さんちのお父さんが悪いんだと思わされています。
アメリカさん、イギリスさんと、フランスさん、オランダさんは自分たちは正しいんだという顔をしています。


「ひど過ぎるハワイ併合の歴史【民主主義の侵略】」
https://matome.naver.jp/odai/2141341391352546701
>>アメリカ合衆国の移民を受け入れてしまった
>>アメリカ移民による暴動
>>ハワイの米国人による武力による奪い取り
>>ハワイ人・アジア人には選挙権を与えない
>>戦艦ボストンによる女王幽閉
>>女王は捕らえられ、拘束したハワイ人の命と天秤にかけて王位を放棄するよう要求されたリリウオカラニ女王は、市民の命を優先し、退位してしまいます。
>>1月17日、ドールはハワイ臨時政府を打ち立て、王政廃止を宣言。
>>多くの先住ハワイ人が虐殺され、リリウオカラニ女王は捕らえられた約200人のハワイ人の命と引き換えに王位請求を断念、ハワイ王国は崩壊した。
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たとえ話ーアヘン戦争 [歴史]

たとえ話でアヘン戦争を説明してみると、
中国さんと、イギリスさんの一家がありました。

イギリスさんは中国さんからたくさんお茶を買っていましたが、中国さん一家の土地は広くなんでもとれ、イギリスさんから買うものはなにもありません。
イギリスさんちからどんどん、銀貨がでていくばかり。

イギリスさんは、インドさんちを自分のものにしてしまっており、インドさんちでつくることのできるドラッグを中国さんちに買ってもらおうとしました。

そこでイギリスさんちは中国さんちの子供三人にドラッグを教え、ドラッグ漬けにしてしまいました。
中国さんちの子供はドラッグがやめられなくなり、お金はどんどんでていきます。
お父さんが怒ってもやめることができないのです。

このままでは中国さんちの子供はだめになり、中国さん一家はつぶれてしまいます。
そこで中国さんちのおとうさんは、玄関先に積んであった、ドラッグ2万箱を使えない様に処分してしまいました。
イギリスさんちは怒り、バットを持ってなぐりこみにきました。
凶暴な相手に中国さんは、イギリスさんにしたがうほかなくなり、中国さんは、2万箱のドラッグの代金を支払い、イギリスさんとはつきあいを持ちたくなかったのに、つきあわされることになり、しかも離れ(香港島)をイギリスさんちにのっとられてしまいましたとさ。

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美化されすぎた明治維新 [歴史]

こういう内容をもしも私が書いたとすると、陰謀論めいた語り口になってしまい、ある種の人々を遠ざけてしまうが、山本正樹氏の語り口は理性的で、わかりやすく、説得力がある。


地方からの情報発信 山本正樹
「美化されすぎた明治維新」~明治維新以後150年の歴史が大きな節目を迎えている~
http://www.yamamotomasaki.com/archives/2063
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 一部転載開始
戦後の国民作家である司馬遼太郎氏が創り上げた<明治維新の夢>から目を覚ます時を日本人は迎えている。(もっとも十代、二十代、小生もその夢を事実だと思っていたのだが、)元スタンフォード大学の西 悦夫氏が「誰も知らない明治維新の真実」という講演で明治維新の真実を暴露したり、原田伊織氏の「明治維新の過ち~日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト~」という本が出版され、結構売れているのもおそらく、そんな時代の大きな変化の現れである。

そう言えば小栗上野介忠順の甥である蜷川 新氏の「維新正観」という名著も本年、再刊されたようである。知ろうと思えば、本当の事を知ることのできる環境が整ってきたということであろう。まだ、一方でNHK大河ドラマ「花燃ゆ」のような明治維新勝利者側の官製プロパガンダドラマも相変わらず放映されているが、間違いなく日本の長い歴史から考えても現在、日本は大きな節目を迎えていると考えていいだろう。

大英帝国を基盤とする国際銀行家のお金が日本に影響を与え始めるのは、幕末からである。伊藤博文や坂本龍馬も、ロスチャイルド一族とつながっていた人物であることを絶対に私たちは忘れてはならない。このことは「一外交官の見た明治維新」(アーネスト・サトウ)等の本を行間まで読むとはっきりと浮かび上がってくる。

周知のことだが、明治維新を成し遂げたのは、薩摩藩や長州藩、それに土佐藩など地方の下級武士であったとされている。代表的な人物には、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允(桂小五郎)などがいる。ほかにも、テレビドラマに再三登場する坂本龍馬などがいる。彼らの背後にいたのが、ロスチャイルド一族の使用人であるイギリス人の、トーマス・グラバーという武器商人であった。実はこの人物こそが、明治維新のキーマンである。グラバーは、イギリスのロスチャイルド一族の貿易会社マセソン商会の社員として中国の上海に来た後、日本の長崎にやって来た。そこでマセソン商会の日本支社であるグラバー商会を立ち上げ、幕末の混乱を利用して薩摩藩や土佐藩などの倒幕側に武器や弾薬、その資金まで提供している。そして坂本竜馬もグラバーから約7000丁のライフルを売ってもらい、それを薩摩藩名義で長州藩へ横流しすることで、薩長同盟を成功させたのである。つまり龍馬も、幕府を倒したいグラバーの計画通りに動かされていたということである。

 このようにイギリス人の存在も含めて明治維新を見直すと、明治維新がロスチャイルド一族とその配下のイギリス人たちが、日本の下級武士たちに起こさせたテロ、クーデター(倒幕)であった性格を持つことがはっきりと見えてくるのである。

このようにして、イギリス勢は下級武士と協力し、明治維新と呼ばれる数々の構造改革を行ない、日本の近代を間接的にコントロールしていくことになる。その事が戦争ばかりをする日本近代史に繋がっていることをそろそろ私たち日本人は、気が付くべきなのである。

私たちが知っている明治維新は、官軍の創作にすぎない

歴史というものは勝者が作り上げるものであり、そこには多かれ少なかれ嘘や捏造が紛れ込んでいるという考え方がある。しかもその多くが、薩長政権による創作であるとしたらどうだろう。NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」が描くような吉田松陰や門下生による幕末・明治維新は、本当に存在したのだろうか。松陰や門下生の活躍を描いた司馬遼太郎「世に棲む日々」を読むと、吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作たちがやったことは、現在でいうならテロである。異国船での密航、英国公使の暗殺未遂、英国公使官の焼き討ち、幕府老中の暗殺計画などは間違いなくテロである。司馬遼太郎は、それらを「革命」という言葉で誤魔化しているが、果たしてそれは正しい歴史認識なのだろうか?

官軍教育が教える明治維新とは

原田氏はまず、薩長政権が作り上げた「明治維新」とは何かを提示する。長く鎖国が続き、封建体制のまま停滞していた日本を、欧米の列強による植民地化から防ぎ、大いなる近代化をもたらした革命。その立役者が薩長土肥の下級武士を中心とした「志士」たちだった。長州の桂小五郎、吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、山県有朋、伊藤博文、井上馨、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、土佐の坂本龍馬、板垣退助、後藤象二郎、肥前の大隈重信、江藤新平などである。彼らは幕府や佐幕派の勢力の弾圧に屈せず、「戊辰戦争」に勝利して、討幕を成し遂げ、日本はようやく近代化への道を進み、今日の繁栄があるのだ。それが、著者が教えられた「官軍の歴史」である。しかも学校での教育だけではなく、エンターティンメントの分野でも「新撰組など悪の勢力と戦い、勤皇の志士を助ける正義の味方、鞍馬天狗」などの作品が偽りの「明治維新」を国民に刷り込んでいったのだ。「竜馬がゆく」を書いた司馬遼太郎にも、その責任の一端はあるという。著者は、この「官軍による明治維新」をほぼすべて否定している。そして勝者ではない側の視点から幕末史をもう一度見つめ直そうとしている。



テロリスト集団、長州藩



原田氏がまず注目するのは、薩長土肥の勤皇の志士の人物像である。彼らは、今でいうなら「暗殺者集団」、つまりテロリストであると著者はいう。我が国の初代総理大臣は「暗殺者集団」の構成員だったのである。また維新の精神的支柱と言われた吉田松陰が、事あるごとに、どれだけ暗殺を主張したか…。著者は、本書で多くのページを費やして、長州、そして薩摩のテロリストぶりを紹介している。高杉晋作による英国公使の暗殺未遂や英国公館の焼き討ち、久坂玄瑞らによる京での残虐なテロの数々。そして天皇の拉致、御所への砲撃も辞さなかった長州のクーデター計画。幕府を挑発するために、江戸において火付け、強盗、強姦、殺人など暴力の限りをつくした薩摩の赤報隊。「大政奉還」や「王政復古」をめぐる薩長勢力と幕府や佐幕派の熾烈な暗闘。そこで薩長が仕組んだ、天をも恐れぬ策略の数々…。そして著者は、テロリストたちの元凶とも言える吉田松陰の実像に迫っていく。



吉田松陰像の嘘



長州の志士たちの中でも、最も嘘で固められているのが、吉田松陰であると著者はいう。松陰は、乱暴者が多い長州人の中でも、特に過激な若者に過ぎず、いわば地方都市の悪ガキであると著者は決めつけている。松陰が開いたとされる松下村塾は、実は松陰の叔父の玉木文之進が開いたものであった。松陰が神格化されるのは、維新後しばらく経ってから、自らの出自を権威づけたかった山県有朋の手によってである。松陰の思想というのも稚拙なもので、北海道の開拓、北方の占拠、琉球の日本領化、朝鮮の属国化、満州、台湾、フィリッピンの領有などを主張している。奇妙なことに、長州閥が支配する帝国陸軍を中心とした勢力は、松陰が主張した通りにアジアを侵略し、そのあげく日本を敗戦に導いていくのだ。

「維新正観─秘められた日本史・明治篇」蜷川 新著については、批評社の紹介文をそのまま紹介する。幕府側から見た明治維新を知る事のできる貴重な本である。以下。

「維新」の名は美しく世人には響くけれども、事実は極めて醜悪に満ちている。われわれが国定教科書で教えられたことの大部分は、偽瞞の歴史である。その真実の究明から、新日本の「民主」を推進したい。(「序文」より)



尊皇攘夷の旗の下、幕府の開国政策に無謀な異議を唱え、孝明天皇の毒殺をはじめとする奸策と狡知によって、倒幕・権力詐取に成功したのが、薩長の奸賊集団であった。幕末維新史の実相を、史実に即して、大胆にしてかつ独自の視点から「正観」した明治維新論。類まれなる名著の翻刻版である。

安政7年3月3日(1860年3月24日)、桜田門外で大老井伊直弼が水戸徳川家の家臣によって斬殺され、慶応2年7月20日(1866年)、大阪城内で第14代将軍家茂が毒殺されたが(同年8月20日まで伏せられた)、著者の父親、蜷川左衛門尉親賢は当時小姓組頭で将軍家茂に近侍していたため極秘事をよく知っていたのである。

さらに宮中においては岩倉具視が妹を女官として宮中に潜り込ませ、孝明天皇の毒殺を試みたが、一度目は失敗し、二度目に孝明天皇を毒殺したが、岩倉の妹女官は薩摩に連れて行かれ斬殺されたという。

一般に、孝明天皇は1866年12月25日に天然痘で亡くなったことにされているが、一度目の毒殺は失敗に帰し、12月11日頃から症状が出始めていたが、17日から便通もあり、食欲も回復し、熱も順調に下がり始めていた。二度目の毒殺で、21日から膿が出始め、23日には膿の吹き出しも収まって、全快に向かっていた。病状が急変したのは、25日。激しい下痢と嘔吐、最後には体中の穴等穴から出血という激しい死に様だったという。

「風評では(孝明天皇)崩御の原因は天然痘といわれたけれども、幾年かのちに、私は裏面の消息に精通する日本人から、帝は毒殺されたのだと教えられた」(遠山茂樹著『明治維新』211頁)。当時の武士には武士道の矜恃がまだ残っていたが、薩長の反幕集団には、武士ではなく郷士という武士階級(士分)の下層に属した人々が多く、「尊皇」の志もないまま、損得利害だけで天皇毒殺という大それた犯罪もそれほどの抵抗なく行われた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー転載ここまで
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古代朝鮮語と日本語は同じである [歴史]

日本語と韓国語は同系語
「朝鮮語に由来する地名 (1)」
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-f724.html
〇 『大日本地名辞書』の第一巻の「地名総説」に、「古代朝鮮語と日本 語は同じである」と書かれていると「金達寿」は述べている。

○ 「鈴木孝夫(慶応大 言語文化研究所教授)」は、数ヶ国語を学習し、 五十代にしてハングルの学習をはじめたが、「日朝語はうり二つ、 朝鮮語は日本語の魔法の鏡である」と述べている。

『大日本地名辞書』で検索してみると
「朝鮮半島と日本のつながり」に関する参考レポート
http://mayonokuni.web.fc2.com/kankoku.pdf
新井白石が言ってるように、上代のことは漢字にとらわれてはならない。音が 大事なんです。朝鮮も新羅時代にできた「リト」がありまして、これは朝鮮語を書き表すために漢字を借りて 用いていたものです。・・・万葉仮名が朝鮮のリトに当たるものです。万葉仮名は表音文字です。

三品彰英氏がはっきり書いているように、「古事記」「日本書紀」をちゃんと読むためには古代朝鮮語を 知らないとだめです。はっきり言いますと、古代朝鮮語で書かれたものです。しかもよくみて見ると、佐久克 明氏なども書いていますように、「古事記」は新羅系の渡来人によって書かれ、「日本書紀」は百済系の渡来人 によって書かれたものです。

二月十一日がどういう日かご存知ですね。今は建国の日と言いますが、昔の紀元節です。つまり上代の二月十 一日には、宮中で韓神の祭りが行われた。そればかり神楽というものがあります。宮中神楽です。宮中神楽で ない神楽は里神楽と言います。宮中の神楽はどういう神事かといいますと、韓神を招く神事です。

三社の祭神がどうして朝鮮渡来の神様なのか。「東京都の歴史散歩」という文庫本を見るとよくわ かります。・・・・・日本書紀には685年から760年の間に六回、渡来してきた百済、新羅、高句麗の僧俗男 女多数を武蔵野国に置く記事がある。とくに716年には高麗郡、また758年には新羅郡が新設される。・・・」

「千七百九十九人の高麗人をもって高麗郡を置く」ということが、「続日本紀」にはっきり出ています。

関東だけでもたいへ ん濃厚に遺跡を残していまして、大和や関東の遺跡をみるだけでも、高句麗系、新羅系、百済系がまんべんな くあり、九州に行くともっと濃厚です。 ただ、非常に薄いのが北海道です。東北まではまんべんなく、先ほど八、九割までが渡来人だと言いましたが、 これは日本全国どこでも当てはまります。

伊勢神宮は金沢庄三郎氏がはっきり書いているように、伊勢とか宇佐のイ、ウというのは接頭語です。 勢はソです。伊勢に行くと韓神山というのがあって、そこに韓神神社があります。今は小さい祠になっていま すが、伊勢神宮はそこから始まるのです。 その韓神山は禰宜を祭った山です。禰宜というのは朝鮮語のネク、魂という意味です。そういうことで韓神山 が伊勢にあるというのは、面白いでしょう。

もう一つ言語ですが、日本で一番権威がある地名辞典は富山房から出ている吉田東伍博士の「大日本地名辞書」 だと思いますが・・・
去年になってやっと総論を開いてみると、「地名原義論」というのですが、こうあります。「上古には、日本語 と韓国は、同語同言の人民たり、各自にその法俗を異にしたるにせよ、語言の根源においては、理論上まった く同一に帰せられる。この際の異動の論は、もっぱら転訛の程度いかんというにあらん。すなわち転訛の差異 が、両国の差異を示すにすぎざりけん。もしそれ、両国ともに古言を保守して、転訛なき名詞のあるあらば、 古今同名というを得ん。されば、本邦古言の考証は、多く韓語によりて資益せらる」と、つまり古代は同じ言 葉だったというのです。
ぼくはこれ以前から疑問に思ったのは、天智朝(近江朝)に数千人の人々が百済からくるでしょう。百済が滅 びてから、高官がたくさん入ってきて、文部大臣兼国立大総長みたいなものになる。国務大臣にもなる。それ らが、一体どういう言葉をしゃべったかということです。通訳付きの大臣というのは、どう考えてもおかしい。 その時代まではほとんどは同じ言葉ではなかったかと思います。なぜならばドイツで最近、労働者の語(?) を調査した論文が発表されましたが、なんと 5、6 百語です。そうすると古代は百もあれば用が足りた。

http://mayonokuni.web.fc2.com/top.html

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半島の人と日本とは同じ言語を使っていた。
たくさんの人が半島からやってきて住み着いた。
そして彼らが支配者となったということですかね。
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天智天皇は百済王子、天武天皇は高句麗の将 [歴史]

「すり替えられた天皇 「長屋王の変」と聖武帝の謎」小林惠子(やすこ) 文藝春秋 2000年

情報がもりだくさんで、理解はしきれていないのですが、興味深い研究なので紹介します。

著者 小林惠子(やすこ)は1936年生まれ、1958年岡山大学法文学部文学科東洋史専攻卒業。
現在80歳ぐらいですね。

あとがきを一部紹介すると、
それまでの奈良時代の知識は「続日本記」一辺倒になっている。長屋王家の木簡の発掘など考古学的な発見が驚異的に増えているが、「続日本記」批判とその検討はなされていない。
それは政治史においては現代の天皇家に連なると考えられているせいか、新しい学説で定説となったのは皆無である。
天皇の皇位継承の推移についても、無批判に「続日本記」の記載を受け入れて日本史を成立させている。
本書の結論が普通の知識を持つ人にとって、たとえ驚天動地のものであるにしても、歴史時代のはじまりといえる弥生時代から奈良時代までおよそ一千年、連続した列島の歴史の自然の成り行きの結果、自然にそうなったのであり、私が無理な創作をしたわけではない。私に言わせれば万世一系に固執した「日本書紀」や奈良時代、唐国の日本への政治介入を極力隠蔽し、独立日本国の尊厳を守ろうとした啓蒙書としての「続日本記」の方がよほど、意図的に創作している。しかし、その意図的な創作には限界があり、あちらこちらに破綻をみせている。その破綻こそ、私のとって史実を知る手がかりになるのである。
私の史観は日本を単独ではなく、東アジアの一国として位置付け、それが万世一系を建前とする天皇の血統にも関係してくることもあって、日本国内の専門家には無視されている。


著者は「続日本記」など日本の文献だけでは、解明できないとして、中国など東アジアの文献を調べている。
小林史観の一部を紹介すると、こういうことになる。
20170919-1.JPG
天智天皇は、百済王子であり、翹岐(ぎょうき)
天武天皇は、高句麗の将であり、蓋蘇文
文武天皇は、新羅の文武王であり、高句麗 莫離支 高文簡となるらしい。

日本は独立国ではなく、第二次世界大戦よりも前ずっと昔に、朝鮮半島や、中国の一部と一体であったときが、あるのではないだろうか。

こういう人は大好きである。こういう可能性もありかもしれないと考えてみると、面白いと思う。


こちらではくそみそに書かれている。
民俗学伝承ひろいあげ辞典
「特集・小林惠子徹底分析 」
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55971059.html

なんでもかんでも朝鮮渡来と考えてしまう、この異形の東洋史研究家をシリーズでぶったぎる。
(中略)
日本語の起源がどうしても古朝鮮語にあったと言いたいのは、この人と李寧煕(い・ねいひ)。 かつてこの二人が同一人物ではないかと筆者はぶったぎったほど、相似形の朝鮮愛好者。 ところがその後の分析から、日本語の基層は膠着言語であること(安本)。 それがオーストロネシア言語であること(Kawakatu)。 さらに古朝鮮時代の和歌集などが残っておらず証明不可能なこと(井沢)。 さらにはさらには、上代特殊仮名遣いつまり万葉仮名が漢氏ら書記官による一過的な朝鮮語発音の流入であり、やがて本来の縄文発音である膠着語の五十音に戻ったこと(Kawakatu)などが次々と登場し、小林・李説は失笑を伴う噴飯説とされていく。 いわゆる小説家に近い、左翼的主観的史観に後押しされる朝鮮一元論主義者。 視野が狭く、偏っていて、独善的なのでしろうと歴史ファンが多い。 歴史ファンタジー作家。 読後は右より作家のものを読み、脳みそをシャッフルしておかねばならないから要注意。 何より、日本の尊厳に重きを置く人々は読まないほうがいいかもしれない。 中庸の美徳を知る一般的日本人は、根っころがってお茶請けにするには充分面白い。

こちらでは天才と評価されている。
とし日記
「小林惠子 日本古代史シリーズ」
http://toshihak.blog.so-net.ne.jp/2011-12-25
大学教授をやっているようなエライ先生方が出している本はことごとく淘汰され、古典として100年後も確実に残っているのはこちらの方だと思う。
満州からの引揚げ者である著者は、日本の学校で習う「日本史」に違和感を覚え、大陸からの視点で母国の歴史を正しく理解したいという思いから、大学では古代東アジア史を専攻。
朝鮮半島の影響をきわめて強く反映した高松塚古墳が発見されたときに自身の問題意識の正しさを確信し、古代史研究家としての人生が始まったという。
いかに学界から無視されようと、天才であることは疑いようもなく、このシリーズが国家や政治というものに対する啓蒙書として新世代の読者に影響を与え、100年後には小林惠子氏が正しく評価される時代になっていることをおいらは確信している。

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東大の教授はたぶん万世一系に反するような研究結果は公表しないであろう。
それをすれば東大教授ではいられない。

エジプトのファラオの墓にはるばる早稲田の吉村教授が行って発掘調査が行われても、日本の天皇陵は発掘調査が行われない。
エジプトより先に、日本でしょと思うけど、発掘調査すると、現在の天皇家および皇族、宮内庁などなどにとって不都合なことが明らかになる可能性が高いのではないか。
だから日本の天皇陵は発掘調査が行われないのだと推測します。
そう考えると、この小林史観もありかなと思うのです。

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真珠湾攻撃作戦を立案・実行した指揮官 源田実がアメリカから勲章を貰う不思議 [歴史]

velvetmorningさんのブログより
「太平洋戦争の原因である真珠湾攻撃作戦を立案し、実行した指揮官 源田実が、アメリカから勲章貰い、東京大空襲や原爆投下を指揮したカーチス・ルメイに勲一等旭日大綬章を与えるように進言」
― 2017/08/13 20:55
http://velvetmorning.asablo.jp/blog/2017/08/13/8646072
源田実は、太平洋戦争が始るきっかけとなった『真珠湾=パールハーバー』の攻撃作戦を立案し、実行した指揮官でした。

しかも、アメリカから勲章を授与された2年後、今度は、一般市民を数十万人単位で無差別に殺害した東京大空襲や広島・長崎の原爆投下を指揮した犯罪者カーチス・ルメイに勲一等旭日大綬章を与えるように進言しています。そして勲章は授与されました。この進言に同調したのが小泉純一郎の父親である小泉純也だったのは既報のとおり。

カーチス・ルメイは、朝鮮戦争でも原住民を無差別殺戮していますし、キューバ紛争でも偽旗作戦による空爆を支持、さらにベトナム戦争でも無差別絨毯爆撃を行っている人類史上まれに見る重大犯罪者=殺人鬼です。

そんなカーチス・ルメイに対して国家勲章を授与せよと進言したのが、日本軍によるパールハーバーの攻撃を立案・実行した源田実だったのです。

源田実は、第一次攻撃を成功させたものの、第二次攻撃を行わず、結果的にハワイの燃料施設が手つかずのまま残され、それによって米軍の太平洋艦隊は、米国本国まで撤退することを避けられたというのです。


さらに、ミッドウェー海戦では、敵機を攻撃せず、致命的な失態で日本海軍の主力部隊を全滅させています。

その一方で、軍艦よりも航空機の時代だと進言し、テニアン島に2年がかりで飛行場を作らせます。

そのテニアン島が、米軍の手に落ち、その日本軍が2年がかりで作った飛行場からB29が飛び立ち、東京大空襲や広島・長崎への原爆投下(ホロコースト)が行われるわけです。

しかも、源田実は、特攻隊による敵への自爆攻撃を進めています。(死んだ大西中将に責任を全てかぶせ、自身は涼しい顔)

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なぜ真珠湾攻撃作戦を立案し、実行した指揮官 源田実がアメリカから勲章をもらえるのか。
wikiをみると、1962年にレジオン・オブ・メリット勲章(勲功章)叙勲とあります。
コマンダーの等級です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/源田実
レジオン・オブ・メリット [1](Legion of Merit)はアメリカ合衆国五軍の将兵に授与される勲章。日本語では、勲功章[2]、功績軍団章[3]、殊勲章[4]、レジヨン・オブ・メリット勲章[5]、レジオン・オブ・メリット章[6]などの様々な表記がある。
戦功章の一つで、敵との戦闘において功績を挙げた軍人に対して授与される。レジオヌール、オフィサー、コマンダー、チーフコマンダーの4つの等級に分かれており、うち上位の3等級は外国高官にのみ授与される。

https://en.wikipedia.org/wiki/Minoru_Genda
Awards US Legion of Merit degree of Commander (1962)

アメリカの参戦の口実となる真珠湾攻撃作戦を立案・実行し、神風特攻隊を立案し、ミッドウェー海戦で日本海軍の主力部隊を全滅させ、テニアン島の飛行場を建設し、原爆を乗せて飛び立つことになったという。
そりゃもうアメリカから勲章もらえるはずだわと。

そしてコメント欄を見ると、
源田実の出身地は日本 広島県 山県郡加計町 。
いやでも加計学園を連想してしまいます。
どういうつながりなのかわかりませんが。

「加計町史. 資料編 3」
http://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000007905670.html
タイトルがこちらで見られます。
加計家は鉄山を持っていたのですね。
明治九年(一八七六) 二六 加計家(隅屋)鉄山を政府へ貸与につき定約書

明治一四年(一八八一)
四六 穴村を安名村に村名復古願 一一二

昭和二〇年(一九四五)
二八九 満州太田開拓団員の勧誘 五八一
二九六 終戦直後の強制連行中国人への対応 五九〇

平成九年(一九九七)
四三八 米軍機低空飛行訓練即時中止を求める意見書 一〇六九
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ソ連兵によるレイプ [歴史]

「ソ連兵の「性接待」を命じられた乙女たちの、70年後の告白
満州・黒川開拓団「乙女の碑」は訴える 」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52608?page=1

満州には村でまとまっていくつか開拓団としていったと聞いています。
人には言えないつらい思いをされていたんだなと思いました。

第二次世界大戦で、ソ連が参戦してきたとき、満州でたくさんの日本人女性がソ連兵にレイプされていたんだということは、五木寛之さんも書かれていましたが、私も子供の頃に祖母から聞かされていました。

祖母は日本から出たことはなかったですが、「満州に行った人はそれはもう苦労した」「女の人はソ連兵に襲われた」ということをよく話していました。
そして「岸壁の母」をよく歌っていました。
https://www.youtube.com/watch?v=Ti4IPKnp4Io
コメント欄にも祖母や祖父がよく歌っていたと書かれています。

京都府の舞鶴港に、朝鮮半島からの引き上げの船が到着するのですが、そこで兵隊に行った子供の帰りを何年も待つ母の歌です。

中学校の先生も、授業の時、親御さんの話なのか、匍匐前進訓練をやらされ、肘の皮がむけてしまい今でも跡が残っているとか、シベリアが寒くて、たくさんのひとがうんちをするとくずれずに寒さで塔のようになっていくんだとか、立ちションをすると凍って柱になるという話をしてくれました。
こんな話はよく覚えています。
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越国に天皇はいた? [歴史]

百済大井宮をつくった敏達天皇について調べていたら、ひっかかるところを発見。

敏達天皇(日本書紀)
https://nihonsinwa.com/page/1727.html
高麗の使者は欽明天皇即位31年に船で越国に流れ着いたとされる使者です。越国の道君は「自分が天皇なんだよね」と嘘をついていて、一悶着。結局、本物の天皇が用意した近江の相楽の館に滞在させていました。 ところが欽明天皇が即位32年4月に死亡。この事情を知らないでいた「高麗の使者」を敏達天皇はかわいそうに、と思ったようです。

高麗の使者に対して、国の道君が「自分が天皇なんだよね」と嘘をついたとありますが、もしかして本物の天皇は越国(福井、石川、富山あたり)にいた方だったりして、なんて思いました。
欽明天皇即位31年は、569年になります。
欽明天皇は第29代天皇。

20170828-2.JPG
角川日本史辞典の歴史年表を見ると
継体天皇は、「継体(応神5世孫)がからむかえられ、河内の樟葉宮に即位」(507年)とあるのですよね。
継体天皇は第26代天皇。

20170828-3.JPG
天皇の系譜を見ると、越からむかえられたとされる継体天皇は、応神天皇の5世となっていますが、その血縁関係ははっきりしません。
出自をごまかしている可能性がありそうです。
そして天皇の血筋は、越にいることがその時点では広く知られていたと考えられます。

https://nihonsinwa.com
このサイトは、古事記や日本書紀の口語訳を無料で公開してくださっています。
古事記や日本書紀にそんなことが書かれているんだと知り、大変におもしろいです。
少しづつみていきたいです。
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百済宮なんてのがあった [歴史]

ちょっと歴史のあれこれを調べるのに、必要だと感じて
「新版 角川 日本史辞典」1996年を購入しました。
これは付録が充実していて面白いのです。

ぱらぱらと眺めていたら、古代都宮表に、百済宮、百済大井宮なるものがあることを知りました。(P.1198)
20170828-1.JPG

平城京、平安京、長岡京、藤原京、難波宮ぐらいしか聞いたことがなかったのですが、全部で41宮もあるのですね。

天皇は、半島との縁があさからぬらしいと、歴史の裏を学び始めてから知りましたが、百済宮とはずばりそうなのですね。
百済人がたくさん住んでいたところだから、百済と名付けたとしても、純日本人なら百済村に宮を作りはしないだろうと思います。

このような宮があったことはメジャーなところではさっぱり伝えられないので、気づかないままでした。

百済大井宮は第30代敏達天皇、即位年は西暦572年
百済宮は第34代舒明天皇、即位年は西暦629年

角川日本史辞典(1996)によると推定所在地は
百済大井宮は河内国錦部郡
百済宮は大和国広瀬郡
となっています。

http://ryobo.fromnara.com/palace/p030-1.htmlによると
奈良県桜井市橋本51−16の吉備池廃寺が百済宮の有力候補らしい。
案内板には
「東西230メートル、南北280メートル以上の広大な寺域をもつ古代寺院。吉備池の南側で行われた発掘調査で大規模な金堂や塔の基壇が確認されたほか、回廊や僧坊、付属施設と考えられる建物群が見つかっています。これにより東に金堂、西に塔を配し、それらを回廊で取り囲む法隆寺式伽藍配置をとることが明らかになりました。このような大規模な伽藍から天皇の発願による最初の寺院であり、舒明十一年(639)に建立が始まった「百済大寺」の跡であると考えられています。」と書かれています。

かつて百済宮の候補地だったのが、
奈良県北葛城郡広陵町百済1168の百済寺だそうです。
地名が百済なのですね。

ほんとはどうなのか
歴史はミステリーですね。

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