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ネフィリム 巨人は日本にもいた 岩手一関 [聖書]

聖書を読んでいると、「ネフィリム」という言葉が出てきました。

創世記6
さて、地上に人が増え始め、娘たちが生まれた。神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだものを妻にした。主は言われた。「私の霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから」こうして人の一生は百二十年となった。
当時もそのあとも、地上にはネフィリムがいた。これは神の子らが人の娘たちのところに入って産ませたものであり、大昔の名高い英雄たちであった。

ネフィリムってなに?と思って調べると、巨人だそうです。

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「2008年6月14日岩手・宮城内陸地震震度6強」発生!:一関の崖で巨人化石が見つかっていた!?
http://quasimoto.exblog.jp/23124994/

巨人の骨が海外でいくつか見つかっていたが、日本でも2008年に一関の崖にあったのが地震でがけがくずれ、それがテレビで偶然映ったそうです。
一関は岩手県の第2の都市だそうです。
気仙沼の内陸にあって、海はない街のようです。

巨人がいたことは歴史で習わないし、巨人の骨があったことは隠蔽される。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ネフィリム
『創世記』第6章1~4節によれば、地上に人が増え始め、娘たちが生まれると、神の子らは人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。こうして神の子らと人間の娘たちの間に生まれたのがネフィリムであった。彼らは大昔の名高い英雄たちであったという。
『民数記』第13章32~33節ではカナンを偵察したイスラエルの一隊が、「そこにすむ民は巨人であり、ネフィリムである。彼らアナク人はネフィリムの出だ」とモーセに語る場面がある。
『ヨベル書』7:21~23によれば、巨人たちが人の娘をめとり、そこからネフィリムが生まれたとされる。ネフィリムは「みな仲たがいをして共食いをし、お互いを殺しあった」という。この箇所ではネフィリム以外にエルバハ、ネピル、エルヨという三種の名称があげられているが、それらも巨人をあらわしていると考えられる。
『第一エノク書』7章では地上に降りて人間の娘と交わった天使たち(グリゴリ)によって、巨人が生まれたという。巨人の体長は3000キュビット(1350m、ギリシア語の『エノク書』[1]では3000ペーキュス[2])もあり、人間たちの食物を食べつくすと共食いを行ったという(7:5)。

手持ちの聖書で調べてみると、『ヨベル書』と『第一エノク書』は聖書に載っていませんでした。
民数記13:25
四十日ののち、彼らは土地の偵察から帰ってきた。パランの荒れ野のカデシュにいるモーセ、アロンおよびイスラエルの人々の共同体全体の元に来ると、彼らと共同体全体に報告をし、その土地の果物を見せた。彼らはモーセに説明していった。「わたしたちはあなたが遣わされた地方に行ってきました。そこは乳と蜜の流れるところでした。これがそこの果物です。しかし、その土地の住民は強く、街という街は城壁で囲まれ、大層大きく、しかもアナク人の子孫さえ見かけました。ネゲブ地方にはアマレク人、山地にはヘト人、エブス人、アモリ人、海岸地方およびヨルダン沿岸地方にはカナン人が住んでいます」
カレブは民を静め、モーセに向かって進言した。「断然上っていくべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」しかし彼と一緒に行った者たちは反対し、「いや、あの民に向かっていくのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」といい、イスラエルの人々の間に偵察してきた土地について悪い情報を流した。「我々が偵察してきた土地は、そこに住みつこうとするものを食い尽くすような土地だ。我々が見た民は皆巨人だった。そこで我々が見たのはネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ。我々は自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたに違いない」

「進撃の巨人」は実話を元にしているということですね。
その巨人たちはどうしてほろびたのでしょう。


ちらっと写っている家の形と川沿いということから、探してみるとここではないかと思われます。
厳美町
〒021-0101 岩手県一関市
38.970933, 140.970180
一関ICから西に342号線をいく。

シャンティ
「巨人と地底世界」
2017/02/01(水) 23:10:02
http://tenten888.blog.fc2.com/blog-entry-113.html
コメント欄には「〒021-0101 岩手県一関市厳美町下真坂48付近の河川」とまで書いた情報もある。

シャンティフーラ
[YouTube 他]「進撃の巨人」は実在した?5m超の巨人の化石を発見! 〜巨人が存在した事は疑いようの無い事実、人類の覚醒を阻むために隠蔽されてきた〜
https://shanti-phula.net/ja/social/blog/?p=97331
岩手・宮城内陸地震(2008年6月14日) 岩手県内陸南部で発生した、マグニチュード7.2 最大震度6強の地震で起きた岩手県一関の崖崩れの映像です。 現場からの中継で映り込んでしまったとされる巨人の骨。 骨の無い映像と見比べてください。 あなたにはどちらが本物のように見えるでしょうか。

「【衝撃画像】人類は食料だった?!世界中で発見されたとされる「巨人・ネフィリム」発掘画像たち」
http://guppy.a-ch.net/test/read.cgi/oldnews/1381375183/l50
41 :名無しさん:2013/10/10(木) 17:47:35 ID:???
一関のヤツは岩手宮城内陸地震の時のな。
この辺昔は骨寺村って地名だったんよ。

ソラと雲のおもい
2011.01.11
岩手一関・中尊寺 夫婦岩 巨釜半造
https://plaza.rakuten.co.jp/sorakumoomoi/diary/201101110000/
「気仙沼市の半島にある巨石群の一部で、足をあらわしているそうです。 南米やムー大陸から、(イシキの)悪者(=津波)がくるので、足で蹴飛ばして跳ね返すために、巨石群になったそうですが、淵に悪者が住み着いて困るので消滅して欲しいと言ってきたのは、、室根山の巨人達でした。

室根山に巨人伝説があるのですね。
〒029-1201
岩手県一関市室根町折壁室根山2

一関市厳美町下真坂48から真東に室根山があり、その距離は30キロもなさそう。

骨寺村荘園遺跡
http://www.honedera.jp/outline/index.html
一関市厳美町の本寺地区は、その昔、「骨寺村」と呼ばれた荘園で、 中尊寺の経蔵別当の所領でした。

http://www.honedera.jp/outline/origin.html
骨寺村の由来
絵図に「骨寺跡」「骨寺堂跡」という文字と、建物の礎石のような図像が描かれています。かつてここに骨寺という寺があって、絵図が描かれた鎌倉時代の後期には廃寺になっていたことが分かります。今はその跡も確認できませんが、その寺の名前が村の由来になったと考えられます。 骨寺とは珍しい名前ですが、亡くなった人の骨の一部を特定の聖地に納める風習(分骨)があります。この骨寺はそのための場だったのではないでしょうか。
髑髏(どくろ)伝説
鎌倉時代の『撰集抄』という説話集に、平泉郡にいた一人の娘が、天井裏の髑髏から法華経の読み方を習い、その髑髏を逆柴山に葬ったという話があります。その髑髏は、比叡山の高僧第18代座主の慈恵大師良源の髑髏で、葬った場所が慈恵塚だと本寺では伝えられています。このことが、骨寺村という名前の由来であるともいわれています。

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画像はこちらのサイトから。
http://blog.goo.ne.jp/pea2005/e/c5a4123b61da8efd08add3bbce907c84
見えにくいですが「骨寺跡」「六所宮」「堂山」「白山寺崎」とかあります。
調査では骨寺跡の痕跡はみつからなかったと。

骨寺村とはかなり珍しい名前です。
やはり巨人の骨からでしょうね。
亡くなった人の骨の一部を特定の聖地に納める風習(分骨)があります。」
この特定の聖地とはどこでしょうか。

現地から骨寺村荘園交流館まで500メートルぐらいのようです。

骨寺村は中世の道などの配置が残されたままの土地で、古地図と一致するのが貴重なところのようです。
画像を見ると、この地区は田んぼの区画整理がされていないところが多くあるようです。
もしかしたら掘ったら巨人の骨が出るかもしれないから、掘らずにおいておいたと妄想するのもロマンがあります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:骨寺村荘園(一関本寺)2.jpg

「一関本寺の農村景観」(骨寺村荘園遺跡)写真コンテスト審査結果発表
http://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/6,71963,91,6,html
ドローンによる空撮の写真。不整形な田んぼが広がり、手前から奥 へと道が続き、向こうに山並みが見える広い感じの田んぼと民家の混合が非常に美しく上手に撮られている。

google mapの航空写真で現地を見るとよくわかりますが、342号線沿いに東側の集落を見ると、川沿いや山際を除いてびっちりと区画整理されていますし、49号線で北にいくと、整理されていないところもあるけど、されているところもある。西側の山王山温泉瑞泉郷のある地区も区画整理されていません。

そうすると、なぜ骨寺村のあたりだけ区画整理されていないのか謎ですね。

http://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/6,75935,91,6,html
●岩手県一関市埋蔵文化財発掘調査報告書第22集(総括報告書) [32187KB pdfファイル]
http://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/6,75935,c,html/75935/20170510-153012.pdf
によると、「骨寺(ほねでら)」が「本寺(ほんでら)」になったよう。

現地から川沿いに西の方を見ると、高圧線の下ぐらいになにか見えます。なんでしょう。

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8/11追記

室根山を検索すると、なんと昔は鬼首山といったようです。
これは巨人がいたことを裏付ける強力な事柄です。

いわての山々 室根山
http://www.bunka.pref.iwate.jp/shizen/yama/data/13.html によると

■名称(読み方) 室根山(むろねさん)
■別名 東小富士
        鬼首(オニカベ・オニコウベ)山
        桔梗山
        卯辰山 など

■名前・別名の由来 安永4年書上「元正天皇養老二年九月御勅願。紀州牟婁郡音無河より御舟にて御下向。(宮城県)本吉郡唐桑村鮪立(しびたち)御上り、室根山へ勧請」「これより鬼首山を改め牟婁峯山と称し、以後は室根山。けだし紀州牟婁より熊野本宮勧請をもってなり」(室根村=現在の一関市『室根山』)という説のほか、ムロは館(むろみつ、海津の官舎)や、熊野神社の御室(むろみつ、御森)からついたなど、諸説がある。

8/12追記
鬼首山を改め牟婁峯山(むろねやま)と称すことになった養老2年っていつなのか調べると、なんと西暦718年でした。
それが記されたのが安永4年=1775年。
718年とは随分と古いことなので驚きましたが、養老年のころはどのような時代だったかをみると、
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私が中学の時に使っていた「世紀別 中学歴史地図・年表」東京法令出版 昭和55年改定新版のものです。
なんとこのころに諸国に風土記を作らせ(713)、古事記が作成され(712)、日本書紀(720)が作成されたとあります。
歴史の捏造がなされたころと同じくして、地名の変更も行われているのですね。
養老律令ができたのが718年。

https://kotobank.jp/word/養老律令-145911
古代法典の一つ。藤原不比等らが養老2 (718) 年『大宝律令』を修正,撰定したもの。律は 10巻 12編,令は 10巻 30編から成る。同年に成立したとする説と,編修事業に着手したとする説とがある。

「多くの天皇の母は藤原氏」
http://kusunoki-456.blog.so-net.ne.jp/2017-04-16
「角川日本史辞典」の大王・天皇表(舒明ー今上)までの天皇の父親、母親、即位年月日、退位年月日の表をみると、97人の大王・天皇のうち、母親が藤原氏なのは64人もいました。
実に66パーセント。
藤原氏が母親で一番古い天皇が、聖武天皇。
聖武天皇は724年即位。

安永4年のこの資料とはなんでしょう。

鬼首で検索していると、鬼首村が宮城県にあることを知りました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/鬼首村
鬼首村(おにこうべむら)は、昭和29年(1954年)まで宮城県玉造郡の北西部にあった村。現在の大崎市鳴子温泉鬼首にあたる。

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クリックすると拡大します。
この地図は「マップル岩手県」より。
地図を見ると、岩手県一関 骨寺村荘園遺跡から宮城県大崎市の鬼首は近く、どちらも栗駒山のまわりに位置します。
室根山と宮城県鬼首とのなかほど、やや北寄りに骨寺村荘園遺跡が位置します。
巨人の活動範囲と考えることができそうです。


みちのく中央磐井歴史物語
「室根山・みちのくの真実を明かすお山」
http://iwaigaku.com/contents.php?c=chair&p=108&sc=8
<無漏(むろう)恵ね山観音寺>
  「無盡(ムジン)意ニの唱導変成普門品 悉皆解脱 無漏むろ恵ね観音」
<計仙麻神体山 室根祖霊山>
     「計仙麻社の奥津宮城の鬼首の山 神統一つ遠山は呼ぶ」
<遠山鬼仙国>
     「室根本 鬼首物語 歴史なり 日高見鬼国 書紀の正傳」
<鬼首山と室根山の間>
     「風俗の鬼首山 王法計仙麻山 佛法 牟婁峯へ問導く」

8/13追記
http://www.lares.dti.ne.jp/~hisadome/honji/files/MURONE.html
「室根山由来記」[LINK] - 本地垂迹資料便覧
牟婁峯山本宮由緒
夫より神勅に随て鬼首山を八方に踏分け此山峯の八合目に御社地を卜し御宮御造営有りしは養老二戊午年九月十九日の事なりき 此時鬼首山を更めて牟婁峯山と称し玉ふ 後世室根山と云ふ 蓋し紀ノ国牟婁より御廟を遷し奉りし故なり 熊野大権現を此時より牟婁峰山大権現と申し奉ると云ふ

木造聖観音立像(もくぞうしょうかんのんりゅうぞう)~室根地域~
http://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/18,8310,132,159,html
―今を去ること1330年ほど前、「朝一時山(あさいっときやま)」と呼ばれていた室根山には、身の丈八尺(2.4メートル)もある、髪が縮れ赤ひげの鬼のような山男たちが住んでいました。この山男たちが人々の生活を脅かしていたので、里人の願いにより、朝廷では953騎を派兵し、討伐を行いました。討伐した首領の首を山の中に埋め、以来、「朝一時山」は「鬼首山(おにくびやま)」と名を改められました。山男の2人の副首領の首二つのうち、一つは里に埋め「鬼地塚」と名を付け、一つの首は都に送られました。後に、この戦いで死んだ多くの者を弔うために、都に送られた首がこの地に戻り、首塚と供養塔を建てるとともに、聖観音を勧請し、宝物として太刀やお経が納められたのです―
 この時が和銅3(710)年正月17日で、「南流山慈眼院観音寺」、現在の南流神社の始まりと「慈眼院南流山観音本地品」に記されています。
 南流神社の本尊は、見ると目がつぶれるとされていたことから、永遠にその姿を見ることを禁じられ、人々の目に触れることはありませんでした。しかし昭和22年、日蓮宗の行者の「この仏が世に出る時が到来した」との言葉を受けた当時の南流神社別当、吉度義雄さんの手によって、荒コモに巻かれちりの積もった観音像が発見されたのです。それがこの木造聖観音立像です。
登録日: 2007年5月1日

南流神社は室根山の4キロほど南にある。
1330年前(2007-1330=西暦677年)には、室根山は「朝一時山(あさいっときやま)」であったが「鬼首山(おにくびやま)」と名を改められましたとあるけど、それが養老2年(718年)には「むろねやま」になったなんてことあるだろうか。
718-677=41
たった41年で山の名前が変わったりするだろうか。
つじつまがあわない気がする。
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