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れんだいこ:歴史再検証主義派の歴史 [「れんだいこ」から]

れんだいこさんのサイトが見られなくなっているため、キャッシュよりコピーを作成 全文引用
こういう重要な情報ほど、いつ見られなくなるかわかりません。
みなさんもリンクを貼るのではなく、ぜひコピーを作成してください。

http://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/hanyudayasyugico/sekainokenkyushi/rekishisaikensyosyugico/history.html

歴史再検証主義派の歴史

 (最新見直し2014.03.23日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「歴史再検証主義派の歴史」をものしておく。

 2014.03.23日 れんだいこ拝

 ピエール・ヴィダル=ナケは、現代の歴史修正主義を包括的に分析した「記憶の暗殺者たち」(石田靖夫訳、人文書院刊)のなかで、概要「最初の『レヴィジオニスト』は、フランスで無実の罪を負わされたドレフュス裁判の『再審』を支持した人たちだった」と述べている(栗原幸夫氏の上記論評「歴史の再審に向かって―私もまたレヴィジオニストである―」)。

 栗原氏は次のように述べている。「このような『再審』というニュアンスで理解されたレヴィジオンであれば、私もまた、レヴィジオニストである」、「歴史はつねに『いま』から読み直されるべきものなのだ。そのような意味では、再審こそが歴史であり、人間の理念の歴史はこの再審をめぐる階級闘争の歴史だと言うこともできるだろう」。
 「ホロコースト否認」
 以下、ホロコースト否認論の歴史を確認する。
 ホロコーストを疑問視する主張は戦後間もなくから始まっており、フランスの歴史家ポール・ラシニエ は1948年の著書で「ホロコースト生存者」の証言に疑義を呈した。
 1964年には『ヨーロッパ・ユダヤ人のドラマ』でガス室を始めとする戦後の通説に疑義を投じた。ラシニエは社会主義者、非暴力主義者で、ドイツ占領下のフランスでレジスタンスに身を投じ、ユダヤ人をスイスに脱出させる活動などを行なっていた。そのために自らがゲシュタポに捕えられてブーヘンヴァルト強制収容所 とミッテルバウ=ドーラ強制収容所に収容された。戦後、レジスタンス活動によりフランス政府から最高位の勲章を受けている。自身が犠牲者であったラシニエがホロコーストを否認していることもあり、修正主義者たちはラシニエをシオニスト、連合国、ソ連の巨大な陰謀によってホロコーストが捏造されたということを告発した最初の否認論者として「ホロコースト検証派の父」と呼び、現在も彼の著作をホロコーストに関する通説に異議を申し立てた学術的な研究として引用している。ラシニエへの批判としては「ブーヘンヴァルト強制収容所は絶滅収容所ではなかったので、ガス殺人を目撃しなかった」という彼の主張は意外ではないとするもの、また、ラシニエは旧来説支持者を納得させるだけの証拠を挙げておらず、自己の指摘と矛盾する情報を無視している点、さらにラシニエ自身の主張そのものが、「ガス室で殺された人数は通説ほど多いものでもないと思われる」という程度のものであり、ラシニエ自身が虐殺自体を否定しておらず、後世の否定派によって勝手にホロコースト否認論者だと決めつけられてしまったというものがある。なお、シオニストの為のホロコーストの捏造というテーマは他の歴史家によっても取り上げられている。
 ラシニエと同時期に、ルーマニア系ユダヤ人であるブルグ(Burg)も、戦後語られ出した「ガス室」などによるユダヤ人大量殺戮の主張に疑問を抱き、収容所を自ら調査するなどしている。
 1960年代には、通説的なホロコーストに対する異議の表明が公に現れ始めた。米国コロンビア大学の歴史家ハリー・エルマー・バーンズは晩年ホロコースト否認の姿勢をとるようになった。バーンズは立場的には主流派に属する歴史家であり、歴史検証運動の初期の指導者の一人である。戦間期には反戦的な著述家で、第二次世界大戦後、ドイツと日本への批判は米国の参戦を正当化するための戦時プロパガンダに過ぎず、その正体が暴かれる必要があると考えた。バーンズは晩年の著作でホロコーストを戦時プロパガンダに含まれるとした。
 同様に反戦的歴史検証主義の立場をとってきた著述家ジェームス・マーティンはバーンズに倣ってホロコースト否認論の姿勢を示した。アメリカ人の歴史家デイヴィド・ホガンは1961年に発表したの第二次世界大戦の原因を論じた『強制された戦争』 (Der Erzwungene Krieg)、1969年には、ホロコーストを否認する最初の本の一つである『600万人の神話』を執筆した。ホガンは一流大学教授の経歴もあり、ホロコースト否認論運動初期の中心的人物の1人となった。
 1970年代にホロコースト否認運動は大きな盛り上がりを見せる。ドイツでは、ホロコーストに疑問を投げ掛ける議論が戦後厳しく規制されたため、当時の関係者を含めた多くのドイツ人は戦後永く沈黙していた。しかし、1974年にアウシュヴィッツ周辺のモノヴィッツで天然ゴムに代わる素材の開発に従事していた元親衛隊員のティエス・クリストファーセンが回想録『アウシュヴィッツの嘘』を出版し、ドイツのユダヤ人政策は批判されるべきであるが、戦後のアウシュヴィッツ像はあまりにも誇張されたもので、クリストファーセンがアウシュヴィッツ周辺で勤務していた当時、ユダヤ人ら被収容者は虐待されていなかったと証言した。戦争末期は別として、大戦中前半はユダヤ人への待遇は戦後語られるような劣悪なものではなかったという。また、被収容者のための売春宿があったことや、当時アウシュヴィッツに勤務していた同僚のドイツ人の中には、ユダヤ人と友情を結んで戦後も文通を続けた者などもいた事実を挙げて、戦後のアウシュヴィッツ像は虚偽であると主張した。更には、クリストファーセン自身が、ビルケナウ収容所における衛生状態の劣化に懸念を抱いて、ユダヤ人の処遇を改善するよう上司に提案したことがあったことや、ユダヤ人の中にはドイツよりもソ連を恐れる者がいて、ソ連に対するドイツの勝利を期待していたユダヤ人がいたことなどをも述べている。
 1976年にアーサー・バッツ著『20世紀の法螺:ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅説に対する異議申し立て』、1977年にデイヴィッド・アーヴィング著『ヒトラーの戦争』を発表、ベストセラーとなったことから、ホロコースト否認論の代表的な論客と見なされている。これらの著述はホロコーストに対する疑義として現在も重要視されている。1978年3月18日には、リチャード・ヴァーラルの著書『本当に600万人も死んだのか?』のフランス語訳を刊行した国民戦線のフランソワ・デュプラ(Francois Duprat)がユダヤ人組織に殺害され、妻も腕と足を失った。
 同1978年、ソルボンヌ大学で文書鑑定を専門としていたロバート・フォーリソンがル・モンド紙に「ガス室」の存在に疑問を投じる記事を発表しフォーリソン事件が起きた。フォーリソンは「ガス室」を欺瞞 (fraud) と呼び、「この欺瞞の犠牲者は、(ドイツの)支配者たちを除くドイツ人と、全てのパレスチナ人だ」と述べ、この問題がパレスチナ問題と密接に関係することを指摘した。その後、1989年9月16日、ユダヤ系団体のSons ofJewish Memory(ユダヤの記憶の子供)から襲撃され、顎と顔を砕かれ重傷を負った。Sons of Jewish Memoryの犯行声明文には「ホロコースト否定派をぶるぶる震えさせろ」とあった。
 1978年、米国でウィリス・カート(Willis Carto) によって歴史見直し研究所 (IHR) が創設された。これは「ホロコーストの俗説」に異議を唱える組織であり、英語圏における見直し論の広がりにおいて中心的な役割を果たしている。IHRは科学的な歴史検証主義を標榜し、ネオナチの背景を持たないジェイムズ・マーティン (James J. Martin) やサミュエル・エドワード・コンキン三世 (en:Samuel Edward Konkin III) のような支持者を歓迎し、またラシニエやバーンズの著作を販売している。ホロコースト肯定者はIHRの支持者はネオナチや反ユダヤ主義者であり、出版配布されている資料の多くはホロコーストに疑問を呈することを専らとしている団体であると攻撃している。IHRは「我々の組織はホロコーストを否認しない」と表明しており、IHRの定期刊行物には次のように書かれている。「IHRは「殺人を目的としたガス室がアウシュヴィッツに存在したという(検証可能な)証拠」に対して50,000米ドルの賞金を提示したのでアウシュヴィッツの生存者メル・メーメルスティーン(Mel Mermelstein)は証拠を提出した。しかしIHRは賞金を支払わないので個人的苦痛に対する損害賠償訴訟を起こし、勝訴、40,000米ドルを受け取った」。
 1979年、大戦中ドイツ空軍部隊将校として自らアウシュヴィッツを短期間訪れた経験を持つ西ドイツ(当時)の判事ヴィルヘルム・シュテークリッヒ (Wilhelm Stäglich) は、裁判官の視点からニュルンベルク裁判をはじめとする戦後の「戦犯」裁判を徹底的に再検証し、ホロコーストを検証する『アウシュヴィッツの神話』(The Auschwitz Myth - Legend or Reality)を刊行したが、1980年にはシュトゥットガルト裁判所の命令によりドイツ国内で頒布禁止とされ、発売日に書店から回収された。
 1980年代
 1981年6月26日、1982年4月25日には放火、1982年9月5日には事務所へ発砲をうけ、1984年7月4日にはシオニストグループによって放火され多くの資料が焼失した。見直し論者側はこれを焚書行為と糾弾し、ゲルマール・ルドルフは「異なる意見を抱いているだけで、非人間、悪魔、害虫、下等人種とみなしていいのだろうか? ナチスはそれをやったから非難されているのではないか? 扇動的な表現をすることは、ファシスト的、ナチス的、人種差別主義的ではないか」とユダヤの過激派を批判した。
 1984年、カナダの高校教師ジェームズ・キーグストラ) は授業で資料の一部としてホロコーストに関する戦後の通説に疑問を呈する教材を使用し反ユダヤ主義的主張をしたとして告発され、有罪宣告を受け、解雇された。1988年7月18日にはキーグストラの自宅が放火された。
 プリンストン大学教授で、左翼と見なされていた歴史家アーノ・マイヤーは、祖父が収容所で命を落としたユダヤ人である。1988年に『天はなぜ曇らなかったのか?』 において、(1)ドイツははじめからユダヤ人を絶滅する計画ではなかったと考えられる、(2)アウシュヴィッツで死亡したユダヤ人の多くは故意の殺害ではなく、病死や飢餓の犠牲者であった等の考察を述べている。メイヤーの問題提起はニューズウィークでも取り上げられ、日本の西岡昌紀にも影響を与え、マルコポーロ事件が発生した。
 1987年、ブラッドリー・スミスが「ホロコーストに関する公開討論委員会」 (CODOH) を創立。CODOHは、ホロコーストの通説を問題とする新聞広告をアメリカ合衆国内の大学学生新聞に打つ試みを繰り返している。掲載の諾否は新聞によって異なるが、編集長がどちらの判断を下しても、ほとんどの新聞は表現の自由を理由として、あるいは反ユダヤ主義的な言論は慎むべきであるという理由で、自らの判断を擁護する論説を掲載している。この広告キャンペーンによって、1990年代初期に多くの学生新聞にCODOHの広告が掲載され、全国的な議論を巻き起こし、ニューヨーク・タイムズでも取り上げた。2000年以降は、ユダヤ人広告主の批判を受けた事もあって、少数の例外を除き大半の学生新聞が広告を拒否するようになった。
 1987年、ベルリン自由大学教授エルンスト・ノルテが「過ぎ去ろうとしない過去」でかつて迫害されたユダヤ人はいまでは「永く特別に取扱われ、特権化されている」などと述べ、論争となった。1988年2月10日にはノルテ教授の車が放火される。
 1992年10月28日、ベルギーで修正主義者とされた書店が放火される。
  ツンデル裁判とロイヒター・レポート
 元カナダ居住者のエルンスト・ツンデルはサミスダット・パブリッシング (Samisdat Publishing) という出版社を運営し、リチャード・ヴァーラル(本名リチャード・ハーウッド) の著書『本当に600万人も死んだのか?』 (DidSix Million Really Die?) といった書物を出版した。1985年、ツンデルは「ホロコーストを否定する書物を配布、出版した」として「虚偽の報道」罪で裁判にかけられ、オンタリオ州地方裁判所によって有罪宣告、15箇月の禁固刑を言い渡された。この事件は大きく注目され、多くの活動家が表現の自由を訴えて、ツンデルの表現の権利を擁護しようと介入し、1992年にカナダ最高裁判所が「虚偽の報道」法は憲法違反だと宣言し、彼の有罪判決は覆された。この裁判で1988年にツンデルが弁護側証拠として米国のフレッド・ロイヒター(en:Fred A. Leuchter)に依頼して作成した「ロイヒター・レポート」は、一般にガス室とされている建造物では技術的な問題からガスによる殺人は不可能であると結論づけている。裁判でロイヒターが証言をしたものの、彼が工学修士ではなく哲学修士であること、ビルケナウのガス室に関する資料を十分に読むことなくレポートを書いていることを指摘され「専門家による証言」とはみなされなかった。1995年5月20日にはツンデル自宅へ爆弾が届く。その後、ツンデルはウェブサイトを立ち上げて主張を宣伝した。このウェブサイトに対する告訴に対して、2002年1月、カナダ人権裁判所はカナダ人権法に違反しているとの判決を下した。2003年2月、アメリカ合衆国移民帰化局はテネシー州において移民法違反の容疑でツンデルを別件逮捕し、数日後カナダに身柄を送還した。そこでツンデルは難民認定を受けようとしたが、ツンデルは2005年1月まで拘留され、11月にドイツで起訴された。

 ルドルフ・レポート
 1993年には、当時マックス・プランク研究所で化学博士課程にあったゲルマー・ルドルフのルドルフ・レポートがロイヒター・レポートと同様の結論を提示した。批判としてはインターネット上で発表された RichardJ. Green のものがあるが、内容は政治的な面についてのもので、化学の学位を持つ者による学術的反論はあまりない。レポート内でルドルフは「化学を用いてもホロコーストの存在を科学的に立証することはできない」と、化学的な論争を回避している。ゲルマーは採取したサンプルの分析依頼のためにマックス・プランク研究所の名前を使用したため、批判を恐れた同研究所が解雇している。1998年、デイヴィッド・アーヴィングはアメリカ人作家のデボラ・リプスタットが著書『ホロコーストの否認』 で名誉毀損を行ったとして、彼女と出版社のペンギン・ブックスを提訴したが、訴えは棄却された。1998年10月、ユダヤ系の The Scribe誌は「神の存在を否認する者は罰せられるべきである」「ホロコーストへの正しい態度とは、神の敵であるわれわれの敵に罰を与えることである」として、否認論者こそが「われわれの敵」であり、この人々は「ホロコーストに関与し、参加したとみなされるべきである」し、否認論者の頭には「死刑宣告」とある、と述べた。

 オーストリアではホロコースト否認は犯罪であり、アーヴィングが1989年に行った演説を理由に逮捕状が出されていた。アーヴィングは逮捕状が出たのを知っており、オーストリアへの入国は禁止されていたが、2005年、オーストリアへ行くことを選択し、逮捕された。裁判の罪状認否の際においてアーヴィングは、ホロコーストを否認した容疑について認めた。オーストリア内務省の決定で、アーヴィングは国外退去処分とされた。フランスではホロコーストの否認は1990年代に否認主義(négationnisme)
として顕著になってきたが、この動きは遅くとも1960年代にはピエール・ギヨーム (Pierre Guillaume) などのフランス左翼政治家の中に存在していた。1990年代には、フランス共産党の理論的指導者であったフランスの左翼系哲学者ロジェ・ガロディ(Roger Garaudy)が、「ガス室」をはじめとする従来の「ホロコースト」言説に疑義を提出し、イスラエルが政治的にこの言説を利用してきたと論じた。近年、フランスでは左派右派を問わず、否認論が広く展開している。その主張はホロコーストを越えて広がり、戦後それを最大限に利用してきたイスラエル批判にも繋がっている。この中には「ユダヤ人資本家」への批判、聖書にあるカナン人虐殺への指摘、シオニズムに対する批判などが含まれる。

 1990年代半ば以降、インターネットが大衆化するにつれてホロコースト否認論者やその他のグループを含む多くの組織が新たに国際的な登場をしてきた。他方、1970年代後半から頻発した否認論者への暴行や関係出版社への放火なども多発し続けた。1996年9月にはイギリスの歴史評論社印刷所に爆弾放火が行われ、1999年1月16日にはバルセロナの書店Libreria Europaが放火された。

 ヴァルザー論争
 1998年、作家のマルティン・ヴァルザーがフランクフルト書籍見本市の平和賞受賞講演で、ホロコーストがドイツ人に対して「道徳的棍棒」として使われていると述べて元ドイツ・ユダヤ人中央評議会議長イグナツ・ブービスとの間に「ヴァルザー論争」が起こった。

 ベルギー人のジークフリート・フェルビーケ(Siegfried Verbeke)は「アンネの日記」原版には1951年に市販されたボールペンで加筆された部分があり、後から改竄されていると主張、2005年、オランダで発禁となった。
 「ホロコースト産業」論
 ユダヤ人指導者がホロコーストを利用して金銭的または政治的な利益を得ており、「ホロコースト産業」(Holocaust industry) や「ショアー・ビジネス」 (Shoahbusiness) という用語もある。たとえば、1996年、スイスの主要銀行に対し、ホロコースト犠牲者のものとされる休眠口座に眠る預金の返還を求めるユダヤ人の集団訴訟が起こされた。1997年、ドラミュラ大統領兼経済相は「あたかもスイスにもかつて強制収容所があり、ホロコーストの主犯であったかのような非難だ。賠償金の要求はまるで脅迫のようなもの」として、これを「ゆすり・たかり」と非難したが、イスラエルやアメリカの圧力を受け謝罪を余儀なくされる。1998年、休眠口座の調査は続行中だったが、銀行側が今後支払い要求に応じないことを条件に12億5千万ドルを支払うことで政治決着した。2001年10月13日、英紙タイムズはスイスの独立請求審判所による調査の結果を報じ、それによれば休眠口座の総額は6千万ドル程度に過ぎず、ほとんどは少額で、処理した10,000 件近い請求のうち確認できた口座は200件だった。
 ユダヤ人政治学者ノーマン・フィンケルスタインは、2002年、このようなユダヤ人団体の行動をホロコーストを利用して利益を得るものとして批判する『ホロコースト産業』を著した。フィンケルスタインは、ホロコースト生存者の息子であり、ホロコーストついては戦後の通説をなぞる立場に立つが、ユダヤ人団体などからホロコースト否定論者とされ非難を浴びる一方で、ノーム・チョムスキーやラウル・ヒルバーグらに支持された。なお『ホロコースト産業』は「ホロコーストを利用して利益を得るユダヤ人団体」を批判するものであり、ホロコースト否定論を唱えている訳ではない。

 2001年2月にドイツのシュピーゲル誌が発表した世論調査結果によると「ユダヤ人団体は、自身が利益を得るために、独に対し過度の補償要求をしていると思うか」との設問に対し、ドイツ人の15%がそうだと答え、50%が部分的にせよそうだ、と回答している。また2003年12月に行われたイギリスのガーディアン誌の世論調査では「ユダヤ人は自分たちの利益のためにナチス時代の過去を利用し、ドイツから金を取ろうとしているか」という質問に全体の1/4が「そう思う」と返答し、1/3が「部分的だが真実」との認識を示すなど「ホロコースト産業」論も現在のドイツにおいて広く受け入れられている。

 イスラムにおける概況
 イスラム教国家においては、ホロコーストに対するユダヤ人への同情論が、結果的にシオニズムの容認とパレスチナからのパレスチナ人追放へと繋がったとする反発から、ホロコースト否認論が近年台頭してきている。中東では、パレスチナの政治グループだけでなくシリアやイランの政府の人間がホロコースト否認を表明しており、2005年にはイランのアフマディーネジャード大統領が「ホロコーストは無かった」などとホロコーストを否定する発言を行って非難を受けた。
 ホロコースト否認論はイスラム世界では比較的新しい動きである。名誉毀損防止同盟 (ADL) の副理事ケネス・ジェイコブソン (Kenneth Jacobson) はハーレツ(Haaretz) 紙のインタヴューに応えて次のように述べている。

西側の学者によるホロコースト否認論を適用することはイスラム世界において比較的新しい現象である。彼らの姿勢は、ホロコーストが起こったことは真実だが、パレスチナ人がその代償を負担するべきではないという極めて当然のものである。

 ファタハの協同設立者の1人でパレスチナ解放機構の指導者の一人であるマフムード・アッバースはモスクワ東洋大学で1982年に歴史学の博士号を取得したが、学位論文は『ナチスとシオニスト運動の指導者との秘密の関係』と題するものであった。なお、ソ連は1960年代からナチスとシオニスト指導部との秘密の結び付き(en:Zionology) を主張し、それを押し進めてきていた。彼がその博士論文を基に1983年に書いた『もう一つの顔: ナチスとシオニスト運動との秘密の関係』 では次のように述べられている。

シオニスト運動の関心事は (ホロコーストの死者) を誇張し、それによって利益を拡大することにあるようだ。これは彼らが国際的世論とシオニズムとの連帯を勝ち得るために (600万という) この数字を強調させる動機になっている。多くの学者がこれまでに600万という数字について議論し、ユダヤ人の犠牲者数を数十万人に修正するという驚くべき結論に達した。[46]

 アッバースはまた、2006年3月にハーレツ紙のインタヴューでこう述べている。

 私はホロコーストについて詳細に書いており、数字について議論するつもりはないと言っている。私は歴史家の議論を引用したのであって、そこではさまざまな数の犠牲者が言及されていた。ある者は1200万人と書き、ある者は80万人と書いていた。私にはその数字について論争しようとは思っていない。ホロコーストはユダヤ民族にとって恐ろしくかつ許すことのできない犯罪であり、人間には受け入れることの出来ない類の人道に対する罪である。ホロコーストは恐ろしいことであって、私がそれを否認したなどとは誰にも言わせない。

 ホロコーストの修正は、現在、様々なアラブ人指導者によって恒常的に宣伝され、それが中東全域の各種メディアを通じて広まっている[48]。2002年8月にはアラブ連盟のシンクタンクで、アラブ首長国連邦副首相のスールタン・ビン・ザーイェド・アル・ナハーヤン(Sultan Bin Zayed Al Nahayan) が議長を務めるザーイェド協同追求センター (Zayed Center for Coordination and Follow-up) がアブダビでホロコースト修正シンポジウムを開催した。ハマースの指導者たちもまたホロコースト修正を宣伝している。

 2005年12月の演説で、イランの大統領マフムード・アフマディーネジャードはホロコーストがイスラエルを守るために広められた「おとぎ話」だと述べ、国際的非難の新しい波を誘った。「彼らはユダヤ人の虐殺の名の下に伝説を捏造し、神よりも、宗教よりも、預言者たちよりも高い位置にそれを捧げ持っている」と述べ、またユダヤ人を迫害したのはドイツやオーストリアとして、迫害の責任を負うのはイスラエルの国家のために土地を手放しているパレスチナ人ではなくドイツやオーストリアであり、イスラエルはこれらの国々だに移転するべきだと主張した。さらにイスラエルのユダヤ人をアメリカ合衆国に移住させることを提案している。

 2006年4月24日には、「究極の真実を明らかにするために」ホロコーストの真の規模を独立の立場から再び査定することを求めた。米国ではイスラム教徒公共問題協議会en:Muslim Public Affairs Councilがアフマディーネジャードの発言を非難した。同年12月にはテヘランで、ホロコーストの存在に否定的・懐疑的な立場を取る著名人・識者を集めたホロコースト・グローバルヴィジョン検討国際会議が開かれた。一方、ハマースの政治指導者であるハーレド・マシャール (Khaled Mashal) はアフマディーネジャードの発言を「勇敢だ」と評価し、「イスラム教徒はイランを支持するだろう。それはイランが彼らの想い、特にパレスチナの人々の想いを言葉にしてくれるからだ」と述べた。

 2007年の国連総会本会議は、ホロコーストを「歴史的事実」と認め、虐殺を否定する言動を非難する決議案が全会一致で採択されたがイラン代表は虐殺自体を批判的に検証することはできるはずとして、採決に参加しなかった。

 日本における概況
 1994年、政治的には護憲派で左翼とみなされてきたジャーナリストの木村愛二が雑誌『噂の真相』に「シンドラーのリストが訴えたホロコースト神話への大疑惑」と題した記事を寄稿した。1995年には著書『アウシュヴィッツの争点』(リベルタ出版)を発表、言論規制の動きに警鐘を鳴らした。木村の問題提起に触発された本多勝一は、一時的にではあるがホロコースト見直し論に関心を抱き、当時、本多が編集長を務めていた『週刊金曜日』に木村による連載を企画した。

 1994年、筑紫哲也がTBSのNEWS23のテレビコラム「多事争論」においてホロコースト否認に対する言論規制の問題に触れ、ドイツにおける言論規制強化を「他山の石」と呼んで、一定の共感を表明した。
 マルコポーロ事件
 1995年、当時厚生省職員であった医師の西岡昌紀が「ナチ『ガス室』はなかった」という記事を『マルコポーロ』誌に掲載したことが国際的非難を呼び、最終的に『マルコポーロ』紙は廃刊となった(マルコポーロ事件)。記事の中で西岡は「ナチス・ドイツがユダヤ人を迫害した事は明白」として当時のドイツのユダヤ人政策を支持する立場ではないことを明確にした上で、ドイツはユダヤ人を迫害したが「絶滅」までは計画しておらず、収容所でユダヤ人が大量死した原因は発疹チフスなどによるもので、アウシュヴィッツ等の収容所に処刑のためのガス室は存在しなかった、連合国はそれら病死したユダヤ人の死体の映像をガス室の犠牲者であったかのように発表・宣伝した、等の考察を発表した。なお同記事は、数回のシリーズの第一回として書かれた記事であった。

 江川紹子はマルコポーロ事件の直後、マルコポーロの西岡記事を支持しないと明言した上で、サイモン・ウィーゼンタール・センターが文藝春秋に対して行なった広告ボイコットの手法を「民主主義の枠を超えている」と批判、月刊誌『噂の真相』やジャーナリストの長岡義幸などももこの問題を巡る言論弾圧の空気を批判している。他方、木村愛二は『マルコポーロ』の記事がイスラエル建国とホロコーストの関係に全く言及していない点を批判している。西岡自身はその後、パソコン通信上の発言と1997年の著書において、細部の記述には誤りがあったと自ら認めつつ、ホロコースト否認の立場を維持、ホロコースト否認論者に対する言論規制の動きを「ファシズムと呼ぶべきもの」と呼んで批判した。

 ジャーナリストの田中宇は、ホロコーストをめぐる言論状況について「常識と異なる結論に達したら「犯罪者」にされるというのは、分析が禁じられているのと同じ」であるし、またヨーロッパではホロコーストの事実性を検証の対象にすることさえ禁じられようとしていると指摘している。また、シオニストの中でも過激派と、国際協調主義を労働党系の中道派(左派)とでは意見が対立していると指摘している。
 批判
※主な論点については#争点を参照。 ホロコースト否認論に対しては、イスラエルやユダヤ人社会からは強い批判が寄せられている。
 証明責任に関する主張
 ある命題や弁証を支持するためには、主張者は証拠を提示しなくてはならない。例えば、噂は通常正当な証拠として認められないが、目撃者は証拠と認められる場合がある。他からの受け売りの話は証拠として認められないが、申し立てられた問題を証明する公式で日付があり書名のある文書は証拠として認められる。証拠が提示されると、主張者の申し立ては一個の問題として扱われ、証拠は精査される。主張者には証明責任が生じる。主張者の対話の相手が主張者の証拠に疑問を呈したならば、対話者は自分自身の主張をしなくてはならない。例えば、これやあれやの証拠は偽物であるという主張である。こうなると証明責任は対話者の方に移ることになり、証拠基準は元の主張が立てられたのと同一程度となる(証明責任の転換)。主張者の証拠は一見自明なものとして、証拠としての価値能力においていかなる力をも持つことになる。対話者は、主張者に異議を唱えるためにさらなる証拠を要求して、それによって作られるような懐疑的推量や仮想の可能性に答えるというやり方はできない。もしこれが通れば、主張者の証明責任は不合理な水準に押し上げられてしまう。ホロコーストのケースに上記のことを適用すると、生存者、目撃者、歴史家は全体として主張者と見なすことができる。生存者、目撃者、歴史家によって提出された証拠は圧倒的な量ではあるが、規模や細部に関して或いは信憑性に欠け、或いは反対証拠により否定される。
 否認論者の主張する「事実」や「証拠」に関しては、裁判の場で提出された証拠も含めて数多くのものが提出されている。しかし、独立した調査によって、これらの主張は欠陥のある調査、偏向した証言、さらには意図的に捏造された証拠に基づいている。
 異なる事実の合成によって誤った結論へ導される。頻繁に使われるのは、殺傷力を持つチクロンBという殺虫剤が大量に保管されていた事実とナチスがユダヤ人に対して加虐的だった等の組み合わせである。言い訳としては非常に薄いガス室の扉の写真であるがこの写真は実際のガス室の扉であっても、シラミ駆除のためのガス室に使われたものと推測されている、というものがある。このような言説は殺害に適した造りのガス室が実際にあったという心証を与えるが、全てはシラミ駆除のためのガス室であった事が明らかになっている。
 ホロコーストが中央で計画されたことと、ホロコーストの計画と実行におけるナチス指導部の役割は疑うことのできない事実と主張するが、彼等にとってもっとも強力な説得材料は文献や記録、証拠の提示ではなく経済的、政治的、肉体的圧力である。
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