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れんだいこ:戦前日本のユダヤ問題研究史考 [政治・社会]

れんだいこさんのブログより全文引用
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/hanyudayasyugico/nihonnokenkyushi/senzennokenkyuco.htm
が見られなくなっているため、コピーを作成する。

戦前日本のユダヤ問題研究史考
(最新見直し2007.3.22日)

【幕末の皇道研究」】
 水戸学派が、南朝の顕彰と後醍醐天皇の建武の中興への復古を唱えた。楠木正成の楠公精神(七生報国)が称揚された。王政復古が唱えられ、神武天皇建国の精神への復古へと進んだ。19世紀、欧米の日本侵略の魔手が伸びてきた時、平田篤胤、佐藤信淵(のぶひろ)らが皇道の振起に向った。その最後の旗手として今泉定助(1863・文久3~1994・昭和19)が、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)への復古を提唱し、大東亜戦争を「世界皇化」と位置づける。これを今泉神道、今泉神学。

【明治、大正期の皇道研究」】

【シベリア出兵の思いがけぬ副産物】
 1918年、ロシア革命干渉の為の連合軍がロシアの東西に派兵された。日本は、連合軍との協定を上回る7万2千の大軍を派遣し、ウラジオストックから満州、ザバイカル方面に展開した。4年後の1922(大正11)年、孤立し、多くの犠牲を払って撤兵した。この時、樋口艶之助(ニコライ神学校出身の陸軍学校ロシア語教授)、小谷部全一郎(陸軍省の通訳官)、酒井勝軍(かつとき、軍人)、安江仙弘(のりひろ、東京外語学校陸軍委託学生)、四天王延孝(陸軍士官学校出身の軍人。第一次世界大戦でフランス軍に派遣され、西欧のユダヤ禍論を学び、以来ユダヤ問題研究の第一人者になる)らが、「シオン長老の議定書」を持ち帰った。その後の研究で、世界征服を目論む国際ユダヤの陰謀論を説き始めた。

【ユダヤ禍論と日ユ同祖論の登場】
 大正から昭和初期にかけて「ユダヤ禍論」が登場し、その裏返しとして「日ユ同祖論」が登場した。他にもキリスト渡来説が喧伝され始めた。竹内巨麿の「竹内文書」の開示、山根キク、酒井勝軍(かつとき)の日本根の国思想が喧伝され始めた。

 酒井勝軍(1874-1940)は、山形県生まれ。仙台神学校卒業後、アメリカに渡り、牧師となって帰国。語学力を買われ、日露戦争やシベリア出兵に大本営付の通訳として従軍し、当時、西欧を席巻していたユダヤ禍論を知り反ユダヤ思想を身につける。

 1927(昭和2)年、陸軍の密命によりパレスチナで中東情勢を調査し、親ユダヤ派に転向する。帰国後、「日ユ同祖論」を唱え始めた。モーゼが神から授かったという十戒の本物は日本に隠されている、エジプトピラミッドの原形が日本にあるはずだとして日本各地の探索に出向き始めた。お椀堅の山々を訪ね歩き、日本がピラミッド発祥の地なる説も唱え始めた。

 1929(昭和4)年、竹内文書公開で知られる竹内巨麿が開教した天津教本部を訪れている。酒井と出会った巨麿は請われるまま、モーゼの十戒石の「本物」やピラミッド建造の由来書などを皇祖皇太神宮の宝物から出してみせた。酒井は以来、天津教の有力なイデオローグとなった。

 1932(昭和7)年、日猶協会を設立し、天孫民族日本とユダヤ人のシオン運動の神聖攻守同盟による世界統一を打ち出した。


【昭和初期の皇道研究」】
 2006.4.8日付日経新聞文化欄の「戦前の大学『国粋』へ傾く」その他を参照する。

 戦前の論壇を自由主義、左翼思想の面からのみ評するのは片手落ちというべきで、1930年代に於いて、ヘーゲルやゲーテから始まりマルクス主義、無政府主義に至る西欧哲学、思想、文学に対抗する国粋主義的民族派のイデオローグが台頭していた。国家社会主義革命を目指した北一輝、和辻哲郎、日本浪漫派の保田与重郎、、国士舘専門学校教授の蓑田胸喜(むねき、1894ー1946年)、皇国史観の歴史学者として知られている東京帝大教授・平泉澄(1895ー1984)、東大の右翼学生運動の中心団体「興国同志会」を支援した法学部教授・上杉慎吉らが知られている。

 2006.2月末刊行の竹内洋、佐藤卓巳編「日本主義的教養の時代」(柏書房)は、概要「特に1931年の満州事変以降の大学キャンパスで、国粋的な思想が大きな影響力を持った」ことを指摘している。

 国粋主義台頭の契機を作ったのは、国士舘専門学校教授の蓑田胸喜(むねき、1894ー1946年)で、1925年創刊の雑誌「原理日本」で「帝大粛清」を掲げ、特に東大、京大の帝国大学法学部の自由主義、マルクス主義的な教員批判を展開し、次々と辞職や著書発禁に追い込んでいくことになった。「無学無信無節操漢としてそれ故に日本国体と人道との廃欠者である」といった調子の批判を投げつけていった。関西大学の竹内洋教授は、同時代のの思想とも違い、「自ら唱える『日本的なるもの』以外を徹底的に排除することで成り立つ思想だった」。1935年、天皇機関説を巡って元東大教授の美濃部達吉が貴族院議員を辞職したのも蓑田の批判が引き金となった。

 2006.4月刊行の若井敏明著「平泉澄」(ミネルヴァ書房)は、皇国史観の歴史学者として知られている東京帝大教授・平泉澄(1895ー1984)の本格的な評伝で、首相を務めた近衛文麿や陸海軍の将校などに影響を与えた。国民総動員体制や特攻兵器「回天」の実用化に影響を与えた。東大の右翼学生運動の中心団体「興国同志会」を支援した法学部教授・上杉慎吉は、井上準之助・前蔵相らが暗殺された血盟団事件に影響を与えており、現役の東大生4名が関わった。

【満鉄調査部の「ユダヤ問題時事報」】
 戦前、満鉄調査部は、「ユダヤ問題時事報」を定期的に発行して、関係者に配布していた。

 以下、「ユダヤ製国家日本」(ラビ・M・トケイヤー、2006.1.31日初版)を参照する。

 1938(昭和13).1月、ハルピンの商工クラブで、第1回極東ユダヤ人大会が開催された。この大会には、満州だけでなく、香港、天津(てんしん)、上海(しゃんはい)などの中国大陸の各地や、日本からもユダヤ人の代表が参集した。この時、関東軍の特務機関長であった樋口李一郎少将が、「ユダヤ民族の祖国を建設しようとする熱意を、よく理解することが出来る」と述べ、盛んな拍手を浴びている。

 1930年代、2万人に昇るユダヤ人難民が、ナチスの迫害を逃れて、ソ連へ向った。ソ連が難民の受け入れを拒んだので満州国へ入植しようとして、酷寒のシベリアを経由して満州国境のオトパールへ辿り着いた。難民はテント生活を始めた。既に、満州にはユダヤ人居留民組織があり、極東ハルピン・ユダヤ人協会は、ハルピンにあった関東軍の特務機関長であった樋口李一郎少将にオトポールのユダヤ人難民を救うように懇請した。

 樋口は、新京(現在の長春)に司令部を置いていた関東軍の東条英機中将に、ユダヤ人難民の入国許可を打診し、了承を取り付けた。この結果、満鉄鉄道が何本もの救援列車を走らせた。

 もう一人、樋口李一郎少将と陸軍士官学校の同期生であった安江仙弘(のりひろ)大佐がいた。安江は樋口の同志として樋口を補佐していた。「東条、樋口、安江が2万人以上のユダヤ人難民を救った」史実が残されている。

 日独防共協定を結んでいたドイツは、日本政府に対し、ドイツ外務省を通じて、大量のユダヤ人難民を満州国に受け入れたことに対して、強硬な抗議を行った。この抗議は、東京から新京の関東軍司令部へ伝えられた。東条参謀長は、「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」として、一蹴した。結局、人英がーまた。傷虚を苦闘った。

【国際政経学会」】
 太田龍・氏の「週刊日本新聞」の2003.8.16日付け「国際政経学会」の精神継承こそ、大東亜戦争継続の第一歩である」(http://pavc.ne.jp/~ryu/)、赤間剛「フリーメーソンの秘密」その他を参照する。

 「大東亜戦争を継続継承する」、とは、何を意味するのか。そのために第一になすべきことは、どう言うことなのか。それは、「国際政経学会」の精神と、業績の継承である。

 「国際政経学会」とは、1935(昭和11)年に愛岩北山()、増田正雄()、四王天延孝(陸軍中将)、赤池濃(貴族院議員)、上原虎重(毎日新聞朱筆)、白鳥敏夫(外交官)らによって設立され、月刊「ユダヤ研究」、不定期刊「国際秘密力の研究」を出版し、ユダヤ問題を研究した機関で、敗戦の日まで続いた。執筆者は、上記のほかに宇都宮希洋、桜沢如一、若宮卯之助、安江仙弘、黒田礼二、長谷川泰三、朝比奈克彰、布川孫一、貴志康人、北側清之助、久保田通敦、武藤貞一らがいた。反ユダヤ、親ユダヤ的両見解が同居しつつ、主としてユダヤフリーメーソンの国際秘密力に対する研究と警鐘に重点を置いていた。

 「国際政経学会」を背後から支援したのが、軍の重鎮であった小磯国昭、板垣征四郎、大久保弘一や、学会の仲木貞一、佐伯好郎、藤沢親雄、左近義弼、政界の一条実孝、小森雄介、簡牛凡夫らであった。「国際政経学会」は、1945(昭和20).8.15日の敗戦と、そして米英オランダカナダソ連など連合国の占領と同時に、イルミナティ悪魔主義占領軍によって、跡形もないまでに破壊解体抹殺された。

 国際政経学会の中心人物のうち、小磯国昭、板垣征四郎、白鳥敏夫(枢軸派外交官)、四王天延孝陸軍中将の4名が、敗戦後、米英ユダヤイルミナティ占領軍によっていわゆる戦犯として逮捕された。小磯国昭、板垣征四郎、白鳥敏夫が東京裁判法廷によってA級戦犯として起訴され、小磯国昭、板垣が1948(昭和23).12.23日処刑され、白鳥は終身禁錮の判決を受け、獄中病死した。いずれも靖国神社に祀られて居る。

 四王天延孝陸軍中将については、昭和初年、上原元帥を首とする陸軍内の売国奴フリーメーソン一味によって陸軍を追放されて居り、その後日本の国家公職に無縁であったことにより、ユダヤイルミナティ米英占領軍も、四王天中将をA級戦犯として起訴する証拠がなく、証拠を捏っち上げることも出来なかった為不起訴となった。A級戦犯の死刑判決が執行されたあと釈放された。

 しかし、その生き残りの僅かな人々は、細々と、その道統を維持して来た。平成三年。この年は、「国際政経学会」の伝統復活が、公然と提唱された、記念すべき、歴史的節目(ふしめ)である。

 大東亜戦争の精神の継承は、まず、思想戦、心理戦、世界観戦争として、設定されねければならない。そして、この思想戦継承の中核は、「国際政経学会」の精神の継承、発展、として規定されなければならない。「国際政経学会」は、戦時中といえども、その言論は、日本国政府 官憲の厳重な監視下に置かれて居た。

 これは奇妙に聞えるか。そのことに疑問を抱くひとは、渡部悌治著「ユダヤは日本に何をしたか」(成甲書房、平成十五年一月刊。原本私家版「攘夷の流れ」は、平成四年刊)を、熟読してほしい。

 前記、渡部悌治著には、大東亜戦争中も、財閥は、ユダヤの出店。日本国中ユダヤのスパイだらけ。と述べられて居る。そもそも、日本の「財閥」の正体は、何なのか。ここでは以下、省略するが、「国際政経学会」の精神を、真剣に継承する作業なくして、大東亜戦争の継承を云々することは、大言壮語、空念仏、空威張り、虚勢を張る、ことにしかならない。(了)


 太田龍・氏の「週刊日本新聞」の2003.8.27日付け「昭和二十年八月十五日の日本の降伏のあと、日本の国体が護持されたのが、それともそうでないのか。平泉澄以下のペテン的皇国史観派」を転載する。
 月刊「猶太(ユダヤ)研究」(国際政経学会、昭和一六年-十九年)を読んで行くと、実に、的確に、国際政経学会の先輩たちは大局の情勢を把握して居られたことが分る。そこでは、大東亜戦争は、神国日本と、悪魔的ユダヤとの戦いである、ユダヤ米英の日本に対する戦争の目的は、神国日本の国体の破壊である、と、明言されて居る。にも拘わらず、国際政経学会のこの正しい路線と思想は、当時の日本政府、陸海軍には、全く、受け入れられて居ない。財界に至っては、言うだけ野暮、と言うものであろう。だからこそ、昭和二十年に入ると、日本政府は、ソ連共産政権に対して、対米英講和の口を利いてもらうように、大まじめで、奔走するなどと 言う、阿呆らしいていたらくをさらしたのである。昭和二十年八月十五日(十四日)、日本政府は、「国体護持の条件付き」で、ポツダム宣言を受諾し、米英に対して降伏する旨、敵国に通告した。この「国体護持の条件」については、陸軍が強硬にに主張したことは、良く知られて居る。つまり、当時の日本政府は、日本が戦争して居る、当の相手、米英両国の対日戦争の主要目的(日本の国体の破壊)を、この期に及んでも、理解して居ないのである。

 それだけではない。「日本の国体」なるものの内容が問題である。「国体明徴運動」は、一見、昭和初年、「五.十五事件」以来、日本全国を制圧したかに見える。しかし、そこでの「国体」の内容は何だったのか。その内容を規定した人物は、「皇国史観」の主役、平泉澄東京帝大教授(国史学)である。「国際政経学会」の立場と、この平泉澄的皇国史観は氷泥、相容れない。しかし、この件は、ここでは省略する。

 また、「国際政経学会」とは、全く無関係ではあったものの、大正昭和前期、日本神道界の巨人と言われた、今泉定助先生、この今泉神道学もまた、平泉澄の皇国史観とは全く別物である。平泉澄は、「天皇絶対」を呼号した。そしてこの平泉澄は、岩倉、木戸(桂)、伊藤以下の逆賊による、孝明天皇弑逆事件については全くの知らぬ顔の半兵衛。要するに、孝明天皇弑逆を、事実上、容認するのである。孝明天皇弑逆を肯定して置きながら「天皇絶対」とは、よく、口が曲がらない。偽善とペテンのこりかたまり。それが、平泉以下の皇国史観の正体である。つまり、問題の本筋、根本に於て、すべてがおかしい、すべてが狂って居る、のである。平泉澄以下のペテン的皇国史観派を居る。今ここで、明確に弾劾せよ。(了)

【「大東亜戦争調査会」】
 「国際政経学会」と並行して大東亜戦争調査会が存在していた。昭和18年から19年にかけて5冊発行しており、白鳥敏夫がただ一人、ユダヤ問題に真っ向から言及している。昭和19.5月の「米国の世界侵略」の中の「大一章 世界のきょう児、米国」の「第二節 彼のユダヤ性と日独伊」は次のように記している。
 「米国人の新帝国主義の張本人がルーズヴェルトであり、したがって彼こそ今次戦争の火付け人であるという事実を、最も早く認識したのはドイツ人である。つとにユダヤ人の悪魔性を看破し、これを剔抉(てっけつ)していたドイツ人は、そのユダヤ人が『一方に於いてはソ連の共産政権を左右し、他方に於いては米英及びフランスの資本主義を把握して、ソ連の赤軍、英国の海軍、米国の金力と物勢力とを以って一撃にユダヤ人の世界制覇を完成せんとして今次戦争を企み、その陰謀の主役として選ばれたのがルーズヴェルトである』と、こう見ていたのである」(32P)。
 「何よりもまづユダヤの悪魔性を認識することが大切である。日独伊三国同盟の前文において、万邦をして所を得しむることが世界平和の前提条件である事を謳っている。これは八紘一宇の日本肇国(ちゅうこく)の皇謨(こうばく)に出るものであって、この前文は一言一句日本側が作成し、独伊はそのままこれを受け入れたものである。当時賜った詔勅にも、はっきりと万邦をしてその所を得しめ兆民をしてその緒に安んぜしめる肇国の御精神が仰せだされている。三国の協力によって作り出されるべき世界の新秩序が、その根本の精神を日本肇国の神業に汲むことによって明白にされている。

 これに反して敵米英の戦争目的は何であるか。それは、ユダヤの理念たる金権制覇以外の何ものでもない。他民族を呪い、ユダヤ民族のみをいわゆる神選民族として神が特別の恩寵を垂れ、その非ユダヤ民族制圧の野望に対して加護を与えるというユダヤの極めて利己、下賎なる理想こそは、今日、米英戦争業者の戦争目的と完全に一致しているところである」(42P)。 
 太田龍・氏の「長州の天皇征伐」243Pは次のように記している。
 白鳥敏夫は、日英同盟締結以来、圧倒的に親英米派が支配していた日本外務省内で、初めて、反ユダヤ、反英米、ナチスドイツ寄りの立場を明言した外交官として、日独伊三国同盟を推進した。そのために、敗戦後、米英ソ戦勝連合国の東京裁判で「A級戦犯」の一人として訴追され、終身禁固の判決を受け、獄中病死している。

【「河豚(ふぐ)計画」】
 1938(昭和13)年、「河豚(ふぐ)計画」が立案され、その年、近衛文麿首相、有田八郎外相、池田成彬蔵相、板垣征四郎陸相、米内光政海相の閣議で決定された。実行担当者は財界の鮎川義介と特務機関を主として民間人がこれを補佐する大プロジェクト秘策となった。

 その内容は、当時ヨーロッパで迫害されていたユダヤ人の国家を満州のソ連国境地帯に建設することでユダヤ人と同盟し、ひいては日米の和平を講じるというものであった。М・トケイヤー氏は、「この政府案が実行されたら、第二次大戦による日本の敗戦もなかったろう」と云われている。しかし、この裏交渉は、日米ユ双方の事情から失敗した。
 いわゆる満州国建国におけるユダヤ人定住計画「河豚計画」について

 日本は満州国にユダヤ人コロニーを用意した(1)2011-08-20
 http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10991704086.html

 日本は満州国にユダヤ人コロニーを用意した(2)2011-08-23
 http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10994774846.html
 日本は満州国にユダヤ人コロニーを用意した(3)2011-08-24
 http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-10995534303.html


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