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正当な後継者 [歴史]

兵庫県三田市の九鬼家藩主の歴史を調べていて、昔の人は男の子が生まれなければ、親戚筋から養子をもらうことはあたりまえのことで、その親戚筋にもいなければ、一旦よその家の子を親戚筋の養子にして格を上げてから、また別の家の養子にするということが、よく行われていたようです。
ですから、血がつながっているということは、必ずしも必要ではない。

そうすると正当な後継者であるということは、どういうことであるかというと、その人が残された人たちによって、正当な後継者であると認められるということが必要なわけです。

しかるべき筋の血を引いていますといっても、残された人々がその人を後継者と認めなければ、自分が後継者であると言っても認められない。
乗っ取りというか、なりすましにあたるのではないかと。
その人は果たして正当な後継者であると認められたのか。

漢字廃止論の危険さ [歴史]

昨日、国会図書館関西館で「あの人の直筆展」があったので最終日にはるばるいってきました。

井伊直弼や坂本竜馬などの貴重な直筆が解説とともにみることができました。

そこにカタカナタイプライターで書かれた手紙も展示されていました。

詳細は忘れましたが、日本語は漢字、ひらがな、カタカナなどの文字の種類が多いので、外人にも読めるように漢字を無くそう、カタカナで書こうという流れで作られたものだそうです。
そのキー配列は現在のカナキーボードの配列につながっているとか。

確かに学習する側から見れば、文字の種類が多いのは覚えるのが大変です。
しかし、漢字を廃止すると言うことは、過去に書かれたものを後世の人が読めなくなってしまうということで、それはとてつもなく恐ろしい運動なんだと思います。

https://ja.wikipedia.org/wiki/漢字廃止論

wikipediaの漢字廃止論を読むと、江戸時代の終わりからそれを主張する人々があわられてきたようです。
だからもちろん、外国人に洗脳されたんでしょう。
**********
1886年に前島密、明治5年に福澤諭吉!、清水卯三郎、1881年(明治14年)秋、吉原重俊、高崎正風、有島武、西徳三郎その他が仮名使用運動を展開し、丸山作楽、近藤真琴、物集高見、大槻文彦その他がこれに加わり、翌1882年(明治15年)「かなのとも」、同年夏には肥田浜五郎、丹羽雄九郎、後藤牧太、小西信八、辻敬之その他が「いろはくわい」、また一方では波多野承五郎、本山彦一、渡辺治、高橋義雄、伊藤欽亮その他は「いろはぶんくわい」を設立した。かくして1882年頃には3団体が鼎立(ていりつ)し、同年5月、「かなのとも」から機関雑誌「かなのみちびき」が発行され、仮名主義の団体を糾合し、同年7月には「かなのくわい」が組織された。
会長は有栖川宮熾仁親王をいただき、吉原重俊、肥田浜五郎が副会長、高崎正風、丹羽雄九郎が幹事であった。

太平洋戦争終結後、1948年(昭和23年)に「日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている」という偏見から、GHQのジョン・ペルゼル[2]による発案で、日本語をローマ字表記にしようとする計画が起こされた。そして正確な識字率調査のため民間情報教育局は国字ローマ字論者の言語学者である柴田武に全国的な調査を指示した(統計処理は林知己夫が担当)。1948年8月、文部省教育研修所(現・国立教育政策研究所)により、15歳から64歳までの約1万7千人の老若男女を対象とした日本初の全国調査「日本人の読み書き能力調査」が実施されたが、その結果は漢字の読み書きができない者は2.1%にとどまり、日本人の識字率が非常に高いことが証明された。柴田はテスト後にペルゼルに呼び出され、「識字率が低い結果でないと困る」と遠回しに言われたが、柴田は「結果は曲げられない」と突っぱね[3]、日本語のローマ字化は撤回された[4]。この話は2010年9月23日放送のみんなでニホンGO!で取り上げられた[5]。
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もしかすると、この国字ローマ字論者の言語学者である柴田武が、GHQに屈して結果を曲げていたら、漢字は学校で教えられなくなっていたかもしれません。
自分の主張とはあわないのに、結果を曲げないとは素晴らしい人です。
GHQはわざわざ国字ローマ字論者に調査を依頼したのに、結果を曲げてくれなかった。
そうするとものすごくきわどい橋をわたってきたのだなと思います。

井伊直弼の手紙を見ても、古文書を私は読むことはできないけれども、その中の漢字なら形がわかったりします。
びっくりなのは、福沢諭吉が漢字廃止を言ってたことです。
留学組は洗脳されちょるってことですね。

そして話はずれますが、古文書どころでなく、うちの子供たちはおばあちゃんからきた手紙がくずし字なので、読めないようです。
うちの母は野菜を送ってくれるときに、いつも手紙をくれるのですが、もうそんな風に手紙をもらう人も減っているでしょうね。

韓国の鎖国から開国へ [歴史]

「漫画 韓国の歴史 15 鎖国政策と開化運動」ほるぷ出版 を読んでいます。
お隣の国なのに歴史のことはあまり知りません。
そして教科書に韓国がでてくるときは、日本に侵略されるときだけで、それ以外の時はどうであったかは教えられてはいません。

この本によると、1866年1月に天主教徒をとらえ、弾圧令を下した。
出国を誓約するする外国人神父を釈放する、天主教を信じないといったら即刻釈放するとしたが、神父たちは拒否した。
信徒たちも進んで殉教の道を選び、3年間で八千人あまりが処刑された。
これが丙寅迫害である。
怒ったフランスが攻めてきて朝鮮は戦った。

1868年4月大院君の父(朝鮮国王の祖父)の墓が、荒らされた。
犯人は、中国の上海に居留するドイツ商人オッペルトとフランス人神父ペロン、アメリカ人ジェンキンス。
彼らはマレー人と中国人100余名を率い、朝鮮人天主教徒数名の助けを得て、墓を盗掘した。
うばいとったもので、通商交渉をしようとした。
「他人の先祖の遺骸で通商の取引をしようとは、けものにもおとるやつらだ!」
オッペルト盗掘事件は国際世論にも糾弾された。
朝鮮に鎖国の決意をいっそう固めさせ、天主教迫害に拍車をかけることになった。

朝鮮は欧米に何度戦いをしかけられても、勇敢に戦っている。

そして驚いたのが明治になってから、日本は朝鮮に対して態度を変えたとある。
「日本から新国王即位の知らせと再度の修好を要請する国書がまいりましたが、我が国を尊崇してきた昔とは異なり、言葉使いが傲慢無礼であります。」
「なに、「大日本皇帝が朝鮮国王に書をいたす」だと?」
朝鮮では国書の内容を問題にして受け取りを拒否した。

開化思想は清で起こった洋務運動と、日本で唱えられた文明開化論と、外からの影響を受けた。

海外進出を目論んだ日本は、1876年に6隻の軍艦を率いて来航、門戸開放を要求した。
(日本がされたのと同じことを朝鮮に対してしていますね)
朝鮮政府は日本と不平等条約を締結して、門戸を開放することになった。
開国派と鎖国派の間で対立が起きる。

日本ではしばらく静まっていた征韓論がまた台頭してきた。
「大院君がふたたび政権を取ったらことが面倒だ。閔氏政権のうちに行動しないと」
「虚弱な閔氏政権は外国勢力に頼ろうとするはず。我が国の不満勢力の関心を外に向けさせるのにも」
「朝鮮は日本の飯の種だ。よその国が飲み込む前にはやくせねば」
「日本の資本主義発展のためには朝鮮が必要だ」
「西洋の列強たちも朝鮮の開放を望んでいるではないか」
「朝鮮を握れば中国やロシアも簡単には動けないだろう」
日本は朝鮮に軍艦を差し向ける。

日本「平和裡に測量作業をするものに朝鮮が発砲してくるからだ」
朝鮮「停止命令を無視し、領海侵犯をしたのは日本だ」
日本「12か条の条文をみて10日以内に回答なされ。条約が成立しなければ大砲をおみまいすることになる」
朝鮮「そんな無礼なことを」
江華島条約が締結された。
この条約は類例のない不平等条約で、この条約は日本が朝鮮を侵略する橋頭堡の役割を果たしていった。
日本「いひひ、西洋の仕打ちの仕返しを朝鮮にしたまで」

江華島条約で、朝鮮の外交政策が開放に変わると、アメリカ、イギリス、ドイツ、イタリア、ロシア、フランス、オーストリア、ベルギー、デンマークとつぎつぎに修好通商条約をむすんだ。
開港後、朝鮮政府は修信使を送り、日本の発展の様子と世界情勢の変化を知り、開化の必要性を強く感じるようになった。
これは日本の懇請によるものだった。
日本の汽船に修信使をのせて、日本では手厚いもてなしをし、議事堂をはじめとして軍事施設や工場などをくまなく見学した。
(英艦・オーディン号で欧州各国へ派遣された文久遣欧使節みたいなことをしたということですね)

「西洋の文物を受け入れ、1日もはやく近代国家に発展させなければなりません」
「しかし、伝統的な精神文化も維持していかねば」
「富国強兵の一手段として技術だけ受け入れよう」
「そうとも。技術以外に西洋人から学ぶものがありますか」
「同感だ。ハハ」
東洋の精神文化と西洋の技術の融合、これが東道西器論である。

1881年4月には新しい軍隊を創設し、日本式の軍事訓練を受けさせた。
また視察団員は、約3ヶ月間日本を見て回った。
この視察団は12の班にわかれ、各班は責任者である朝使とそれに従う随行員二名、通訳、従僕の計五人で構成された。
視察団は国王から各自指示を受け、帰ってから報告書を提出した。
にほんの行政機関をはじめ、軍事、教育、工業などを詳しく視察した。
何人かは残って教育を受けた。
あるものたちは慶應義塾で、あるものは同志社で、あるものは造船所で教育を受けた。

いっぽう、1881年9月には六十九人が清へ向け出発。
機器局で新式武器の製法と軍事関係の基礎を学んだ。

一年後清の技術者四人を連れてきて、近代的武器製造工場である機器廠を設置することになった。

留学生派遣は開化派の人々が、中心になってすすめられたが、大部分が日本に集中した。
1884年春、50余人の留学生が帰国することになったが、かれらのほとんどが開化派に加わり活躍した。
(ここら辺は日本とおなじですね。)

開国派と保守派の対立が起こる。

李恒老は、丙寅洋擾のとき、外国勢力撃退の力を歴史の中に求めた。
「わが朝鮮は山河険しく、たやすく要塞になり、、、国家が危機に直面した際には戦って国を守るのが民族の生きる道です。西洋のものは絶対に使ってはならずすべて回収し、焼却すべきです。そうすれば交易の必要なく交易がなければかれらの害毒は浸透できません」
「いったん門を開けば2−3年のうちに西洋化されないものはほとんどなかろう」
「西洋に毒された兆候だ、市馬に積まれた西洋の品々を回収し、街頭で焼いてそれでも余地引きするものはきびしく罰しなさい」
かれは西洋との交わりは、必ず西洋への隷属となることを警告し、政治、経済資源、文化の隷属、社会風習の破壊、民族の生存など、5つの問題を指摘した。

崔益鉉の五不可訴
崔益鉉は、次の5つの理由をあげて日本との修交に反対した。
第一に、この講和は日本の武力的威嚇に屈服するものだ。だから、朝鮮が軍事力をもっていないからといって講和をむすぼうとするのは、目先の応急処置に過ぎず、かれらの貪欲な要求に打ち勝つことはできないだろう。
第二に、いったん講和を結べば物資を交易することになるが、かれらの商品は贅沢品や手工業製品だから無限だが、われわれの商品はすべて必需品で、土から取れる有限なものだから、すぐ枯渇するだろう。
第三に、かれらはまさしく洋賊だから、邪教の書籍が入り込んで国中に広がり、人倫が衰えるだろう。
第四に、日本人が往来すれば、われわれの財産を奪い、婦女子を犯すなど、人倫が地に落ち、民が安心して暮らすことができないだろう。
第五に、倭賊は物欲が強いだけで、少しも人間らしい道理がない獣と同じだ。人類が獣とともに暮らすことはできない。

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文明開化は素晴らしいと習ってきて、そう思ってきたけど、ほんとうにそうかと思うわけで、李恒老のいうように「西洋との交わりは、必ず西洋への隷属となる」のではないかと今は思います。

そして韓国の歴史は歪曲しているとマスコミは言うけれど、いろいろ調べてみれば、歪曲しているのはむしろ日本だと言うことに気づきます。
悪いのは南蛮ー西洋の国々で、それらに影響を受けた日本。
「蛮」の字をあてたというのは、本質を見抜いていたと言うことですね。
知恵によって、中国、日本、朝鮮は鎖国していた。それを武力で開国させ、物質文明で洗脳。
朝鮮はなにも悪くない。

もしかしてキリスト教は [政治・社会]

フリーメイソンだ、イルミナティだ、ユダヤ金権勢力だとかありますが、フルベッキを追い、日本、中国韓国でキリスト教と戦ったことなどを知り、もしかすると、悪の総本山はキリスト教そのものかもしれないと思います。

そしてイルミナティだなんだというのは、キリスト教から目を逸らさせるためのものかもしれません。

ちょうど12月3日の朝日新聞で、西宮の夙川教会で1943年大阪市の教会に転任していたブスケ神父がスパイと疑われ連行され、約20日後に拷問が原因で獄死したという記事が載っていました。
記事ではまるっきり教会の人がスパイであるはずがないというスタンスで書かれていますが、いろいろと間違った歴史を押し付けられていることに気づいてからは、それもいろんな角度でみてみないといけないと思っています。
彼らが布教していった先に、ほんとうに愛と平和がおとずれたのか。
秀吉や家光がキリスト教を弾圧していたのは、平等という考えが江戸時代の身分制度と反するから弾圧されたのだと学校では習ったけれど、大量に日本人が奴隷として海外に売られていたことはさっぱり知らされていなかった。
知らされていない、隠されている歴史が相当にあるようです。
いろいろ知っていくことが必要だと感じています。

「黒人ー>白人ー>黄色人」の237ページに、フランスのシャンポリオンがメレネプタ王の墓を調査したとき、
王墓の壁画には、褐色のエジプト人、同じ仲間の黒人、3番目が黄色人、最後に白人がきているところ、
シャンポリオンは順序を変えて、エジプト人、黄色人、黒人、白人として発表したとあります。

エジプトの時代には、白人は最下層であったと。
そして追いやられたか、逃げ出したかはわからないけど、ヨーロッパへ北上していった。
この恨みを忘れずいつか全世界を自分たちのものにしてやるとしたのが旧約聖書かもしれない。
ちょっと読んでみなければなりません。

大変に役に立つブログです。
しばやんの日々「日本人奴隷が大量に海外流出したこととローマ教皇の教書との関係~~その2」
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-192.html

「黒人ー>白人ー>黄色人」高野信夫 [歴史]

「人種の起源 黒人ー>白人ー>黄色人」高野信夫著 三一書房 1977年発行 を読みました。

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人の始まりは、黒人であり、その白子としての白人、黒人と白人のあいのこである黄色人である。

またボルクの考え方に「幼形進化(胎児化)」というのがあり、進化が進むにつれその胎児の形に近づくという説である。

そしてダーウィンはじめ、多くの白人の学者は、黒人から白人が発生したと言う考えを受け入れたくない。
白人は、黒人や黄色人より優れた人間だと思っているから。
そのために、そうではない説を作り出す。

エジプト人は黒人であったと思う。
エジプト文明は最初の文明で、黒人に作られたという説も、白人の学者には受け入れがたいので、メソポタミアあたりで、黄色人が最初の文明を作ったことにしたいと思っていると。

ヒトの形態が猿の仲間とは大いに異なっていることの理由を、ダーウィンよりもボルクの考えの方がはるかによく説明しえている。しかし、あっという間に世界を風靡したボルクの胎児化仮説は、電光石火のごとく消えさってしまった。現代ではボルクを否定している。
ボルクを抹殺したからくりは現代の進化論にも現代の医学にもあてはまり、白人に少しでも不利な見解は強引にも抹殺するということにあった。
白人のエゴによって真実が勝手に抹殺されたり、うそいつわりが真実として登場してよいはずはない。支配者は自分を何様だと思っているのかと言う憤りである。

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なんとなく、ダーウィンの進化論をただ受け入れていたけど、それについても信じてはいけないのだということがわかりました。

それから読み進めていくうちに、木村愛二の著作から引用したところが出てきました。
「古代アフリカ・エジプト史への疑惑」(1974年)から、
エジプトの聖刻文字を解読したと言うフランスのシャンポリオン(白人)がいかにエジプト人について歪曲してきたかということも論じていると。

「木村愛二」って最近見たことのある名前だと思ったら「ホロコースト」「マルコポーロ事件」の件で知った人で、「アウシュヴィッツの争点」の著者でした。
全然ジャンルの違うところで、以前知った人がでてきてびっくりしました。

全然違うところで、そういう出会いがあると、これはなんだと思ってしまいます。
偶然なんてない、必要な時に出会うのだと。

中国の鎖国とキリスト教 [歴史]

中国の歴史のこともあまりしらないので、集英社版 学習漫画「中国の歴史 清帝国とアヘン戦争」をざっと読んでみました。

日本の江戸幕府が鎖国政策をとっていたころ、清朝はきびしい規則を作って貿易港を制限しながらも、外国船の来航をある程度認めていたのですね。
貿易を広州だけに限っていたということは、長崎だけに限ってた日本と同じ鎖国状態。
そしてイギリスのマカートニーが1793年、中国英国間の公平な貿易を主張したけれど、清のルールにしたがうことを求めたと。
「広州の港を開いているのはおまえたちに我が国の産物をめぐんでいるだけ。我が国はすべてのものを持っている。貿易などしなくてもよいのだ。」と、イギリスの要求はすべて拒否した。

1765年に刊行された趙学敏の編集した「本草綱目拾遺」にはすでに「アヘン喫煙の風習が広がっている」と書かれている。

林則徐の意見書には、現状分析として
「イギリスでは茶を飲む習慣が流行し、大量の茶を必要としている。」
「そこで中国から茶を輸入するが貿易の代金は銀で支払う決まり」
「しかし中国はイギリスからなにも買う必要がないので、イギリスの銀は出て行くばかり」
「そこでイギリスは植民地のインドで取れるアヘンを中国に持ち込んでアヘンの代金として銀を回収し始めた」
「こうして中国にはたくさんのアヘン患者がのこされた」

アヘンの輸入量は、1800年から20年でおよそ5倍となり、19世紀半ばにはそう輸入額は500万ポンドをこえて、紅茶の輸入総額330万ポンドを大きく上回った。

アヘンは農村にまで広がり、江蘇省だけでも5万人の中毒者がいる。

1839年林則徐は、外国商人と清の商人に持っているアヘンを全て出すよう通告した。
外国商人の居留地行きは軍隊に包囲され、しかたなくアヘンを差し出した。
林則徐は2万箱におよぶアヘンを回収し、アヘンをすべて処分した。
アヘンを人工池へ投げ込み生石灰を混ぜて沸騰させる。人工池から立ち上るアヘン処理の煙は3週間も続いた。

イギリス政府は1840年4月清国に向けてイギリス艦隊を出動させた。
イギリス艦隊は、戦艦16隻、輸送船や東インド会社の武装汽船など32隻の計48隻、将校は約四千人。
天津をイギリス軍が占領。
交渉決裂ののち、イギリス軍は講習を占領。南京にせまる。

「南京条約」のおもな内容
一、香港島をイギリスに譲る。
一、広州、廈門、福州、寧波、上海を貿易港として開く。
一、没収したアヘンや戦争の費用を賠償金としてはらう。
一、これらの5港でイギリス商人は安全に居住し、自由に活動ができる。

1844年イギリスにならって、アメリカフランスとも不平等条約を結んだ。

こうしてみて行くと、中国も日本も外国と貿易をする必要はなく、自国の物資だけでやってこれたのに、野蛮な西洋により無理やり開国され、踏みつけにされた。
そしてそれは今も続いているということですね。はあ。
そして有色人種同士で争うように、仕向けられていると。

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そしてこれ、
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洪秀全「心から天父上帝エホバと天兄キリストを信じさえすればなにもかもうまくいくのです。
わたしは天父上帝からみなさんを救う使命をあたえられました」
洪秀全は上帝会を作り、天父上帝のもとで万人が平等に生きるという信仰を人々に説きました。
「この地上に天国をつくりましょう」
1850年、洪秀全は、信徒たちと広西省の金田村に集まり布教活動を始めました。
「清朝を倒し、神の国をつくろう!満州族の清朝め!」
「清朝を倒し、漢民族による天国をきずこう!地上の天国太平天国をつくりましょう!」
「土地や財産を太平天国に寄付しよう」
「お金はみんなで平等にわけよう」
「軍をあげよう」
「辮髪なんぞ切っちまえ」
1851年、洪秀全は金田村で兵を挙げ「天王」と称しました。
こうして太平天国の乱が始まりました。
1853年には武昌を攻め落としました。
同じ年に、数十万の大軍で南京を落としました。
しかし内部分裂が起こりその勢力はしだいにおとろえていきました。
1856年イギリスが広州を攻撃し、1857年にはイギリスとフランスの連合軍も広州を攻撃し、翌年1月占領しました。
1858年、清はイギリス、フランス、アメリカ、ロシアの4カ国と「天津条約」を結びました。
1860年、清はイギリスと、フランスとあらたに「北京条約」を結びました。
この条約で、アヘン貿易をみとめさせ、輸出入品への関税を免除させるなどした。
そしてびっくりなことに、アメリカ、イギリスは太平天国ではなく清朝側につくほうがとくになると判断し、清朝側につく。

1864年に洪秀全がなくなり、太平天国の乱が終わる。

清朝は鉄砲や大砲などの西洋の進んだ兵器を取り入れる。
洋式軍事工場を建て軍隊の近代化をはかる。
軍艦を買って海軍を作る。
外国語学校を建て、鉱山開発をするなど、国の近代化に向けて洋務運動を運動を進めました。
太平天国の乱の鎮圧に功績のあった李鴻章は、鉄道会社、汽船会社、電報局、軍艦製造会社をつくって洋務運動を進め、最高実力者として内政や外交にあたりました。
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洋務運動wikipediaより
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洋務運動(ようむうんどう)は、中国の清朝末期(1860年代前半 - 1890年代前半)、ヨーロッパ近代文明の科学技術を導入して清朝の国力増強を目指した運動。自強運動(じきょううんどう)とも。清朝の高級官僚であった曽国藩・李鴻章・左宗棠・劉銘伝・張之洞らが推進者。
教育活動
洋務派は中国各地に30ヵ所あまりの近代新式学校を建設し、科学・軍事・翻訳などの人材を育成した。福州に開かれた海軍学校・船政学堂(1866年設立)は卒業生を北洋水師などへ送り出した。また著名な翻訳機関には京師同文館(1862年設立)がある。こうした教育機関・研究機関が「万国公法」(国際法の概説書)など西洋の書物を翻訳・出版し、「西学」の普及に努めた。さらに1872年から1875年までの4年間、毎年アメリカに30名の少年(平均年齢12歳)を留学させた。この事業は4年で終わり、当初15年間を予定していた留学期間も短縮され1881年に全員に帰国命令を出している。しかし彼らはアメリカで言葉の壁や体制の違いを乗り越えて優れた成績を収め大学にも進んでおり、多くが後に中国の政界・産業界などで活躍した。
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日本の明治維新と違うところもあるけど、同じところもある展開です。

中国でキリスト教の展開が行われた。
それは中国人によって清朝を倒させることを目的としていた。
そのリーダー洪秀全は自分を「天王」と称した。
しかし清朝は倒されなかった。
政治体制はそのままで、技術的なところのみヨーロッパ近代文明を取り入れた。

日本では、洋風のキリスト教と言われる神道を用いて、キリスト教のその展開が行われた。
そして江戸幕府は倒された。
新たなリーダーは天皇になった。
政治体制も、技術的なところもヨーロッパ近代文明を取り入れた。

清朝を倒さなかったことを反省し、日本ではすこし違う展開にしたということでしょうか

さてどの宣教師だったのでしょうか

チャニング・ウィリアムズwikipedia
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チャニング・ムーア・ウイリアムズ(Channing Moore Williams、中国語: 維廉、1829年7月18日-1910年12月2日)は、米国聖公会の宣教師。日本聖公会初代主教。日本各地に複数の教会や学校を設立するなど、日本聖公会の発展に力を尽くした[1]。墓碑に記されている「道を伝えて己を伝えず」という言葉の通り、ウィリアムズは自分について知られることを嫌っていて、それは日本から帰国する際に自分に関する資料を燃やしてしまったほどだという[2][3][4]。
中国での伝道
1855年11月30日に、オナイダ号でニューヨークを出港、リオデジャネイロとシドニーを経由し、出港からおよそ7か月かけて翌年の6月26日に上海へ到着する[12][13]。上海に上陸して4日目から中国語の勉強を開始し[14]、1年半後には日常会話どころか説教まで中国語で行ってしまうほどに上達した[15]。
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ジョン・リギンズ (宣教師)wikipedia
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ジョン・リギンズ(John Liggins、1829年5月11日 - 1912年1月7日)は、米国聖公会から派遣されたプロテスタントの宣教師。日本における最初のプロテスタント宣教師とされている[1]。
はじめ、チャニング・ウィリアムズ(Channing Moore Williams)[2]と共に中国で宣教を行っていたが、マラリアに感染し、その療養のために来日。1859年5月、長崎に上陸し、英語教師として活動を行った。
1856年7月 上海に赴任し布教にあたる
1859年5月2日 来日
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どちらも遅すぎますね。もっと早い時期にきている人がいるはず。

List of Protestant missionaries in China
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Protestant_missionaries_in_China
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This is a list of notable Protestant missionaries in China by agency. Beginning with the arrival of Robert Morrison in 1807 and ending in 1953 with the departure of Arthur Matthews and Dr. Rupert Clark of the China Inland Mission, thousands of foreign Protestant missionaries and their families, lived and worked in China to spread Christianity, establish schools, and work as medical missionaries.
1 Missionary organizations
1.1 American Board of Commissioners for Foreign Missions
1.2 American Presbyterian Mission
1.3 American Southern Methodist Mission
1.4 American Southern Baptist Mission
1.5 China Inland Mission
1.6 Church Missionary Society
1.7 English Presbyterian Mission
1.8 London Missionary Society
1.9 Mission Covenant Church of Sweden
1.10 Protestant Episcopal Church Mission
1.11 English Baptist Missionary Society
2 Protestant missionaries affiliated with other agencies
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随分とたくさんのグループがあります。
さてRobert Morrisonなのか、だれなのか。

算数とイーアルサンスー、せいみ(舎密)とケミカル [歴史]

(1)「算数」の語源
1、2、3、4というのを
中国語でイー、アル、サン、スーと言いますが、そこからきてたりして。

アルファベットのことを、ABCとか、日本のひらがな、カタカナ文字のことをイロハとか言いますが、そういう感じかも。

(2)せいみ(舎密)
江戸時代の後期に化学ということを意味する言葉だったそうです。
兵庫県三田市出身の川本幸民を知ったときに、「せいみ」という言葉を知ったのですが、もしかして「ケミカル」からきてるのかなと思ったら、そうでした。

http://www.city.sanda.lg.jp/shoukou_kankou/rekisiko-su1.html
>>幕末に三田藩医川本周安の三男として生まれた幸民は、江戸で蘭学や医学を学びました。洋書を翻訳し、「化学」という言葉を初めて使用しました。また、日本人で初めてビールを醸造し、マッチ製作や写真撮影に成功するなど多くの功績があります。

wikipediaより
>>舎密(せいみ)とは江戸時代後期の蘭学者の宇田川榕菴がオランダ語で化学を意味する単語「Chemie」を音写して当てた言葉。
>>宇田川榕菴はウィリアム・ヘンリーの『Elements of Experimental Chemistry』のオランダ語版を日本語に翻訳し『舎密開宗(せいみかいそう)』の名で世に出した。
>>一方、川本幸民はユリウス・ステックハルトの『Die Schule der Chemie』のオランダ語版を日本語に翻訳して、中国で使用されていた「化学」の語を用いて『化学新書』という名で世に出した。

大学進学という洗脳 [政治・社会]

「マインドコントロール2 今そこにある情報汚染」池田整治著 ビジネス社 を読みました。
著者は元自衛隊陸将補(退官時、小平学校人事教育部長)。1955年愛媛県愛南町生まれ。

これを読んで、家族の解体について考えました。
親が子供大学にやりたいという気持ちがあり、自分も大学にいくものだという思いがあって、親元を離れ進学し、都会に憧れて、都会で就職し、結婚もしたけれど、それは本当によかったのかと思うのです。

自分は父母兄弟以外に、祖母や一時期は叔母とも一緒に暮らしてた。
それは今となってみれば、とてもかけがえのない期間だったと思えるのです。

家族を大学進学や都会への憧れでばらばらにさせ、根無し草のような不安定な状態にさせる。

大学にいけることは素晴らしいことだと思っていたけれど、そうではなかったかもしれないと。

もしかしたら、高卒で働ける場所があるなら、そのまま地元にいた方がよかったのかもしれない。

大卒の学歴は本当に必要なものなのか。
というのも、知り合いの人は戦後すぐの生まれで、高卒で町役場に入ったのですが、課長になっていました。

wikipediaの代用教員の項を見ると、
>>新制大学教育学部において正規免許を持つ教員が安定的に養成されるまでの間、新制高校卒業生に対しても臨時免許状が付与され、小中学校教員(助教諭)として採用された。こうした臨時免許状が付与された現職の教員(助教諭)については、1950年(昭和25年)度から1961年(昭和36年)までの計画的な現職教育により、上位の免許状が付与され、正規の免許状を有する教員(教諭)となった。

つなり高卒のまま、小中学校教員になっているのですよね。
だから必ずしも大卒でなくてもできるということです。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12139775302
>>ちなみに前述の教員資格認定試験については高卒と同等も含まれるので、中卒で高認の合格者も含まれます。
>>つまり現行法でも中卒で小学校教員にはなれます。
>>また現行法では小学校教員を3年以上勤務すれば中学校教員の免許が取れます。
>>さらに中学校で8年間勤務すると高校の教員免許が取れるようになります。
>>つまり、中卒の高校教員も現行法では可能になっています。
>>この辺も昔からの名残です。

実際に採用されることは難しいとしても、中卒で小学校教員の資格はとれるとしている。

福沢諭吉が大学に行ったかというと、まだできてなかったので行っていない。
蘭学を学んでいたのは、塾である。塾なのである。

洗脳されていないつもりで、大学にいくものだと洗脳されている。
そして家族、親戚がいる地域を離れ、コンクリートジャングルに入っていく。
これが素晴らしいことなのか。


フルベッキ論文(Lane R.Earns)を訳す−1 [歴史]

http://www.uwosh.edu/home_pages/faculty_staff/earns/verbeck.html
A MINER IN THE DEEP AND DARK PLACES:'GUIDO VERBECK IN NAGASAKI, 1859-1869
Lane R. Earns

これを素人翻訳する。
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「深く暗いところで地雷を埋めた人:長崎でのグイド・フルベッキ 1859-1869」

ペリーの開国後に長崎に来たキリスト教徒の宣教師と教育者の中で、最も影響力のある人物は、間違いなくオランダ生まれの米国で訓練を受けたグイド・フルベッキであった。 彼が日本の医学研究のためにドイツ語の使用を提唱し、最初の日本人の外交使節を米国とヨーロッパに派遣し、都道府県制の確立を支援し、 1872年の教育制度(学制発布)と1873年の徴兵令を生じさせたという後に東京で成し遂げた仕事のために最もよく知られているが、日本滞在の最初の10年間を長崎で過ごした。 ここで彼は関係を育成し、首都で彼のその後の名声につながるスキルを取得した。

オランダと米国での若いころ

フルベッキは1830年1月28日、オランダのザイスト市でグイド・ハーマン・フリドリン・ファーベーク(Guido Herman Fridolin Verbeek)として生まれた。 ここで彼はオランダ語、ドイツ語、フランス語、英語を話して育ちました。 若い頃、技術者になることを希望してユトレヒト工科大学で学んだ。

22歳の時、姉と義理の兄の招待状を受けて、フルベッキは米国に渡り、鋳造工場で働いた。 ウィスコンシン州グリーンベイの外にある工場は、モラヴィアンの宣教師によって蒸気船の機械を建設するために開発された。 フルベッキはウィスコンシン州に一年間留まり、その間、彼はアメリカ人がそれをよりよく発音できるように、彼の名前の「Verbeck」へのスペルを変更した。

グイド・フルベッキは仕事を探してブルックリンに行ったが、すぐにアーカンソー州のヘレナに移り、エンジニアとして雇われた。 そこでは、1854年の夏に、彼はコレラを発症し、1ヵ月以上ベッドで過ごした。 この期間中、ヴェルベックは病気から生き残れば宣教師になることを宣言したと言われている。

日本に対する伝道訓練

彼の回復に伴い、フルベッキは姉と義理の兄の近くのグリーンベイに戻ることに決めた。 一年も経たないうちに、彼は義理の兄が神学校に行くためにニューヨークのオーバーンに移動したときに、彼らに続いていった。 グイドは、その後すぐに新学期に学生として入学した。

当時、ニューヨーク北部は外国宣教活動の温床であった。フルベッキが会った人々の1人は、以前は1838年から1847年に中国で宣教師を務めていたサミュエル・R・ブラウン牧師であった。この面識があってブラウンとフルベッキが最終的に日本に向かうことになった。

フルベッキは、オーバーン神学校で宣教師になるための訓練を行っていたが、長崎では世界の中途のできごとが、その若者の人生に大きな影響を与えるような形で展開されていた。 1858年9月、中国に住む2人のプロテスタント宣教師、S・ウェルズ・ウィリアムズとエドワード・サイルは、外国人の貿易と居住が開放された後、プロテスタント・キリスト教を日本に導入するために、どのような開始が可能か確かめるために次の年の7月に長崎に来た。 長崎にいる間、彼らは当時の港にあったUSSポーハタンの従軍牧師である、ヘンリー・ウッド牧師と会った。 ウィリアムズ、サイル、ウッドはそのとき、アメリカの監督派、改革派、長老派の宣教委員会の指導者に、日本に宣教師を任命するよう促すよう手紙を書くため時間をとった。

改革派教会の宣教委員会に送られた手紙に応えて、ブラウンとフルベッキが日本に行き、そこで使命を開くために選ばれました。 ブラウンは中国での彼の経験のために間違いなく選ばれたが、フルベッキは彼の言語能力のために選ばれた。 後の改革派教会の宣教師/歴史家は次のように記している。「グイド・F.・フルベッキ博士は、改革派(オランダ)教会の外国布教委員会によって任命された。なぜなら、理由の一つは、彼がオランダ人だったからである。これは日本での仕事に就任するのに決定的な利点があると考えられた。特に長崎に駐留するならば... 」。オランダ人は1640年以来日本で許された唯一の西洋人であり、長崎湾の小さな人工島である出島にすでに制限されていた。 長崎は1859年7月に外国人に開放された条約港の一つであったため、改革派教会の指導者たちは、オランダ語と英語の両方のスキルを持つ宣教師が当初優位に立つだろうと確信した(正確に言えばそれが判明したので)。フルベッキはこれらの資格を満たし、1859年1月に長崎に行くことに興味があるかどうかを調べるために委員会より、接触された。 フルベッキは、ニューヨーク市の委員会メンバーと会った後、日本で宣教活動を行うことに挑戦をはじめることを決心した。
1859年3月22日、グイド・フルベッキは、ニューヨーク州カユーガの長老派によって福音伝道者として許可を与えられ、牧師になる資格を得た。翌日、同じ都市の改革派教会の教団の一員として受け入れられた。 その後、フィラデルフィアに向かうため4月15日にオーバーンを離れた。 3日後、彼は神学校で勉強中に会ったオーバーン出身の若い女性マリア・マニオンと結婚した。

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訳してて知ったこと
(1)フルベッキが日本の医学研究のためにドイツ語の使用を提唱し、最初の日本人の外交使節を米国とヨーロッパに派遣し、都道府県制の確立を支援し、 1872年の教育制度(学制発布)と1873年の徴兵令を生じさせたとさらっと書かれていますが、すごいことばかり。以上のことにフルベッキが関わっていたとは、日本ではほとんど知らされてはいません。
これも日本国憲法の成立と同様に、外国人が関わっていないように思わされているということでしょう。

(2)キリスト教には監督派、改革派、長老派なるものがあるのですね。
それぞれEpiscopal,Reformed,Presbyterianというようです。
長老派によって牧師になる資格を得て、改革派の一員として受け入れられた。
どういう繋がりなんでしょうか。

(3)フルベッキが日本に宣教に行くことが決まってから、ばたばたと結婚しているのですね。

(4)USSポーハタン(U.S.S.Powhattan)というのは、そのとき長崎に寄港していたアメリカ船のことで、はじめて日本人がアメリカに使節を送る際に、アメリカから迎えに来た船のことだそうです。
咸臨丸が、そのとき数日の差で一緒に行ったとうことです。(1860年万延元年)
咸臨丸はオランダに注文した船です。
そのときにアメリカに行ったのは、福沢諭吉、勝海舟、ジョン万次郎、木村摂津守、地元の塩飽諸島から35名の水夫など九十六名とのこと。
そしてポーハタン号はペリーが再度来航して来た際にもきた船とのこと。

咸臨丸wikipediaによると
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1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書を交換するため遣米使節団一行がアメリカ軍艦ポーハタン号にて太平洋を横断。咸臨丸はポーハタン号の別船として、旧暦1月13日品川を出帆、旧暦1月19日に浦賀を出港、旧暦2月26日(太陽暦3月17日)にサンフランシスコに入港。艦長は勝海舟(正確には勝は「軍艦操練所教授方頭取」、木村摂津守は「軍艦奉行」であったが、通訳の中浜万次郎(ジョン万次郎)は勝が艦長、木村が提督との説明で押し通した[注 1]。)。福澤諭吉らも乗船していた。万次郎以外の船員は大半が船酔いで、技術アドバイザーとして乗船していたジョン・ブルック大尉他、アメリカ人乗員の助けを借りての航海であった。
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ポーハタンwikipediaより
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東インド艦隊(1853–1860年)
日本開国
続いてポーハタンは東インド艦隊に配属され、1853年6月15日には中国水域の任地に到着した。そこでポーハタンはペリー代将の日本再訪艦隊に加わり、日本へ向かうこととなる。1854年2月13日にペリーは旗艦サスケハナ (USS Susquehanna) 、ミシシッピ (USS Mississippi) など7隻の軍艦を率いて江戸湾(東京湾)へ入港。江戸湾到着後に旗艦はポーハタンに移された。3月31日(嘉永7年3月3日)には日米和親条約が調印された。その後条約の細則の交渉のため艦隊は伊豆下田に移動するが、下田停泊中、ポーハタンに吉田松陰が密航を訴える事件があった。
日本外交使節団の米国訪問
1858年7月29日(安政5年6月19日)には、日米修好通商条約がポーハタンの艦上で調印されている。この批准書の交換のためワシントンに赴く日本の使節団を迎えるため、ジョサイア・タットノール代将の指揮の下、再び日本に派遣される。開港したばかりの横浜に1859年9月に到着したが、横浜には8日ほど停泊しただけで、上海に向かい、また横浜に戻る(これは日本と諸外国の金銀交換比率が異なることを利用して、利益を出すためだったと言われている。幕末の通貨問題参照)。
1860年2月13日(安政7年1月22日)、ポーハタンは正使の新見正興、副使の村垣範正、監察の小栗忠順らを含む日本使節団77人を乗せ横浜を出港した。同じく米国に向かった咸臨丸は2月9日(安政7年1月18日)に横浜を出港している。途中激しい嵐に遭遇し、石炭を使いすぎたため、補給のためにホノルルに寄港。サンフランシスコには米国に直行した咸臨丸より遅れて、3月28日に到着した。その後、パナマ地峡経由で東海岸に向かう日本使節団をパナマまで送っている。
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耳垢から考察する人類の系統:はじまりの黒人は完全体 [歴史]

耳垢のwikipediaによると
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耳垢の乾性/湿性の割合は人種によって大きく差があり、北部の中国人や韓国人で湿性耳垢は4 - 7%、ミクロネシア人やメラネシア人では60 - 70%、白人では90%以上、黒人は99.5%が湿性耳垢であると言われている。
日本人全体では湿性耳垢の人は約16%だと言われている。
ただ日本内でも北海道沖縄と、本州の間で割合に大きな差があり、北海道のアイヌ民族では約50%が湿性耳垢であるとの報告がある[2]。
これは、日本には元々湿性耳垢の縄文人が居住しており、やがて本州には乾性耳垢の弥生人が流入したが、その影響が及ばなかった北海道・沖縄には湿性耳垢が保存されたことによる、と説明されている。

同様の研究は長崎県立長崎西高校の生物部も日本人類遺伝学会で2007年9月15日に発表しており、演者らによると乾性耳垢の人は西日本に多い傾向が見出されたとのことであり、渡来人の人骨が西日本で比較的よく発見される事実を証明するものであるとした[3]。
東北地方や北関東や南九州地方にも湿性耳垢が多いことがわかっている。

2006年1月29日、長崎大学の研究グループの論文発表で、耳垢が湿性か乾性かを決定するのはDNAの塩基配列の1か所の違いであることが判明[4]。
また同論文では、「乾性耳垢」というものは本来存在せず、この場合は先天的に耳垢が生成されない体質であり、彼らが耳垢だと思っているものは耳壁の表皮や外部の埃などであることが述べられている。
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http://beautyhealthy.web.fc2.com/osaketuyosa.html
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日本人をはじめとする「モンゴロイド」の46%は、II型の酵素を生まれつき持っていませんが、
白人や黒人はほぼ100%の人が持っています。
実は日本人の4~5割は生まれつきアルコールに弱いといわれています。
そのため白人や黒人はモンゴロイドよりお酒に強く、二日酔いにもなりにくいのです。
その理由は生まれつきアセトアルデヒド脱水素酵素 (ALDH) の働きが悪いか
元々ALDH が欠損しているかです。

日本人の祖先では、縄文人の欠損率が低く、弥生人は高いといわれています。
現在の日本人の7割が弥生人の遺伝子を、3割の人が縄文人の遺伝子を保持しているといわれ、
北海道や東北、九州等の縄文人の遺伝子を引き継いでいる地域の人には
お酒に強い人が多いのです。
ちなみに、アイヌ人は欠損率20%といわれています。

民族での違い
 
ALDH2欠損率(欠損者の割合)は人種・民族で大きく異なります。
白人やアフリカ黒人、インド人、アラブ人などは0%に対し、
日本人は40~44%で、その他韓国人(25%)、漢族(50%)、
モンゴル人(30%)、ベトナム人(57%)、タイ人(18%)
など東部アジア系民族は50%前後を占めています。
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「乾性耳垢」というのは、先天的に耳垢が生成されない体質であると。
すなわち耳垢を生成する機能の欠損なわけです。

そこから人間のはじまりは、すべての機能を備えた状態で発生しているのではないかと推測しました。
すべての状態にフラグが立っている状態。
なぜならあとからその機能をつけることはできないから。

だから発生的に黒人がまず原初の人類であったのではないかと。
だから黒人は、耳垢を生成し、皮膚に色を持ち、髪に色を持つ、酒を分解することができ、牛乳を分解することができる。

そこからいろいろな機能が欠損していき、枝分かれしながら混じり合うのではと思う。

日本の端の方、東北地方や北関東や南九州地方にも湿性耳垢が多い。
西日本には乾性耳垢の人の割合が他より多い。
日本に渡ってきた人ははじめ、湿性耳垢タイプが多かったが、あとからきた中国、朝鮮と同じタイプの人が西日本にきて、湿性耳垢タイプと混じりながら、先に来た人々は端に追いやられた。

日本人の何割かは、耳垢を生成する機能を欠損し、アルコールを分解する機能を欠損し、牛乳を分解する機能を欠損している。

白人は、色素を生成する機能を欠損しているというか少ない。
しかし、アルコールを分解する機能は残っている。

遺伝系統樹.jpg
これはwikipediaのモンゴロイドにある遺伝系統樹ですが、これと矛盾しません。

こちらが元ソース。
https://www.eecis.udel.edu/~lliao/archive/worldwide_human_relationships_inferred_from_genome_wide_patterns_of_variation.pdf

黒人がもっとも多くの機能を有し、白人と、東アジア人は別の系統にあるが、白人のほうが機能が多い。
だから系統樹の上位にくる。

2016.11.27追記

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/557.html" target="_blank">http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/557.html
こちらの記事のコメントに
二、八切先生は、ハクジンの祖先が黒人(ベルベル人を含む)の白子が進化した存在であることを証明した皮膚科医高野信夫先生を知らなかった。
とあります。
やはりそうなのですね。白人の祖先は黒人の白子が進化した存在であると。
黄色人種は、そのあいのこであるということですね。
高野信夫先生は「黒人ー>白人ー>黄色人」と言う本を書かれています。

本題とは関係ないけど、
色素を生成する機能が完全にないとアルビノになる。
また過剰にある場合は、完全にブラックになる。アルビノの反対が「メラニズム」。

https://welq.jp/22184によると
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記録に残る日本最古のアルビノは、第22代天皇「清寧天皇」ではないかと言われています。清寧天皇は、生まれたときから白髪であったことから白髪皇子(しらかのみこ)と名付けられ、父帝の雄略天皇は、その白い髪に霊異を感じて皇太子にしたということが日本書紀に記されています。
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おもしろいです。
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