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中国の鎖国とキリスト教 [歴史]

中国の歴史のこともあまりしらないので、集英社版 学習漫画「中国の歴史 清帝国とアヘン戦争」をざっと読んでみました。

日本の江戸幕府が鎖国政策をとっていたころ、清朝はきびしい規則を作って貿易港を制限しながらも、外国船の来航をある程度認めていたのですね。
貿易を広州だけに限っていたということは、長崎だけに限ってた日本と同じ鎖国状態。
そしてイギリスのマカートニーが1793年、中国英国間の公平な貿易を主張したけれど、清のルールにしたがうことを求めたと。
「広州の港を開いているのはおまえたちに我が国の産物をめぐんでいるだけ。我が国はすべてのものを持っている。貿易などしなくてもよいのだ。」と、イギリスの要求はすべて拒否した。

1765年に刊行された趙学敏の編集した「本草綱目拾遺」にはすでに「アヘン喫煙の風習が広がっている」と書かれている。

林則徐の意見書には、現状分析として
「イギリスでは茶を飲む習慣が流行し、大量の茶を必要としている。」
「そこで中国から茶を輸入するが貿易の代金は銀で支払う決まり」
「しかし中国はイギリスからなにも買う必要がないので、イギリスの銀は出て行くばかり」
「そこでイギリスは植民地のインドで取れるアヘンを中国に持ち込んでアヘンの代金として銀を回収し始めた」
「こうして中国にはたくさんのアヘン患者がのこされた」

アヘンの輸入量は、1800年から20年でおよそ5倍となり、19世紀半ばにはそう輸入額は500万ポンドをこえて、紅茶の輸入総額330万ポンドを大きく上回った。

アヘンは農村にまで広がり、江蘇省だけでも5万人の中毒者がいる。

1839年林則徐は、外国商人と清の商人に持っているアヘンを全て出すよう通告した。
外国商人の居留地行きは軍隊に包囲され、しかたなくアヘンを差し出した。
林則徐は2万箱におよぶアヘンを回収し、アヘンをすべて処分した。
アヘンを人工池へ投げ込み生石灰を混ぜて沸騰させる。人工池から立ち上るアヘン処理の煙は3週間も続いた。

イギリス政府は1840年4月清国に向けてイギリス艦隊を出動させた。
イギリス艦隊は、戦艦16隻、輸送船や東インド会社の武装汽船など32隻の計48隻、将校は約四千人。
天津をイギリス軍が占領。
交渉決裂ののち、イギリス軍は講習を占領。南京にせまる。

「南京条約」のおもな内容
一、香港島をイギリスに譲る。
一、広州、廈門、福州、寧波、上海を貿易港として開く。
一、没収したアヘンや戦争の費用を賠償金としてはらう。
一、これらの5港でイギリス商人は安全に居住し、自由に活動ができる。

1844年イギリスにならって、アメリカフランスとも不平等条約を結んだ。

こうしてみて行くと、中国も日本も外国と貿易をする必要はなく、自国の物資だけでやってこれたのに、野蛮な西洋により無理やり開国され、踏みつけにされた。
そしてそれは今も続いているということですね。はあ。
そして有色人種同士で争うように、仕向けられていると。

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そしてこれ、
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洪秀全「心から天父上帝エホバと天兄キリストを信じさえすればなにもかもうまくいくのです。
わたしは天父上帝からみなさんを救う使命をあたえられました」
洪秀全は上帝会を作り、天父上帝のもとで万人が平等に生きるという信仰を人々に説きました。
「この地上に天国をつくりましょう」
1850年、洪秀全は、信徒たちと広西省の金田村に集まり布教活動を始めました。
「清朝を倒し、神の国をつくろう!満州族の清朝め!」
「清朝を倒し、漢民族による天国をきずこう!地上の天国太平天国をつくりましょう!」
「土地や財産を太平天国に寄付しよう」
「お金はみんなで平等にわけよう」
「軍をあげよう」
「辮髪なんぞ切っちまえ」
1851年、洪秀全は金田村で兵を挙げ「天王」と称しました。
こうして太平天国の乱が始まりました。
1853年には武昌を攻め落としました。
同じ年に、数十万の大軍で南京を落としました。
しかし内部分裂が起こりその勢力はしだいにおとろえていきました。
1856年イギリスが広州を攻撃し、1857年にはイギリスとフランスの連合軍も広州を攻撃し、翌年1月占領しました。
1858年、清はイギリス、フランス、アメリカ、ロシアの4カ国と「天津条約」を結びました。
1860年、清はイギリスと、フランスとあらたに「北京条約」を結びました。
この条約で、アヘン貿易をみとめさせ、輸出入品への関税を免除させるなどした。
そしてびっくりなことに、アメリカ、イギリスは太平天国ではなく清朝側につくほうがとくになると判断し、清朝側につく。

1864年に洪秀全がなくなり、太平天国の乱が終わる。

清朝は鉄砲や大砲などの西洋の進んだ兵器を取り入れる。
洋式軍事工場を建て軍隊の近代化をはかる。
軍艦を買って海軍を作る。
外国語学校を建て、鉱山開発をするなど、国の近代化に向けて洋務運動を運動を進めました。
太平天国の乱の鎮圧に功績のあった李鴻章は、鉄道会社、汽船会社、電報局、軍艦製造会社をつくって洋務運動を進め、最高実力者として内政や外交にあたりました。
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洋務運動wikipediaより
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洋務運動(ようむうんどう)は、中国の清朝末期(1860年代前半 - 1890年代前半)、ヨーロッパ近代文明の科学技術を導入して清朝の国力増強を目指した運動。自強運動(じきょううんどう)とも。清朝の高級官僚であった曽国藩・李鴻章・左宗棠・劉銘伝・張之洞らが推進者。
教育活動
洋務派は中国各地に30ヵ所あまりの近代新式学校を建設し、科学・軍事・翻訳などの人材を育成した。福州に開かれた海軍学校・船政学堂(1866年設立)は卒業生を北洋水師などへ送り出した。また著名な翻訳機関には京師同文館(1862年設立)がある。こうした教育機関・研究機関が「万国公法」(国際法の概説書)など西洋の書物を翻訳・出版し、「西学」の普及に努めた。さらに1872年から1875年までの4年間、毎年アメリカに30名の少年(平均年齢12歳)を留学させた。この事業は4年で終わり、当初15年間を予定していた留学期間も短縮され1881年に全員に帰国命令を出している。しかし彼らはアメリカで言葉の壁や体制の違いを乗り越えて優れた成績を収め大学にも進んでおり、多くが後に中国の政界・産業界などで活躍した。
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日本の明治維新と違うところもあるけど、同じところもある展開です。

中国でキリスト教の展開が行われた。
それは中国人によって清朝を倒させることを目的としていた。
そのリーダー洪秀全は自分を「天王」と称した。
しかし清朝は倒されなかった。
政治体制はそのままで、技術的なところのみヨーロッパ近代文明を取り入れた。

日本では、洋風のキリスト教と言われる神道を用いて、キリスト教のその展開が行われた。
そして江戸幕府は倒された。
新たなリーダーは天皇になった。
政治体制も、技術的なところもヨーロッパ近代文明を取り入れた。

清朝を倒さなかったことを反省し、日本ではすこし違う展開にしたということでしょうか

さてどの宣教師だったのでしょうか

チャニング・ウィリアムズwikipedia
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チャニング・ムーア・ウイリアムズ(Channing Moore Williams、中国語: 維廉、1829年7月18日-1910年12月2日)は、米国聖公会の宣教師。日本聖公会初代主教。日本各地に複数の教会や学校を設立するなど、日本聖公会の発展に力を尽くした[1]。墓碑に記されている「道を伝えて己を伝えず」という言葉の通り、ウィリアムズは自分について知られることを嫌っていて、それは日本から帰国する際に自分に関する資料を燃やしてしまったほどだという[2][3][4]。
中国での伝道
1855年11月30日に、オナイダ号でニューヨークを出港、リオデジャネイロとシドニーを経由し、出港からおよそ7か月かけて翌年の6月26日に上海へ到着する[12][13]。上海に上陸して4日目から中国語の勉強を開始し[14]、1年半後には日常会話どころか説教まで中国語で行ってしまうほどに上達した[15]。
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ジョン・リギンズ (宣教師)wikipedia
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ジョン・リギンズ(John Liggins、1829年5月11日 - 1912年1月7日)は、米国聖公会から派遣されたプロテスタントの宣教師。日本における最初のプロテスタント宣教師とされている[1]。
はじめ、チャニング・ウィリアムズ(Channing Moore Williams)[2]と共に中国で宣教を行っていたが、マラリアに感染し、その療養のために来日。1859年5月、長崎に上陸し、英語教師として活動を行った。
1856年7月 上海に赴任し布教にあたる
1859年5月2日 来日
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どちらも遅すぎますね。もっと早い時期にきている人がいるはず。

List of Protestant missionaries in China
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Protestant_missionaries_in_China
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This is a list of notable Protestant missionaries in China by agency. Beginning with the arrival of Robert Morrison in 1807 and ending in 1953 with the departure of Arthur Matthews and Dr. Rupert Clark of the China Inland Mission, thousands of foreign Protestant missionaries and their families, lived and worked in China to spread Christianity, establish schools, and work as medical missionaries.
1 Missionary organizations
1.1 American Board of Commissioners for Foreign Missions
1.2 American Presbyterian Mission
1.3 American Southern Methodist Mission
1.4 American Southern Baptist Mission
1.5 China Inland Mission
1.6 Church Missionary Society
1.7 English Presbyterian Mission
1.8 London Missionary Society
1.9 Mission Covenant Church of Sweden
1.10 Protestant Episcopal Church Mission
1.11 English Baptist Missionary Society
2 Protestant missionaries affiliated with other agencies
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随分とたくさんのグループがあります。
さてRobert Morrisonなのか、だれなのか。

算数とイーアルサンスー、せいみ(舎密)とケミカル [歴史]

(1)「算数」の語源
1、2、3、4というのを
中国語でイー、アル、サン、スーと言いますが、そこからきてたりして。

アルファベットのことを、ABCとか、日本のひらがな、カタカナ文字のことをイロハとか言いますが、そういう感じかも。

(2)せいみ(舎密)
江戸時代の後期に化学ということを意味する言葉だったそうです。
兵庫県三田市出身の川本幸民を知ったときに、「せいみ」という言葉を知ったのですが、もしかして「ケミカル」からきてるのかなと思ったら、そうでした。

http://www.city.sanda.lg.jp/shoukou_kankou/rekisiko-su1.html
>>幕末に三田藩医川本周安の三男として生まれた幸民は、江戸で蘭学や医学を学びました。洋書を翻訳し、「化学」という言葉を初めて使用しました。また、日本人で初めてビールを醸造し、マッチ製作や写真撮影に成功するなど多くの功績があります。

wikipediaより
>>舎密(せいみ)とは江戸時代後期の蘭学者の宇田川榕菴がオランダ語で化学を意味する単語「Chemie」を音写して当てた言葉。
>>宇田川榕菴はウィリアム・ヘンリーの『Elements of Experimental Chemistry』のオランダ語版を日本語に翻訳し『舎密開宗(せいみかいそう)』の名で世に出した。
>>一方、川本幸民はユリウス・ステックハルトの『Die Schule der Chemie』のオランダ語版を日本語に翻訳して、中国で使用されていた「化学」の語を用いて『化学新書』という名で世に出した。

「虚空と君のあいだに」ブログにアクセスできない [政治・社会]

まっこうモグラー村手智さんのブログをみようとするとアクセスできませんとでます。
http://www.mkmogura.com/blog/
ツイッターは11月20日にリツイートされている。
https://twitter.com/mkmogura

彼のブログは、どのようにこの日本が出来上がったのかを説明しているブログです。
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自分が作ったここは、どんな歴史学者よりも明確に「どのようにこの日本が出来上がったのか」を説明できる唯一のブログです。
なぜ、天皇がなぜ神道なのか、一度も神社に行っていない徳川家康が神社なのか。
それはキリスト教勢力が、日本を支配下におくために、キリスト教の神を作り上げ、当時の徳川慶喜や天皇の取り巻きをコントロールするために天皇すり替えと宗教の嘘改革を実施した都合と結果で、元が大日本皇道立教会で今芸能会のタブーとされている創価学会でさえその骨格の一部だからです。
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彼のブログを全部読もうとして読みきれないままです。

大学進学という洗脳 [政治・社会]

「マインドコントロール2 今そこにある情報汚染」池田整治著 ビジネス社 を読みました。
著者は元自衛隊陸将補(退官時、小平学校人事教育部長)。1955年愛媛県愛南町生まれ。

これを読んで、家族の解体について考えました。
親が子供大学にやりたいという気持ちがあり、自分も大学にいくものだという思いがあって、親元を離れ進学し、都会に憧れて、都会で就職し、結婚もしたけれど、それは本当によかったのかと思うのです。

自分は父母兄弟以外に、祖母や一時期は叔母とも一緒に暮らしてた。
それは今となってみれば、とてもかけがえのない期間だったと思えるのです。

家族を大学進学や都会への憧れでばらばらにさせ、根無し草のような不安定な状態にさせる。

大学にいけることは素晴らしいことだと思っていたけれど、そうではなかったかもしれないと。

もしかしたら、高卒で働ける場所があるなら、そのまま地元にいた方がよかったのかもしれない。

大卒の学歴は本当に必要なものなのか。
というのも、知り合いの人は戦後すぐの生まれで、高卒で町役場に入ったのですが、課長になっていました。

wikipediaの代用教員の項を見ると、
>>新制大学教育学部において正規免許を持つ教員が安定的に養成されるまでの間、新制高校卒業生に対しても臨時免許状が付与され、小中学校教員(助教諭)として採用された。こうした臨時免許状が付与された現職の教員(助教諭)については、1950年(昭和25年)度から1961年(昭和36年)までの計画的な現職教育により、上位の免許状が付与され、正規の免許状を有する教員(教諭)となった。

つなり高卒のまま、小中学校教員になっているのですよね。
だから必ずしも大卒でなくてもできるということです。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12139775302
>>ちなみに前述の教員資格認定試験については高卒と同等も含まれるので、中卒で高認の合格者も含まれます。
>>つまり現行法でも中卒で小学校教員にはなれます。
>>また現行法では小学校教員を3年以上勤務すれば中学校教員の免許が取れます。
>>さらに中学校で8年間勤務すると高校の教員免許が取れるようになります。
>>つまり、中卒の高校教員も現行法では可能になっています。
>>この辺も昔からの名残です。

実際に採用されることは難しいとしても、中卒で小学校教員の資格はとれるとしている。

福沢諭吉が大学に行ったかというと、まだできてなかったので行っていない。
蘭学を学んでいたのは、塾である。塾なのである。

洗脳されていないつもりで、大学にいくものだと洗脳されている。
そして家族、親戚がいる地域を離れ、コンクリートジャングルに入っていく。
これが素晴らしいことなのか。


「イルミナティが天皇を使って日本を支配する」を訳す [歴史]

henrymakow.com(ヘンリー・メイコウ)の
Illuminati Use Emperor to Control Japan を素人翻訳する。
February 2, 2011
http://www.henrymakow.com/the_illuminati_in_japan.html

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イルミナティが天皇を使って日本を支配する

2011年2月2日

これは有名な日本の修正史家である太田龍(デイビッド・アイクと残した)が書いたものである。太田は78歳で2009年5月19日に亡くなった。彼は日本で、私の本「イルミナティ」を翻訳して出版した。 彼はデイビッド・アイクの書籍の多くも出版していた。 ベンジャミン・フルフォードは彼を "偉大な真実探求者"の一人として賞賛したが、明らかにその感情は相互ではなかった。

ウィークリー・ニッポン・ニュースレター、No 496、2007年7月16日

太田龍

「日本におけるフリーメイソンの秘密の歴史」について、フルフォードの記事を批評する短い解説が ジェフ・レンスのインターネットサイトで公開された。

この記事では、不足している情報があり、ここで私は、これらの歴史的なイベントのこのかなり未知の側面を適切に理解するために重要と考えるいくつかの情報とのギャップを埋めるための試みであるされている情報のいくつかの重要な部分があると感じている。

ペリー提督の到着と鎖国終了の強制措置後、トーマス・グラバーのようなロスチャイルドのエージェントは、ジャーディン・マセソンを経由して日本に送られた。それは正しいが、サスーン王朝は言及されておらず、含まれるべきである。

グラバーの「陰謀」が露呈した - 「グラバーの策略が暴露され、彼は破産に追い込まれた」 - これは間違っている。 ロスチャイルドの他のエージェント、グイド・フルベッキが送られ、彼が成功したこと、 これも間違っています。 グラバーとフルベッキはチームとして一緒に働いた。

日本の英国大使館とフランス大使館の役割、これは言及されていない。 彼らはここで積極的かつ重要な役割を果たした。 その結果、英英フリーメーソンとフランスフリーメーソンの二重の役割は言及されていない。

このように拡張することにより、オランダ、ベルギー、アメリカのフリーメーソンリーの役割は失われている。

孝明天皇の暗殺が書かれていないが、初期の理解はその事件から始まるものでなければならない。 将来の明治天皇となる取り替え子としての大室寅之祐に関連する問題は不足している。 ロンドンの「シティ」には言及されていない。 私は日露戦争に関する彼の説明が的をはずしていると感じている。 日本でのロックフェラーの役割はそれほど簡単であるはずがなく、表面的である。

フルフォードは、ロンドンの「シティ」(シティの帝国)についてのクヌース(Knuth)の本を読んだことが疑わしいことがわかる。 彼はその存在を知らないかもしれない可能性がある。

第二次世界大戦後のフリーメーソンと日本の関係は誤解されている。 フルフォード氏は、「戦後の日本の首相はすべてフリーメーソンのようだ」と述べている。

そうではない。 フリーメイソンリーに正式に入った唯一の人は鳩山一郎であり、彼の後に続いているものはいず、彼は唯一のようだ。

日本のフリーメーソンは、連合国とその支配と日本人に付属しているもののひとつであり、日本のフリーメーソンが基本的に装飾以外の何物でもない場合、彼ら(日本人以外の)議題を円滑にするアクセサリーです。

フリーメーソンよりも日本に根差しているイルミナティの他のエージェントがいる:それはバチカンとイエズス会を経たローマカトリック教会である。 彼らは皇室の家庭内に浸透し、根を奪うことさえ管理してきた。 また、日本の金融エリート家族。 その階級にはカトリック教徒の割合が非常に高い。

日本の三国間委員会支店。 この時点で、それは日本の金融界を完全に支配している。 日本の社会と日本のエージェントの中に埋め込まれている、CIA、英国のMI6、モサドなど他の秘密組織。 タヴィストック指向の海外高等教育機関を通じて訓練された、いわゆる日本の知的エリート、教授およびその他のシンクタンクのメンバー、 その後帰国した人々。

中国共産党と北朝鮮の両方から訓練を受けた日本人と外国人のエージェントは、ここに住んでいて、たいていは日本人である。

(政治家、ジャーナリスト、民間人に対して)暗殺の代理人は、右翼のヤクザ、一匹狼、あるいはすでに訓練を受けている人たちと、必要に応じて召集されて利用される者のいずれかの出身である。

言い換えれば、対日本の英国系アメリカ人の支配(イルミナティ)戦争は、1945年に終わったわけではなく、今日までさえも続いている。

もし戦争があれば、抵抗のすべての要素が消滅するべきで、消滅するはずである。

イルミナティ側から、彼らは確固たる正当性を持っている。 そういうわけで、田中元首相が排除された理由と経緯がある。

ロッキード事件は田中の信用を傷つけるためだけのアリバイであり、実際はロックフェラーのアメリカの陰謀だったであることを感じた日本ファイナンシャル・タイムズの記者高松は、またすぐに排除された。

リストは延々と続く。 200人が殺されたことにフルフォードはクレームをつける。 その数は何に基づいているのか分からない。 私は個人的には200をリストアップすることができなかったが、一般的な日本語については、この文脈で1つでもリストすることができれば疑問です。

結論

日本のアメリカ(イルミナティ)支配と奴隷化の代理人として行動しているのは、日本人のフリーメーソンではない。 それはできない。 彼らはその種の能力も権力もないからである。 だから、誰がそのような目標を成功に導くエージェントになれるのだろうか?

昭和○○以外は誰もいない。 昭和○○を頭に持つ全○○。

フォルフォードはまだ外側のレベルにあまりにも多くを集中している。 糸のもつれは、現在の日本の状況を理解し、それを一貫した論理で解読するために、孝明天皇の暗殺に至るまで解明しなければならない。はじめるのはその方法だけである。

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ぬぬぬぬぬー、よくわからないけど、なんかどえらいことになってきました。
さすがにビビるので、伏字にします。知りたい方は原文をあたってください。

このヘンリー・メイコウの本が、太田龍が翻訳した「イルミナティ 世界を強奪したカルト」ですね。
そしてこの本の発売日が2009/5/19で、太田龍がなくなったのが、同じ2009年5月19日。
http://www.ohtaryu.jp/blog/
>>◎週刊日本新聞主幹、太田龍は5月19日午前5時33分逝去致しました。

https://www.facebook.com/tadakatsu.maejima/posts/518126654994672
>>数年前、太田龍氏は病死ではない、ということを知った。
>>太田龍氏はその当時、以下のような事柄を自身の時事寸評で述べておられた。
>>亡くなられたのは、太田氏がそのような論評を本格的に始めた矢先だった。

いわゆる陰謀論をたくさんの人が述べていて、どれが本当でどれが混乱させるためのものか、まだ見分けが難しいけれど、述べられていることに自分が納得できるかどうかだけですね。
だれかの判断に頼らないこと。
だれかがこれは本当で、これは嘘だと言っていても、自分で判断するしかない。
信用できそうな人を探し、検証する。
そうしないと、「飛んで火にいる」になってしまう。

フルベッキ論文(Lane R.Earns)を訳す−1 [歴史]

http://www.uwosh.edu/home_pages/faculty_staff/earns/verbeck.html
A MINER IN THE DEEP AND DARK PLACES:'GUIDO VERBECK IN NAGASAKI, 1859-1869
Lane R. Earns

これを素人翻訳する。
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「深く暗いところで地雷を埋めた人:長崎でのグイド・フルベッキ 1859-1869」

ペリーの開国後に長崎に来たキリスト教徒の宣教師と教育者の中で、最も影響力のある人物は、間違いなくオランダ生まれの米国で訓練を受けたグイド・フルベッキであった。 彼が日本の医学研究のためにドイツ語の使用を提唱し、最初の日本人の外交使節を米国とヨーロッパに派遣し、都道府県制の確立を支援し、 1872年の教育制度(学制発布)と1873年の徴兵令を生じさせたという後に東京で成し遂げた仕事のために最もよく知られているが、日本滞在の最初の10年間を長崎で過ごした。 ここで彼は関係を育成し、首都で彼のその後の名声につながるスキルを取得した。

オランダと米国での若いころ

フルベッキは1830年1月28日、オランダのザイスト市でグイド・ハーマン・フリドリン・ファーベーク(Guido Herman Fridolin Verbeek)として生まれた。 ここで彼はオランダ語、ドイツ語、フランス語、英語を話して育ちました。 若い頃、技術者になることを希望してユトレヒト工科大学で学んだ。

22歳の時、姉と義理の兄の招待状を受けて、フルベッキは米国に渡り、鋳造工場で働いた。 ウィスコンシン州グリーンベイの外にある工場は、モラヴィアンの宣教師によって蒸気船の機械を建設するために開発された。 フルベッキはウィスコンシン州に一年間留まり、その間、彼はアメリカ人がそれをよりよく発音できるように、彼の名前の「Verbeck」へのスペルを変更した。

グイド・フルベッキは仕事を探してブルックリンに行ったが、すぐにアーカンソー州のヘレナに移り、エンジニアとして雇われた。 そこでは、1854年の夏に、彼はコレラを発症し、1ヵ月以上ベッドで過ごした。 この期間中、ヴェルベックは病気から生き残れば宣教師になることを宣言したと言われている。

日本に対する伝道訓練

彼の回復に伴い、フルベッキは姉と義理の兄の近くのグリーンベイに戻ることに決めた。 一年も経たないうちに、彼は義理の兄が神学校に行くためにニューヨークのオーバーンに移動したときに、彼らに続いていった。 グイドは、その後すぐに新学期に学生として入学した。

当時、ニューヨーク北部は外国宣教活動の温床であった。フルベッキが会った人々の1人は、以前は1838年から1847年に中国で宣教師を務めていたサミュエル・R・ブラウン牧師であった。この面識があってブラウンとフルベッキが最終的に日本に向かうことになった。

フルベッキは、オーバーン神学校で宣教師になるための訓練を行っていたが、長崎では世界の中途のできごとが、その若者の人生に大きな影響を与えるような形で展開されていた。 1858年9月、中国に住む2人のプロテスタント宣教師、S・ウェルズ・ウィリアムズとエドワード・サイルは、外国人の貿易と居住が開放された後、プロテスタント・キリスト教を日本に導入するために、どのような開始が可能か確かめるために次の年の7月に長崎に来た。 長崎にいる間、彼らは当時の港にあったUSSポーハタンの従軍牧師である、ヘンリー・ウッド牧師と会った。 ウィリアムズ、サイル、ウッドはそのとき、アメリカの監督派、改革派、長老派の宣教委員会の指導者に、日本に宣教師を任命するよう促すよう手紙を書くため時間をとった。

改革派教会の宣教委員会に送られた手紙に応えて、ブラウンとフルベッキが日本に行き、そこで使命を開くために選ばれました。 ブラウンは中国での彼の経験のために間違いなく選ばれたが、フルベッキは彼の言語能力のために選ばれた。 後の改革派教会の宣教師/歴史家は次のように記している。「グイド・F.・フルベッキ博士は、改革派(オランダ)教会の外国布教委員会によって任命された。なぜなら、理由の一つは、彼がオランダ人だったからである。これは日本での仕事に就任するのに決定的な利点があると考えられた。特に長崎に駐留するならば... 」。オランダ人は1640年以来日本で許された唯一の西洋人であり、長崎湾の小さな人工島である出島にすでに制限されていた。 長崎は1859年7月に外国人に開放された条約港の一つであったため、改革派教会の指導者たちは、オランダ語と英語の両方のスキルを持つ宣教師が当初優位に立つだろうと確信した(正確に言えばそれが判明したので)。フルベッキはこれらの資格を満たし、1859年1月に長崎に行くことに興味があるかどうかを調べるために委員会より、接触された。 フルベッキは、ニューヨーク市の委員会メンバーと会った後、日本で宣教活動を行うことに挑戦をはじめることを決心した。
1859年3月22日、グイド・フルベッキは、ニューヨーク州カユーガの長老派によって福音伝道者として許可を与えられ、牧師になる資格を得た。翌日、同じ都市の改革派教会の教団の一員として受け入れられた。 その後、フィラデルフィアに向かうため4月15日にオーバーンを離れた。 3日後、彼は神学校で勉強中に会ったオーバーン出身の若い女性マリア・マニオンと結婚した。

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訳してて知ったこと
(1)フルベッキが日本の医学研究のためにドイツ語の使用を提唱し、最初の日本人の外交使節を米国とヨーロッパに派遣し、都道府県制の確立を支援し、 1872年の教育制度(学制発布)と1873年の徴兵令を生じさせたとさらっと書かれていますが、すごいことばかり。以上のことにフルベッキが関わっていたとは、日本ではほとんど知らされてはいません。
これも日本国憲法の成立と同様に、外国人が関わっていないように思わされているということでしょう。

(2)キリスト教には監督派、改革派、長老派なるものがあるのですね。
それぞれEpiscopal,Reformed,Presbyterianというようです。
長老派によって牧師になる資格を得て、改革派の一員として受け入れられた。
どういう繋がりなんでしょうか。

(3)フルベッキが日本に宣教に行くことが決まってから、ばたばたと結婚しているのですね。

(4)USSポーハタン(U.S.S.Powhattan)というのは、そのとき長崎に寄港していたアメリカ船のことで、はじめて日本人がアメリカに使節を送る際に、アメリカから迎えに来た船のことだそうです。
咸臨丸が、そのとき数日の差で一緒に行ったとうことです。(1860年万延元年)
咸臨丸はオランダに注文した船です。
そのときにアメリカに行ったのは、福沢諭吉、勝海舟、ジョン万次郎、木村摂津守、地元の塩飽諸島から35名の水夫など九十六名とのこと。
そしてポーハタン号はペリーが再度来航して来た際にもきた船とのこと。

咸臨丸wikipediaによると
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1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書を交換するため遣米使節団一行がアメリカ軍艦ポーハタン号にて太平洋を横断。咸臨丸はポーハタン号の別船として、旧暦1月13日品川を出帆、旧暦1月19日に浦賀を出港、旧暦2月26日(太陽暦3月17日)にサンフランシスコに入港。艦長は勝海舟(正確には勝は「軍艦操練所教授方頭取」、木村摂津守は「軍艦奉行」であったが、通訳の中浜万次郎(ジョン万次郎)は勝が艦長、木村が提督との説明で押し通した[注 1]。)。福澤諭吉らも乗船していた。万次郎以外の船員は大半が船酔いで、技術アドバイザーとして乗船していたジョン・ブルック大尉他、アメリカ人乗員の助けを借りての航海であった。
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ポーハタンwikipediaより
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東インド艦隊(1853–1860年)
日本開国
続いてポーハタンは東インド艦隊に配属され、1853年6月15日には中国水域の任地に到着した。そこでポーハタンはペリー代将の日本再訪艦隊に加わり、日本へ向かうこととなる。1854年2月13日にペリーは旗艦サスケハナ (USS Susquehanna) 、ミシシッピ (USS Mississippi) など7隻の軍艦を率いて江戸湾(東京湾)へ入港。江戸湾到着後に旗艦はポーハタンに移された。3月31日(嘉永7年3月3日)には日米和親条約が調印された。その後条約の細則の交渉のため艦隊は伊豆下田に移動するが、下田停泊中、ポーハタンに吉田松陰が密航を訴える事件があった。
日本外交使節団の米国訪問
1858年7月29日(安政5年6月19日)には、日米修好通商条約がポーハタンの艦上で調印されている。この批准書の交換のためワシントンに赴く日本の使節団を迎えるため、ジョサイア・タットノール代将の指揮の下、再び日本に派遣される。開港したばかりの横浜に1859年9月に到着したが、横浜には8日ほど停泊しただけで、上海に向かい、また横浜に戻る(これは日本と諸外国の金銀交換比率が異なることを利用して、利益を出すためだったと言われている。幕末の通貨問題参照)。
1860年2月13日(安政7年1月22日)、ポーハタンは正使の新見正興、副使の村垣範正、監察の小栗忠順らを含む日本使節団77人を乗せ横浜を出港した。同じく米国に向かった咸臨丸は2月9日(安政7年1月18日)に横浜を出港している。途中激しい嵐に遭遇し、石炭を使いすぎたため、補給のためにホノルルに寄港。サンフランシスコには米国に直行した咸臨丸より遅れて、3月28日に到着した。その後、パナマ地峡経由で東海岸に向かう日本使節団をパナマまで送っている。
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なぜ長崎の原爆はキリスト教会の上に落とされたか [歴史]

なぜ長崎の原爆はキリスト教会の上に落とされたか、ふと疑問に思いました。
キリスト教の教会におとせば、戦時中だからアメリカ人はいないけど、キリスト教徒が死んでしまいます。
なのになぜキリスト教の教会である、浦上天主堂の上に落とされたか。

そしてそれは、今調べているフルベッキにも関係するのだと気がつきました。
長崎は明治維新の前に外国人に対して開港されてから、フルベッキ始め宣教師の蓑を着た工作員の拠点のひとつだったのではないか?
証拠隠滅かそれとも?

長崎の浦上天主堂が主たる目的で、広島はそのカモフラージュのために落とされたのでは?

この説は「原爆と秘密結社」にあり、以前読んだときはよく理解できなかったのですが、「長崎が第一目的で、広島はカモフラージュだった」という言葉が頭に残っていました。

だから、広島では軍港や造船所ではなく、目立つ建物がある原爆ドーム(広島県産業奨励館)が選ばれたのでは?

いろいろ検証してみなければなりません。

本題とはずれますが、
「広島・長崎原爆で奇形児が少なかった理由のカラクリ」
http://blog.livedoor.jp/tacodayo/archives/6576065.html

耳垢から考察する人類の系統:はじまりの黒人は完全体 [歴史]

耳垢のwikipediaによると
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耳垢の乾性/湿性の割合は人種によって大きく差があり、北部の中国人や韓国人で湿性耳垢は4 - 7%、ミクロネシア人やメラネシア人では60 - 70%、白人では90%以上、黒人は99.5%が湿性耳垢であると言われている。
日本人全体では湿性耳垢の人は約16%だと言われている。
ただ日本内でも北海道沖縄と、本州の間で割合に大きな差があり、北海道のアイヌ民族では約50%が湿性耳垢であるとの報告がある[2]。
これは、日本には元々湿性耳垢の縄文人が居住しており、やがて本州には乾性耳垢の弥生人が流入したが、その影響が及ばなかった北海道・沖縄には湿性耳垢が保存されたことによる、と説明されている。

同様の研究は長崎県立長崎西高校の生物部も日本人類遺伝学会で2007年9月15日に発表しており、演者らによると乾性耳垢の人は西日本に多い傾向が見出されたとのことであり、渡来人の人骨が西日本で比較的よく発見される事実を証明するものであるとした[3]。
東北地方や北関東や南九州地方にも湿性耳垢が多いことがわかっている。

2006年1月29日、長崎大学の研究グループの論文発表で、耳垢が湿性か乾性かを決定するのはDNAの塩基配列の1か所の違いであることが判明[4]。
また同論文では、「乾性耳垢」というものは本来存在せず、この場合は先天的に耳垢が生成されない体質であり、彼らが耳垢だと思っているものは耳壁の表皮や外部の埃などであることが述べられている。
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http://beautyhealthy.web.fc2.com/osaketuyosa.html
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日本人をはじめとする「モンゴロイド」の46%は、II型の酵素を生まれつき持っていませんが、
白人や黒人はほぼ100%の人が持っています。
実は日本人の4~5割は生まれつきアルコールに弱いといわれています。
そのため白人や黒人はモンゴロイドよりお酒に強く、二日酔いにもなりにくいのです。
その理由は生まれつきアセトアルデヒド脱水素酵素 (ALDH) の働きが悪いか
元々ALDH が欠損しているかです。

日本人の祖先では、縄文人の欠損率が低く、弥生人は高いといわれています。
現在の日本人の7割が弥生人の遺伝子を、3割の人が縄文人の遺伝子を保持しているといわれ、
北海道や東北、九州等の縄文人の遺伝子を引き継いでいる地域の人には
お酒に強い人が多いのです。
ちなみに、アイヌ人は欠損率20%といわれています。

民族での違い
 
ALDH2欠損率(欠損者の割合)は人種・民族で大きく異なります。
白人やアフリカ黒人、インド人、アラブ人などは0%に対し、
日本人は40~44%で、その他韓国人(25%)、漢族(50%)、
モンゴル人(30%)、ベトナム人(57%)、タイ人(18%)
など東部アジア系民族は50%前後を占めています。
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「乾性耳垢」というのは、先天的に耳垢が生成されない体質であると。
すなわち耳垢を生成する機能の欠損なわけです。

そこから人間のはじまりは、すべての機能を備えた状態で発生しているのではないかと推測しました。
すべての状態にフラグが立っている状態。
なぜならあとからその機能をつけることはできないから。

だから発生的に黒人がまず原初の人類であったのではないかと。
だから黒人は、耳垢を生成し、皮膚に色を持ち、髪に色を持つ、酒を分解することができ、牛乳を分解することができる。

そこからいろいろな機能が欠損していき、枝分かれしながら混じり合うのではと思う。

日本の端の方、東北地方や北関東や南九州地方にも湿性耳垢が多い。
西日本には乾性耳垢の人の割合が他より多い。
日本に渡ってきた人ははじめ、湿性耳垢タイプが多かったが、あとからきた中国、朝鮮と同じタイプの人が西日本にきて、湿性耳垢タイプと混じりながら、先に来た人々は端に追いやられた。

日本人の何割かは、耳垢を生成する機能を欠損し、アルコールを分解する機能を欠損し、牛乳を分解する機能を欠損している。

白人は、色素を生成する機能を欠損しているというか少ない。
しかし、アルコールを分解する機能は残っている。

遺伝系統樹.jpg
これはwikipediaのモンゴロイドにある遺伝系統樹ですが、これと矛盾しません。

こちらが元ソース。
https://www.eecis.udel.edu/~lliao/archive/worldwide_human_relationships_inferred_from_genome_wide_patterns_of_variation.pdf

黒人がもっとも多くの機能を有し、白人と、東アジア人は別の系統にあるが、白人のほうが機能が多い。
だから系統樹の上位にくる。

2016.11.27追記

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/557.html" target="_blank">http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/557.html
こちらの記事のコメントに
二、八切先生は、ハクジンの祖先が黒人(ベルベル人を含む)の白子が進化した存在であることを証明した皮膚科医高野信夫先生を知らなかった。
とあります。
やはりそうなのですね。白人の祖先は黒人の白子が進化した存在であると。
黄色人種は、そのあいのこであるということですね。
高野信夫先生は「黒人ー>白人ー>黄色人」と言う本を書かれています。

本題とは関係ないけど、
色素を生成する機能が完全にないとアルビノになる。
また過剰にある場合は、完全にブラックになる。アルビノの反対が「メラニズム」。

https://welq.jp/22184によると
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記録に残る日本最古のアルビノは、第22代天皇「清寧天皇」ではないかと言われています。清寧天皇は、生まれたときから白髪であったことから白髪皇子(しらかのみこ)と名付けられ、父帝の雄略天皇は、その白い髪に霊異を感じて皇太子にしたということが日本書紀に記されています。
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おもしろいです。

母子手帳と乳業会社 [健康]

2016.11.21の朝日新聞に
「日本が発祥の母子手帳を世界に広げるJICA専門員」さんのことが載っていました。

しかし母子手帳、その生まれには裏があるといわれています。
「母子手帳 アメリカ 乳業」で検索してみてください。
情報のあふれている現在、キーワードの見当をつけられないと、本当に知るべき情報にはたどりつけません。

母子手帳は日本発祥ではなく、粉ミルクの宣伝のために、アメリカの乳業会社によって作られた。
そして日本では森永乳業、明治乳業など乳業メーカーがからんでいる。

そしてそれに予防接種業界ものっかるようになったのではないか。

「母子手帳が発見される」
http://tipitu.hatenablog.com/entry/2014/04/14/233805
1964年ぐらい生まれの方の母子手帳には、森永乳業のエンゼルマークが押され、森永Gドライミルクと書かれています。

なんでも裏事情を疑うようにしないと騙され続けることになりますね。



ニッポン日記ーその3 うす気味悪い発明品ー神道の末路 [歴史]

マーク・ゲインの「ニッポン日記」から神道について。

神道って明治になってから、随分と変わったのですね。
神道、天皇、伊勢神宮。まだ理解しきれていません。

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神道は宗教人の発明したものの中でも一番うす気味のわるい発明品である。ーそれは天皇の神格と世界を支配すべき日本人の「使命」に対する信念であり、神話に基づく信仰、天皇の祖先天照大神をはじめ少なくも八百よろずの神々を抱擁する信仰である。またそれは祖先崇拝、孝道、愛国主義の宗教であり、国家への忠誠と服従を確保するやや水増しされた儒教道徳の宗教でもある。

幾世紀もの間顧みられなかったこの宗教は1867年明治天皇即位とともに改定されたが、それは慎重かつ巧妙に行われた。近代日本の建設者たちは何か手頃な政治的道具を必要としたが、これを供給したのが、神道だった。新刊は国家の監督のもとにおかれた。小学校の生徒は神社参拝を強制された。新国教の維持と繁栄のために補助金が与えられた。

国家主義の成長に伴い、神道はその侍女となった。それは矮小な男の心を、彼自身半神格であり、神は彼に世界支配を期待し、偉大さへの道は忠誠と服従にあるという信念で水浸しにするのに甚だ有用であった。屢次(るじ:しばしば起こる、たびたび繰り返される)の戦争で戦死者が増えるにつれ、神籍名簿は拡張され中世期的祭式は益々巧妙に近代侵略の道具に採用された。

今次戦争勃発当時の神道勢力はおそろしく強大で、三百の神弊社(皇祖天照大神に親告するため天皇がしばしば親拝する一万三千エーカーの敷地を擁する伊勢大廟もこの中に入る)、百二十九箇所の軍人たちのための別格神弊社、五万の県、郷、村、市町村社、六万の私弊社が存在していた。神道に注ぎ込まれた金額と努力は考えただけでもぞっとするくらいだ。

さて痩型ではあるが美男子でまたすこぶる真面目なダイク准将が会議室に姿を現し椅子を占めながら、神道からの日本国民の解放を静かに発表しはじめた。かれはこの宗教は「日本の戦争犯罪、敗北、苦悩、窮乏、現在の惨状に対して大に責任がある」と述べ、神道を国家主義の目的に使ったのは、「巧緻極まる創作だった」と語った。

中略

日本国民を国定宗教への信仰強制から解放するのが目的であると冒頭して、この指令は、
一、天皇、日本国民および日本列島が世界に冠たるものであるとする教義の破棄
二、官公立学校における神道教育の廃止
三、すべての官庁、学校、公共建造物から神棚その他の神道の象徴の撤去
四、官吏が神社に重大事件を「報告」する公式参拝の廃止
を命じた。

ここまでは大変結構だ。しかし、ダイクとバンスが説明を終わった時、我々の心中にはいくつかの疑問が浮かんだ。神道の核心は天皇神格の信念である。神道の終焉は果たして天皇の人間化を意味するものか?ダイクは「目下のところ」答えはできないという。
「天皇は依然日本の精神的首長である。」
と彼は言った。

中略

神道はまことに重大な打撃をこうむった。しかし私は見せかけと素知らぬ顔で押し通そうという策謀に我々が堅固な土台をきずいてやったのではなかろうかという疑問から離れることができなかった。今までずっとおこなわれてきたことと大差ないことが行われつづける。天皇とその扈従(こしょう:貴人のおとも)ー宮内省や政府の役人、市町村長、村の有力者、新聞記者、カメラマンは打ち揃ってあちこちの神社に参拝した挙句、自分たちは宗教的礼拝の自由を享受する個人なのだとなめらかに説明するという寸法だ。また天皇親拝の姿を見慣れた百姓たちが天皇はいまでは天皇としてではなく個人として参拝しているのだということを理解するだろうか?

これに対する解答が如何なものであるか私は知らない。なるほど自由を信条とする一国民として我々は特定の宗教を追放することはできない。しかし一つの宗教を国民の負担する財源から引き離して、しかも法律違反への大きな抜け穴を起こしておくというやり方では、どうも失敗のチャンスがかなり多いように思える。

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